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高等学校古典B/漢文/侵官之害

出典: フリー教科書『ウィキブックス(Wikibooks)』

「侵官之害」は一般に「かんをおかすのがい」と読む。

越権行為(えっけんこうい)は君主を無視して反乱などをすることにつながりかねない。だから、たとえ臣下が良かれと思ってやった行為であっても、越権行為であるなら、処罰しなければならない、という話である。

越権行為・・・与えられた職務上の権限を越えて事をおこなうこと。

これは韓非(かんぴ)が説いたもので、著書『韓非子(かんぴし)』に載っている[1]

『韓非子』は、法律によって人を支配しなければならないという法家(ほうか)の思想書である。

あらすじ

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昔、(かん)昭侯(しょうこう)が、酒に酔ったまま、寝てしまった。それを見ていた、王に冠をかぶせる係の側近が、王が風邪をひかないように、寝ている王に衣をかぶせてあげた。しかし、王は、この冠の係の者を罰した。また、衣の係の側近も罰した。

風邪を引くという一時的なことよりも、部下が他人の職分を侵すということのほうが、弊害が多い。

部下の仕事内容と役職とは、一致させなければならない。

白文

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昔者、韓昭侯酔而寝。典冠者見君之寒也、故加衣於君之上。覚寝而説、問左右曰、「誰加衣者」。左右対曰、「典冠」。君因兼罪典衣与典冠。其罪典衣、以為失其事也。其罪典冠、以為越其職也。非不悪寒也。以為、侵官之害、甚於寒。

故明主之蓄臣、臣不得越官而有功、不得陳言而不当。越官則死、不当則罪。守業其官、所言者貞也、則群臣不得朋党相為矣。

書き下し文

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官(かん)を侵す(おかす)の害(がい)

昔者(むかし)、韓の昭侯()ひて()ぬ。典冠(てんかん)の者(きみ)の寒きを見るや、故に衣を君の上に加ふ。(しん)より覚めて(よろこ)び、左右に問ひて曰はく、「誰か衣を加えし者ぞ」と。左右(こた)へて曰はく、「典冠なり」と。君()りて典衣(てんい)と典冠を罪せしは、以て其の職を超ゆと()せばなり。寒きを(にく)まざるに非ず、以て官を侵すの害は寒きよりも甚だしと為せばなり。

故に明主の臣を(やしな)ふや、臣は官を超えて功有るを得ず、(げん)()べて当たらざるを得ず。官を超ゆれば則ち(ころ)され、当たらざれば則ち罪せらる。業を其の官に守り、言ふ所の者貞ならば、則ち群臣は朋党して相為すを得ず。

(二柄)

語彙

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左右 - 側近。
誰(たれ) - だれ。「れ」と読むことに注意。「だれ」とは読まない。

語釈

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韓昭侯 - 紀元前の戦国時代の韓(かん)の国の君主。
(せつ、えつ) - よろこぶ。漢語では「」(エツ)と発音が同じであり、そのため、「悦」の「喜ぶ」という意味と同様に、「説」にも「喜ぶ」という意味がある。
対(こたエテ) - お答えする。目上のものに答える。
典冠 - 君主の冠を管理する役人。
典衣 - 君主の衣服を管理する役人。
因(よりテ) - そのために。
兼罪(かネテ つみせり) - 典衣と典冠の二人とも罰した。
明主(めいしゅ) - 賢明な君主。すぐれた君主。
貞(てい) - 正しいこと。忠実。
-

現代語訳

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他人の職分を侵すことは害悪だ。

昔、韓の昭侯が、(酒に)酔って寝てしまった。そこで、冠を管理する役人が君主(昭侯)の寒そうな様子を見て、衣をかぶせた。

(昭侯は)眠りから覚めて喜び、側近に尋ねて、「誰が衣をかけてくれたのか。」と聞いた。

側近は答えて言った、「典冠です」。

君主はこれをきいて、典衣と典冠の両方とも罰した。

典衣を罰した理由は、自分の職務をしなかったからである。

典冠を罰した理由は、職務を超えたからである。

昭侯は、寒さを苦手としないわけではない。

昭侯は、他人の役職を侵すことが寒さよりも重大事だと考えたのである。

それゆえ、賢い君主が臣下を召しかかえるにあたり、臣下は役職を超えて行動するのは許されず、意見を述べたのに(言葉と行動とが)一致しないのも許されない。

官職を超えれば死刑にされ、意見を実行しなければ処罰される。

臣下が職分をおのおの守り、発言が一致すれば、家臣たちどうしが徒党を組んで自分勝手なことをすることは無いのである。

儒家と法家の対比

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法家の思想は「君主は、人民への愛情ではなく、法律によって、人民を統治するべきである」「法律を徹底するため、規則に反する者は、刑罰などで、きびしく罰するべきである」などのように厳格な法の適用によって国を治める思想である。『韓非子』はその理論を説いている。

仁義などの道徳の優位と教育の意義を説いた儒家(じゅか)の思想とは、法家は対立している。そして、儒教的な考え方では、君子が道徳的になれば、民衆の多くも道徳的になり、政治は上手くゆくだろう、と考えるのが一般的である。

韓非は性悪説を説いた儒家の荀子に思想を学んだ。しかし、韓非は、素朴な儒教的な考え方を否定する。儒家の説く道徳などというのは、しょせんは個人的な好き嫌いであり、社会のことを考えて作られた法律を超越するものではない、と。

韓非の思想

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韓非の生きていた時代は、戦国時代であり、また政治が複雑化していって巨大化していたため、君主が領内を把握しづらくなってきていたので、このような統制を重んじる思想が、政治家からは求められていた。そのため、韓非以外にも法家に属する思想家・政治家もいた[2]

「人の心が善人か悪人かという難問は、政治の実務にとっては大したことはなく、法律を徹底させるということこそが、君主にとっては大切である。」というのが、韓非子の考えである。

韓非は、けっして善意にもとづく人情の価値をすべて否定しているのではなく、人情が法律をないがしろにすることを批判しているのである。個人の人情よりも、法律のほうが客観的であり、法律を重視すべき、としたのである。

また、民衆にとっての道徳と、君主にとっての道徳とは違うのである、と韓非は考えたのである。

たとえば、世間一般での、母親による子どもへの愛情について、韓非が言うには、(意訳すると)「実際に子どもを救うのは、医師や教師である。医師は病気やケガの治療によって人々を救う。」「教師は、教育によって、子どもが悪人になるのを防ぎ、結果的に人々を救うのである。」「医師も教師も、その人への愛情はあまり無いだろうが、しかしその人を確実に救っているのである。」「確かに肉親による愛情は深いことは事実だろうしが、それ自体は、直接は人々を救わないのである。」「だから、こどもは母親の命令に従うよりも、父親の命令によく従う。そして父親の命令に従うよりも、役人の命令によく従う。」と述べている。[3]

また、君主のありかたについて、韓非は「君主は、人を信じてはいけない。なぜなら部下にとっては、もし君主が死ねば、そのぶん自分たちの官位が上がる。また、同盟国など他国は、もし同盟国などを信用すれば、裏切って手薄な警備のところを侵略してくる。だから君主は、つねに裏切りには対策しておかねばならない。」みたいなことを述べている。[4]

法律を犯した者の事情も考えずに、法律を犯した者を処罰することは、人情味は無いなどとして民衆などには憎まれるが、しかし、そのように例外を認めずに処罰をすることによって、法律を侵す者が減り、結果的には社会を安定させることができるのである。これこそが君主にとっての道徳であると、韓非は考えたのである。

影響

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戦国時代の秦王・政(のちに秦の始皇帝)は、この韓非の時代と同じ時代の人間である。『韓非子』[5]に秦王は感激し、始皇帝の政治にも韓非の思想が採用された。しかし、始皇帝の政治は、中国を統一するまでは、なんとか上手くいったが、彼の死後に秦帝国はすぐに滅亡する。統一から、わずか15年後のことだった。

脚注

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  1. ^ 後年の人々は彼のことを敬して韓非子と呼ぶ。ここでは、歴史上の人物は韓非、著書を『韓非子』とする。
  2. ^ 詳しくは高等学校倫理/諸子百家の思想世界の大思想・哲学中国史/戦国時代などを参照のこと。
  3. ^ 『要説 諸子百家・文章』p.51、p.55
  4. ^ 同上p.52
  5. ^ 厳密には「孤憤」「五蠹」の二篇。

参考文献

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  • 『要説 諸子百家・文章』日栄社、昭和45年