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日本史/古代/飛鳥時代

出典: フリー教科書『ウィキブックス(Wikibooks)』

飛鳥時代(あすかじだい)は、大王宮が現在の奈良県飛鳥地方にあった(いわゆる飛鳥京時代)時代。6世紀後半~7世紀ほどを指すが、ここでは593年から710年を解説する。

政治[編集]

飛鳥朝廷[編集]

厩戸王と馬子の政治[編集]

592年、大臣蘇我馬子の援助を受けて即位した崇峻天皇が、対立した馬子の指示で殺害される事件が起こった。空位となった大王位に、馬子は自らの姪にして敏達天皇の大后であった額田部皇女を推した(推古天皇)。推古天皇は大王即位に当たって、用明天皇の皇子の厩戸王に政治参加を求め、こののち厩戸王と大臣馬子が協力して大王を輔弼する政治体制が成立した。この際厩戸王は摂政の地位に就いたとも言われる。

官僚制の萌芽[編集]

603年、氏族に拘わらず個人の才能・功績によって位を授ける冠位十二階の制が定められた。位階として「徳、仁、礼、信、義、智」をそれぞれ大小に分けて十二の位を設けたもので、後の冠位制、位階制の手本となった。なお蘇我氏は冠位十二階の対象外だったとされる。翌604年には憲法一七条が制定された。これは大王を中心とする集権国家形成を企図するものであった。冠位十二階や憲法十七条は、いずれも豪族らに国家官僚としての自覚を求めたものである。

遣隋使派遣[編集]

(小野妹子など)

律令国家への道[編集]

乙巳の変[編集]

六世紀後半、東アジアは大帝国の勢力拡大に苦しむ時代となっていた。国際的緊張の中で倭国は、「ヤマト王権」という古墳時代から続く豪族連合の枠組みから脱却して「中央集権国家」を作り上げる必要に迫られていた。しかし、厩戸王や推古天皇の死後も蘇我氏は王権内において権勢を保持し続け、大王を中心とする集権国家の形成はいまだ道半ばであった。645年、中大兄皇子中臣鎌足らは蘇我氏を除いて中大兄一派への権力集中を目指し、蘇我氏の中心人物であった蘇我入鹿を殺害した(乙巳の変)。事件を受け、入鹿の父蘇我蝦夷以下は自害し、蘇我宗家は滅亡した。

大化の改新と白村江の戦い[編集]

事件後、中大兄の母で大王であった皇極天皇(宝皇女)は退位し、中大兄一派で、宝皇女の弟の軽皇子が即位した(孝徳天皇)。中大兄自らは「皇太子」となり、鎌足ら中大兄一派や中大兄に協力的な蘇我倉山田石川麻呂をはじめとする有力者等を要職に就け、新政権が発足する。「大化」の元号が初めて定められ、「改新の詔」が発せられたという。詔は公地公民や地方制度、班田収授の法や租税に触れていたとされる。

その後、蘇我倉山田石川麻呂は謀反の嫌疑をかけられて失脚、自害する。孝徳は中大兄と対立して孤立し、失意のうちに崩じた。中大兄は皇祖母尊と称されていた前大王、宝皇女を重祚させた(斉明天皇)。660年、倭国と友好関係にあった百済が唐と新羅の連合軍の侵攻を受けて滅亡すると、中大兄らは百済再興を掲げて倭国の軍を派遣した。662年、倭国軍は白村江の戦いに敗れ、中大兄は国防体制を強化させた。

中大兄とともに筑紫に赴いた斉明天皇がその地で死去したのち、中大兄は称制を続けたが(大王に即位せず政務をみること)、ついに668年に即位した(天智天皇)。戸籍・庚午年籍の整備などを行った。

壬申の乱[編集]

天智は大王位継承者に子の大友皇子を指名して崩じたが、672年、天智の弟の大海人皇子が大王位を主張して大友に反乱を起こす(壬申の乱)。大海人が乱に勝利し、大友は自害した。大海人は即位して天武天皇となり、中央集権化を一層進めることとなる。なお、天武天皇の頃に大王に代わる「天皇」の称号や、倭国に代わる「日本」の国号が使用され始めたとする説もある。

律令国家の成立[編集]

7世紀後半には支配階級が唐の制度を模倣し、皇室を中心とする支配階級の結集を図り、天皇を政治的・宗教的中心とする中央集権体制が成立した。ここでは律令制度が支配の基本的制度となった。人民は、良民たる公民と賤民たる奴婢とに分けられた。班田収授法によって一定の土地を与えられた公民は、租・庸・調のほかに、兵役・強制労働を負担した。強制労働のことを雑徭という。これは特殊な奴隷制社会である。

皇親政治[編集]

文化[編集]

年表[編集]

関連項目[編集]