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高等学校世界史B/ビスマルク外交

出典: フリー教科書『ウィキブックス(Wikibooks)』

ドイツの三帝同盟と三国同盟

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1871年にフランスのナポレオン3世は失脚した。

それでもビスマルクは、フランスを警戒していたので、1873年にロシア・オーストリアと三帝同盟を結んだ。つづいて1882年にプロイセンは独墺伊の三国同盟を結んだ。(独:ドイツ、墺:オーストリア、伊:イタリア)

しかし、その後、ビスマルクはヴィルヘルム2世と政策が対立し、1890年にビスマルクは辞任し、そしてヴィルヘルム2世の親政が始まった。

ロシアの視点

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さてロシアは、1873年の三帝同盟で同盟国を得たこともあって強気になり、(トルコを侵略しようとしたのか、)ボスニア・ヘルツェゴビナでの農民反乱およびトルコによる鎮圧をきっかけにロシアは介入して、1877年にロシアはオスマン帝国に開戦して露土戦争が始まり、ロシアはこの戦争に勝利し、翌1878年にサン=ステファノ講和条約が結ばれ、この条約によりブルガリアを保護下に置くことになったのだが、しかしイギリスとオーストリアがこの決定に反発し、ビスマルクの調停によって同1878年にベルリン会議が開かれ、結局、サン=ステファノ講和条約は破棄されて新たにベルリン条約は結ばれ、このベルリン条約によって(ロシアの保護する)ブルガリアの領土は大幅に減らされてしまい、ロシアの南下は阻止された。

※ なお、露土戦争の背景として、三帝同盟のほかにも背景があり、1870年代、オスマン帝国支配下のバルカンで、オスマン帝国に反発するスラブ民族主義運動であるパン=スラブ主義が活発になり、ロシアはこれを利用して1877年に参戦したのである。


(※ 「露土戦争」を太字にすると文字がつぶれて見づらいので、拡大。)

露土戦争にいたるまでの経緯

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(※ 『高等学校世界史B/クリミア戦争とロシアの改革』の復習。)
露土戦争にいたるまでの経緯

南下政策を進め始めたロシアは1853年、ギリシア正教徒の保護を口実に、オスマン帝国と開戦した(クリミア戦争)。イギリス・フランスはトルコの南下を阻止するため、クリミア戦争ではオスマン帝国を支援したので、この戦争はヨーロッパ列強国を巻き込む戦争になった。

クリミア半島のセヴァストーポリ要塞を中心に激しい戦闘が行われ、最終的にロシアは敗退し、1856年にパリ条約が結ばれた。

そして、このパリ条約によって、黒海の中立化が決定し、ロシアは南下を阻止された。

※ 偉人伝によくある看護師ナイチンゲールが活躍したのも、このクリミア戦争である。また、赤十字社の設立につながった出来事も、このクリミア戦争である。


クリミア戦争末期に即位したロシア皇帝 アレクサンドル2世は、クリミア戦争の敗戦後、敗戦の原因はロシアの工業化がおくれていることが原因だと考え、また、工業化の遅れた原因のひとつは農奴制にあると考え、アレクサンドル2世は1861年に農奴解放令を出した。

また、1863年にポーランドで独立運動が起きると、皇帝は専制政治を強化した。ロシアのこの頃の専制に反感を感じた知識人(「インテリゲンツィア」と言われた)の中から、農村を革命に協力させようと「人民の中へ」(ヴ=ナロード)というスローガンをかかげるナロードニキ運動が起きた。

しかし、この運動は弾圧された。弾圧によって絶望したナロードニキ運動の一部はテロに走り、アレクサンドル2世を暗殺し、その他、政府高官を暗殺した。

※ 近現代の日本では知識人のことを「インテリ」とも言った。語源は、上述のナロードニキ運動の「インテリゲンツィア」である。


(ここまで復習)


そして1877年にロシアはオスマン帝国に開戦して露土戦争が始まったのである。