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高等学校世界史探究/世界恐慌とヴェルサイユ体制の破壊Ⅱ

出典: フリー教科書『ウィキブックス(Wikibooks)』
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 世界恐慌とヴェルサイユ体制の破壊Ⅱでは、満州事変~日中戦争までを学びましょう。この節もかなり出題されます。

満州事変[編集]

 第一次世界大戦がもたらした大戦景気で、日本の輸出は急速に伸びました。その結果、債務国から債権国に急転換して、特に重化学工業が発展する基礎を築きました。しかし、戦後、日本は再び輸入超過になり、戦後恐慌を招きました。1923年の関東大震災で日本は立ち直る機会を失い、1927年には大規模な金融恐慌に見舞われました。1930年、政府は金本位制に復帰するための条件として、金の輸出を解禁する方針を決めました。しかし、これが輸出をさらに難しくしたため、日本は深刻な農業不況を伴う昭和恐慌に陥りました。

 1925年、25歳以上のあらゆる男性が投票出来るようになりました(普通選挙法)。当時、立憲政友会・憲政会の二大政党内閣が交互に登場する政治(憲政の常道)でした。そのため、労働運動を始めとする様々な社会運動が盛んになりました。しかし、政府は不況に上手く対応する対策を思いつかず、社会不安が広がりました。ロンドン海軍兵器制限条約などで軍部や右翼勢力が危機感を強めると、政党政治を批判して、直接行動やテロで問題を解決しようとしました。1930年に一部の青年将校が政権を取ろうとした後、1931年2月に右翼が前大蔵大臣らを殺害しました。また、海軍将校が犬養毅首相を殺害しました(五・一五事件)。さらに、1936年2月、クーデタが発生しました。部下の陸軍青年将校が首相官邸などを襲って大蔵大臣などを殺害しました(二・二六事件)。このような事件以降、軍部の政治的影響力が拡大しました。

リットン調査団

 日本政府の対中国政策が行き詰まり、陸軍は総力戦体制を整えるため、大陸での支配を拡大しようとしました。彼らは「満蒙」は日本の生命線と国民に訴えていました。1928年、満州の軍閥である張作霖を爆殺しました。しかし、張作霖の後継者張学良が満州を国民党政府に譲ったので、関東軍の計画は失敗に終わりました。1931年9月、関東軍は「満蒙問題」解決のために、奉天(現瀋陽)近郊の柳条湖で満鉄線路を爆破する計画を立てました(柳条湖事件)。これは関東軍に東北軍に対する軍事行動を開始するきっかけとなり、関東軍はこれを口実に東北地方の主要都市を占拠しました(満州事変)。軍部は世界の注目を浴びないために、1932年、上海で中国軍と戦争を始めました(第1次上海事変)。その間、関東軍はさらに領土を広げ、1932年3月、清朝最後の皇帝溥儀満州国の執政(後の皇帝)に就任しました。

冀東政府の位置

 蒋介石が共産党の掃討を進めていたため、東北軍を率いる張学良は、日本の侵略に対して不抵抗主義をとっていました。そして、国際社会に訴える方法をとりました。国際連盟はこれに応えて、リットン調査団を派遣しました。リットン調査団は、日本の軍事行動は自衛権の行使ではなく、満州国は日本の傀儡国家とする報告書を作成しました。国際連盟臨時総会は、1933年2月にこの報告書を可決しました。1933年3月、日本は国際連盟に対して脱退を表明しました。

 1933年、日本軍は「熱河は満州国領の一部だから、長城線を国境とする」と言って占領しました。国民党政府も事実上これに同意しました(日中軍事停戦協定)。また、1935年、日本は万里の長城線を越えて、隣接する華北地方を支配下に置くために、華北分離工作を開始しました。1935年末、中国軍は河北省東部から撤退して非武装地域となり、日本の傀儡政権として冀東防共自治委員会が設置されました。日本が北京や天津を軍事攻撃したため、中国国民の危機意識はさらに高まりました。

国民政府の統治[編集]

 中国国民党政府は、1929年に成立されました。ナショナリズムを利用して列強と二国間交渉を進めながら、不平等条約の解消に取り組みました。関税自主権を取り戻した後は、国内産業を保護しながら、確実に税金を取れるようにするために関税を引き上げました。同時に、統税(統一貨物税)を設定した上、塩税も変更されたため、中央政府の財政は改善されました。経済面では、経済関連法や経済規則の制定を進めるとともに、化学工業や民間の軽工業の支援、道路や鉄道などのインフラ整備も行いました。

 満州事変当時、国民党政府は、共産党の追い出しを含む国民統合を最優先していました。そして、共産党の本拠地を次々と奪っていきました。共産党軍はこれに対応出来ず、1934年10月に瑞金から撤退を始めました。これが長征の始まりです。国民党軍の追撃を受けながら、共産党軍は内陸部へと進みました。そして、陝西省北部にたどり着き、本拠地を設けます。こうして、毛沢東の権力は徐々に強化されていきました。

蒋介石

 世界恐慌が発生すると、中国は大不況になりました。中国の主要通貨(銀)が国外に流出したからです。1935年1月、政府は政府系銀行が発行する紙幣(法幣)を唯一の統一通貨とする管理通貨体制に切り替えました。アメリカやイギリスの支援を受けて、この紙幣は受け入れられ、国家政府支配地域に広まりました。貨幣の統一と法幣の安定化が進むにつれて、中国経済は上向きになっていきました。一方、日本は満州国を日本経済に取り込み、華北に物資を密輸するなどして、この幣制改革の邪魔をしました。これは国民政府の関税政策に打撃を与えたため、中国と日本の対立はより深刻になりました。

 中国では、経済侵略を含む日本の侵略に対して、反日運動が盛んになりました。しかし、国民政府は反日運動を鎮圧したため、国民の反発を招きました。一方、コミンテルンは統一戦線結成の方針を示しました。1935年8月、共産党は抗日民族統一戦線結成を呼びかける八・一宣言を出しました。しかし、国民政府は共産党攻撃を優先するため、張学良率いる東北軍を陝西省に送り込みました。ところが、故郷を日本軍に奪われた東北軍の兵士達は、共産党への攻撃を嫌がりました。1936年12月、西安にいた張学良は、共産党攻撃を呼びかけた蒋介石を捕まえて、内戦中止と反日を強く求めました(西安事件)。蒋介石はこの要求を受け入れて、解放されました。その結果、中国は、日本に対して全面的な対抗手段を取ろうと動き出しました。第2次国共合作は、日中戦争になってようやく実現しました。

日中戦争[編集]

盧溝橋

 日本が華北を切り崩そうとする中、1937年7月7日、北平(現在の北京)郊外の盧溝橋で誤発砲事件をきっかけに、日本軍と中国軍が争う盧溝橋事件が起こりました。この地域では停戦協定が結ばれ、日本政府は不拡大方針をとりました。しかし、日本の陸軍はこれをきっかけとして、華北に勢力圏をつくるために、軍を増やし始めました。蒋介石はこれ以上譲歩出来ないので、中央政府軍を北に送りました。両軍は華北で戦い、日本軍は北平と天津を占領しました。8月から上海でも戦争が始まり、中国軍は突撃しました。日本軍も兵士の増員を決定したため、戦火は華中にも広がりました。さらに華北でも戦闘が再開され、日本と中国は全面戦争に入りました(日中戦争)。日本軍は中国軍がすぐに降伏すると思っていましたが、中国軍は反撃し続けました。特に、ドイツで訓練され、装備された中央政府軍が拠点としていた上海付近での戦闘は、日本軍も驚くほどの苦戦を強いられました。上海を攻略するのに10月までかかりました。その後、日本軍は急速に前進して、12月には南京を占領しました。しかし、上海での残酷な戦闘で精神が破壊され、規律が乱れたため、多くの民間人や捕虜が犠牲になりました(南京事件)。

 ドイツは南京を占領した後、和平交渉を進めようとしましたが、日本側の要求が大きくなり、失敗に終わりました。1938年1月、近衛文麿首相は「国民政府を相手にして話をするつもりはない。」と述べて、和平交渉の可能性に終止符を打ちました。1938年10月、日本は武漢や広州など沿岸部や長江沿いの主要都市を占領しました。中国側は武漢、そして重慶に政府を移して日本との戦いを続け、日中戦争は長期戦になりました。1938年11月、近衛文麿首相が東亜新秩序声明を発表しました。日本が提案する東亜新秩序に国民党は外せないとして、国民党を利用して自分の要求を通そうとしました。1938年12月、汪兆銘(国民党の中心人物)の重慶脱出を手助けしました。1940年3月、南京に汪兆銘政権を設立して、日本軍占領地を統治させました。しかし、汪兆銘の傀儡政権は中国国民の支持を得られず、日本側の仕掛けも上手く機能しなくなりました。国民政府に対する経済封鎖が強まると、イギリス、アメリカなどが反対してきました。これが日中戦争の国際化につながり、日本とアメリカの対立、そして太平洋戦争へと発展していきました。

3つの中国(日本軍占領地域、国民政府支配地域、共産党支配地域)
 日中戦争で、中国は日本軍占領地域、国民政府支配地域、共産党支配地域に分かれました。日本軍占領地域は、経済の中心地はほとんど日本軍が支配していました。しかし、日本軍が支配していたのは、都市、鉄道、幹線道路に限られていました。汪兆銘政権のような日本軍の傀儡政権は支持されず、共産党や国民党の勢力は占領地の奥地まで進出していきました。日本が軍事的な理由で華北に重工業を建設して、上海地区の経済が回復しても、主力の軽工業は原料が安定供給されないために失速してしまいました。また、国民党支配地域の経済封鎖で、深刻な物資不足とインフレが発生しました。太平洋戦争が始まった結果、海外市場も失われ、経済状況は一段と悪化しました。

 国民政府支配地域は、「大後方」と呼ばれていました。日本軍の侵攻が困難な内陸部でした。その結果、経済が低迷して、工業もほとんど発展しませんでした。そこで、国家政府はアメリカ、イギリス、ソ連からの援助や融資を受け入れ、いち早く国防関連の産業を推進していきました。しかし、重工業の拠点が少ないため、軍需物資が足りず、ソ連、イギリス領ビルマ、フランス領インドシナへの援助ルートの整備を進めました。また、経済の中心地や主要貿易港を失ったため、国民政府も国家収入の大半を失い、農業税に頼るようになりました。しかし、強制的な徴兵制や農民の収入もわからないまま不平等に税金を取っていたため、農民の不満も大きくなっていきました。また、都市の市民もインフレで国民政府の信頼を失いかけていました。

 日中戦争で、共産党は日本軍が占領していた華北・華中の農村地域に進出すると、領土を拡大しました。しかし、1940年の日本軍の攻撃、1941年の国民党政府による封鎖などで状況は悪くなりました。そこで共産党は、思想統制を強化しながら、毛沢東を中心とした体制をより強固にしていきました。また、農村の小作料や金利を引き下げて地主や農民の利害調整を進め、その地域の支持を得ました。日本が太平洋戦線に軍隊を送ると、共産党は華北で拠点を増やしました。戦争中、共産党の軍隊は10倍以上に増え、戦争に大きな影響を与えました。

資料出所[編集]

  • 山川出版社『詳説世界史研究』木村端二ほか編著 最新版と旧版両方を含みます。
  • 山川出版社『詳説世界史B』木村端二、岸本美緒ほか編著