刑事訴訟法/証拠法
沿革
[編集]イギリスのウィリアム・ブラックストンが1760年代の『英法註解』にて、「10人の真犯人を逃すとも、1人の無辜を罰するなかれ」(It is better that ten guilty persons escape than that one innocent suffer)などの原則を示したのち、19世紀のヨーロッパで[1]、「疑わしきは罰しない」(in dubio pro reo)という原則が確立した。イギリスでは1851年、次いでオーストラリア、インド、マレーシア、アメリカ合衆国で、議会により証拠法が制定され、ある事実主張の事実性の程度は、直接証拠(Evidence)と状況証拠(Proof)に基づいて判断されるという法廷証拠主義を示した。
日本においてはブラックストン理論に学んだ金子堅太郎などにより自由心証主義が拡大され、法曹の証拠の取捨選択権が認められている状態である。ただし、日本国憲法以降は、『米国刑事証拠法』(「司法研究報告書」第1集3号、1949年)、『刑事証拠法について』(検察研究所資料第8号、1950年)などの研究文献も存在する。
挙証責任
[編集]日本での判例の言い回しは「疑わしいときは被告人の利益に」である(最決昭50・5・20 刑集 29巻 5号 177頁 <百選 A55> 〔白鳥事件〕)。白鳥事件の判例では、この原則を「刑事裁判の鉄則」と呼んだ。
このため、検察官が挙証責任を負い、検察官及び弁護人は公判前整理手続のときから、裁判所に対し証拠調べを請求することができる(刑事訴訟規則188条及び法務省事件事務規定及び、最高裁事務総長通達)[2][3]。
- ※ しかし、検察側に挙証責任があるという建前にはなっているが、実際には下記のように、被告人側にも若干の防御のための努力を要する責任はある。実態は、裁判官は、被告人側にやや有利な判断をするという程度である(どの程度の有利かは後述)。このため、検察側は、防御を上回る有力な証拠をつきつけることで、より積極的に証明をしなければならない。というか、そもそも検察側による積極的な証明の不足している場合のことを法学的には「疑わしい」[4]などと言うのである。検察官の挙証責任とは、おおむね、このようなニュアンスである。
検察官には、少なくとも「証拠の優越」(preponderance of evidence[5])が要求されている。「証拠の優越」とは、自陣営の証拠の証明力が、相手の証拠の証明力を上回っているという意味。犯罪事実が存在しない可能性よりも、犯罪事実が存在する可能性が高いなら、検察側の証拠が優越している亊になる。
ただし、単に証拠が優越しているだけでは有罪判決には不十分であり、後述のように、さらに「合理的疑いを超える程度の証明」が有罪判決のためには要求される。 つまり、単に証拠が優越しているだけでは、有罪判決を出すのは許されない[6]。
このような仕組みになっている理由は、刑罰というのは被告人の利益侵害の程度が大きいので、単なる証拠の優越だけでは有罪判決は許されず、さらなる高度の証明が要求されるからである[7]。
- ※ しかし、「合理的疑い」(以下略)の建前は、後述のような被告人の証拠提出責任などが誠実に行われた亊を前提にしている[8]。もし被告人側が証拠提出責任を守らなかったり、争点形成の責任を守らなければ、裁判官が被告人に不利を判決が出す可能性も高いだろう。
証拠提出責任は被告人側(被告人・弁護人)が負う[9]。被告人側にも、争点形成の責任がある[10][11]。争点形成の責任とは文字どおり、被告人側が防御のために、証拠を提出したり、(被告人防御の内容の)陳述をしたりすることである。ほか、刑訴法にも、被告人側には自己の証明予定事実などの主張を明示する義務(主張明示義務)が定められている(316条の17)[12][13]。
とはいえ、証拠の提出を必ずしもすべて被告人側が行う必要はなく、検察の提出した証拠や検察の陳述をもとにして、それを被告人を防御するための証拠として活用しても構わないと考えられる[14]。
なお、国連人権規約(B規約)に無罪の推定(presumption of innocence)という概念が謳われており、これは挙証責任が検察にあるという要請を含むが、さらに、被告人の有罪判決が確定するまでは、手続の全課程で、できるだけ一般市民と同じ扱いをすべしという要請を含む、より広い概念である[15]。
有罪判決をするには「合理的疑いを超える程度の証明」(proof beyond a reasonable doubt)が要求される(これは英米法に基づく表現である)[16]。
また、刑事訴訟でいう「証明」とは、「通常人なら誰でも疑いを指し挟まない程度に真実らしいとの確信」(最判昭和23・8・5 刑集2巻9号 1123頁)という意味である。少なくとも、この程度の証明力の高さは、有罪判決には要求される。
しかし、100%の確からしさまでは要求されていないし[17][18]、論理学的・科学的な証明が要求されているわけでもない。有罪判決をするには、抽象的には(被告人を無罪だとする)反対事実の存在の余地があってもよく、その反対事実の「証拠」が健全な社会常識では非合理でありさえすれば良い。
最近の判例でも「合理的な疑いを指し挟む余地が無いというのは、反対事実が存在する疑いを全く残さない場合をいうものではなく、抽象的な可能性としては反対事実が存在するとの疑いを入れる余地があっても、健全な社会常識に照らして、その疑いに合理性が無いと一般に判断される場合には、有罪判決を可能とする趣旨である」としている(最決平成19・10・16 刑集61巻 7号 677頁)。なお、同判例では「このことは、直接証拠によって事実認定をすべき場合と、情況証拠によって事実認定をすべき場合とで、なんら異なるところはない」とされる。
種別
[編集]自白
[編集]憲法では、「拷問、強制若しくは脅迫による自白又は不当に長く抑留若しくは拘禁された後の自白」の証拠能力を否定している。
これを受けて、刑事訴訟では、取調べで得られた自白は、それだけでは証拠になりえない。 また、刑訴法319条1項には、「強制、拷問又は脅迫による自白、不当に長く抑留又は拘禁された後の自白その他任意にされたものでない疑のある自白は、これを証拠とすることができない。」
しかし、公判廷でなされた自白は別である。法廷の裁判官の目の前で、拷問、強制による自白が引き出される可能性は、合理的には考えづらいからである[19]。
判例でも、公判廷でなされた自白は、憲法38条が証拠として禁止する「本人の自白」ではないという判断である(最決昭和23・7・29 刑集2巻9号1012頁<百選A34>)。
さて、たとえ公判廷で自白がなされても、自白のみでは有罪判決を出すことはできない(319条2項)。刑訴法319条2項に「被告人は、公判廷における自白であると否とを問わず、その自白が自己に不利益な唯一の証拠である場合には、有罪とされない。」とある。なので公判廷でなされた自白だけしか証拠が無いなら、たしかに有罪にはならない。
しかし、公判廷でなされた自白以外に他の証拠が存在する場合は別である。自白は他の証拠を必要とする(補強法則)。また、この場合の自白以外の証拠のことを「補強証拠」という。
このような規則から、自白の補強法則は、自由心証主義(318条)の例外だと言われている[20][21]。
特信書面
[編集]- 公務文書
刑訴法では、以下の文書を無条件で証拠能力を認めている(323条)。
- 戸籍謄本、公正証書謄本、
条文には無いが、下記の文書も同様に証拠能力が認められている。
上記は公務員の作成する文書(公務文書)である。上記の公務文書は、特に信用すべき文書として特信書面という。
つまり、上記の公務文書の信頼性を調べるために、わざわざ公務員を証人に呼ぶことは、しない[24]。
- 業務文書
323条2項では、以下の業務文書も、同様に証拠能力を認めている
- 商業帳簿、航海日誌、
条文には無いが、下記の文書も同様に証拠能力が認められている。
- 上記の業務文書のほか、医師カルテ、タクシー運転日報、電子式レシート
- ※ しかし2項の条文では「通常の過程において作成された書面」という条件がついているので、被告人の作成した書面である場合、または被告人の勤務する会社などの作成した書面である場合などは不適切だろう。
- その他
3項では(前2号に掲げるものの外)「特に信用すべき情況の下に作成された書面」という規定がある。
具体的には、
などである。
同意に関する事項
[編集]伝聞法則
[編集]公判の冒頭では検察側から供述書が出されて検察によって読み上げられ、その供述書には取調べなどにより被告人から得られた供述が書かれているが、しかし裁判制度では、被告人が法廷でその供述書の証拠能力に同意しない限り、供述書には証拠能力は無いとされる。
このため、通例では、検察側の出す供述書は証拠として採用されない。一般的には、公判廷以外で得られた供述にもとづく供述書は、証拠能力を認められず、このことを「伝聞法則」という[27]。
もちろん、これだけで審理が終わってしまっては事件を解明できないので、法廷では引き続き、検察または被告人が、それぞれに有利な証人を法廷に呼び寄せ、証言してもらう。
証人の出頭には、相手方当事者の同意は不要であるので、それぞれの当事者が自身に有利な証人を呼ぶことができる。
よって証人尋問などにより審理が続行していく亊などで、真相が解明されていくといった仕組みになっている。
鑑定についても、伝聞法則により[28]鑑定書だけでは証拠にならないが、しかし鑑定人を証人として法廷で証言させることにより、鑑定結果が証拠として採用される。
なお、捜査機関は単独で鑑定(嘱託鑑定)を依頼できるし(223条)、捜査機関の依頼による鑑定では弁護人の立ち合いもない(223条には166条・170条は準用されない[29])。捜査機関によって依頼・実施される鑑定のことは「嘱託鑑定」という。
鑑定には、裁判所の依頼による165条の鑑定と、捜査機関の依頼による223条の鑑定(嘱託鑑定)の、少なくとも2種類がある。弁護人側は、裁判所に鑑定(165条の鑑定)を請求することができる(179条)。
- ビデオリンクなどの例外
ただし、伝聞法則には例外がいくつかあり、そのひとつとしてビデオリンク方式の録画映像がある。ビデオリンクは被害者保護のために、被害者を被疑者から遠ざけるための措置であるのだから、そもそも法廷に呼ぶのは、論理的に不合理である。
刑事訴訟法には、第一回公判期日前の証人尋問という制度がある(226条、227条)。この証人尋問は、公判期日前であるが、裁判官の目の前で行われるので、証人の証言には証拠能力が発生する[30]。
公判期日前のビデオリンク方式の録画ですら、それが調書とされたとき、証拠能力が認められる[31](321条の2)。
ビデオリンクなので原理的には公判日に被害者に法廷で通信させるのは可能だろうが、しかし被害者の精神負担の軽減などの理由もあって、被害の証言を何度も繰り返させるのは酷であろうという考慮もあり、上述のように公判期日前の録画映像が証拠として認められる[32]。
- 高齢や幼少の証人
証人が高齢や幼少で公判に出頭させるのになじまない場合、例外的に、公判期日以外に、裁判所内または裁判所外で証人尋問を行うことができる(158条、281条)[33]。裁判所外での証人尋問については、高齢や幼少のほか、病気や怪我などの場合も、同様に公判期日以外の証人尋問が認められる。このほか、証人が遠隔地に居住していて、さらに仕事などの理由で期日に法廷に出頭できない場合なども、裁判所外での公判期日外での証人尋問が認められる。形式的には直接証拠にならないが、しかし公判期日にこれらの調書が法廷で取調べられることにより、実質的に証拠になる。
擬制同意
[編集]被告告人が出頭しなかった場合で、かつ代理人も弁護人も出頭しない場合は、その日に出された供述書は、少なくともその日に公判廷で争う内容については被告人が争う意志を放棄したと裁判官にみなされるので[34]、被告人が検察側の出す証拠を裁判官に証拠調べさせることに同意したとみなされ、検察側の出す証拠の証拠調べが可能となる。このことを「擬制同意」という(326条2項)。擬制同意により、実質的にその日の検察側の証拠が採用される。
判例では、退廷命令を受けた被告人にも、擬制同意が適用される(最決昭53・6・28 刑集 32巻 4号 724頁)。この判例の是非に議論はあるが、しかし被告人が正当な反対尋問の権利行使をするのを放棄したゆえに退廷命令に追い込まれたと考えられる場合には、やむをえないだろうというのが学説のひとつである[35]。
なお、被告人が自発的に無断退廷した場合については、特に議論にはなっておらず、法学教科書などでも擬制同意を認めるべしという意見である[36]。
刑訴法320条が、伝聞という用語は条分にはないが、伝聞法則に関する規定を扱っている。
なお、供述に限ったことではないが、検察側と被告人・弁護人側とで証拠として採用することにある書面は、裁判官は証拠として採用でき(326条1項)、これを「同意書面」という。当事者双方で争いのない事実について同意書面が造られるのが一般的である。
採証法則
[編集]証拠の取捨選択は裁判官の裁量権の範囲であり、また裁判官の専権事項であるが、採証法則は存在する[37]、
排除法則
[編集]たとえば警察官が令状をもたないまま家宅捜索をして、押収をしたとする。こうして押収した物品は証拠に使えるだろうか。
違法な手段で収集された証拠は、証拠能力が否定されるべしという原則があり、これを排除法則または違法収集証拠排除法則という。しかし、刑訴法に明文の規定は無い。
なお、アメリカ法の排除法則(exclusinary rule)などの影響を受けた考え方である。
判例では、昭和53年、最高裁が排除法則を採用した(最判昭和53・9・7刑集32巻6号1672頁)。
採証法則の違反
[編集]検察官、被告人、弁護人は、裁判長の処分や証拠調べに対して異議を申し立てることができる(刑訴法309条)。裁判所は検察官が請求した証拠調べのときは被告人側の意見(刑訴規則190条2項)、裁判所の職権による証拠調べのときは検察官及び被告人側の意見を聞かなければならない。証拠決定がなされたのちは、当事者は法令違反を理由として異議を申し立てることもできる(刑訴法205条)。
民事事件では、採証をしなかったことが採証法則や経験則への違反であるとする訴えにつき裁判所が違反を認めた事件として、平成16年2月26日最高裁判決(判例時報1853号90頁)、平成17年1月17日最高裁判決(民集59巻1号28頁)などが存在する。
参考文献
[編集]- 『わかりやすい刑事証拠法』増井清彦著。立花書房、1985年9月。
- 『民事事件における事実認定の違法』加藤新太郎。『法制論集』254号。名古屋大学。2014年。
脚注
[編集]- ^ 田中、P284
- ^ 法務省「事件事務規定」。
- ^ 最高裁判所「平成12年8月28日付事務総長通達」。
- ^ 宇藤、P463
- ^ 田中、P289
- ^ 宇藤、P459
- ^ 宇藤、P459
- ^ 田中、P283
- ^ 宇藤、P465
- ^ 宇藤、P465
- ^ 田中、P283
- ^ 宇藤、P318
- ^ 田中、P283
- ^ 宇藤、P465
- ^ 宇藤、P463
- ^ 宇藤、P459
- ^ 田中、P288
- ^ 宇藤、P459
- ^ 田中、P294
- ^ 宇藤、P450、P457
- ^ 田中、P301
- ^ 宇藤、P402
- ^ 田中、P326
- ^ 宇藤、P402
- ^ 宇藤、P403
- ^ 田中、P327
- ^ 田中、P313
- ^ 田中、P311
- ^ 田中、P326
- ^ 宇藤、P391
- ^ 田中、P321
- ^ 宇藤、P391
- ^ 宇藤、P331
- ^ 田中、P332、4行目
- ^ 田中、P332
- ^ 田中、P332
- ^ 増井 1985年。