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高等学校世界史探究/イラン諸国家の興亡とイラン文明

出典: フリー教科書『ウィキブックス(Wikibooks)』
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 イラン諸国家の興亡とイラン文明では、パルティアとササン朝、イラン文明について学びます。

パルティア

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紀元前240年頃の西アジア

 イラン系民族は、ザグロス山脈の東からアフガニスタンにかけての広い地域に住んでいました。この地域はほとんどが高原性台地ですが、砂漠になっている地域もあれば、農耕が出来るほど雨や水の流れがある地域もあります。こうした自然条件に対応しながら、人々は住む場所によって農耕遊牧で生計を立ててました。マケドニアのアレクサンドロス大王は、バルカン半島北部で勢力を伸ばしました。紀元前334年、彼はアケメネス朝を倒す目的で軍隊を率いて東方遠征へ向かいました。エジプトを占領してアケメネス朝を滅ぼし、インド北西部へ進出しました。そして、バルカン半島からインダス川まで、東西に広がる大帝国を建国しました。大王の死後、彼のアジア領土はセレウコス朝のギリシア人が引き継ぎ、ギリシア人の移住を勧めて、ギリシア風の都市を建設しました。しかし、彼らの力が衰えると、各地で独立のための戦いが始まりました。

 アラル海に注ぐアム川の上流にあるバクトリアという地域は、東西からインドへ行くための交通の要所でした。紀元前250年頃、この地域の知事がバクトリア王国を建国して、セレウコス朝から独立しました。ギリシア王朝のバクトリアは、マウリヤ朝の滅亡に乗じて、インド北部に領土を拡大しました。しかし、王位をめぐる内紛や東方のパルティアの発展によって勢いを失い、紀元前139年、スキタイの遊牧民トハラ人に滅ぼされました。ギリシア人が支配したバクトリアではヘレニズム文化が発展しました。この文化は、後にインドのクシャーナ族のガンダーラ美術に影響を与えました。このように、バクトリア王国は東洋と西洋の文化が融合する大きなきっかけとなりました。

クテシフォン

 アルサケス1世は、カスピ海南東部のパルティア地方に住むイラン系遊牧民の族長でした。アケメネス朝パルティアは、バクトリアと同じ時期にセレウコス朝から独立しました。前2世紀中頃、パルティアのミトラダテス1世がイラン全土を統一しました。ミトラダテス1世は、バビロニアに入り、ティグリス川沿いのセレウキアを滅ぼして、対岸のクテシフォンに軍事基地を造りました。その都市クテシフォンは、その後、パルティアの首都になりました。パルティアは、バクトリア、大月氏、クシャーナ朝とユーフラテス川との間の広い地域を支配していました。その中央集権制はアケメネス朝を参考にしていました。しかし、パルティア国家は多くの豪族で構成されている事実を変えられませんでした。そのため、国内の地方勢力の台頭を止められませんでした。一方、遊牧民(征服者・支配者)と先住農耕民(征服される側)は、どんどん一緒に暮らすようになりました。のちほど紹介しますが、遊牧民の文化は、農民の文化によって変わりました。

 パルティアは東西貿易を独占しており、内陸アジアの貿易ルートだけではなく、ペルシア湾(海上ルートの要所)も支配していたため、非常に順調でした。西アジアで初めて中国と交流した国です。中国ではパルティアを、初代君主のアルサケスにちなんで安息と呼んでいます。後漢の漢超はローマ(大秦国)と交流するために甘寧を派遣しましたが、パルティア(安息)は自国の利益を損なわれたくないので邪魔をしました。西方には絹、香水、象牙、宝飾品などを送りました。その代わり、ローマから青銅器やガラス製品、ワイン、オリーブオイル、金などを手に入れました。

 東に進出していたローマはパルティアの最大の敵でした。紀元前1世紀にセレウコス朝を打ち破ったパルティアは、ローマがさらに東進するのを阻止するため、シリアに進出しました。紀元前53年のカルラエの戦いでは、クラッスス(ローマの三大政治家の一人)とその遠征軍を撃破しています。しかし、2世紀初頭、トラヤヌス帝率いるローマ軍はクテシフォンを占領して、ペルシア湾岸の先まで行ってしまいました。その後、両国の争いが増え、パルティアの勢力は徐々に衰えていき、224年にササン朝に滅ぼされました。

ササン朝

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エデッサの戦い

 アルダシール1世はパルティアを倒し、クテシフォンを首都としてササン朝を建国しました。ササン朝という名称は、アルダシールの祖父ササンの名前に由来します。ササン家はゾロアスター教の神官でした。ササン朝は、農耕イラン人を中心としていました。その本拠地は、アケメネス朝と同じ、ファールス地方にあるペルセポリスでした。アケメネス朝統治下のペルシア帝国を復活させるために、イラン人の伝統的な宗教ゾロアスター教を国教としました。また、国をまとめ、中央集権制を確立しようとしました。自分を「イラン人と非イラン人の諸王の王」と名乗ったシャープール1世は、中央集権制を達成した人物です。東はクシャーナ朝を滅ぼし、インダス川西岸まで領土を拡大しました。西では、シリアに遠征したローマ軍を破りました。260年のエデッサの戦いでは、ローマ皇帝ウァレリャヌスを捕虜にしました。その後、ササン朝とローマ帝国は、特にアルメニアの所有権や宗教問題をめぐって何度も争っていました。また、ササン朝もローマ帝国も、東西貿易を支配して、その資金を全て手に入れるために、海陸で積極的な政策を取っていました。ギリシア系ローマ人がこの地を離れてから、ペルシア湾からインドへの航路が建設され、ペルシア商人とエチオピアのアクスム商人がインド洋の貿易権をめぐって争いました。3世紀には、アクスム王国の領土はアラビア南西部を含むまでに拡大しました。紅海の制海権を握った王国は、インドへの進出を計画しました。1世紀中頃に書かれたと思われる『エリュトラー海案内記』には、アクスム王国の名が最初に記されています。次の世紀に入ると、貿易の邪魔になるアラブの遊牧民と戦うために、アラビア半島中部に遠征隊が送り込まれました。

 5世紀後半、遊牧民エフタル族が中央アジアに侵攻しました。エフタル族が帝国政治に干渉してきたため、ササン朝は政情不安となりました。中国では、エフタル族を嚈噠や白匈奴と呼んでいました。彼らはトルコ系かイラン系といわれる騎馬遊牧民でした。極端な共産主義がマズダク教によって教えられ、それが流行したため、社会はさらに混乱しました。マズダク教の新宗教はゾロアスター教の異端の一つとも、マニ教に近いとも言われます。極端な禁欲と平等を主張しました。ササン朝最大の英雄ホスロー1世は、この状況を収束させました。ホスロー1世の治世はササン朝の全盛期でした。ホスロー1世はマズダク教団を鎮圧し、社会不安をなくしました。また、税制や軍の運営方法を変えて、政府を円滑に運営するようにしました。ビザンツ皇帝ユスティニアヌスとの戦いを有利に進め、50年間の平和を実現するとともに、トルコ系遊牧民突厥と同盟を結んでエフタル族を滅ぼしました。ササン王朝の黄金時代はホスロー1世から始まり、彼は「不死の霊魂を持つ者」と呼ばれました。

 ホスロー1世が亡くなると、ササン朝はしばらく分裂状態になりました。しかし、孫のホスロー2世の勝利によって、ササン朝は小アジアの大部分・口ードス島・パレスチナ・エジプト・アラビア半島南部までを支配する最大規模の帝国となりました。しかし、彼が軍事費に使った資金は高い税金を生み、ティグリス川はこれまでにない水位まで氾濫しました。彼の死後、ササン王朝の権力は急激に低下して、宮廷内では争いが絶えませんでした。7世紀、アラブ軍の侵攻がササン朝を襲いました。最後の王ヤズダギルド3世は642年のニハ=ヴァンドの戦いでイスラーム軍に完敗して、651年に逃亡先のメルヴ付近で殺害されました。こうしてササン朝は終わりを遂げました。

イラン文明

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 文化的にもパルティアヘレニズム世界の一部になっていて、公用語はギリシア語でした。宮廷ではギリシア文化が重視されて、ミトラダテス1世は自分の貨幣に「フィレレン(ギリシアの恋人)」という称号を付けさせました。しかし、支配階級のイラン系遊牧民と征服された農民が融合しながら、1世紀頃から徐々にイランの伝統文化が復活し始めました。王朝末期には、アラム文字で書かれたパフレヴィー語(中世ペルシア語)が公用語となりました。宗教は次第にイラン風となり、ゾロアスター教が信仰されるようになりました。ただし、ミトラダテスというパルティア王の中には、ミトラ神を強く信仰していたような人物もいました。バビロニアでは、セム系とイラン系の宗教も混ざり合っていました。

エフェソスの公会議

 ササン朝時代には、民間宗教のゾロアスター教が国教となりました。教典『アヴェスター』がまとめられ、多くの言語に翻訳され、ゾロアスター教の神学が成立したのもこの時代です。しかし、王は一般に民間宗教に前向きなので、国内には仏教徒、キリスト教徒、さらには多数のユダヤ教徒がいました。マニが3世紀に始めたのは、マニ教という独自の救済宗教です。マニ教は、ゾロアスター教、キリスト教、仏教を混ぜ合わせた宗教です。シャープール1世は、世界を否定する善悪二元論、禁欲主義、偶像崇拝を基盤とするマニ教を保護しました。しかし、その後、マニ教は国内で禁止されました。その後、マニ教はシリア、エジプト、北アフリカ、そして当時ローマ帝国が支配していたヨーロッパのガリアにも広まりました。幼い頃、カルタゴに住んでいたアウグスティヌスは、マニ教の影響を受けていました。また、アルビジョワ派のように後世のキリスト教異端者にも影響を与えました。キリスト教もしばらくは禁止されていましたが、431年のエフェソスの公会議でネストリウス派が異端とされると、ササン朝は敵国ローマの反体制因子としてネストリウス派を支援するようになりました。このように、ササン朝とローマとの関係は、キリスト教徒の扱いに大きく関わっていました。ネストリウス派はその後、東洋に布教活動を展開しました。その結果、中央アジアを経て唐の時代に中国に伝わり、景教と呼ばれるようになり、ペルシア湾を経てインドに伝わりました。

 ササン朝時代には、建築、美術、工芸が大きく発展しました。これは、アケメネス朝時代から続くイランの伝統的な様式に、インドやギリシア、ローマなどの要素を混ぜ合わせた文化です。磨崖の浮き彫りと漆喰を使った建築にも優れた技術を示しましたが、中でもよく知られているのは工芸美術です。工芸美術には、金、銀、銅、硝子を使った皿、杯、水差し、香炉、鳥獣・植物柄の絹織物、彩釉陶器などがあります。イスラーム時代はササン朝美術の様式や技法を取り入れました。西はビザンティン帝国を経て地中海地域に、東は中国の南北朝時代、隋・唐時代、飛鳥・奈良時代を通じて日本に伝えられ、それぞれの地域の文化に影響を与えました。日本では、正倉院の漆胡瓶、白瑠璃椀(カットグラス製)、法隆寺の獅子狩文錦などが挙げられます。

資料出所

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  • 山川出版社『詳説世界史研究』木村端二ほか編著 最新版と旧版両方を含みます。
  • 山川出版社『詳説世界史B』木村端二、岸本美緒ほか編著
  • 山川出版社『詳説世界史図録』