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高等学校世界史探究/世界恐慌とヴェルサイユ体制の破壊Ⅳ

出典: フリー教科書『ウィキブックス(Wikibooks)』
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 ファシズム国家の攻撃で、世界の政治がどのように変わったのでしょうか。世界恐慌とヴェルサイユ体制の破壊Ⅳでは、世界恐慌後のロシアの動きとイタリア・スペインの動きを中心に見ていきます。

ファシズム諸国の攻勢と枢軸の結成[編集]

 世界恐慌の影響は、イタリアでも農業分野から始まり、貿易分野にまで広がりました。これを受けて、産業復興公社の設立[金融分野]、労使協同体の設立[産業分野]などを行って、政府統制を強めました。失業者を減らすために週40時間労働制もこの時に導入されました。しかし、景気は中々回復しませんでした。このため、海外に植民地を増やして停滞を破りつつ、植民地戦争で各国をファシズム体制に取り込む計画が立てられました。この時、エチオピアは、最初の標的になっていました。その理由を説明します。19世紀末、エチオピアアドワの戦いで、占領しようとするイタリア軍を倒しました。その結果、イタリアは植民地帝国を築けなくなったからエチオピアが最初に狙われました。また、もし、エチオピアを占領すれば、イタリアのソマリアやエリトリアにも近く、資源も多く手に入れられると考えたからです。

 1934年末、ワルワール事件(イタリア領ソマリアとエチオピアの国境を巡る争い)が発生し、ベニート・ムッソリーニは軍隊を集めるきっかけを作りました。一方、エチオピアはこの事件を連盟に持ち込んで解決を求めました。イギリスもフランスも地中海の情勢が緊張するのを気にしており、イタリアがアフリカの植民地を占領しても大丈夫そうだったので、イタリアに様々な歩み寄り方法を持ちかけて和解を試みました。しかし、イタリアは、1935年9月、和解案を断り、エチオピアに侵攻しました。1935年10月、国際連盟はイタリアに経済制裁を加える方針を決めました。満州事変の時と違って、集団安全保障の原則に基づきます。1935年11月、最初の制裁が行われました。武器やアルミニウム、ゴム、鉄などの戦略物資はイタリアに送れなくなりました。イタリアは、外国から信用を失ったので、石油を除くイタリア製品は持ち込めなくなりました。侵攻開始後も、イギリスとフランスはイタリアとの全面的な衝突を避けました。1935年12月、イギリスのサミュエル・ホーア外相とフランスのピエール・ラヴァル首相兼外相がホーア・ラヴァル案をまとめ、イタリアへの領土割譲とエチオピアの間接支配を事実上認めました。この案が発表されると、イギリス・フランスの国民だけでなく、世界中の人々から「イタリアに有利すぎる」と激しい批判を受けました。サミュエル・ホーアとピエール・ラヴァルは共に辞職して、この提案は白紙に戻されました。しかし、この出来事はファシズム国家の対外侵略を防ぐために、イギリスもフランスも宥和政策をとる計画を持っていると証明しました。1936年5月、イタリアは首都アジスアベバを含むエチオピア全土を占領しました。1936年7月、国際連盟は経済制裁を撤廃しました。その結果、国際連盟の評価は大きく低下しました。その後、国際問題は国際連盟に代わって、大国間の話し合いで解決する方式が採用されるようになりました。国家間問題は、関係者が直接話し合って解決するようになり、自国の利益を優先させる傾向が強まりました。このような傾向は、1936年10月、ベルギーがフランスとの同盟を解消して中立的な立場に逆戻りしたのも、その証拠といえます。

 制裁がそれほど強くなくても、イタリア経済にある程度の影響を与えました。その結果、イタリアは制裁対象外のドイツと経済関係を深め、ドイツに依存するようになりました。ベニート・ムッソリーニは、それまでオーストリアの保護者として、ドイツの影響力を拡大させないようにしてきました。ところが、すでにオーストリアはドイツの勢力圏に入っていたので、方針を変更してドイツと手を組むようになりました。1936年11月、ベニート・ムッソリーニは、「ベルリン=ローマ枢軸は、ヨーロッパの中心的国際関係」と語りました。

 スペインでは、1930年、ミゲル・プリモ・デ・リベラ将軍の独裁政権が倒されました。1931年、国王は退位して、スペインはマヌエル・アサーニャ首相を中心とする共和制となりました。その後、左翼と右翼の政治的な争いも増えました。1936年、人民戦線を組織する社会党と共産党が総選挙で勝利すると、人民戦線政府が誕生しました。まだ大きな勢力を持っていた軍部・保守派・カトリック教会は、人民戦線政府が成立した後、より危機感を強めました。こうした中、1936年7月、フランシスコ・フランコ将軍が反乱を起こしました。この反乱は、スペインを二つに分ける内戦に発展しました。イギリスとフランスは関わらない方針だったので、スペイン政府側を助けませんでした。一方、ドイツやイタリアはフランシスコ・フランコを積極的に支援しました。フランシスコ・フランコはドイツとイタリアに協力を求め、ドイツは武器などの軍需品と志願兵のふりをした正規軍を派遣すると約束しました。結局、地中海を支配したいイタリアは、7万人程の義勇軍を送り込みました。一方、政府側では、欧米の社会主義者や知識人、ドイツ・イタリア=ファシズム諸国からの亡命者が国際義勇軍を結成して、政府に協力するために駆けつけました。その結果、内戦は国際対立の代理戦争となりました。アメリカのアーネスト・ヘミングウェイ、イギリスのジョージ・オーウェル、フランスのアンドレ・マルローはいずれも内戦に参加しながら、内戦について書きました。日本では、アーネスト・ヘミングウェイの『誰がために鐘は鳴る』、ジョージ・オーウェルの『カタルーニャ賛歌』などが有名です。イギリスとフランスは、紛争をスペイン国内だけで終わらせるために、人民戦線政府側とフランシスコ・フランコ側双方への武器の輸出を禁止しました。また、内戦不干渉を訴える国際機関、不干渉委員会を設立しました。ドイツとイタリアは不干渉委員会に参加しましたが、両国はまだフランコ・フランコを表立って支持していたので、委員会の行動は政府側を苦しめました。結局、ソ連は政府側を援助しましたが、1939年に反乱軍が首都マドリードを占拠したので、フランシスコ・フランコは内戦に勝利しました。ファシズム勢力と人民戦線勢力が内戦を繰り広げ、全世界の注目を浴びました。結局、人民戦線勢力が敗れ、フランシスコ・フランコが独裁者になりました。お隣のポルトガルでは、1932年からアントニオ・サラザール首相を中心とした独裁政権が続いていました。第二次世界大戦中、フランシスコ・フランコが支配したスペインと、アントニオ・サラザールが支配したポルトガルは、どちら側にもつきませんでした。

 1936年、日本とドイツは、国際社会で活躍するソ連と人民戦線を推し進めるコミンテルンの勢力拡大を心配して、日独防共協定を締結しました。1937年にはイタリアも加わり、三国防共協定に発展しました。枢軸国は、自国を「持たない国」と呼ぶ3つの国から成り立っていました。枢軸国はソ連と戦うために作られた国ですが、同時にイギリス、アメリカ、フランスといった「持つ国」とも戦っていました。イタリアは、1937年12月、それまでの日本やドイツと同じように国際連盟を脱退しました。

資料出所[編集]

  • 木村端二、岸本美緒ほか編著『詳説世界史研究』株式会社山川出版社 2017年
  • 木村端二、木村康彦ほか編著『改訂版 詳説世界史研究』株式会社山川出版社 2008年
  • 木畑洋一ほか編著『世界史B 新訂版』実教出版株式会社 2017年