高等学校世界史探究/南北アメリカ文明

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アメリカ先住民[編集]

 1492年、クリストファー・コロンブス一行がアメリカ大陸を発見したわけではありません。最初のアメリカ人は、まだ1万年以上前、新大陸が未開拓だった氷河期にアジア大陸からやってきた先住民です。旧大陸からの移民と交流することなく、その子孫はアメリカ大陸にメソアメリカ文明とアンデス文明の二大文明を独自に作り上げました。しかし、1600年代にヨーロッパ人がやってきた時、この土地はインディアス(インドを含むアジアの総称)にあると勘違いしました。そのため、インディオ(英語ではインディアン)と呼ばれるようになりました。

 世界の栽培種の約6割はアメリカ大陸原産で、私達の暮らしにとても重要な存在です。紀元前8000年頃から、先住民は玉蜀黍ジャガイモ、薩摩芋、トマト、南瓜、唐辛子など、100種類以上の植物を栽培していました。アメリカ大陸の植物は、世界の歴史を塗りかえてきたといっても構いません。ヨーロッパ人が盗んだ先住民の「贈り物」は、世界中の人々の食生活を変えて、旧大陸の多くの人々を飢餓の危機から救いました。

 現在のアメリカ合衆国の領土に住む先住民諸部族は、長い年月をかけて自然環境に慣れながら、部族社会を作り、狩猟や採集を行ってきました。「部族」という名称は、先住民が望んでいた内容を反映しているとは限りません。大抵の部族は白人との接触や他部族との関係から、ヨーロッパ人によって、作られました。メキシコ高原の定住農耕文化は、アリゾナやコロラド盆地の農耕文化に影響を受けて、プエブロは日干し煉瓦の集合住居群を建設しました。プエブロという名前はスペイン語にちなんで、町や集落という意味です。北アメリカ大陸南西部の先住民族の中で、スペイン人が来る前の生活を続けていた先住民部族です。この地域の先住民は、文字を持たずに、独自の口承文化を発展させました。

メソアメリカ文明[編集]

巨石人頭像
 グアテマラの熱帯雨林にあり、ユネスコの世界遺産に登録されているティカル遺跡は、高さ70mの神殿ピラミッドが広場に面したマヤの大都市でした。紀元前800年から1000年にかけて人が住んでおり、少なくとも33人の王がこの都市を支配していました。
ホンジュラスのコパン遺跡は、美しい神殿のピラミッドや王宮、3万点以上のモザイク石彫の石碑や石の祭壇などがあります。ユネスコの世界遺産に登録されています。写真の石造祭壇には、マヤ文字で、歴代16人の王の名前などが記されています。

 メソアメリカは、メキシコ北部から中央アメリカ(グアテマラ、ベリーズ、エルサルバドルの西半分、ホンジュラスの西半分)にかけて広がる熱帯・亜熱帯地域です。熱帯雨林、熱帯サバンナ、ステップ、砂漠、針葉樹林、標高5000mの雪山など、非常に多様な自然環境に恵まれています。

メソポタミア文明やエジプト文明は、大きな川の水を利用して大規模に作物を栽培していました。しかし、メソアメリカ文明の発祥に、大きな川は必要ありません。メソアメリカ文明は、水を大きな河川に頼っていません。中小河川、湖沼、湧き水などを利用した灌漑農業、段々畑や家庭菜園など様々な集約農業、焼畑農業の組み合わせを取り入れていました。

 メソアメリカ文明はトウモロコシの農耕で生活の基礎を作っていたので、鉄器、人、重い荷物を運ぶための大きな家畜を必要としませんでした。金や銅製品などの大部分の金属製品は、装飾品や儀式用として使われていました。鉄はアンデス文明と同様、全く使われていませんでした。家畜は七面鳥と犬だけで、牧畜は行なわれませんでした。

 紀元前1200年頃、メキシコ湾岸地方にオルメカ文明が発展しました。オルメカ文明は、絵文字の普及とジャガーを神聖な動物と信仰していました。また、支配者の顔を刻んだ巨石人頭像や土製の神殿ピラミッドなどを造りました。オルメカ文明は紀元前500年頃に崩壊しました。オルメカ文明は、メキシコ高原や中央アメリカの後続文化に大きな影響を与えました。

 1世紀頃、メキシコ高原にテオティワカン文明が発展しました。テオティワカン文明では、太陽のピラミッドや月のピラミッドなど大小様々な神殿が建てられ、商業や貿易が盛んに行われました。5世紀ごろには、数万人から数十万人が暮らす大都市に成長しました。しかし、7世紀頃から徐々に衰退して、南下してきた部族がそれを引き継いで、発展させました(トルテカ文明)。

 16世紀、メキシコ高原の中央に位置するアステカ王国は、最も栄えていました。14世紀、アステカ族はメキシコに移住しました。トルテカ文明を引き継いで、テスココ湖の浮島に首都テノチティトラン(現在のメキシコシティ)を建設して、強力な軍事力でメキシコの広範囲を支配しました。テノチティトランは20〜30万人が住み、巨大な宮殿やピラミッド、神殿などがある美しい都市でした。その後、スペイン人のエルナン・コルテスがこの街を占領して、1521年にアステカ王国を滅ぼし、メキシコ中央高原で栄えた文化も滅ぼしました。

 オルメカ文明は、中央アメリカのユカタン半島にも影響を与えました。マヤ文明はユカタン半島の低地と高地で発展しました。マヤ地域には、ティカル、カラクムル、コパン、チチェン・イッツァなどの大都市を中心に複数の広域王国が築かれた時代と数多くの小王国が築かれた時代がありました。マヤ文明は階段ピラミッドを持つ石造りの都市を多く建設して、マヤ文字という絵文字を使って文字を書きました。マヤ文明は、テオティワカン文明と交流のあった3世紀から9世紀にかけて最盛期を迎えました。高度な天体観測に基づく正確な暦を作り、ゼロの考え方を使用した二十進法による数学も発達させました。マヤの各都市は統一されず、16世紀にスペインに支配されました。

 メキシコ南部の高地、オアハカ盆地の山岳都市モンテ・アルバン周辺では、サポテカ文明が発展していました。マヤ文明以降、サポテカ文明は複雑な文字体系を作り、王の即位や戦争などの王朝史について書き残しました。また、マヤの碑文を書き写しました。

アンデス文明[編集]

 中央アンデス地帯は南アメリカにあり、ペルーとボリビアの一部で成り立っています。非常に多様な自然環境を持っています。海岸沿いの砂漠地帯、6000m級の雪山がある山岳地帯、アマゾン川の源流部の熱帯雨林地帯が広がっています。アンデス文化は、海岸沿いや山間部で発展してきました。旧大陸の農民は一本の大河で作物を育てていましたが、アンデス海岸地帯では複数の河川を利用して広範囲に作物を育てていました。これらの川の上流では、アンデス山脈の斜面に段々畑が作られて、そこに水を引くために灌漑水路が整備されました。トウモロコシが育たない高地では、ジャガイモが主な食料となります。このジャガイモを使って、長期保存が可能な冷凍乾燥食品チューニョを作ります。山岳地帯では、駱駝科動物のリャマやアルパカの飼育も行われています。リャマは荷物の運搬に使われ、毛は衣服やロープの材料になり、食肉にもなります。

 紀元前3000年頃の形成期には、人々は神殿を建てるようになりました。紀元前1800年頃に土器が作られるようになるまでの長い間でした。紀元前後には、次の社会が成立しています。

チャビン社会
モチェ社会 ペルー北海岸に王国を築きました。
ナスカ社会 地上絵で知られます。
ティワナク社会 ボリビア高原地帯に祭祀都市を築きあげました
ワリ社会 7世紀、ペルー南部高地に築き上げました。 中央アンデスの大部分に影響を与え、都市建設に貢献しました。

 12世紀頃、チムー王国がペルー北海岸を支配しました。15世紀頃、インカ帝国によって滅ぼされました。首都のチャンチャンには、様々な王が建てた王宮や住居が多数ありました。

キープ(結縄)

 スペイン人が新大陸にやってきた時、インカ帝国は全盛期を迎えていました。インカ帝国は、現在のペルーを中心にエクアドルからチリ北部までのアンデス一帯を支配していました。高度な文明を持つ大帝国でした。インカ帝国が発展した14世紀から15世紀にかけて、600万人から800万人が暮らしていたと考えられています。インカ帝国は文字こそ使用していませんでしたが、ロープの結び目(キープ)を利用して、十進法を完成させました。この方法で記録を残し、人口、兵力、作物、家畜などの統計を取りました。金や銀は鋳型に流し込んで、様々な製法で金属加工品を作っていました。鉄器は当時ありませんでした。青銅は祭祀用具の原料として使用されていましたが、生産用具としては使用されていませんでした。新石器時代の生産技術は、農業に使われていました。インカ帝国では、人々は太陽を信仰しており、王は太陽の息子と考えられていました。マチュピチュは、インカ帝国の第9代国王が住んでいた場所です。首都クスコの北西にあります。インカ帝国は、石造りの建築がとても上手でした。飛脚制度によって、各地に道路や宿駅が作られ、情報網が整備されました。インカ皇帝は太陽神と考えられ、整った政治行政組織を持つ帝国を治めていました。1533年、スペイン人フランシスコ・ピサロがインカ帝国を倒して滅ぼしました。

資料出所[編集]

  • 山川出版社『詳説世界史研究』木村端二ほか編著 ※最新版と旧版両方を含みます。
  • 山川出版社『詳説世界史B』木村端二、岸本美緒ほか編著
  • 実教出版株式会社『世界史B 新訂版』木畑洋一ほか編著
  • 山川出版社『詳説世界史図録』