高等学校世界史A

出典: フリー教科書『ウィキブックス(Wikibooks)』
ナビゲーションに移動 検索に移動

高等学校世界史Aとは、世界史学習によって、現代世界の成り立ちを探る科目である。そのため、近代・現代史に自然と比重が置かれるわけだが、教科書そのものには近代以前の世界史も簡略に記述されていて、大学入試センター試験においても、前近代史も出題されている。

近代・現代[編集]

ヨーロッパ・アメリカの諸革命[編集]

※ ドイツの近代化については、

高等学校世界史B/ドイツの統一とビスマルク外交

を参照してください。

    • 産業革命
高等学校世界史B/産業革命

18世紀の後半にイギリスで始まった。農業革命がおき、労働者が都市に流出し、工業都市が出現した。それと同時に蒸気機関が改良された。労働問題や社会問題が噴出するようになり、労働組合運動が起こり社会主義思想が芽生えた。1830年代にはフランス、19世紀中ごろにはドイツやアメリカで、1890年代にはロシアや日本にも波及した。

    • アメリカ独立革命
高等学校世界史B/アメリカ合衆国の独立

13の植民地が建てられた。植民地民は、植民地議会を中心としたボストン茶会事件が起こると、イギリスとの対立が鮮明になった。トマス・ジェファーソンが独立宣言を起草し、1783年にパリ条約でアメリカ合衆国の独立は承認された。合衆国憲法が制定され、ジョージ・ワシントンが初代大統領に選ばれた。

    • フランス革命
高等学校世界史B/フランス革命とナポレオン
高等学校世界史B/ウィーン体制と1848年の革命

度かさなる戦争や宮廷の贅沢な暮らしでフランスの財政は困窮していた。当時のフランスは中世の封建的な身分制度を依然として引きずっていて、アンシャン=レジーム(旧制度)と呼ばれていた。第一身分(聖職者)と第二身分(貴族)は免税特権や領事裁判権などの様々な特権が認められていた。1789年、ルイ16世は財源確保のためにこれらの特権階級への課税を提案した。これに反発した貴族は三部会を開くよう要求した。三部会は典型的な身分制議会で、第一身分、第二身分、第三身分(平民)の代表がそれぞれ召集されていたもので、ルイ13世の治世に停止されて以来、長い間開かれてなかった。この三部会で特権身分と第三身分の間で対立がおき、第三身分と第三身分寄りの特権身分の議員が、国民議会を組織し憲法制定まで解散しないことを誓い合った(テニスコートの誓い)。国民議会を国王も表向きは認めていたが、裏で武力弾圧しようという動きがあるのではないかという憶測が民衆の中で生まれ、特権階級への課税を主張していた財務統監のネッケルが罷免されたことをきっかけに、パリ民衆が7月14日にバスティーユ監獄を襲った。この事件は全国的な農民の暴動へつながり、これを終息しようとした国民議会が封建的特権の無償廃止、人権宣言を発表した。その後、国民議会で諸改革が進められていく中、国王一家がオーストリアへの亡命を図ろうとしたが失敗した。(ヴァレンヌ逃亡事件)91年9月、国民議会は当初の目的である憲法制定を達成したので解散し、新たに憲法に従い、立法議会が召集された。議会では立憲王政を目指すフイヤン派と共和政を目指すジロンド派が対立したが、オーストリアやプロイセンなどの反革命勢力に対する危機感が高まるにつれ、ジロンド派が優勢になり、92年春に政権を握り、オーストリアに宣戦した。国民公会になった。ジャコバン派のロベスピエールが恐怖政治を敷いた。イギリスの宰相小ピットを中心に第1回対仏大同盟がされた。公安委員会が経済統制をおこなうと反乱がおき、テルミドールのクーデタでロベスピエールは処刑され総裁政府になった。ナポレオン・ボナパルトはブリュメール18日のクーデタで統領政府を樹立させた。その後第一帝政を敷きナポレオン法典を発布した。さらにライン同盟の保護者となった。大陸封鎖令を出した後は、諸国民戦争や ワーテルローの戦い がおこなわれた。

    • ラテンアメリカの独立

モンロー宣言は新旧大陸間の相互不干渉をうたうとともにパン=アメリカ主義を匂わせるものであった。クリオーリョのシモン・ボリバルなどの指導で独立が達成されていった。

  • 自由主義と国民主義の進展

ウィーン会議が開かれ、正統主義のもとウィーン体制が敷かれた。ドイツではブルシェンシャフト(全ドイツ学生組合)が結成されたが、オーストリアの外相メッテルニヒによって解散させられた。イタリアではマッツィーニも参加した秘密結社カルボナリ(炭焼き党)がブルボン家に抵抗した。スペインではスペイン立憲革命が起こった。オスマン帝国からはギリシャが英仏露の支援を受けて独立した。ロシアでは青年将校によるデカブリストの乱が起こったが鎮圧された。そんな中、ウィーン体制によってブルボン朝が復活していたフランスでは七月革命が起き、自由主義者のルイ・フィリップが王位につき、七月王政が成立した。イギリスではこの影響を受け第一次選挙法改正がおこなわれた。選挙権を得られなかった労働者はチャーチスト運動を起こした。ドイツではドイツ関税同盟が締結された。ムハンマド・アリーはエジプト事件を起こして東方問題となった。1848年の春は諸国民の春といわれている。フランスでは二月革命がおき、ルイ・ナポレオンが皇帝ナポレオン3世となり第二帝政となった。ベルリンやウィーンでも三月革命が起き、メッテルニヒは追放された。グラッドストンとディズレーリは相次いで自由主義的改革をおこなった。ロシアは英仏とクリミア戦争をおこなった。そこではナイティンゲールが活躍している。クリミア戦争に敗れたロシアではアレクサンドル2世が農奴解放令を出し、知識人の中からは農民を教化するナロードニキが現れた。サルディーニャではヴィットリオ・エマヌエーレ2世のもと宰相カブールがイタリア統一戦争を起こした。両シチリア王国を開放したガリバルディはサルディーニャ国王に領土を献上し、イタリア王国になった。ユンカー出身のビスマルクは北ドイツ連邦を作ると、普仏戦争を仕掛け圧勝しドイツ帝国を築いた。普仏戦争で占領されたフランスでは、一時パリ・コミューンが形成されて、第三共和制となった。ドイツ帝国は南独のカトリック勢力と対立して文化闘争になり、社会主義者鎮圧法を制定した。そのころ露土戦争がおき、ベルリン会議がビスマルクのもとで開かれた。

  • 拡大する貿易活動

イギリスは原綿、羊毛、穀類、肉類、茶、コーヒーなどを輸入し、世界の工場となって鉄製品や綿製品などを輸出した。こうしてイギリスを中心とする世界の一体化が急速に進んだ。

アジア諸国の変貌と日本[編集]

  • ヨーロッパの進出期におけるアジア諸国の状況

オスマン帝国ではタンジマートがなされた。ムハンマド・アリーがエジプト太守になった。その後スエズ運河が開通し、アラービー・パシャが支配した。スーダンはムハンマド・アフマトが支配した。イランではカージャール朝が興ったが、ロシアとイギリスに南北を2分された。ムガル帝国はイギリスによってインド統治法が施行されると、インド独立戦争が起こった。セポイが活躍したが、イギリスの植民地であるインド帝国になった。イギリスはさらにイギリス・ビルマ戦争を仕掛け、シンガポールを海峡植民地にした。フランスは清の支配下であったベトナムを支援し阮朝を建てた。清仏戦争に勝つとフランス領インドシナ連邦となって拡大した。インドネシアはオランダ領東インド植民地となった。清は林則徐(りん そくじょ)がアヘン没収をおこなうとイギリスがアヘン戦争を起こし南京条約(ナンキンじょうやく)を締結させられた。洪秀全(こう しゅうぜん、ホンシウチュワン)が太平天国(たいへいてんごく)を起こした混乱に乗じ第2次アヘン戦争がおこった。英仏と郷勇は太平天国を鎮めた。清は同治の中興をもたらしたが、義和団(ぎわだん)が山東省で蜂起した。

  • 植民地化や従属化の過程での抵抗と挫折

インド国民会議が開かれると急進派のティラクが台頭した。スワデーシー、スワラージ、民族教育が掲げられた。オスマン帝国ではミドハト・パシャが憲法を作ったが露土戦争によってその効力が停止させられた。しかし青年トルコ人運動によって復活した。イランでは不買運動が起こり、立憲体制が成立したが、英露によって崩壊させられた。孫文(そんぶん)は三民主義(さんみんしゅぎ)を唱え中国同盟会を結成した。清でも立憲君主制や責任内閣制などの新政がおこなわれたが、財源を確保するために民間鉄道が国有化されると辛亥革命(しんがいかくめい)が起こった。孫文(そんぶん)を臨時大総統(りんじ だいそうとう)とする中華民国(ちゅうかみんこく)が成立すると、清の首相になった袁世凱(えんせいがい)は宣統帝を退位させ自ら中華民国の臨時大総統の地位についた。袁は国民党を弾圧した。袁がなくなると各地で軍閥が割拠した。

  • 伝統文化の変容

イスラーム教の思想家であるアフガーニーが西欧化に反対し大きな影響を与えた。インドの詩人ダゴールはインドとヨーロッパの融合を試みた。中国では、中体西用論にもとづき西洋式の軍備を求める洋務運動(ようむ うんどう)がおこなわれ同治の中興をもたらしたが、軍閥のもとにもなった。立憲君主制を求める変法運動もおこなわれたが西太后を中心とする保守派のクーデターに遭い、改革は頓挫した。文学界からも新文化運動、白話運動が展開された。朝鮮ではハングルが考案され朝鮮実学が生まれた。また、キリスト教の西学(せいがく)に対する東学(とうがく)が完成した。

  • 日本の対応

日本は日米和親条約(にちべい わしんじょうやく)で開国し、不平等条約の日米修好通商条約(にちべい しゅうこう つうしょう じょうやく)を受け入れた。明治維新後、殖産興業や富国強兵、四民平等、地租改正、徴兵令をおこない天皇制国家を確立していった。日朝間の不平等条約である日朝修好条規(にっちょうしゅうこうじょうき)が締結されると民衆は甲午農民戦争(こうご のうみんせんそう)を起こした。日本は日清戦争(にっしんせんそう)を起こし、勝利したが三国干渉(さんごくかんしょう)を受けた。日本は日英同盟(にちえいどうめい)を成立させると日露戦争(にちろせんそう)に踏み切った。その後、ポーツマス条約が締結された。

現代の世界と日本[編集]

急変する人類社会[編集]

  • 輸送革命

飛行機、自動車などの交通手段の変革がおこった。

  • マスメディアの発達

ラジオ、テレビなどが普及した。

  • 企業や国家の巨大化

侵略した国々の企業では独占の傾向が強まった。侵略された国々ではプランテーションが増え、モノカルチャー経済になった。

  • 社会の大衆化と政治や文化の変容

映画や舞台演劇が盛んになった。音楽はジャズやロックが誕生した。

  • 公教育の普及と国民統合

ヴィクトリア女王下のイギリスでは教育法が成立し国民教育がおこなわれた。

二つの世界戦争と平和[編集]

  • 第一次世界大戦
高等学校世界史B/第一次世界大戦
高等学校世界史B/ロシア革命と国際秩序の再編
高等学校世界史B/ヴェルサイユ体制とワシントン体制
高等学校世界史B/アジア・アフリカのナショナリズム

列強の対立はアフリカ大陸、太平洋諸島、中国大陸に及んだ。合衆国はパン=アメリカ会議を開いてラテンアメリカへの影響力を強めた。米西戦争を起こし、中国に対して門戸開放宣言をおこなった。英仏はファショダ事件やブール戦争を引き起こした。ビスマルクが失脚した後のドイツでは、ヴィルヘルム2世が親政を敷き、世界政策に乗り出した。これにより国際的緊張が急速に高まった。オスマン帝国で起こった青年トルコ革命に乗じ、ゲルマン系のオーストリアはスラブ系のボスニアとヘルツェゴビナを併合した。スラブ系のセルビアはこれをよく思わなかった。二度にわたるバルカン戦争がおき、バルカン半島は「ヨーロッパの火薬庫」といわれた。サライェヴォ事件が起こるとオーストリアがセルビアに先制し第一次世界大戦が勃発した。ロシアでは膨張政策に反対し第一次ロシア革命が起こった。大戦中に三月革命が起きてロマノフ朝は倒れ、ケレンスキーが首相になった。その後ボリシェヴィキの指導者レーニンが十月革命を起こしソヴィエト政権が樹立された。トロツキーが外相になった。チェカを設け、戦時共産主義となった。そしてソヴィエト社会主義共和国連邦となり新経済政策をおこなった。戦争が終結すると国際協調と民族自決を原則とするベルサイユ体制が敷かれた。これに対して東アジア、太平洋の協調体制のことをワシントン体制という。ワイマール憲法が制定され、欧州の安全保障を定めるロカルノ条約が制定され、パリ不戦条約が制定された。朝鮮では三・一運動がおこなわれた。中国では二十一か条要求が承認され、五・四運動に発展した。また、ロシア革命の影響を受けて、中国共産党が成立した。国民党では孫文に代わった蒋介石(しょうかいせき)が北伐をおこなった。オスマン帝国に代わりムスタファ・ケマル・パシャがトルコ共和国を樹立した。イランではカージャール朝に代わりレザー・ハーンがパフレビー朝を建てた。アラビア半島ではイブン・サウードがサウジアラビア王国を建国した。国民会議派ではマハトマ・ガンディーは非暴力抵抗運動をおこない、議長に選出されたネルーはインド統治法を制定させた。ムッソリーニはファシスタ党を率いた。

  • 第二次世界大戦
高等学校世界史B/世界恐慌とファシズム
高等学校世界史B/第二次世界大戦

繁栄の時代を築き上げたアメリカでは世界恐慌(せかいきょうこう)が起こった。アメリカはニューディール(新規まき直し)を採用した。(植民地を)「持てる国」である英仏はブロック経済をおこない、「持たざる国」の日独伊を締め出した。しかし英仏でさえもファシズム運動は起こっている。ドイツでは共産党の躍進を恐れた中産階級がヒトラー率いるナチスを支持した。スターリンは五か年計画をおこない、スターリン憲法を制定した。日本は満州事変を仕掛け満州国を成立させた。中国共産党は長征をおこなった。フランスでは人民政府が倒された。スペインではフランコが反乱を起こしスペイン内戦となった。ミュンヘン会談でチェコスロバキアのスデーデン地方の割譲が認められるとヒトラーは勢いに乗った。一時的に独ソ不可侵条約が締結され世界を驚かせた。ヒトラーの目的は東方の広大な領土を支配することであり、スターリンとは犬猿の仲である。イギリスの首相になったチャーチルは果敢な決断をした。ド・ゴールは自由フランス政府をロンドンに立てた。日独伊三国同盟が締結された。ソビエトは日ソ中立条約を締結しドイツとの戦いに備えた。大西洋憲章が制定された。日本は太平洋戦争(たいへいようせんそう)を仕掛けた。第二戦線が構築された。ドイツではベルリンが陥落し、日本には原子爆弾が投下されポツダム宣言を受諾した。大戦後には国際連合(こくさいれんごう)が成立した。

米ソ冷戦とアジア・アフリカ諸国[編集]

スカルノはインドネシアを独立させた。ホー・チ・ミンはベトナム民主共和国を成立させた。植民地維持を目指すフランスはインドシナ戦争を仕掛けた。

南アジアはヒンドゥー教徒のインド連邦とイスラーム教徒のパキスタンに分裂した。

合衆国はトルーマン・ドクトリンマーシャル・プランを発表し、ヨーロッパ経済復興会議を開いた。 ソ連はそれに対してコメコンを開いた。また、北大西洋条約機構に対して、ワルシャワ条約機構を結成した。さらにコミンフォルムを作って世界革命を画策した。


ラテンアメリカは米州機構に加盟した。

パレスティナでは国連決議に基き、ユダヤ教徒によるイスラエル共和国が成立した。

朝鮮は朝鮮民主主義人民共和国と大韓民国に分裂した。

中国大陸では対日抗戦に国民党・共産党が勝利した後、国共内戦が再燃し、農村地帯を支配した共産党が勝利し、毛沢東(もうたくとう)によって中華人民共和国が成立した。ここに100年にわたる中国革命が終了した。

ドイツは、西のドイツ連邦共和国と東のドイツ民主共和国に分裂した。

朝鮮戦争が起きた。38度線を境に休戦状態である。

日本は日米安全保障条約とサンフランシスコ平和条約を同時に承認した。

合衆国の巻き返し政策に対してコロンボで平和五原則が結ばれた。翌年ではバンドンで平和十原則となってバンドン精神と呼ばれている。チャーチルがジュネーブ巨頭会談を開いたり、フルシチョフがスターリン批判の演説をおこなったり、緩和の動きも見られる。

共和制になったエジプトのナセル首相は運河を国有化すると、英仏イスラエルと対立した。スエズ動乱または第二次中東戦争と呼ばれる。ガーナは最初の黒人共和国となった。エンクルマ大統領はアフリカ独立の父と呼ばれている。1960年は17ものアフリカ諸国が独立したのでアフリカの年といわれる。

カストロは社会主義を目指すキューバ革命を指導し、ソ連がミサイルの支援をしていることが分かるとキューバ危機になった。

アフリカ統一機構が結成された。アラブではパレスティナ解放機構が結成された。

アメリカはベトナム戦争に介入し、北爆をおこなった。

チェコスロバキアの民主化を求めるプラハの春が起こったがWTO軍によって鎮圧され、チェコ事件となった。西ドイツのブラントは東方外交を展開し、緊張緩和に努めた。

地球社会への歩みと日本[編集]

そして東西ドイツ基本条約が結ばれた。東パキスタンはバングラデシュとなった。アルゼンチン、メキシコ、ブラジル、ギリシャ、ポルトガル、ユーゴスラビア、シンガポール、台湾、韓国、香港などをNIESという。アラブ石油輸出国機構が結成され、第四次中東戦争の際に、石油危機を引き起こした。ベトナム戦争に敗れたアメリカでは科学技術に対する疑問がおこり、消費者問題、環境問題、人種問題、女性の権利の問題などが噴出した。シーア派のホメイニが指導するイラン・イスラーム革命が起き親米王政が倒された。日米間では貿易摩擦が深刻化した。韓国では民主化を求める光州事件がおきた。ポーランドでは連帯が結成された。ゴルバチョフがグラスノスチとペレストロイカをおこなうと、ソ連の実態が大衆の批判にさらされるようになった。

地域紛争と国際社会[編集]

中国では民主化を求める天安門事件が起こった。マルタ会談で冷戦の終結が確認された。東西ドイツは統一され、ソ連は崩壊し独立国家共同体になった。イラクがクウェート侵攻をおこなうと、アメリカが反撃し湾岸戦争(わんがんせんそう)となった。国連暫定カンボジア行政機構が結成されると、日本は国連平和維持活動に参加した。ヨーロッパ共同体が欧州連合となった。

科学技術と現代文明[編集]

アインシュタインは相対性理論を提唱し、ハイゼンベルクは量子力学を確立し、ラザフォードなどが活躍した。トランジスタや半導体が発明され、情報工学や情報科学が発達した。人工衛星が作られ宇宙科学が発達した。化石燃料から代替エネルギーに変わろうとしているがうまくいってはいない。

近代以前[編集]

諸地域世界と交流圏[編集]

東アジア世界[編集]

風土はステップ地帯、畑作地帯、穀倉地帯である。 政治の中心地はほとんどが黄河(こうが)流域であった。 民族は漢民族(かんみんぞく)が大多数だが、モンゴル、ウイグル、東南アジア系の人口も多い。殷(いん)の甲骨文字(こうこつもじ)から漢字が発展した。 漢字の特等は表意文字(ひょういもじ)が特徴である。 思想は孔子(こうし)の儒家(じゅか)思想が漢の武帝の時代に儒教(じゅきょう)となり、支配者層で信奉された。これは徳治主義や中華思想(ちゅうかしそう)となって、冊封体制(さくほうたいせい)の土台となった。 冊封体制(さくほうたいせい)とは、周辺国の朝貢貿易(ちょうこうぼうえき)をする朝貢国に代わりに官爵を与える制度のことである。儒教は宋(そう)の科挙(かきょ)や、南宋(なんそう)の朱子学(しゅしがく)を生み出し日本にも影響を与えた。

南アジア世界[編集]

北部のインダス川やガンジス川の流域で、統一王朝が築かれることが多かった。 民族はアーリア人とドラヴィダ人が多い。中央アジアで遊牧を営んでいたアーリア人は前2000年ごろから移動を開始し、ヴェーダを作った。鉄器が発明され、生産があがるとヴァルナ制度が取り入れられた。 それに疑問を持ったガウタマ・シッダールタ仏教(ぶっきょう)を開いた。ヒンドゥー教はヴェーダと民間信仰が結びついたもので、ヴァルナ制度にジャーティが加わったカースト制に深く関係している。 インドでイスラーム教が盛んになったのは、16世紀のイスラーム神秘主義教団以降である。

イスラーム世界[編集]

風土は地中海気候および乾燥気候である。 民族はアラブ系、トルコ系、ベルベル系、モンゴル系などである。ナイル川、ティグリス川、ユーフラテス川の流域では灌漑農耕が起こった。 宗教や文字が多く生まれたところでもある。ムハンマドイスラーム教を成立した。 ムハンマドが630年に死去すると、彼の築いたウンマ(信徒の共同体)を誰が継承するのかが問題となった。預言者ムハンマドには男児がいなかった。ゆえに初期イスラーム共同体の継承者はムスリムの中から合議で選ばれた。こうして選ばれた彼の後継者のことをカリフ(ハリーファ)といった。最初のカリフはムハンマドの旧来の友人のアブー・バクルで、彼は早くも分裂の危機にさらされた共同体の維持のための戦いを余儀なくされた。彼の後はウマル、ウスマーン、アリーと、信徒の合議により選出されたカリフ(正統カリフ)が続いた。この時代にイスラーム共同体はジハード(聖戦)を通じ、ビザンツ帝国やササン朝ペルシャの領域に対外進出をしていった。4代目カリフアリーが暗殺されるなどのイスラーム教徒の内紛を鎮めたムアーウィアはウマイヤ朝を開きカリフを世襲化した。ウマイヤ朝の最大領域は、東は中央アジアやパキスタンから西はモロッコ、イベリア半島にまで及んだ。

ヨーロッパ世界[編集]

ウラル山脈以西をヨーロッパという。 アルプス以南の地中海世界、以北の西ヨーロッパ世界、カルパチア山脈周辺以東の東ヨーロッパ世界の3つに分けることができる。 西ヨーロッパには最初ケルト系民族が住んでいたが、紀元前後にラテン系、4世紀頃にゲルマン系民族が侵入した。キリスト教はイエスが成立し、使徒のペテロやパウロによって広められた。 4世紀のローマ帝国によって公認され、国教となった。 ギリシアではアテネやスパルタなどの都市国家が栄えた。 ローマは前2世紀にギリシアを攻め、前1世紀に地中海世界を統一した。

ユーラシアの交流圏[編集]

海域世界の成長とユーラシア[編集]

アラブ系のムスリム商人は、ダウと呼ばれる木造帆船で紅海、アラビア海、インド洋を交易した。中国からは、絹、陶磁器、銀、茶など、東南アジアからは、香辛料、象牙、珊瑚等が輸入されている。中国商人は、ジャンクという木造帆船で東シナ海を交易した。広州、泉州、明州などの都市には市舶司が置かれた。

遊牧社会の膨張とユーラシア[編集]

13世紀はタタールの平和(パックス=モンゴリカ)と呼ばれている。騎馬遊牧民による農耕地域の確保のため、チンギス・ハーンは千戸制を敷き、西夏とホラズムを滅ぼした。その子孫であるオゴタイ・ハーンは金を討ち、バトゥはロシアに遠征し、フラグはアッバース朝を滅ぼし、イル・ハン国を建て、フビライは元朝を開き南宋を滅ぼした。

地中海海域とユーラシア[編集]

十字軍(じゅうじぐん)の輸送により、ジェノヴァやヴェネツィアを拠点とするイタリア商人の東方貿易(レヴァント貿易)が盛んになった。黒海にはキプチャク・ハン国とイル・ハン国との航路を開いた。エジプト商人との交易では、ユーラシアから香料、染料、宝石、絹織物を輸入し、アフリカからは金が輸入されるようになった。

東アジア海域とユーラシア[編集]

元(げん)の時代に、首都の大都、黄海、杭州が大運河で結ばれた。マルコ・ポーロもこの航路を利用していた。日本は日宋貿易、日元貿易の後、倭寇(わこう)が氾濫したが、室町時代の勘合貿易(かんごうぼうえき)によって鎮められた。琉球王国は15世紀の初めに中山王(ちゅうざんおう)によって統一され、明(みん)に朝貢した。また、日本、朝鮮、東南アジアとの中継貿易も行われていた。


一体化する世界[編集]

大航海時代の世界[編集]

16世紀の象徴的な出来事は、スペインのマゼランとその部下による世界周航である。そもそもレコンキスタ(国土回復運動)の過程で国内的統一を成し遂げたポルトガルとスペインはキリスト教的宗教熱によって、他のヨーロッパ諸国に先駆けて対外進出を進めた。コロンブスがレコンキスタの終結した1492年に西インド諸島に到達したことがそれをよく示している。コロンブスは西回り航路によりインド到達を目指したが、これはトスカネリの地球球体説が理論的な根拠となっている。このように当時の科学の進展もヨーロッパの進出の追い風となったことも見逃してはならない。コロンブスが到達した地域を「新大陸」だとしたのは皮肉なことにコロンブスではなくアメリゴ・ヴェスプッチである。そして彼の名をとってアメリカ大陸となったことは多くの人が知っていよう。スペインはこうして新大陸を中心に勢力を伸ばしていく。一方ポルトガルはアフリカ大陸南端喜望峰を迂回する東回り航路によってインド進出を果たし(ヴァスコ・ダ・ガマ)、アジア地域を勢力の中心とした。船は陸上輸送よりコスト的に遥かに優位なので貿易が拡大した。アメリカに毛織物を輸出したスペインは、中南米から銀を大量輸入し銀本位体制を揺るがした。その銀は東インドに輸出され、香料と交換された。アメリカ大陸からもたらされたトマト、ジャガイモ、サツマイモ、とうもろこし、タバコは、ヨーロッパ、アジア、そしてアフリカの生活に重大な変化を起こした。

アジアの諸帝国とヨーロッパの主権国家体制[編集]

  • アジア諸帝国の政治と社会

西アジアではオスマン帝国、南アジアではムガル帝国が栄えたが、17世紀末以降、オスマン帝国はオーストリア、ロシアの南下、そしてムガル帝国はイギリス、フランスの植民地化にあい衰退した。しかし東アジアの清(しん)帝国はヨーロッパとの貿易を制限し続け、康熙帝(こうきてい)、雍正帝(ようせいてい)、乾隆帝(けんりゅうてい)の3代130年間に渡り、中国史上空前の大繁栄を築き上げた。

  • ヨーロッパの主権国家体制の成立

16世紀から17世紀のヨーロッパでは、常備軍、官僚制、重商主義を採用した絶対主義国家が成立した。これらは王権神授説(おうけん しんじゅせつ)で正統化された。スペインのフェリペ2世、イギリスではエリザベス1世時代に全盛期をむかえた。フランスではルイ14世に全盛期を迎えた。三十年戦争後の18世紀の啓蒙制君主としてはプロセインのフリードリッヒ2世、オーストリアのマリア・テレジア、ロシアのピョートル1世、エカチェリーナ2世が有名である。

  • 大西洋貿易の展開

17世紀はスペイン、ポルトガルに代わってオランダ、イギリス、フランスが台頭した。オランダはバタビアを拠点にした。女王は東インド会社を作った。17世紀後半にはオランダが後退し、イギリスとフランスが覇権を争うようになった。18世紀中ごろの七年戦争にフランスが敗れると、イギリスが資本主義の中核をなすようになった。またこのころ奴隷貿易を中心にヨーロッパ、アフリカ、アメリカ大陸を結ぶ大西洋三角貿易が確立された。