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倫理学

出典: フリー教科書『ウィキブックス(Wikibooks)』

倫理学は何をする学問か

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「よいこと」とは何だろうか。たとえば、ボランティアで街の清掃をすることや災害のときに炊き出しなどの救援活動をすることは、ほぼすべての人が「よいこと」だと言うだろう。他にも困っている人のために寄付をする、様々な無償の奉仕活動をする、もっと身近には公共交通機関で高齢者や障碍者に席をゆずる、ベビーカーを押している母親の手伝いをするなども「よいこと」とする人がほとんどだろう。

だが、この「よいこと」が強制されたものだったらどうだろう。例えば無償の奉仕活動が国によって参加を義務付けられたもの(拒否したらペナルティもある)であったら、それを「よいこと」として肯定する人はかなり減少するだろう。現代の先進諸国では、寄付も政治家に対して見返りを求めて行ったのであれば「よいこと」どころか収賄という立派な犯罪行為になりうる。

また、優れたアスリートは、えてして「多くの人々に勇気を与えた」として表彰される。芸術家が多くの人に感動と感銘を与えることもある。こうしたこともまた、「よいこと」とみなされる可能性が高い。一方、私たちの日々の暮らしを支える様々な営み――農業をして食糧を作る、工場でものを作る、トラックや列車などで人やものを運ぶ、様々なインフラを支える、警察や消防などなどを、わざわざ「よいこと」という人はいないかもしれない。

だが、極論すればアスリートや芸術家はいなくても私たちの暮らしに直接の影響はほとんどない。だが、日々の営みを支える人がいなくなれば、途端に私たちの暮らしは行き詰まる。その観点からするとアスリートや芸術家の活動よりも、一見地味な仕事の方が「よいこと」のようにも思われる。

さらに「よいこと」は時代や場所による違いが起きる場合もある。例として、『忠臣蔵』を見てみよう。長く『忠臣蔵』は日本におけるエンターテイメントの中心だった。芝居はもちろん、雑誌や小説、ラジオ、映画、テレビといった時代時代のメディアでは必ず取り上げられ、ヒット作となった。だが、2026年現在、『忠臣蔵』は歌舞伎以外では滅多に見なくなった。その背景として指摘されるのは「価値観の変化」である。

曰く「『主君への忠義』や『主君の敵討ち』という価値が理解されなくなった」という。つまり、「忠義」「敵討ち」というかつての「よいこと」が「よいこと」として理解されない――場合によっては、非難されたり嘲笑されたりすることすらある。

こうしてみると私たちが素朴に考える「よいこと」が随分とあやふやなものであることがわかる。だが、それをもって「『よいこと』が曖昧であるならば『よいこと』を考えることそのものが無意味である」と考えるかもしれない。現に、私たちの周りではいわゆる価値相対主義とよばれる「絶対的な正義、必ず正しいと言えるものはない」という価値観も珍しいものではない。

だが、「よいこと」は本当に曖昧なものだろうか。「よいこと」を判断する基準はないのか。そもそも何をもって「よい」と言えるのか……。

こうした問いに対する答えを体系的に理論立てていく営みが倫理学である。

倫理と道徳

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倫理と道徳は重なり合うところが多い。実際、日常では倫理と道徳をそれほど区別せずに使うことも珍しくはないかもしれない。しかし、現代の倫理学はこの両者を区別するのが普通である。

結論を先に言えば、道徳moralityは社会や共同体といった人間集団の中で他者と生きていくうえで、守るべきものとして相互に承認されている行為規範の体系である。この中には集団を維持するために守るべきとされるもの集団生活をより有意義にするためのものに分けられる[1]。「集団を維持するために守るべきとされるもの」は、例えば「他人のものを盗んではならない」「人を傷つけてはならない」などがある。「集団生活をより有意義にするためのもの」の場合には、「他人に親切にしよう」「困ったときには助け合おう」などが挙げられよう。

一方、倫理ethicは「個人がどのように生きていくのか」ということと関わりが深い。例えば「自分の能力を高めていこう」「自分の人生を大切にしなければならない」「有意義な人生を送るべきだ」といったことが倫理的な行為として挙げられる。

こうした違いはmoralityとethicの語源の違いに由来する。

morality(道徳)はラテン語で「慣習」を意味するmosに由来する。一方、ethic(倫理)の方は古代ギリシャ語で「慣習」を意味するethos(ἦθος(エートス))に由来する。どちらも「慣習」の意味だが、ethosには「人柄」や「高貴さ」といった意味を含む。そのため、伝統的な西洋の倫理学においては人間個人や魂のあり方に関する問題を扱うことが多い。

倫理学と哲学

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哲学もまた、倫理学との関連が深い。それどころか哲学の下位カテゴリに倫理学を位置付けられることも多い。実際、小規模の大学の文学部や教育学部の倫理学ゼミは「哲学・倫理学研究室」となっていることもあり、両者の区別が傍目からは付かないこともある。

いささか単純化すると哲学の扱う領域は非常に広いのに対し、倫理学は善悪の指針、そして人間の生き方・あり方に範囲を絞った学問である。

例えば、哲学的な問いは「世界はどこから来た」「私とは何か」「私たちは何を知ることができるのか」といった、人間そのものだけでなく自然や社会なども思索の対象としてきた。

それに対して、倫理学的な問いは「よい/悪いとはどういうことか」「不平等は許されるか」「我々は必ず助け合うべきか」といった、価値判断や行為に関することが検討される。

相対主義との対決

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倫理的判断

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倫理は規範に関する判断と価値判断で言い表される。

規範に関する判断は、例えば「人に親切にすべきだ」「時間は守らなければならない」「今日は宿題をしなくてもよい」「嘘をついてはならない」などのように、「~すべき」「~してはならない」という行動と関わる。

それに対して、価値判断の例は「善い/悪い」「上手い/下手」「美しい/醜い」「正々堂々/卑怯」「快/不快」などが挙げられよう。これらの判断はえてして「善/悪」としてカテゴライズされる。

こうした倫理的判断は「現実を伝えるのではなく、現実を創り出そうとする判断[2]」である。このことは規範に関するものであれば明らかであろう。先ほどの例示はまさに現実を作り出すための呼びかけであることは論を待たない。

では、「人種差別は許されない」というのはどうだろうか。これは価値判断である。ここには「肌の色や宗教で他の人間を差別することは悪である」という、「私」の判断が根底にある。

ただ、ここで一つの問題が生じる。つまり、こうした判断は個人的・感情的判断ではないかという問題である。個人的・感情的判断と倫理的判断にはどこか違いがあるのだろうか。

例を出せば「モネの『睡蓮』は美しい」という判断と、黒人が奴隷として扱われている場面を見て「人種差別は許されない」という判断にはどんな違いがあるのだろうか。ごく単純化すれば、「同じ論拠が成り立つすべての事態に同じ評価を下[3]」せるかがカギとなる。

「モネの『睡蓮』は美しい」という判断は「私」の気分によって変わるかもしれないし、他の『睡蓮』にも同じような判断を下すとは限らない。しかし、「人種差別は許されない」という判断は同じような事象では同じ判断を下せる。つまり、「黒人を奴隷として扱うことは許されない」「黄禍論は差別的である」といった具合に。倫理的な判断には普遍妥当性の要求が生じるのだ。

ただし、これは要求であって、他の可能性を完全に否定できるわけではない。「人種差別は許されない」という要求すら他の受け止めをすることも可能だ。例えば「奴隷は奴隷主が責任をもって管理しているからかえって人道的だ」という意見も可能となる(事実、そうした見解は過去にあった。仔細はw:アメリカ合衆国の奴隷制度の歴史を参照のこと)。

そのため、倫理を考えるときには、こうした人や時代によって異なる倫理――すなわち、倫理の相対性についても考察しなければならない。

相対主義と倫理

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倫理学の基礎

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記述倫理学

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規範倫理学

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メタ倫理学

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倫理理論

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徳倫理学

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義務論/義務倫理学

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功利主義

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プラグマティズム

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ケアの倫理

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応用倫理学

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進捗状況の凡例
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: 間もなく完成します。
: 一応完成しています。

応用倫理学は現実の、より具体的な諸問題に対する倫理学的考察と行為の在り方を探究する分野である。以下は代表的な応用倫理学の分野である。

基本的な術語

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倫理学全般

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  • 公正
  • 自然主義的誤謬
事実判断(存在命題)のみから、価値判断(当為命題)を導出する推論。あるいは「……である」ことから「……すべきである」を導く論法のこと。
例えば「Aさんはカレーが好きだ」という事実のみから「Aさんにはカレーを食事に出すべき」という判断を導くことは自然主義的誤謬である。
現代倫理学では「『……である』から『……すべきである』を導いてはならない」というのが基本的なドグマとなっている[4]
  • 自己決定
  • 滑りやすい坂論法
「事態Aが起こると必然的に事態Bが起こる。事態Bが起こると事態Cが続けて起きる。さらに事態Cが起きると事態Dが起きる……」といったように「ある行為や事態を認めると、なし崩し的に事態が進んでいく」という論法。一般的には推論上の誤りとされる[5]
特に、事態と続いて起きるという事態との関連に必然的な関連が見いだせず、恣意的であれば誤謬ないし詭弁として退けられる。
倫理学、特に生命倫理(学)においては安楽死や尊厳死、遺伝子操作の問題を取り扱う際に問題となる。例えば「終末期医療患者の安楽死は認めるべきではない。なぜなら、厳しい条件をつけても、なし崩し的に条件が緩和されて障がい者やまだ治る見込みのある重病患者にまで安楽死が拡大されるからだ」というのは「滑りやすい坂論法」による安楽死反対論である。
しかし、先ほどの例として挙げた安楽死においては、現実に安楽死を認めた国々でその領域が拡大していること[6]が現実に起こっていることもある。事態同士の関連の社会科学的な視野を欠いた「滑りやすい坂論法」は確かに詭弁の一種ではあるが、裏を返せば社会科学的な観察と分析によっては「滑りやすい坂」を単なる詭弁として排撃できないのも事実である。
  • 正義

生命倫理

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  • 安楽死
  • 尊厳死
  • 生命の質(QOL)
  • 優生学

環境倫理

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  • 自然の生存権
  • 持続可能な開発
  • 世代間倫理

倫理学上の諸問題

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倫理学では具体的な問題の解決、ないしはより良い判断を下せるようにすることも求められる。そのため、いくつかの思考実験や問いが出されることがある。また、具体的な問題に直面するとジレンマに陥ることもある。ここでは、代表的な倫理学的な問いやジレンマを見ていきたい。

なお、現在ここは加藤尚武『現代倫理学入門』に多くを依っている。読者や参加者の皆さんからのご指摘などの追加をお願いします。ただし、「トロッコ問題」はいりませんのであしからず。

倫理学の諸原理

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  • 人を助けるために嘘をつくことは許されるか
  • 10人の命を助けるために1人を犠牲にすることは許されるか
  • 10人の重病患者に特効薬が1つしかなければどうするか
  • 他人に迷惑をかけなければ何をしても良いか
  • 貧しい人を助けるのは豊かな人の義務か
  • 正義は時代によって変わるか

生命倫理

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  • 生命に差はあるのか
  • 脳死を人の死と認めてよいか
  • 自分の臓器のクローンをつくることは認められるか

環境倫理

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  • 動物や植物にも人間と同じ権利があるのか
  • 今を生きる我々は将来世代に対して責任があるのか
  • 人間の暮らしを犠牲にしてでも自然環境は守るべきか

他の諸問題

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  • 正しい戦争は存在しうるか
  • 上司や上官の命令に道徳的な問題があれば従わなくともよいか
  • 科学に限界を定めることは出来るか

重要な思想家

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倫理学の始まり

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  • ソクラテス
  • プラトン
  • アリストテレス

キリスト教倫理

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  • トマス・アクィナス

社会契約説と倫理

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  • ホッブズ
  • ロック
  • ルソー

義務倫理学

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  • カント

功利主義

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  • ベンタム
  • J.S.ミル

現代倫理学

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リベラリズム・コミュニタリアニズム論争

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  • リベラリズム
    • ロールズ
  • コミュニタリアニズム
    • マッキンタイア
    • チャールズ・ティラー
    • サンデル
  • リバタリアニズム
    • ノージック

経済と倫理

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  • セン
  • ヌスバウム

生命倫理学・環境倫理学

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  • シンガー
  • ハンス・ヨナス
  • アルド・レオポルド

ケアの倫理

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  • キャロル・ギリガン
  • ノディングス

参考文献

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  • 『現代倫理学入門』(加藤尚武著, 講談社, 1997年)
  • 『倫理学入門』(品川哲彦著, 中央公論新社, 2020年)

脚注

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  1. ^ 『倫理学入門』p.2(品川哲彦著, 中央公論新社, 2020年)
  2. ^ 品川,2020年, p.8
  3. ^ 品川, 2020年, p.9
  4. ^ 加藤 p.100
  5. ^ 例えば『論理的思考 最高の教科書』(福沢一吉著, SBクリエイティブ, 2017年)p.139-140
  6. ^ 例えば『安楽死が合法の国で起こっていること』 (児玉真美著, 筑摩書房, 2023年)参照。