古代オリエント
古代オリエント世界とは、紀元前3000年頃から紀元前300年頃に、西アジアから現在のエジプト周辺に形成された世界のことである。アレクサンドロス大王の東方遠征によって紀元前330年に崩壊した。ちなみに、「オリエント」とはラテン語で日の昇るところを意味している。当時のローマ人から見ると、西アジアは東の太陽が昇ってくる方向だったいうわけだ。古代オリエント世界は主にナイル川流域のエジプト、ティグリス・ユーフラテス川流域のメソポタミア、西南アジアに連なるイラン高原の3つに大別できる。 この地域はケッペンの気候区分でいうと砂漠・ステップ気候にあたるので、人々は水を求めて自然と大河のあるこの2河川に集まる。そして、難点である定期的な増水を逆手に取った灌漑農業が行われるようになった。ここで重要になってくるのが集団管理である。農業作業という団体行動を効率的に行い、まとめるために取った行動は何か。それが神権政治である。この結果、神の権力を示すための宗教的な文化が生まれるようになった。代表的なものがレンガで作った聖塔、ジッグラトである。この上に神殿が作られた。
古代メソポタミア文明
[編集]「メソポタミア」とは、ギリシア語で「川の間の土地」を意味している。ティグリス・ユーフラテス川のことを言いたかったのだろう。ここでの登場人物は主に2つに分けられる。
民族系統不明 シュメール人
セム語系 アッカド人 アムル人
インド・ヨーロッパ語系 ヒッタイト人
最初にここに大きな集団を作ったのはシュメール人である。紀元前3500年頃から効率的な農業のための神権政治、それに付随する神殿を中心に大村落ができ、やがて青銅器、銅器、文字が発明されてますます発展した。農業を効率的に行うために発明された概念が我々もなじみのある「暦」である。(決して最古ではないことにご留意願いたい)月の周期を暦に使った「太陰暦」。太陰暦に加えて太陽の周期も加えた「太陰太陽暦」。それを計算するのに用いた「六十進法」。全て農業のためである。また、この時代にできたのが楔形文字だ。大河川が運んできた粘土を材料に板を作り、そこに先を細く削ったアシの茎を押し当てて記録をしたのだ。収穫余剰(余り)ができてくると、農業に従事する人々は次第に別の仕事に従事し始め、階級社会ができあがった。それが、シュメール人の都市国家、ウル・ウルクの形成につながったのである。ちなみに、階級社会とは、王を中心にして神官・役人・騎士が政治経済、軍事を執り仕切って人々を支配する社会のことである。
その後、セム語系の民族であるアッカド人がシュメール都市国家に侵攻し、サルゴン一世がシリアも含めた統一国家アッカド王国を形成した。その崩壊後、同じくセム語系のアムル人がバビロン第一王朝(別名古バビロニア)を建国した。
バビロン第一王朝
[編集]統治者:ハンムラビ王 アムル人
統治方法:ハンムラビ法典
メソポタミア全体にあった様々な法を体系化して楔形文字で石柱に刻まれたもの。王は神の代理として刑を行っており、同害復讐法を原則にしている。「目には目を、歯には歯を」である。しかしながら、その刑罰は被害者の身分によって変わるものでもあった。
宗教:守護神マルドゥクを中心にした多神教。