高等学校倫理/三大宗教の始まり

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仏教[編集]

仏教以前の古代インドの思想[編集]

古代インドではアーリア人が侵入してきて、先住民を支配していった。彼らは紀元前10世紀頃にはガンジス川中流の肥沃な地域に達し、現地の文化を吸収しながら、独自の文化を作り上げていった。その精神的な中核になったのがバラモン教であり、社会制度の基本になったのが人々をバラモン(司祭)、クシャトリア(貴族・戦士)、ヴァイシャ(平民)、シュードラ(奴隷)の四つの階層に分けるカースト制度である。

はじめはかれらは、自然の変化を支配し、人間の幸・不幸を決定するのは自然の神々だと考え、バラモンによる神々を祭る儀式や呪術を重視した。しかし、人生についての思索が深められると、人間の行為((ごう)Karman(カルマ))に対する省察が進んだ。それによれば、人間は善い行為(善業)によって自ら幸福を招き、悪い行為(悪業)によって自ら災いを招くというのである(自業自得)。しかも、業は死によっても消えることはなく、死後もその業にふさわしい姿となって生まれ変わり、それが無限に続くのだという。たとえば、善い行いを積み重ねたものは死後に生まれ変わってバラモンやクシャトリアになれる。しかし、生まれ変わってから悪業を積んでしまうと、今度はシュードラや別の動物になってしまう。このような考えを輪廻転生(りんねてんしょう)という。

人々は悲惨な状態に生まれ変わるのではないかという不安をいだいた。そして、死後に良い者に生まれ変わることを望むのではなく、輪廻転生の運命から抜け出す解脱(げだつ)の道を求めた。

紀元前7世紀頃から紀元前4世紀頃、バラモン教の教えを理論的に深めたウパニシャッド(Upanishad)哲学が形成された。それによると、すべての生物は自己の根源にアートマン(atman我)を持つ。一方、宇宙のあらゆる根源としてブラフマン(brahman(ぼん))という絶対的な原理がある。アートマンはさまざまな動植物に宿って輪廻転生を繰り返す。だが、みずからの内のアートマンがブラフマンから生まれたものであり、ブラフマンと一体であることを悟る(梵我一如(ぼんがいちにょ))ことによって、魂は輪廻転生から抜け出し、一切の苦悩からまぬがれるのだという。

梵我一如にいたるには、感覚にとらわれず、心を集中させる必要があるとされた。そのために精神を統一する瞑想(めいそう)が重んじられた。さらに断食などの厳しい修行(苦行)も、この瞑想を助けるものとして重視された。

ブッダ[編集]

ブッダの像

紀元前5世紀頃、インドでは商工業が盛んになり、都市が発展した。それにともなって、ヴァイシャの力が強まった。彼らはバラモン教の伝統にとらわれない、自由で合理的なものの考え方を求め、全く新しい思想の流れが生まれてきた。その代表者がブッダ(仏陀)[1]であり、彼の説いた教えが、後に仏教となる。なお、ほぼ同じころ、ジャイナ教を開いたヴァルダマーナ(マハーヴィーラ)たち6人の自由思想家が登場した。仏教では、彼ら6人のことを仏教以外の教えを説く者として、六師外道とよんでいる。

ブッダの生涯[編集]

まず、ブッダの生涯からみてみよう。ブッダは本名をガウダマ=シッダールタといい、インドの北部・ヒマラヤ山脈のふもとにあったシャカ族の国・カピラヴァッツの王子として生まれた。カピラヴァッツは小国だったものの、シッダールタは物質的には大変恵まれた生活を送っていた。しかし、心はいつも満たされなかった。人生のあらゆる問題に苦悩したシッダールタは29歳のとき、ついに何もかもを投げ捨てて出家し、修行の道に入った。はじめは優れた教えを説く人々に弟子入りし、はげしい苦行もおこなった。それでも、心にかなうものは得られなかった。

35歳のとき、ブッダガヤの菩提樹(ぼだいじゅ)の下に座り、深い瞑想に入った。数日間の瞑想の後、苦悩の原因である煩悩を断ち切り、究極的な理法(ダルマdharma)を悟り、ブッダとよばれるようになった。ブッダとは、「真理に目覚めた人」という意味であり、「覚者(かくしゃ)」ともいう。その後、悟ったものをみずから伝えるため、インド北部のガンジス川流域を中心とした各地を訪ねた。そして、80歳のときにクシナガラでこの世を去ったという。

なお、ブッダの生涯に関する地図は次のサイトにある。http://kamishiba1.exblog.jp/17092883/

苦しみの世界[編集]

ブッダは、老若男女・身分の貴賎に関わらず、人生に必ずともなう苦しみを直視した。人は、生きていきたいと願いながらも、やがて老い、病気になり、死んでいく。これがいわゆる生老病死(しょうろうびょうし)であり、四苦という。その上、愛する人ともいつかは分かれる愛別離苦(あいべつりく)、逆に憎い相手とも会わねばならない怨憎会苦(おんぞうえく)、求めるものが得られない求不得苦(ぐふとくく)、身体・感覚・概念・心で決めたこと・記憶に執着することによる苦しみである五蘊盛苦(ごうんじょうく)(五(おん)盛苦とも)にとりつかれている。こうした生老病死の四苦に愛別離苦・怨憎会苦・求不得苦・五蘊盛苦の四つを加えた八苦によって、現実の人間の生は苦しみに満ちている(一切皆苦(いっさいかいく))。これらの苦しみはどこから生まれてくるのか。

縁起説[編集]

全てのものごとは永遠に続くものはなく、変化し、やがて衰えて消滅する(諸行無常(しょぎょうむじょう))。そして、絶対に変わることのない本体(実体)も存在しない(諸法無我(しょほうむが))。こうした、世界のあらゆるものが移り変わり、不変なものは存在しないというのがブッダの世界観である。では、なぜ世界の全てが移り変わっていくのか。ブッダは、存在するものすべてはバラバラに切りはなされているのではなく、さまざまな原因や条件と結びついて成り立っている(因縁)からだと考えた。

たとえば、「名門高校に通うAくん」という存在は、Aくんの両親・Aくんを教えた先生・勉強時間・勉強内容や方法というさまざまな原因がからみあってできている。もし、これらの要因が一つでも欠けていれば「平凡な高校に通うAくん」という別の存在になっていたかもしれないし、そもそもAくんがこの世にいなかったかもしれない。

このように原因や条件が寄り集まってものごとが存在するようになり、逆に原因・条件が分かれていくことでものごとが消えていくという考えを縁起という。

ブッダによれば、人の苦しみというのは、縁起の理法にそむき、自分一人だけで生きられると思いこんだり、財産・地位・名誉・命が永遠に続くことを願ったりすることから生じるのだという。特に自分の命や所有物が永遠であることを願うのは、人間の根本的な無知であり、この無知のことを無明(むみょう)とよんだ。そして、自分自身に対する執着(我執)にとらわれるようになり、苦しみを招く。たとえば、強い者は、その強さを「わがもの」と思いこみ、その強さが永遠に続くと思い、傲慢(ごうまん)にふるまう。しかし、その強さもやがて衰えていく。そうなると「強かった自分」にすがりついていばってみせたり、さらなる衰えにおびえるようになる。逆に弱い者は弱さにとらわれ、いじけて、ますますバカにされて、自分をさらに汚していく。

このような物事に執着する心は、心身を悩ませて、煩わせることから煩悩という。ブッダは特に、貪り(貪欲)・怒り(瞋恚(しんに))・無益な思いや愚かさ(愚癡(ぐち))の三つの煩悩を三毒とよんだ。

悟りの道[編集]

こうした欲望やとらわれから自由になることで悟りの境地(涅槃(ねはん)nirvana(ニルヴァーナ))にいたる。そうなると、いつもゆったりとした心の平安がおとずれ、心の統一を失わなくなる(涅槃寂静(ねはんじゃくじょう)[2])。

しかし、人間は欲望なしに生きることはできない。ブッダは欲望を一切封じるようなきびしい禁欲生活や苦行も精神をもうろうとさせるだけだとしてしりぞける。欲望にとらわれて快楽のみを求めるのでも、苦行でもない、ほどよい生き方(中道)を理想とした。そのための実践をまとめたのが四諦(したい)八正道(はっしょうどう)である。

四諦とは、四つの真理という意味である。悟りにいたらない人(凡夫)は四苦八苦の苦悩を免れない(苦諦)。その苦悩の原因が欲望や執着が集まった煩悩である(集諦)。しかし、煩悩をしりぞけた人は苦しみを滅ぼしている(滅諦)。そのためには正しい修行の道が必要である(道諦)。正しい修行の方法が八正道である。

八正道 内容
正定(しょうじょう) 正しい精神統一[3]をすること
正念(しょうねん) 正しい心を持つこと
正精進(しょうしょうじん) 正しい努力をすること
正命(しょうみょう) 衣食住の生活を正しくすること
正業(しょうごう) 正しい行いをすること
正語(しょうご) 正しく語ること
正思(しょうし) 正しい考え方をすること
正見(しょうけん) 正しい人生観を持つこと

ブッダは、縁起の教えを学び、中道の生活と考え方を通し、八正道の修業を行えば、誰でも真理に目覚めるのだという。この教えは、生まれの身分によって、貴賎や解脱できるかどうかも決まるというカースト制度への批判でもあり、庶民(ヴァイシャ)や奴隷(シュードラ)、その他の差別されてきた人々に特に受け入れられていった。

そして、ブッダは全ての命あるものに対しての慈しみ(慈悲)も説いた。無常の世界での命ははかない。だからこそ、切実に生きようとするものすべてが平和と幸福のうちに生きられる道を願った。そのために、ブッダは迷信や呪術に頼るのではない、合理的な考え方と生き方にたどりついたのであろう。

仏教の成立と伝播[編集]

ブッダは、現実の世界を越えた神の存在については何も語らなかった。あくまで、ブッダは現実世界に生きる人間が自分をよりどころとしながら、努力することで苦しみから抜け出すことをといた。そのため、キリスト教やイスラム教のように人間世界を越えたところにいる神の存在を説く宗教の立場からは、ブッダの説は神を否定する無神論とみなされることもある。しかし、ブッダが没したのち、ブッダの説、さらにブッダ自身が崇拝の対象となり、神格化されて宗教になっていった。それが仏教である。

ブッダの教えには、世俗とは距離を置いて、戒律にしたがって修行することで悟りを完成させるという面と、世俗の中で悟りに基づいて万人のためにはたらくという面がある。どちらを重視するかで、仏教は二つに分かれていった。修行を重視したグループは保守派の長老を中心とした上座部となり、万人のためにはたらきかける者たちは在家信者に支持されて大衆(だいしゅ)部となった。その後、さらに20の部派に別れた(部派仏教)が、ブッダの死から数百年たったころには上座部仏教大乗仏教という二つの大きな流れとなり、それぞれがブッダの精神を引き継いでいった。

上座部仏教はインドからセイロン島からミャンマー・タイ・インドネシアの南方に伝えられた。そのため、南伝仏教ともいう。上座部仏教はブッダの自力救済の精神を受け継ぎ、厳しい修行と戒律によって、阿羅漢とよばれる悟りを完成させた聖者になることを目指すものである。

大乗仏教は紀元前1世紀から紀元2世紀頃にかけての、在家信者による仏教の改革運動から生まれた。大乗仏教は、初めて仏像が作られたガンダーラからシルクロードを経て中国に入り、そこからベトナム・朝鮮に伝わり、朝鮮(百済)から日本に伝えられた。そのため、北伝仏教ともいう。また、のちにチベットに伝わった仏教は8世紀に成立したインド密教の流れなどを取り入れたチベット仏教として、独自の地位を占めている。

大乗とは「大きな乗り物(マハーヤーナ)」という意味で、全ての生きとし生けるもの(一切衆生)を救済するという教えを乗り物にたとえたものである[4]

龍樹[編集]

大乗仏教の理論を確立したのが、龍(竜)樹(ナーガールジュナ)である。

龍樹は縁起説を(くう)の立場から解明した。そのため、大乗仏教の根本的な思想は空の理法を悟ることとされている。空とは、単なる無や否定ではない。この世の全ての物質的な存在は因縁が和合したものであり、固定された本体(実体)は存在しない。しかし、様々なものが縁起によって組み合わさっているからこそ、豊かな世界が成り立っている[5]。この空の真理を悟る知恵を般若(はんにゃ)という。空を悟れば、外見や先入観に惑わされることなく、ものの真相をあるがままに見つめ、つまらない思いに執着する(小我)のではない、安らかな気持ちで真実(大我)に生きるのだという。

無着・世親[編集]

唯識思想を大成したのが、無着(アサンガ)、世親(ヴァスバンドゥ)である。

唯識思想とは、あらゆる事物は実在していないが、それらが存在すると思われるのはただ「識」、すなわち「心の働き」の所産である、とする思想。「空」の思想(前述)やヨーガの実践から生み出された。空の思想と並び、現代でも多くの仏教者・研究者の関心を集めている。

六波羅蜜の教え[編集]

空を悟ろうとする者は自分の世界に閉じこもるのではなく、全ての生きとし生けるものを救済しようとする。こうした慈悲の実践者を菩薩(ボディーサットヴァ)とよぶ。菩薩にとって、悟りを求めて自己を生かそうとする(自利)ことと他者を生かそうとする(利他)こととは、対立するものではない。なぜなら、みずから真理に目覚めた者は、他者も自然と真実に目覚めさせるようになるからだ。そして、大乗仏教において悟りを求める者が実践すべき教えとして、六波羅蜜[6]の教えが説かれている。

六波羅蜜 内容
布施 惜しむ心を捨てて、物質的・精神的に何かを与えることへの喜び
持戒(じかい) 仏の戒めを守ること
忍辱(にんにく) 迫害や困難に当たっても怒らずに耐えること
精進 悟りを求めて衆生の救済に努力すること
禅定 心を統一すること
知恵(般若) 全てが空であることを悟り、愚癡を離れて真理に生きること

 


  1. ^ 他にシャカ族出身の聖者という意味のシャカムニ(釈迦牟尼)から、単にシャカ(釈迦)または漢訳した釈尊(しゃくそん)ともいう。ここではブッダで統一する。
  2. ^ 諸行無常・諸法無我・涅槃寂静を三法印といい、これに一切皆苦を加えて四法印ともいう。法印とは、「仏教の旗印」という意味で、他の思想と区別する印という意味である。
  3. ^ 具体的にはインド古来の禅定(ヨーガ)のこと。
  4. ^ 上座部仏教のことを小乗仏教とよぶ場合がある。個人の悟りを完成させることを目指す上座部仏教は、大乗仏教の側から「自分一人しか救えない、小さな乗り物(教え)」と軽蔑されたため、「小乗」と呼ばれた。現在では、差別的なニュアンスが強いので「小乗」の語が使われることはない。
  5. ^ このことをごく簡潔に表現したものが『般若心経』の「色不異空。空不異色。色即是空。空即是色。」という一節である。
  6. ^ 波羅蜜は、サンスクリット語のPāramitā(パーラミーター)の音を漢字に当てたもの。迷いの世界から悟りの世界へ至ること。意訳して「到彼岸(とうひがん)」「度」ともいう。

キリスト教[編集]

仏教が東・東南アジアの思想的な源流の一つになったのに対して、ヨーロッパの思想の源流になったのが古代ギリシャの哲学とキリスト教である。

ユダヤ教と旧約聖書[編集]

律法[編集]

キリスト教はイスラエル民族固有の宗教であるユダヤ教を母体としている。砂漠の民であったイスラエル民族がパレスチナ地方に入ったのは紀元前1500年頃といわれる。厳しい自然環境に加えて、周囲にはエジプトをはじめとした強大な古代国家による圧迫に常にさらされ続けていた。そんな中で、イスラエル民族は唯一神ヤハウェ(ヤーウェ)に対する強い信仰を育てていった。

彼らの聖典である『旧約聖書[1]』によれば、ヤハウェは宇宙の万物を創った創造主であり、唯一絶対の神である(一神教)。そして、イスラエルの民はヤハウェから選ばれた民(選民)であり、神との特別な契約によって、将来の繁栄と栄光を約束された。その契約が神の命令である律法(トーラ)である。そして、ヤハウェは律法を守れば祝福を、律法を破れば厳しい罰を与える裁きの神、正義の神でもある。

紀元前13世紀頃、エジプトで奴隷のように扱われていたイスラエル民族を脱出させたモーセは、パレスチナへと向かった。その途中、シナイ山にてモーセはヤハウェの声を聴き、10の掟を与えられた。これが十戒であり、神は厳しく守ることを求めた。

十戒
神はこのすべての言葉を語って言われた。

「わたしはあなたの神、主であって、あなたをエジプトの地、奴隷の家から導き出した者である。
あなたはわたしのほかに、なにものをも神としてはならない。
あなたは自分のために、刻んだ像を造ってはならない。
あなたは、あなたの神、主の名を、みだりに唱えてはならない。
安息日を覚えて、これを聖とせよ。
あなたの父と母を敬え。
あなたは殺してはならない。
あなたは姦淫してはならない。
あなたは盗んではならない。
あなたは隣人について、偽証してはならない。
あなたは隣人の家をむさぼってはならない。」
――『旧約聖書』「出エジプト記 第20章(一部省略)」

十戒をはじめとした律法にそむくことは神にそむくことであり、神の保護から見放されることでもあった。神の正義と恵みに応えるために、人々は律法をまもり、日々の生活の中で正義を実現することが求められる。そのために、神と人とを仲立ちする者が登場する。それが、預言者である[2]

預言者[編集]

(のちの聖書などの文献による言い伝えでは)出エジプトの後、パレスチナの地にイスラエル人の王国が作られ、紀元前10世紀頃にはダビデ王・ソロモン王が登場したといわれ、最盛期を迎える。しかし、その後に南のユダ王国と北のイスラエル王国に分裂し、他の民族に攻められて両方とも滅亡した。再び国を失ったイスラエル民族にはさらに厳しい運命が待っていた。紀元前6世紀頃には老人と子どもを除くすべてのイスラエル人が、奴隷としてバビロニアに連れ去られた(バビロン虜囚)。このころにイザヤやエレミアなどの預言者たちが活発に活動し、イスラエル民族が信仰の道から外れようとするのを防ぐとともに、民族の団結と信仰へのはげましを与え続けた。イスラエル人たちの宗教がユダヤ教として成立したのもこの頃だといわれている。

預言者たちはイスラエルの民が律法を守らなかったから、神が国を滅亡させたのだと説いた。だが、人々が律法を正しく守れば、神はイスラエルの民を苦難から救い出す救世主(メシアMessiah[3])をこの世に送るであろうと、預言した。イスラエルの民はメシアの到来を望み、苦難に耐えた。

バビロン虜囚が終わっても様々な強大国の支配下に置かれる厳しい状態には変化がなく、約束されたはずのメシアの到来も空しい期待にすぎなかった。やがて、律法を守ることが宗教のすべてだとするパリサイ(ファリサイ)が勢力を増した。パリサイ派は律法を文字通りに解釈し、安息日の労働を完全に禁止したり、断食を厳しく守ったりしていた。一方で、律法をよく理解できない庶民や取税人・遊女などの差別されてきた人々に対しては厳しい非難を加えていた。

イエスとその教え[編集]

イエスの生涯[編集]

イエス・キリストを後世の6世紀ごろに描いた画(画は聖カタリナ修道院に所蔵)
『キリストの磔刑(たっけい)』。アンドレア・マンテーニャ画。後世の1456年ごろから1459年ごろの作。ルーブル美術館に収蔵。中央の十字架にイエスが、左右に強盗がつけられている。強盗たちはいづれもイエスをののしったが、イエスから見て右の強盗は、くいあらためて信仰を告白し、すくわれたという。磔刑(たっけい)とは、ローマ帝国の死刑のやり方の一つで、はりつけのこと。

西暦1年より少し前ごろ、パレスチナのベツレヘムに、大工であったヨゼフの許嫁・マリアの子としてイエスは生まれた(西暦とは、イエスが生まれたと考えられた年を西暦1年とした、キリスト教の暦である)。イエスは30歳ごろに洗礼者ヨハネから洗礼を受け、四十日の断食の後に、福音(神からのよい知らせ)を伝える活動を始めた。後で述べるように、イエスはユダヤ教の主流となっていたパリサイ派を強く批判すると同時に、分かりやすいたとえを使いながら新しい教えを説いた。 だが、イエスから批判されたユダヤ教の指導者はイエスと弟子たちに迫害を加えた。また、現実的な救いよりも内面の清らかさを重んじる教えに失望する人も少なくなかった。イエスは反対者によって反逆者として告発され、ローマ帝国によって十字架にはりつけにされる刑を受けて死んだ。イエスが活動した期間は2年数か月ほどであったという。

イエスの教え[編集]

パリサイ派は細かいおきてや形式を極端に重んじたため、宗教が人々の心の救いになるとは言い難いものになっていた。イエスは福音(神からのよい知らせ)を人々に伝えた。人々に分かりやすいたとえで罪のゆるしと救いを説いた。愛あふれる父である神を愛し、兄弟や仲間、隣人を愛し、敵をも愛すること、真の平和と幸福、神の国、世の終わり、さばきについて教え、本当のおきてを示し、多くの人々が信じて弟子となっていった。

一方で、イエスはパリサイ派には厳しい批判を行った。例えば、「あなたがたは、わざわいである。杯と皿との外側はきよめるが、内側は貪欲と放縦とで満ちている。」とパリサイ派にいった。イエスは心のうちにひそむ欲望や悪と向き合わずに律法さえ守ればよいというパリサイ派の行いを偽善とよんだのだった。

原始キリスト教[編集]

イエスはキリストと信じられるようになり(「キリスト」とは、ユダヤ教の「メシヤ」からきたことばで、救世主(きゅうせいしゅ)をさす)、その弟子たちはのちにクリスチャン(キリスト(しゃ))とよばれるようになった。そしてかれらの信仰はキリスト教として今日までに世界でもっとも多くの人々に広まることになる。

1世紀ごろから弟子たちは、イエスやその教えに関する文書・手紙類(新約聖書(しんやくせいしょ))を書き写し、ユダヤ教の聖書(旧約聖書(きゅうやくせいしょ))ととともに信仰のみちびきとしていた。 特に、もともとユダヤ教パリサイ派の法学者であったパウロは、旅の途中で神の啓示を受け、キリスト教に回心し、異邦人(ユダヤ人以外の民族。ここでは特にローマ人)への積極的な布教を行った。このとき、彼が地中海世界の共通語であったコイネーを話すことができたのは、布教の際の大きな助けになったと知られている。

ユダヤ教はユダヤ人のための民族宗教であって、ユダヤ民族とそれ以外の民族には格差があり、人は平等ではなかったが、イエスの弟子たちは、ユダヤ人も、ユダヤ人からみた異邦人も、キリストを信じて救われたという。そうしてキリスト教は、ローマ帝国の領内で広まっていった。4世紀になると、ローマ帝国が方針をあらため、キリスト教を国教として保護する。

教義の確立[編集]

キリスト教は、ユダヤ教を完成させたものであるといい、ユダヤ教と似ている部分もある。ユダヤ教は聖書にある唯一の神ヤハウェ(エホバ)を信じる一神教であり、キリスト教は同じく聖書の神を三位一体(さんみいったい)と信じる一神教である。

教父・アウグスティヌス[編集]

スコラ哲学とトマス=アクィナス[編集]


  1. ^ 「約」というのは、神との契約(けいやく)約束(やくそく)という意味で、翻訳(ほんやく)の「訳」とは別の字である。また、『旧約聖書』の「旧約」というのはキリスト教徒から見たいいかたである。ユダヤ人たちは旧も新もつけずに単に『タナッハ』と呼ぶ。
  2. ^ 「予言」者ではない。「預言」とは「神の言を預かる」という意味であり、預言者は神の言葉を伝える者である。
  3. ^ ヘブライ語で「油を注がれた者」という意味の言葉。ユダヤ教では古くからメシア待望論(メシア思想)があった。

イスラーム[編集]

メッカのカーバ神殿。イスラームの聖地とされている。神殿の中央には、写真のように四角い黒石がある。イスラーム教徒(ムスリム)は、このカーバ神殿に向かって礼拝をする。 (サウジアラビア)

7世紀の始めごろ、アラビア半島では、商業がさかんであり、商人が力を持っていた。アラビア半島の都市メッカでは、商業が発達していた。

7世紀はじめごろに、メッカの地に、商人の家に生まれたムハンマドが現れ、40歳の頃にムハンマドは神の啓示を受けたとして、40歳の頃からメッカの地で、イスラム教を唱えた。

イスラムの教えでは、神は唯一アッラーのみであるとしており、偶像崇拝(ぐうぞうすうはい)を禁止した。 このため、イスラム教では、神の像は無い。

※「アッラー」とは、「神」という一般名詞である。アッラーという名を持つ神がいるわけではない。

また、神の前に、人々は平等であると説いた。イスラームの聖典は『クルアーン』と言う。

ムハンマドの教えは、メッカの支配層によって迫害された。ムハンマドは、迫害を逃れるため、メディナに移住した。ムハンマドは、教えを広めるため、軍を組織した。そして、ムハンマドは軍事力で(無血のうちに)メッカを奪い返した。

その後、ムハンマドと弟子たちの征服活動によって、アラビア半島の諸国は統一されていき、イスラム教はアラビア半島と北アフリカなどの周辺の地に広まっていった。

コーランは、生活を厳しく律しており、豚肉を食べることの禁止や、飲酒の禁止、1日5回の礼拝や、断食や巡礼など、日常生活の多くの決まり事を記している。

「イスラーム」という語は、自身の重要な所有物を他者の手に引き渡すという意味を持つaslama(アスラマ)という動詞の名詞形であり、ムハンマド以前のジャーヒリーヤ時代には宗教的な意味合いのない人と人との取引関係を示す言葉として用いられていた。ムハンマドはこのイスラームという語を、唯一神であるアッラーに対して己の全てを引き渡して絶対的に服従するという姿勢に当てはめて用い、そのように己の全てを神に委ねた状態にある人をムスリムと呼んだ。

※「イスラーム」という語は、それ自体に「宗教」というニュアンスが含まれるため、現在では(専門的には)「イスラム教」とは表記しない。

イスラームにおける聖典は、実は『クルアーン』だけではない。ユダヤ教の『旧約聖書』、キリスト教の『新約聖書』もすべて聖典の一つとされる。なぜなら、これらの宗教は同一の神を信仰するからである。しかし、アラビア人であり最後の預言者であるムハンマドに対してアラビア語で与えられた『クルアーン』こそ、もっとも正しく神の言葉を伝えるものとされているのである。

現代のエルサレムとパレスチナ問題[編集]

ユダヤ教の聖地の一つ、嘆きの壁(なげき の かべ)。イスラエルにある。
エルサレムの「岩のドーム」。イスラームの聖地になっている。

中東のパレスチナという地方にある エルサレム という場所に、キリスト教、イスラーム、ユダヤ教の聖地がある。 なぜ同じ地方にこれら3つの宗教の聖地があるかというと、これらの宗教は同一の神を信仰するからである。(キリスト教の「主」、イスラームの「アッラー」、ユダヤ教の「ヤハウェ」はすべて同じ神を意味する。)

現代(西暦2014に記述)の話になるが、

このエルサレムと周辺の地域で、第二次大戦後にイスラエルが建国を強行した。このことにより、以前にこれらの地に住んでいたパレスチナ人たちが住む場所をうしない、パレスチナ人が難民になった。 パレスチナ人はイスラム教の多い民族であり、イスラエル人はユダヤ教の民族である。

このことが、アラブ諸国のあいだで、イスラエルに対しての反発の理由の一つになっている。 イスラエルがユダヤ教の国なので、アラブ諸国ではユダヤ教への反発が強い。

また、アメリカ合衆国がイスラエルと同盟を結んでおり、アメリカはキリスト教の多い国なので、そのようなこともあり、アラブ諸国ではキリスト教への反発につながっている。

このようなパレスチナ周辺の政治問題をパレスチナ問題と言う。