近代文学

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本項では、近代文学を日本の明治から大正期にかけてのものとする

日本の文学[編集]

文学史[編集]

明治[編集]

明治初期 小説の成立と翻訳文学
明治時代においては、西洋列強の文化吸収が貪欲に行われ、単に政治制度や科学技術に留まらず、絵画や音楽といった芸術分野でも西洋文化を取り込み、文学でも西洋文学との積極的な接触が行われた。
坪内逍遥はヨーロッパのNovelに触れ、「小説神髄」を通じて日本に紹介した。今後文学の柱となる「小説」の誕生であった。ただし、「南総里見八犬伝」の様に小説とも呼べる文学自体は日本にも存在をしており、この事には注意を払う必要がある。
坪内の言う小説とは単に物語りを扱う文学ではなく、文学に対する写実主義的なアプローチであり、よりありのままを表現を求めていた。その点においては旧来の文学と対立するものであった。
また、明治初期においては外国文学の翻訳を通じて文学を学ぶ「翻訳文学」も顕著であり、外国作品と接する中で日本語の表現が模索され、その結果二葉亭四迷などが中心となって「言文一致」と呼ばれる日本語表記の変化が発生した。
「言文一致」では、「漢字」「ひらがな」「カタカナ」「Alphabet」が用いられるようになったほか、より口語に近い形の文体や「 」(かぎかっこ)、句読点の使用など現在の日本語表記の原型が生み出された。
この時代、ほかに森鴎外がおり、初期の作として「舞姫」「即興詩人」がある。
明治中期
明治末期 文豪の時代
日本の文豪として、名だたる者に夏目漱石と森鴎外がいるが、この二人が活躍したのがこの時代だった。
1905年、英国に英文学研究のために留学していた夏目漱石が帰国し、「吾が輩は猫である」を発表した。
その後も「坊ちゃん」など後に代表作となる作品の発表を経て漱石は文豪としての地位を築いていった。
そうした漱石を慕い、小宮豊隆や鈴木三重吉などが集まり、毎週木曜に漱石を中心として会合をする『木曜会』が形成されていった。その後、芥川龍之介、久米正雄といった次の世代を担うことになる若者もこの会に参加し、成長を遂げていった。
一方の森鴎外は軍医として落ち着きだし、文学活動を再開し「ヰタ・セクスアリス」を1909年に発表した。
「雁」なども後期作であり、この頃からは時代小説も手掛け「山椒大夫」「高瀬舟」などを書いていった。
大正初期 新たな才能
旧制第一高等学校での縁から、芥川龍之介・久米正雄・菊池寛・松岡讓などが、第4次の「新思潮」(東京大学系の文芸同人誌)を立上げ、作品の発表を行いだすようになった。
芥川の作品には「羅生門」「蜘の糸」「藪の中」などがあるが、「鼻」は夏目漱石に絶賛された。
短編を中心に創作が行ってたが、理知的といわれる表現に関しては、その分繊細であり、代表作「羅生門」の末尾を後に変更するということもあった。

作家[編集]

日本文学の作家

作品[編集]

日本文学の題名

諸外国の文学[編集]