高等学校世界史探究/中国の古代文明Ⅰ

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 中国の古代文明Ⅰでは、東アジアの風土と人々と中国文明の発生について学習します。

東アジアの風土と人々[編集]

 東アジアは、ユーラシア大陸東部にある地域です。現在の中国・モンゴル高原・朝鮮半島・日本列島・ベトナム北部が含まれています。このうち、中国東部・日本・韓国・ベトナムは、暖かく湿度の高いモンスーン気候です。季節風が強く、稲作に適した土地なので、人口や都市が集中しています。しかし、中国東部でも淮河より北の地域は普段から乾燥しているため、雨量が少なく非常に冷え込みます。作物は粟、高粱、小麦、豆類などの黄土畑作が中心で、牧畜も進んでいます。

 中国の地形についてみていきます。西側には大興安嶺山脈・太行山脈・秦嶺山脈などの高い山脈やパミール高原やチベット高原があります。北東側には、モンゴル高原などの高原や盆地が広がっています。東側には平野や丘陵地が広がっています。そのため、多くの大きな川が西から東へ流れ、海へ流れ込みます。海洋部には、大小8000以上の島が浮かんでいます。気候や環境の違いから、中国の東部は大きく4つの地域に分けられます。万里の長城の北側は東北部といいます。万里の長城の南側、淮河の北側を華北といいます。淮河の南側、南嶺山脈の北側を華中といいます。南嶺山脈の南側を華南といいます。これらの地域の気候は日本列島と似ており、夏は暖かく、気温差もあまり感じられません。しかし、冬は寒暖の差が大きく、黒龍江省の最北部は-30℃以下、華中は0℃前後、海南島南部は20℃以上になります。華中や華南では焼畑も行われ、水上生活者もいました。しかし、時代とともに、定住生活を送り、昔ながらの田畑や家屋を守って生活するのが普通になってきました。

 降水量は地域によって大きく変わり、南東部の沿岸部から北西部の内陸部に行くほど減ります。年間降水量が400mm以下の地域を乾燥・半乾燥地域、夏の季節風の影響を受ける東部地域は温暖湿潤地域となります。かつて、秦嶺山脈から淮河に向かう線は、毎年同じように雨が降る地域を通るため、畑作と稲作の境界線と考えられていました。また、降雨量にも大きな差があり、1年のうち50%以上が夏に降り、冬になると10%以下になります。元々降水量の少ない黄土高原では、この降水量の大きな差が、冬は草木の生育を妨げ、夏は表土を洗い流して砂漠化を進め、森林や草原を減らす原因になっています。

 牧畜は、農耕に向かない北の草原や砂漠地帯で行われました。遊牧は北部の草原や砂漠で始まり、人々は良い草や水を求めて家畜とともに移動を繰り返しました。長距離を移動しながら、生活必需品を交易で仕入れていた遊牧民は、「絹の道」や「草原の道」など、ユーラシア大陸の広域に渡って交易路を発展させました。中国の華北や西北部、チベット高原、四川や雲南など、多くの牧畜民が暮らしています。この地域では、牛乳、ヨーグルト、バター、羊の肉などが伝統的な食文化として受け継がれています。中国東北部の森林地帯では狩猟民や採集民が暮らしていて、貂の毛皮を使って草原の遊牧民や中国・朝鮮半島の人々と取引をしていました。

 このように、東アジアの自然環境は多様なので、これまで様々な言語や習慣、文化を持った多くの民族が暮らしていました。現在、中国に住んでいる人の90%以上は漢民族ですが、ウイグル族、モンゴル族、チベット族、チワン族、朝鮮族、回族など55の民族がある程度の自由を与えられています。少数民族は全人口の6%程度に過ぎません。しかし、少数民族の自治区は総面積の50〜60%を占め、そのほとんどが軍事、石油、鉱物資源にとって重要な辺境地帯で暮らしています。

 東アジアの歴史では、黄河長江(揚子江)流域に高度な文明が発達していた点を忘れてはなりません。この文明の発展は、秦や漢といった超大国の誕生につながり、現在の中国文化の基礎を作りました。この文明は独自に発展しながら、世界各地に広がり、それぞれの地域で民族や国家が作られていきました。こうして、諸民族や諸国家は、中国の影響を受けながら交流を深め、それぞれの環境や歴史を踏まえながら、様々な形で文化を発展させてきました。東アジア世界は、黄河や揚子江の流域で始まった古典文明に寄り添いながら社会を発展させてきました。そのため、漢字や儒教、仏教は今でも東アジアの文化の重要な文化として残っています。

中国文明の発生[編集]

彩陶
黒陶
灰陶

 辛亥革命から10年後の1921年秋、スウェーデンの地質学者ヨハン・アンダーソンが河南省湖池県仰韶村で新石器時代の文化遺跡を発掘しました。この発掘が、中国で石器時代の研究を始めるきっかけとなりました。赤褐色の磨き上げられた下地に、赤色・白色・黒色などで幾何学模様や動物を描いた彩陶(彩文土器)は、最も興味を引かれます。陶器に不思議な意味を持つ人面魚が描かれている場合もあります。彩陶に代表される黄河上・中流域の紀元前5世紀から4世紀の新石器文化は、その発見地にちなんで仰韶(ヤンシャオ)文化と呼ばれます。西安郊外にある半坡遺跡は、その代表的な集落遺跡の1つです。そこでは多くの竪穴式住居跡が発見されていて、村の周囲には幅5〜6m、深さ1mの防壁が作られていました。主な作物は粟や黍で、豚や犬などの小動物が飼われていました。また、動物に糸を通すための紡錘車も使われていました。村民は、母系家族で暮らしていました。住居や埋葬に大きな違いはなく、まだ強力な指導者も現れませんでした。同じ頃、長江下流では稲作を中心とした河姆渡文化が発展していました。紀元前4500年から紀元前3000年にかけて、東北部の遼河流域で紅山文化が発展しました。紅山文化の遺跡からは、円形や方形の祭壇を持つ祭祀施設や龍を図案にした玉器などが発見されています。祭祀は、様々な地域の人々を結びつけるのに役立っていました。

 紀元前4世紀から3世紀頃、各地で父系中心の首長制社会が生まれました。良渚文化は、紀元前3300年頃から紀元前2300年頃まで続きました。長江河口部から太湖周辺にかけて、稲作を中心とした文化が発展しました。大きな祭壇や墳丘墓とともに、儀式用の複雑な玉器も作られました。その後の中原の殷王朝や周王朝などは、そこで出土した琮・璧・鉞などの玉器を王権の証として利用していました。長江の中流域でも、環濠集落が築かれました。このうち、黒陶文化に関する遺跡は、1930年に山東省梨城県龍山鎮で発見されたので、龍山文化とも呼ばれます。黒陶文化は河南省、山東省など黄河中・下流域を中心に、遼東半島から長江流域までかなり広い範囲に広がっています。黒陶は、卵の殻のように薄く、無地で黒く光沢のある土器です。高温で焼成して轆轤を使うため、彩陶よりも高度な土器とされており、殷周の青銅器の原型になったとも考えられています。発掘調査では、黒陶も、厚みのある荒々しい灰陶も多く見つかっています。黒陶や灰陶の中には、独特の形をした三足土器が数多く見られました。のような三足土器は、その形や使い方によって種類が分かれます。棒のような足を持つ鼎は煮炊きに、袋のような足を持つ鬲は穀物を蒸すのに使われていました。

 紀元前3000年後半から紀元前2000年頃にかけて気候が急速に変化すると、それまで栄えていた首長社会の文化は衰え始めました。一方、黄河中流域で栄えていた龍山文化は、大量の武器や戦争犠牲者が埋葬され、支配階級の土塁や巨大な墓がありました。そのため、政治権力の集中が進み、階級間の格差が広がりました。紀元前2000年頃なると、龍山文化は二里頭文化へ発展しました。殷王朝初期の文化は、二里頭文化から発展した二里崗文化です。黄河文明は、この二里崗文化から発展しました。

資料出所[編集]

  • 山川出版社『詳説世界史研究』木村端二ほか編著 最新版と旧版両方を含みます。
  • 山川出版社『詳説世界史B』木村端二、岸本美緒ほか編著
  • 山川出版社『詳説世界史図録』