高等学校公共/社会保障制度

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 社会保障制度のあゆみ[編集]

社会保障の歴史は、次の通りです。

社会政策としての救貧政策(イギリス)[編集]

 初期資本主義のイギリスでは、土地の囲込みによって土地を奪われた大量の農民達が流民化し、浮浪化して社会問題になっていました。その対策として、1572年、1576年、1597年に救貧法が制定され、1601年のエリザベス救貧法により集大成されました。エリザベス救貧法は、救貧税の拠出義務により貧困対策に対する国家の責任を明確化し、教区を行政の1単位として治安判事が貧民監督官を任命し救済に回しました。貧民を、労働出来る者、労働能力のない者、児童に分類し、強制労働、生活救済、徒弟奉公を各々の救済手段としました。救貧院を運営する財源には救貧税とよばれる税金が当てられました。

 その後、産業革命初期になると無産市民が増加しました。就業の如何に関わらず、最低生活費を保障する1795年のスピーナムランド制では、労働者の賃金補助(実質的には雇主に対する補助金制度)が定められました。

 1834年にいわゆる新「救貧法」が制定されました。これにより労働能力をもつ貧民への救済、院外救済の制限、貨幣による救済から現物救済へと、より生活保護的なものとなりましたが、依然として、通常労働者の最低限の生活以下とする劣等処遇の原則に基づくものでした。

ベヴァリッジ報告[編集]

 イギリスの戦時連立内閣は、1941年6月、戦後の国内政策の第一目標として社会保障の整備を掲げ、その青写真の作成を経済学者であるウィリアム・ヘンリー・ベヴァリッジを委員長とする委員会に委ねました。1942年に「ゆりかごから墓場まで」の生活保障を示した「ベヴァリッジ報告」が提出されました。