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高等学校世界史探究/アラブの大征服とイスラーム政権の成立Ⅰ

出典: フリー教科書『ウィキブックス(Wikibooks)』
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イスラーム教の誕生[編集]

 アラビア半島の大部分は砂漠ですが、南部のイエメン地方のように雨が多く、農耕に適した地域もあります。また、アラビア半島西部のヒジャーズ地方などには、オアシス都市があり、交易によって支えられました。セム語系のアラブ人は昔からアラビア半島に住んで、羊や駱駝を群れで遊牧したり、隊商と交易したり、小麦やナツメヤシを栽培したりして、各地域の自然環境に合わせて生活してきました。しかし、6世紀になると、アラビア半島は新たな歴史的変化を迎え始めます。ササン朝ペルシャとビザンツ帝国は長らく、戦争と和解を重ねてきました。6世紀中頃になると、ホスロー1世とユスティニアヌスが和平条約を結びました。和平条約以降、両国の勢力が衰えたため、東西を結ぶ交易路「オアシスの道」は、両国の境界で途絶えていました。また、紅海貿易では帆船の航行が難しく、危険を伴うため、イエメンからシリアに至るヒジャーズの山間部を通る隊商路が利用されるようになりました。そこで、中国やインドの産品(絹織物・陶磁器・香辛料など)が、「オアシスの道」と「海の道」を通って、アラビア半島西部のヒジャーズ地方に運ばれてきました。この国際的な中継貿易を引き継いだのが、ヒジャーズ地方の交易都市メッカの商人達です。メッカの商人達はそれで大儲けするようになりました。また、メッカは、当時のアラブ人の多くが信仰していた偶像崇拝の多神教が盛んな場所でもありました。

 そして、メッカの人々はアッラーを最も重要な神として信仰していました。イスラーム教の開祖ムハンマド・イブン=アブドゥッラーフは、メッカを支配するクライシュ族のハーシム家出身の商人でした。なお、ムハンマド・イブン=アブドゥッラーフが亡くなった後、次のカリフは通常クライシュ族の子孫から選ばれました。ムハンマド・イブン=アブドゥッラーフは、幼い頃に両親を亡くして、祖父や叔父達に育てられました。25歳の時、金持ちの未亡人ハディージャ・ビント・フワイリドと結婚して、少しずつ瞑想するようになりました。610年頃、ムハンマド・イブン=アブドゥッラーフは自分が唯一の神アッラーの言葉をいただいた預言者だと気付き、唯一の神を信仰する厳しい宗教イスラーム教を広めるようになりました。しかし、偶像崇拝や富の独占に反対していたため、メッカの富裕な商人達からひどい扱いを受けました。部族間の争いに困っていた現地の住民から頼まれて、622年に数人の信者とともにヤスリブ(メディナ)に移住しました。この移住をヒジュラ(聖遷)といいます。このヒジュラ(聖遷)がイスラーム(ムスリム)共同体(ウンマ)の始まりと考えられています。世界中のムスリムは、同じウンマの仲間だと思われています。つまり、ウンマは実在する場所ではなく、ムスリム全員が知っていながら、目に見えない繋がりです。そのため、西暦622年はイスラーム暦(ヒジュラ暦)の元年とされています。ヒジュラ暦は月を基準にした太陰暦で、1年は354〜355日、12カ月です。しかし、太陰暦では暦や季節が合わなくなってしまいます。このため、農業や財務では太陽暦が各地で使われました。現在でも、イスラーム諸国の宗教行事にはヒジュラ暦が使われ、財務や国家行事、国際関係には西暦も使われています。

真ん中の黒い建物がカーバ聖殿です。メッカにあるこの建物は、毎年行われる巡礼の中心地です。イスラーム教徒はカーバの方向を向いて祈るので、祈る時はカーバを中心に円陣を組みます。

 ムハンマド・イブン=アブドゥッラーフがメディナに移住してから、メディナとメッカの間で戦争がありました。しかし、政治と戦争が得意なムハンマド・イブン=アブドゥッラーフは、630年に誰も殺さずにメッカを占領しました。多神教を祀るカーバ神殿の偶像を破壊して、そこをイスラーム教で最も重要な場所にしました。メッカを征服後、ムハンマド・イブン=アブドゥッラーフはアラビア半島のほぼ全域を支配するようになりました。アラブ人の諸部族は、ムハンマド・イブン=アブドゥッラーフと契約を結ぶために次々とメディナに使節を送りました。ムハンマド・イブン=アブドゥッラーフが亡くなるまでに、アラビア半島はムハンマド・イブン=アブドゥッラーフの支配下でゆるやかに統一されていたため、メディナを中心とした初期のイスラーム国家が誕生しました。

 中でも『コーラン』は、イスラーム教で最も重要な聖典です。ムハンマド・イブン=アブドゥッラーフが亡くなってから、預言者ムハンマド・イブン=アブドゥッラーフに伝えられた神の言葉を集めた書物と言われています。アラビア語で書かれています。「アッラー以外に神はおらず、ムハンマド・イブン=アブドゥッラーフは神の使徒です。」という信仰告白は、この教義がどのような内容なのかを表しています。つまり、一人の神だけだとはっきりと伝えて、イスラームの信者は、主人アッラーの召使いとして従わなければならないと教えられています。そうすると、ムハンマド・イブン=アブドゥッラーフは神から遣わされた使者です。しかし、預言者は神の言葉を預かっただけなので、イスラーム教徒はムハンマド・イブン=アブドゥッラーフを「市場を歩いているただの人」にしか見えません。

 イスラーム教はみんなの宗教なので、どんな人種でもイスラーム教徒はみんな兄弟姉妹と考えられています。宗教だけでなく、政治、社会、文化も含めたイスラーム教の教えとして、最も重要な部分は『コーラン』にあると考えられています。したがって、コーランの章や節を解釈して、イスラームの具体的な教義やルールを考えなければなりません。六信五行では、イスラーム教徒の信仰と行動を短くまとめています。六信とは、神への信仰・天使・聖典・預言者・来世・神の予定を指します。五行とは、信仰告白・礼拝・離俗・断食・メッカ巡礼を指します。六信五行の内容は、大多数を占めるスンナ派の場合です。シーア派に関しては、少し事情が違います。

 このように、イスラーム教は政治、経済、社会、文化などを含む「生活の体系」となっています。コーランと預言者の言葉(スンナ)を中心に、一般常識となるイスラーム法(シャリーア)が9世紀までに定められました。ウラマーと呼ばれる知識人・学者が、法律を作り、法の解釈を行うようになりました。その後、彼らは法学者、裁判官、教師などとして、政治や社会で重要な役割を果たしました。

イスラーム世界の成立[編集]

渓谷を挟んでヤルムークの戦場があります。この写真は、戦場から8マイル離れたヨルダンから撮影されました。

 632年にムハンマド・イブン=アブドゥッラーフが亡くなると、メディナのイスラーム教徒は、クライシュ族の長老アブー・バクルをイスラーム共同体の指導後継者に選びました。このような共同体の指導後継者をカリフ(ハリーファ)といいます。ムハンマド・イブン=アブドゥッラーフは宗教的権力と政治的権力を持っていましたが、カリフ(ハリーファ)は政治的権力しか引き継いでいません。しかし、アブー・バクルが即位すると、アラブ諸民族は次々とイスラーム共同体から脱退するようになりました。アラブの伝統に従って、契約はムハンマドの個人的な取引と考えられていました。アブー・バクルは、ジハード(信仰のための戦い:聖戦)を通して、イスラーム共同体から脱退したアラブ諸部族と仲直りして、支配下に置きました。また、シリアとイラク・イランを支配するための大作戦を開始しました。そこでアラブ人イスラーム教徒は、カーディシーヤの戦いニハーヴァンドの戦いでササン朝軍に勝利すると、シリアのビザンツ軍に対してもヤルムークの戦いで勝利しました。651年、ササン朝は滅亡しました。642年になると、シリアに続いて、エジプトも支配しました。ササン朝が終わり、エジプトやシリアからビザンツ軍が撤退すると、古代オリエントは滅亡して、新しい思想に基づくイスラーム世界に変わりました。

ジハード(聖戦)
 ジハードとは、イスラームの信仰とイスラーム教徒共同体(ウンマ)を守って拡大させるための戦いです。自由な市民権を持つイスラーム教徒の成人だけが参加出来ると書いています。戦死した者は殉教者と呼ばれ、天国に行きます。攻撃的なジハードは、カリフがそう言って命令を出してから始まります。アラブ人の最初の大勝利が宗教からなのか、戦利品目当てなのか、人によって考え方は様々です。しかし、関係者が自分達の素晴らしい勝利を、正しい宗教に従ったから起こった神の御業だと考えていた事実は疑えません。対十字軍戦争、近代の西洋諸国の植民地化に対する様々な抵抗運動、最近のチェチェンやアフガニスタンでの戦争は、全て防衛的なジハードの代表例です。イスラーム神秘主義(スーフィズム)では、精神の浄化や信仰の成長を「大ジハード」と呼び、聖戦を「小ジハード」と呼んでいます。

 ムハンマド・イブン=アブドゥッラーフが亡くなると、共同体内部で指導者の地位を巡って意見が分かれるようになりました。実際には、共同体は4人のカリフ(アブー・バクル、ウマル・イブン・ハッターブウスマーン・イブン・アッファーンアリー・イブン・アビー・ターリブ)を順番に選びました。しかし、アブー・バクル、ウマル・イブン・ハッターブ、ウスマーン・イブン・アッファーンのカリフの正統性に同意しない派閥がいました。この派閥は、ムハンマド・イブン=アブドゥッラーフの従兄弟で娘婿のアリー・イブン・アビー・ターリブこそが神に選ばれた人物なので、ムハンマド・イブン=アブドゥッラーフが亡くなってすぐに指導者になっていなければならないと考えていました。この派閥が、シーア派(イスラーム教の少数派)の母体となりました。一方、4人のカリフを認めた人々は、スンナ派(イスラーム教の多数派)の母体となりました。一方、スンナ派は、共同体全体から選ばれ、初代から4代目までのカリフを「正統カリフ」と呼んでいます。しかし、第3代カリフのウスマーン・イブン・アッファーンは嫌がる人に殺され、第4代カリフのアリー・イブン・アビー・ターリブは過激派に暗殺されました。ウマイヤ朝のムアーウィヤは、シリアの総督を務めており、シリアのダマスカスウマイヤ朝を開くと、ようやく政治的混乱に終止符を打ちました。多くのスンナ派は、カリフ制の継承を悪く思っていました。

ウマイヤ=モスクは、8世紀初めにダマスカス(ウマイヤ王朝の首都)に建てられました。現在も残っているモスクの中で最も古い建物です。キリスト教の教会の一部が使われており、外壁やアーケードには天空のようなモザイク画が施されています。

 8世紀初めになると、ウマイヤ朝は安定した政権を築いて、より多くの領土を手に入れました。東側では、アム川の東に位置するソグディアナとシンド(インド北西部)を支配しました。その結果、これらの地域にイスラーム教が広まりました。西側では、ベルベル人の抵抗を受けながら、北アフリカを西進しました。711年になると、イベリア半島に進出して、西ゴート王国を滅ぼしました。この時から1492年にグラナダが陥落するまでの約800年間、イベリア半島はイスラーム教に支配されました。その結果、アラブ・イスラーム文明が大きく発展しました。ウマイヤ軍は頻繁にフランク王国に攻撃を仕掛けましたが、トゥール・ポワティエ間の戦いで破れたので、ピレネー山脈を越えた地域の永続的な支配は出来ませんでした。

 アラブ人は、家族を連れて支配地に移住しました。その後、各地に軍営都市(ミスル)を建設して、そこを拠点に他民族を支配しながら、新たな征服を進めていきました。イラクのバスラやクーファ、エジプトのフスタート、北アフリカのケルアンなどは、いずれも新しく建設された軍営都市でした。商人達は「イスラームの平和」を背景に、旧都市や新都市を結ぶ密接なネットワークを築いていき、大きな経済圏を作りました。このため、7世紀終わり頃から『コーラン』の文字が入ったアラブ貨幣(ディナール金貨とディルハム銀貨)が作られるようになりました。

 しかし、ウマイヤ朝時代、アラブ人ムスリム(支配者集団)は多くの特別な権利を持ち、土地を所有していても十分の一税(ウシュル)を支払う人は限られていました。一方、国家財政は地租(バラージュ)人頭税(ジズヤ)から成り立っているので、征服地の原住民だけが支払っていました。これらの税金は、イスラーム教徒になっても、免除の対象外でした。イスラーム教が唯一神の啓示の書と認める経典を持つキリスト教徒やユダヤ教徒などは、当初からイスラーム教徒と等しい経典の民と考えられていました。このため、税金を納めたら、ズィンミー(イスラームの支配下にある庇護民)として生命・財産の安全や信仰の自由を与えられました。さらに、ゾロアスター教徒なども旧ササン朝で多数を占めていたので、ズィンミーとして信仰の自由を与えられました。

資料出所[編集]

  • 山川出版社『詳説世界史研究』木村端二ほか編著 最新版と旧版両方を含みます。
  • 実教出版株式会社『世界史B 新訂版』木畑洋一ほか編著
  • 山川出版社『詳説世界史B』木村端二、岸本美緒ほか編著
  • 山川出版社『詳説世界史図録』