高等学校世界史探究/古代オリエント文明とその周辺Ⅱ
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古代オリエント世界Ⅱでは、ヒッタイト王国などの登場とメソポタミアの文化について学びましょう。
インド=ヨーロッパ語系民族の進出
[編集]ハンムラビ王の時代には、文明が大きく発展していきました。それが周辺の諸民族にも伝わり、やがて富を求めて侵略や移住するようになりました。そのうち、インド・ヨーロッパ語系民族は、紀元前2千年の初め、中央アジアや南ロシアの原住地を中心に移動を開始しました。インド・ヨーロッパ語系民族は頻繁にオリエントへ侵入し、他の民族を引き連れてきました。民族系統不明のフルリ人もこの頃、東方からメソポタミア北部にやってきました。その後、フルリ人は他の地域に移動し、インド・ヨーロッパ語族が築いた王国に住む人々の重要な一部となりました。インド・ヨーロッパ語系民族の軍隊は、馬(オリエントで初登場)が引く戦車で構成されていました。優れた機動力は、先住民を倒し、世界各地に新しい国家を設立するのに役立ちました。これにより、エジプトを含むオリエントの各地方が接触しやすくなり、古代オリエントが一つの世界となる舞台が整いました。
まず、紀元前19世紀頃、ヒッタイトの一派が小アジアのアナトリア高原に移住して、先住諸民族とともにヒッタイト王国を建国しました。紀元前1650年頃には、ハットゥシャを首都とする強力な帝国に成長しました。ドイツ人のフーゴ・ウィンクラーは、1905年から1906年にかけて、当時オスマン帝国だったアナトリア高原のボアズコイ遺跡を掘りました。彼は、そこにヒッタイト王国の首都ハットゥシャが存在したと判明しました。ヒッタイトの研究は、やがてボアズキョイ遺跡から発見された多くの粘土板を解読し、研究を進めるようになりました。現在、日本からも小アジアに調査団が派遣され、発掘調査を行っています。
紀元前16世紀初めには、バビロン第1王朝と戦い、これを滅ぼしました。紀元前14世紀、帝国の最盛期には南下し、ミタンニ・エジプトと戦いました。その中で最も有名なのは、紀元前13世紀初頭に起こったカデシュの戦いです。カデシュの戦いでは、北上してきたエジプト新王国時代のラメセス2世と、シリアの支配権をめぐって戦いました。戦いが引き分けに終わった後、両国は平和条約を締結しました。これは、現在も残る2国間の条約としては最も古い条約です。馬や戦車とともに、鉄製武器も使い、軍隊を強くしました。紀元前12世紀初頭、地中海東部を襲った民族大移動の波の中で、バルカン半島から来た民族によって滅ぼされました。しかし、それ以降、ヒッタイトの製鉄技術はオリエント各地に広まりました。
バビロン第1王朝が滅んだ後、東の山地からカッシート人という別のインド・ヨーロッパ語族がやってきて、バビロン第三王朝という王国を築きました。この王国は約400年にわたりメソポタミア南部を支配しました。フルリ人とともに、別の一派がミタンニ王国を築きました。彼らは、紀元前15世紀から次の世紀の半ばまで、メソポタミア北部とシリア北部に強い勢力を誇っていました。紀元前2千年の中頃、オリエントではエジプトの新王国など、様々な王国が隣り合わせに作られました。紀元前1200年頃、大移動が東地中海地方を襲うと、政治状況はさらに混乱しました。しかし、その混乱の中から新たな勢力が生まれ、オリエントには新しい秩序が生まれ始めました。
メソポタミアの文化
[編集]メソポタミアでは、各地や各都市の守護神、自然神を祀る多神教が根付いていました。しかし、優勢な民族がしばしば変わったため、信仰される最高神も変わりました。バビロン第1王朝の時代には、バビロンという都市の神であるマルドゥクが国家神とされました。また、シュメールの優れた宗教文学(神話やギルガメシュ叙事詩)は、セム語系諸民族の間でも広まり、大きな影響を受けました。
ギルガメシュは、ウルク第1王朝時代の本当の王だったと考えられています。考古学的に証明されていなくても、後世の言い伝えで、彼がいかに勇敢で、多くの戦いに勝利した偉大な王なのかを多くの物語として伝えています。『ギルガメシュ叙事詩』は、神と人々の交流や英雄の姿を物語ります。
彼は友人のエンキドゥと冒険の旅に出かけ、レバノン杉の森を管理していたフンババを、神がするなと言ったにもかかわらず殺しました(森を抜け出し、文明に入るための手段)。また、美の女神イシュタルとの結婚を拒否し、女神が送った雄牛を殺しました。これに怒った神々は、エンキドゥを殺してしまいました。それでもギルガメシュは旅を諦めません。洪水から逃れるために箱舟を作り、永遠に生きるウトナピシュテムに出会い、永遠に生きられるという薬草を手に入れますが、蛇に食べられてしまいます。19世紀後半、アッシリアのニネヴェ図書館にある粘土板に書かれた文章をもとに、『ギルガメシュ叙事詩』の研究が進みました。
メソポタミアでは様々な技術や文化が作られ、それが後に他の文明の基礎となりました。メソポタミアでは、3000年前から楔形文字が使われています。掘り出した粘土板に、鋭利な葦の茎で作った特殊なペンで押して書きます。粘土板は、保管する必要がある時は燃やされました。保管する必要がない時は、表面を平らにして何度も使用しました。シュメール人が作ったと考えられていますが、やがてアッカド語、バビロニア語、エラム語、ヒッタイト語、アッシリア語、古代ペルシア語など、オリエントのあらゆる言語の文字として使用されるようになりました。楔形文字はやがてアラム文字に置き換わり、オリエントの主要言語となりました。19世紀初頭、ドイツのゲオルク・フリードリヒ・グローテフェントがペルセポリスの碑文から古代ペルシア語の解読に成功しました。また、イギリスのヘンリー・ローリンソンもベヒストゥーンの碑文からアッカド語の解読に成功しました。その後、ニネヴェ図書館の遺跡が発見されると、さらに楔形文字が増え、アッシリア語も読めるようになりました。
また、占星術を行い、いつ農作業をすればよいかを知る必要があったため、天文・暦法・数学・農学が発展していきました。月の動き方をもとにした太陰暦は、1年の日数が354日です。これでは、実際の季節と合いません。そこで、閏月を作り、太陰太陽暦に変更しました。メソポタミア文明は、六十進法の時間や方位、7日で1週間を区切るという考え方などを私達に残してくれました。これらの考え方は、現在でも使われています。また、ハンムラビ法典を見ると、法律が体系化されていた点も忘れてはなりません。メソポタミア文化は実用的な分野では成長しましたが、真の科学につながる基礎的・理論的な面ではそれほど変わっていません。
資料出所
[編集]- 山川出版社『詳説世界史研究』木村端二ほか編著 ※最新版ではありません。
- 山川出版社『詳説世界史B』木村端二、岸本美緒ほか編著
- 山川出版社『詳説世界史図録』