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高等学校公共/日本経済の進展 戦後から現代の課題

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 本節は、戦後の日本経済史に関する特別講義です。

戦後復興期(1945年~1949年)[編集]

 日本は1945年8月15日、ポツダム宣言を受け入れ、無条件降伏しました。それ以降、1952年のサンフランシスコ講和条約の発効による独立までの6年間にわたり、GHQ(連合国軍総司令部)が統治しました。

GHQによる占領政策と戦後改革[編集]

 GHQによる最初の占領政策は非軍事化と経済の民主化でした。連合国軍最高司令官ダグラス・マッカーサーは、女性参政権の統一、労働団結権、自由教育、専制政治廃止、経済民主化という5大改革を日本政府に命令しました。

財閥解体[編集]

 GHQの財閥解体は、軍需産業の担い手(財閥)をなくし、財閥に集中する富の分配を実現します。その上で、自由競争を促して、中産階級を創出するものです。

 1946年に、持株会社整理委員会が発足しました。持株会社整理委員会では、4大財閥(三井・三菱・住友・安田)と中小財閥など83財閥を指定します。その上で持株会社整理委員会が財閥本社の持株を買い取り、一般に売却する形で財閥をなくしました。

 1947年4月に制定された独占禁止法は、持株会社やトラスト・カルテルを禁止しています。また、独占禁止法を実施する機関として、公正取引委員会が設立されました。

 財閥解体後もなお残る巨大企業を分割するため、1947(昭和22)年12月、過度経済力集中排除法が公布され、大企業325社が売却の対象となりました。しかし、冷戦による占領軍の対日政策の転換により売却の対象が取り消されました。最終的に指定されたのは18社となり、うち実際に分割が行われたのは11社にとどまりました。

高度経済成長期(1955年~1970年)[編集]

 1950年代半ばから1960年代を通じて日本経済は年平均10%を超える急激な発展を遂げ、これを高度成長(高度経済成長)と呼びます。高度成長期とされるのは、一般に1955年から1973年までの期間です。

安定成長期(1970年~1990年)[編集]

1970年代[編集]

列島改造ブーム[編集]

 1971(昭和46)年12月から1973(昭和48)年11月まで24か月続いた好景気を列島改造ブームといいます。高度成長最後の好景気といわれます。

 1972年に首相に就任した田中角栄は「日本列島改造計画」をスローガンに掲げました。しかし列島改造計画への期待は地価の急騰で急激に薄くなりました。

赤字国債の大量発行[編集]

 1974年の決算では、戦後初めて実質GDPがマイナス成長となりました。

産業構造の変化[編集]

 1970年代は産業構造が変化した時代です。1960年代は、鉄鋼・自動車など重厚長大型の重化学工業が急激に伸びました。その後、オイル・ショックをきっかけに省資源・省エネルギー化が進められ、重厚長大型から軽薄短小型へ移行するようになりました。そして、エレクトロニクスやバイオテクノロジー、通信などのいわゆるハイテク産業が台頭してきます。

 10%台の高度成長から5%台の安定成長に転換したので、設備投資が過剰となり企業収益は大幅に低下しました。

 こうした努力の結果、省エネルギー技術が急速に進み、エネルギー消費を抑制しながら安定した経済成長を果たせました。

1980年代[編集]

ドル高と貿易摩擦[編集]

 日本経済の世界経済におけるパフォーマンスが大きくなるにつれて、日本が世界の貿易黒字を独り占めしているとの批判(経常収支不均衡問題)が生まれました。これは日米貿易摩擦に代表されました。

 1981年に就任したアメリカのロナルド・レーガン大統領(当時)はドル高による強いアメリカを指向しました。このため、ドルは国際収支の赤字にも関係なく各国通貨に対して増価しました。その後、円安ドル高が生まれ対米貿易摩擦が問題となりました。アメリカの貿易収支は対日本で大幅赤字となりました。

 1970年代初頭の、鉄鋼、繊維に始まり、1980年代には、牛肉・オレンジ、自動車、半導体、工作機械などの品目が問題として取り上げられました。日本は、この問題以降、輸出自主規制やアメリカに工場を建設して現地生産するなどの対応が採られました。さらに、建設、金融面でも自由化が要求されました。

 ところがこの間、日本の経常収支黒字額は増え続け、獲得された外貨がアメリカへ投資される形で国際的資金循環が形成されました。アメリカの財政赤字経常収支赤字によって不足した資金を日本が供給しました。

プラザ合意による円高不況[編集]

 アメリカの双子の赤字経常収支赤字財政収支赤字)は国際問題として取り扱われ、第2期ロナルド・レーガン政権で先進国が協調してアメリカの経常収支赤字削減に取り組みました。

 1985年には、ニューヨークのプラザホテルに先進5か国財務相(日本、アメリカ、西ドイツ、イギリス、フランス)・中央銀行総裁会議が集まりました。アメリカの経常収支赤字を解消するために、外国為替市場に各国が協調介入して行き過ぎたドル高の改善を決定しました。これがプラザ合意です。

 このプラザ合意により、各国がドル売り・自国通貨買いの協調介入を行った結果、円ドルレートは急激な円高・ドル安となり、日本では輸出産業を中心に「円高不況」になりました。