日本史/古代/飛鳥時代

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飛鳥時代(あすかじだい)は、大王宮が現在の奈良県飛鳥地方にあった(いわゆる飛鳥京時代)時代。6世紀後半~7世紀ほどを指すが、ここでは593年から710年を解説する。

政治[編集]

飛鳥朝廷[編集]

厩戸王と馬子の政治[編集]

六世紀後半、東アジアは大帝国の勢力拡大に苦しむ時代となっていた。国際的緊張の中で倭国は、「ヤマト政権」という古墳時代から続く枠組みから脱却して「国家組織」を作り上げる必要に迫られていた。592年、大臣蘇我馬子の援助を受けて即位した崇峻天皇が、対立した馬子の指示で殺害される事件が起こった。空位となった大王位に、馬子は自らの姪にして敏達天皇の大后(おおきさき)であった額田部王女(ぬかたべのひめみこ)を推した(推古天皇)。推古天皇は大王即位に当たって、用明天皇の皇子の厩戸王に政治参加を求め(事実上の初の摂政)、こののち厩戸王と大臣馬子が協力して大王を輔弼する政治体制が成立した。

冠位十二階と一七条の憲法[編集]

603年、氏族に拘わらず個人の才能・功績によって位を授ける冠位十二階の制が定められた。位階として「徳、仁、礼、信、義、智」をそれぞれ大小に分けて十二の位を設けたもので、後の冠位制、位階制の手本となった。ただし、蘇我氏は冠位十二階の対象外だったとされる。翌604年には一七条の憲法が制定された。これは豪族らに国家官僚としての自覚を求めたものだった。

遣隋使派遣[編集]

(小野妹子など)

律令国家への道[編集]

乙巳の変[編集]

大化の改新[編集]

ヤマト政権は隋・唐の東方進出に圧迫されて国政改革の必要を生じた。

壬申の乱[編集]

7世紀後半には大化の改新壬申の乱を経て、支配階級が唐の制度を模倣し、皇室を中心とする支配階級の結集を図り、天皇を政治的・宗教的中心とする中央集権国家を形成した。ここでは律令制度が支配の基本体制となった。人民は、良民たる公民と賤民たる奴婢とに分けられた。班田収授法によって一定の土地を与えられた公民は、租・庸・調のほかに、兵役・強制労働を負担した。強制労働のことを雑徭という。これは特殊な奴隷制社会である。

皇親政治[編集]

文化[編集]

年表[編集]

関連項目[編集]