高等学校地理探究/アフリカ

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 テレビ番組でも、アフリカを紹介する時、よく自然や動物が取り上げられます。一方で、支援先・市場先・レアメタルなどの資源開発地として、日本とアフリカの関係はますます深まっています。アフリカの多様な様子を学んでいきましょう。

広大なアフリカと人々[編集]

広大なアフリカ大陸[編集]

 アフリカ大陸の面積は3000万平方キロメートル以上あり、その大きさはアジアに次いで2番目に大きい大陸です。東西の最長距離は西経17度から東経51度まで約7400kmあり、おおむねヨーロッパの最西端からカスピ海までです。南北の最長距離は北緯37度から南緯35度まで約8000kmあり、大陸のほとんどは南北回帰線より低緯度に位置しています。赤道に沿って、ギニア湾南部・コンゴ盆地・ケニア中央部などが広がっています。中でも、マダガスカル島はアフリカ大陸の南東に位置していて、日本の約1.5倍の大きさです。

多様な民族と生活[編集]

 様々な民族がアフリカに暮らしており、約1000種類の言語を使い分けているようです。その分布はサハラ砂漠を境界に、北は北アフリカ、南は中南アフリカに分かれています。この項目では、中南アフリカについてしか説明していません。次の節で、北アフリカについて説明します。

 各民族がそれぞれの言語を持ち、現在でも中南アフリカの各地域は旧宗主国と経済的・文化的に繋がっています。そのため、宗主国の言語(英語やフランス語など)が公用語となっています。植民地時代にはキリスト教が広がりました。また、イスラームがサハラ砂漠南部のサヘル地域、アフリカ東海岸のソマリアやタンザニアで広まりました。また、東海岸のムスリム商人がインド洋で貿易を盛んに行っています。その結果、今でもムスリムが多く、アラビア語由来のスワヒリ語やアムハラ語などが使われています。4世紀中頃、エジプトはエチオピアにキリスト教を伝えました。エチオピア正教は、現在もエチオピアの主要な宗教です。今でも精霊信仰(アニミズム)やアフリカの伝統的な祖先崇拝を大切にしている地域もあります。

 人種隔離政策(アパルトヘイト)時代の南アフリカは世界から孤立していました。人種隔離政策(アパルトヘイト)の撤廃後、南アフリカは急速に世界経済とつながり、経済成長を遂げました。

歴史的背景[編集]

イスラームの影響を受けた北アフリカの文化[編集]

 古代エジプト文明が四大文明の一つとして紀元前30世紀頃から栄えていました。その頃から、北アフリカはサハラ砂漠を横断する豊かな交易地域として、長い間イスラームの影響を受けました。7世紀にアラブ人がやって来ると、先住民族のベルベル人は、現在のマグレブ諸国で暮らしていました。マグレブ諸国とは、アラビア語で「太陽の沈む国」を意味します。エジプトを除く北アフリカにある国々(チュニジア・アルジェリア・モロッコなど)で、複数の小さな国から成り立っています。アラビア語とイスラームはアラブ民族の住むアラビア半島から伝わり、マグレブ諸島にも伝えられました。

ヨーロッパの進出と奴隷貿易[編集]

三角貿易の地図

 15世紀中頃から大航海時代が始まり、アフリカと交易しました。その後、ヨーロッパ諸国はインドまでの海洋航路を求めて、アフリカ沿岸部に港をつくりました。インド洋の東沿岸でもムスリム商人が賑わっていました。16世紀になって、奴隷がアフリカから新大陸の植民地に送られ、インディオの代わりに働かされました。17世紀に入って、南北アメリカ大陸でプランテーション農業が発達すると、三角貿易で奴隷も次々と送られるようになりました。三角貿易で、奴隷がアフリカからアメリカ大陸に輸出されました。雑貨・銃はヨーロッパからアフリカに輸出されました。砂糖・煙草・珈琲はアメリカ大陸からヨーロッパに輸出されました。ヨーロッパの豊かな富が、産業革命を実現させました。一方で、奴隷はアフリカから1000万人以上連れ去られたと考えられています。

植民地支配の歴史と影響[編集]

1912年のアフリカ

 19世紀になって、デイヴィッド・リヴィングストンヘンリー・モートン・スタンリーが奥地へ足を踏み入れました。その後、アフリカが農作物や資源の宝庫として注目されるようになり、次々と探検が行われるようになりました。ヘンリー・モートン・スタンリーは中央アフリカの横断に成功しました。また、デイヴィッド・リヴィングストンは南部アフリカの横断に成功したり、ナイル河源流の一つを見つけました。その後、金やダイヤモンドの鉱山が発見されると、列強の植民地支配は進みました。ヨーロッパ諸国は内陸部の開拓と開発を競いました。産業革命がヨーロッパで始まると、住民に聞かず、勝手に農園(プランテーション)・鉱山が開発されました。19世紀後半、コンゴ地域の支配権を巡って争っていたため、ベルリン会議が開かれました。ベルリン会議後、ヨーロッパ各国(イギリス・フランス・ドイツ・ベルギー・ポルトガルなど)がアフリカの大半を植民地化するようになりました。ヨーロッパ列強は、植民地を上手く運営するために、現地の統治者を中心とした間接支配体制を整えました。間接支配体制を維持するために、民族間の対立を利用する場合もありました。

南アフリカ共和国のアパルトヘイト[編集]

人種隔離の標識

 第二次世界大戦後の南アフリカは人種隔離政策(アパルトヘイト)をとりました。この政策によって、少数派の白人は強い権利を与えられ、黒人・有色人種・アジア人は差別されてきました。国民は、白人・黒人・有色人種(白色人種と他人種の混血)・アジア人に分かれました。人種隔離政策に基づいて、居住地域が分けられ、違う人種の結婚も禁止されました。当時、日本は重要な貿易相手国だったので、「名誉白人」と呼ばれていました。冷戦時代、南アフリカはソ連に代わる勢力として西側諸国から注目されていました。また、南アフリカは豊富な天然資源を持つと西側諸国から考えられていました。これらの理由から人種隔離政策(アパルトヘイト)は1991年まで続きました。冷戦体制が終わると、人種隔離政策(アパルトヘイト)の撤廃を求める声も高まりました。1994年、初めて総選挙でどの人種か関係なく誰でも同じように投票出来るようになりました。その結果、ネルソン・マンデラが大統領に選ばれました。ネルソン・マンデラ大統領は、人種隔離政策(アパルトヘイト)をなくすため、撤廃運動を長年続けてきた人物です。

アフリカの独立と多発する紛争[編集]

アフリカ各国の独立[編集]

 第二次世界大戦終了後、アフリカの独立国は4カ国(エジプト・エチオピア・リベリア・南アフリカ共和国)だけでした。第二次世界大戦後の独立運動の主役は、宗主国で教育を受けたエリート層でした。1950年代後半から1960年代にかけて、次々と独立国が誕生しました。1960年は、17カ国が独立した年なので、「アフリカの年」と呼ばれています。現在、アフリカの独立国は54カ国です。

 第二次世界大戦後のアフリカは、次第にナショナリズムが高まり、独立運動が起きました。これを受けて、ヨーロッパ諸国は、植民地の独立を認めつつ、経済利益を守りました。しかし、新しい国々は植民地時代の人為的国境をそのまま引き継ぎ、複数の民族が集まり、民族の繋がりも弱い多民族国家になりました。このような多民族国家は民族紛争を招きました。鉱物資源の豊富な国は、紛争の激しい地域によく見られます。

ルワンダの復興と発展[編集]

ントラマ教会で多数の避難民が紛争に巻き込まれ亡くなりました。

 本項目では、ルワンダについてみていきましょう。第一次世界大戦まで、農耕民(多数派のフツ族)と牧畜民(少数派のツチ族)は穏やかに暮らしてきました。しかし、第一次世界大戦後、ベルギーの支配下に入り、ツチ族がフツ族を支配する上下関係がさらに強まりました。そのため、両民族の関係はますます悪化しました。両民族に人種的違いは少なくても、植民地時代を通じて、少数派のツチ族は多数派のフツ族よりも好待遇でした。1990年から1994年にかけて、ルワンダ共和国は、ツチ族中心の反政府勢力(ルワンダ愛国戦線)とフツ族中心のルワンダ政府軍で内戦を繰り広げました。1994年、大統領の殺害後、フツ族過激派が大量虐殺を始め、大量虐殺の犠牲者も80万人から100万人になりました。その後、武装集団のツチ族が攻撃したため、約200万人が故郷を離れました。多民族が一つの政治体制の中で一緒に暮らしていけないため、民族間の対立から内戦や国家間の争いに発展する場合も珍しくありません。ルワンダ虐殺をテーマにした映画『ホテル・ルワンダ』は、日本だけでなく世界中で話題になりました。

 その後、ツチ族中心の政権が発足すると、治安の維持や雇用の創出に力を入れるようになりました。また、ツチ族中心の政権は、珈琲や紅茶の栽培だけでなく、ソフトウェア開発などのICT分野にも力を入れました。その理由を説明すると、ルワンダ虐殺を逃れて外国に渡った人々が、世界各地で生活する中で身につけた知識や技術を持ち帰ったからです。現在、ルワンダは「アフリカの奇跡」と呼ばれ、急速な経済成長を続けています。

民族と紛争[編集]

ビアフラ戦争帰還兵の障害者

 ナイジェリアはアフリカ最大の都市です。200以上の異民族が暮らしていますが、大きく分けて、北部にイスラーム信仰のハウサ族、南西部に伝統宗教信仰のヨルバ族、南東部にキリスト教徒信仰のイボ族に分けられます。石油資源を巡るビアフラ戦争が終わってから、民族はより自由になろうと努力していますが、問題は解決していません。こうした問題は、国連やアフリカ連合で解決する必要があります。アフリカの独立国と西サハラは全てアフリカ連合に加盟しています。

 アフリカ統一機構は、アフリカ諸国が平和維持のために1963年発足しました。その後、2002年になると、アフリカ統一機構がヨーロッパ連合を倣った国家統合体(アフリカ連合)に変わりました。アフリカ統一機構は、内政問題に部外者が関与してはならない考えで発足したため、紛争解決に消極的でした。その反省もあり、アフリカ連合は域内の紛争解消も目的に掲げています。パン・アフリカ主義とは、中央アメリカカリブ海諸国の黒人達を中心にアフリカの独立と統一を望む運動です。19世紀後半に、中央アメリカカリブ海諸国の黒人達がアメリカで教育を受けました。第二次世界大戦後、パン・アフリカ主義もアフリカのナショナリズムと結びつきました。

 また、武装集団がアンゴラ・シエラレオネ・リベリアなどで資金源としてダイヤモンドなどの資源を採掘した結果、内戦も長引きました。1990年代以降、冷戦体制が崩壊すると、被軍事援助国の政権も不安定になりました。その結果、ソマリア内戦などが発生しました。国連平和維持軍はこのような内戦に介入しましたが、失敗に終わりました。

民主化を求める動き[編集]

 北アフリカ諸国の長期政権が、2010年から2011年にかけて崩壊しました。その原因は、チュニジア・リビア・エジプトなどで始まった民主化運動です(アラブの春)。「アラブの春」のきっかけとして、チュニジアのジャスミン革命が挙げられます。ジャスミン革命で、インターネットにアクセス出来る若者などが街中に溢れました。エジプトでは、30年間続いた独裁政権が終わり、代わりにイスラーム主義勢力中心の政権が誕生しました。しかし、反政府活動が高まり、軍のクーデタによって政権も移りました。民主化を求める動きは、他のアラブ諸国でも政情不安の波を引き起こしました。

 政情不安から、そのような場所で反政府勢力やイスラーム原理主義組織が活動を強めています。2011年に南スーダンが独立するまで、スーダン南部のナイル・サハラ語系住民と北部のアラブ系住民の間で内戦が続いていました。

農牧業[編集]

伝統的な農業と主食[編集]

ウガンダ・カンパラのマトケ市場では、料理用バナナが販売されています。

 近代的農業は灌漑設備・農薬・化学肥料などを取り入れました。アフリカの一部地域で近代的農業を取り入れています。アフリカの場合、焼畑農業が中心ですが、半農半牧を行う地域もあり、駱駝の放牧も見られます。これまで、多くの作物を一緒に栽培する混作が頻繁に行われてきました。アフリカの伝統的定着農業では、もろこしや隠元豆(ささげ)などを同じ畑で数種類栽培します。小規模な自給的農業とはいえ、自然と上手く付き合いながら植物を育てる方法なので、旱魃でもある程度の収穫量は望めます。最後に、主食についてみていくと、次の通りです。

  • 雨の多い熱帯地域では、キャッサバ・ヤムイモなどの芋類や料理用バナナなどを栽培されています。
  • 乾燥した地域ではもろこし・トウモロコシ・粟・稗などの穀類が栽培されています。
  • 北アフリカや南アフリカ共和国では、小麦を栽培しています。

自給作物の栽培[編集]

 北アフリカの砂漠地域では、オアシスや外来河川の近くで、ナツメヤシ・小麦・野菜などを育てて食糧としています。ナツメヤシの果実は食用になり、葉は縄や籠の材料になり、幹は建築に利用されます。また、灌漑農業も行われており、地下水路(フォガラ)を作り、貴重な地下水を枯らさないようにしています。

 諺「エジプトはナイルの賜物」があるように、ナイル川の氾濫で豊かな土壌も生まれました。それを利用して、古くから農業を行っていました。現在も、エジプトの外来河川(ナイル川)に沿って広がる土地で、小麦・コメ・綿花が栽培されています。日本の政府開発援助を受けて、技術と灌漑設備が整備されるようになりました。整備後、ナイル川流域でもジャポニカ米が栽培されるようになりました。ソ連の援助を受けて、ナイル川上流のアスワンハイダムが1970年に完成しました。こうして、大洪水がなくなり、水力発電によって産業が発展するようになり、暮らしも豊かになりました。しかし、ダムの建設で、上流から豊かな土壌が増水時に下流まで届かないため、化学肥料の使用も増えました。このほか、旱魃で灌漑農地が塩害を受けたり、ナイル川デルタの海岸線も縮小したり、ナイル川河口付近のプランクトンも減って不漁になるなど、ダム建設の悪影響もあります。

 昔ながらの遊牧は、サバナ気候やステップ気候で見られます。牛は主にサバナ地域で飼育されています。一方、羊・山羊は湿潤地域で飼われます。そして、駱駝はサハラ砂漠南部からソマリア・ケニア北部までのステップ地域で飼われています。ここ最近、遊牧民が都市に移住してそこで暮らすようになりました。

商品作物の栽培[編集]

カカオ豆

 当時のアフリカはヨーロッパ諸国にほとんど支配されていたので、1種類だけ大量に商品作物を栽培して、先進国に輸出しました(モノカルチャー)。セネガルの落花生やナイジェリアのアブラヤシは、19世紀中頃からヨーロッパに輸出されるようになりました。セネガルの落花生やナイジェリアのアブラヤシは機械の潤滑油・石鹸・食用油の原料として利用されました。現在でも、両商品は重要な輸出品となっています。また、ガーナやコートジボワールは、カカオ豆(ココア・チョコレートの原料作物)を大量に栽培しています。カカオ豆は、一年中気温と湿度が高く、風もほとんど吹かない熱帯雨林気候地域の中で最もよく育ちます。しかし、カカオの樹木は、大規模なプランテーションでは上手く育たないため、家族だけで栽培しています。

Muranga Landscape
茶はケニアで一般的に栽培されている作物です。

 イギリス人は、赤道直下のケニアを植民地にしました。標高1500~2500mの高地に住み、茶や珈琲のプランテーション農業を行なっていました。ケニアが茶の栽培を始めたのは、20世紀に入ってからです。赤道直下の高山気候なので、高品質の茶葉が一年中栽培出来ます。そのため、茶葉を摘んでから1~2週間後に、次の茶摘みを行えるようになります。この地域は、白人が農場や牧場を経営していたため、白人占有農牧地(ホワイトハイランド)と呼ばれるようになりました。独立後、白人占有農牧地(ホワイトハイランド)はケニア人に譲ったので、現在も茶と珈琲はケニアの2大輸出品となっています。また、珈琲原産地のエチオピアは現在でも珈琲を中心に輸出しています。

 一方、地中海に近いモロッコ・アルジェリア・チュニジアなどの北アフリカ諸国では、商業的な農業が発達しています。温暖な地中海性気候を活かしてオレンジや檸檬、オリーブ、葡萄などを栽培しています。地中海性気候のため、南アフリカ共和国の南西部では、葡萄などを大量に栽培しています。また、南アフリカ共和国の東部高地草原はかつてヨーロッパ人によって開発されました。その後、南アフリカ共和国に譲られ、トウモロコシの栽培や企業的牧畜が行われています。しかし、伝統的な農産物輸出の大半は、1980年代以降、減少しています。その背景に近隣地域の生産量増加が挙げられます。一方、ケニア・エチオピアでヨーロッパ市場向け花卉生産などの新しい輸出農産物が登場しました。こうした商品作物の生産によって、国内の買い取り価格は低く抑えられ、生産者はあまり儲かっていません。

アフリカの人口増加と食料自給[編集]

急増する人口と低い食料自給率[編集]

 1950年、アフリカの人口は約2億3000人でした。2023年現在、アフリカの人口は約15億人です。アフリカの人口はこの73年間で約6.5倍になり、アジアに次いで2番目に多くなっています。医療や公衆衛生の整備で死亡率が下がっても、出生率が高いので、自然成長率は2.7%程度です。年少人口が多いため、2050年になると、アフリカの人口は24億人を超えると考えられています。

 人口増加に見合う量の食料を作れないため、複数の国で外国から食料を輸入しています。そのため、アフリカは食料自給率の向上につながっていません。アフリカの食料自給率を高めるために、通貨流出や穀物価格の上昇に伴う物価の高騰を防ぎ、経済を安定させなければなりません。また、アフリカで食料需要が増えると、世界でも食料不足になるため、国際社会でも食料自給体制の整備を急がなければなりません。

食料生産・流通体制の改善[編集]

 農業生産性の低さが食料自給率の悪化につながっています。植民地支配が終わってから、アフリカは輸出用の作物を中心に栽培するようになり、主食用の穀物はほんの少ししか栽培しなくなりました。農業機械の導入が遅く、化学肥料の価格も高いため、多くの農地が利用されていません。そのため、大量に食料を作れません。

 現在、アフリカでも都市化が進み、経済も成長しています。しかし、都市と農村部の経済連携は進んでいません。農産物を都市に効率よく届けるようになると、農村地域も都市の経済発展の恩恵を受けられるかもしれません。例えば、マラウイ・ザンビアの国内市場向けに、芋類が出荷されます。ここで、300人の農家が働いています。そのために、農業生産性を高め、農産物の生産・集荷・輸送・貯蔵・販売の仕組みを作っていかなければなりません。穀物だけでなく、野菜を栽培する園芸農業の整備も求められています。

 また、その土地に合った農業技術を広めていかなければなりません。国連開発計画や日本の国際協力機構などの支援を受けて、病気や乾燥に強く、豊産を見込める陸稲ネリカを開発して、世界中に広めています。農業技術を広めていけば、主食の量産体制を整備出来るでしょう。

自立に向けた取り組み[編集]

 持続的な開発を行うため、アフリカは様々な社会制度や食糧供給の安定を図らなければなりません。2003年のアフリカ連合首脳会談で、「アフリカ開発に関する新パートナーシップ」が採択されました。「アフリカ開発に関する新パートナーシップ」では、外国からの支援に頼らず、自助努力で開発を目指そうとしました。政治家の汚職を防止する法整備、紛争を解決するための仕組みの強化、教育・保健・社会基盤・産業振興など、各国間の連携が大切です。

鉱工業と貿易[編集]

注目される鉱産資源[編集]

 アフリカは、石油・石炭・ウランなどのエネルギー資源に恵まれています。また、鉄鉱石・ボーキサイト・金・銅・レアメタルなどの金属資源も豊富です。植民地支配から逃れても、内戦や独裁政権がアフリカ諸国で長続きしていました。そのため、政治状況も不安定になり、鉱山開発が遅れていました。近年、外国からの投資や需要の増加によって、各国間の資源開発競争も激しくなっています。鉱山開発は、資源確保と重機メーカーの市場拡大につながっています。例えば、ギニアはボーキサイト、ザンビアは銅、ニジェールはウラン、モロッコとリベリアは鉄鉱石の最大輸出国になっています。しかし、資源分布の偏りは、資源を輸出出来る国と資源を輸出出来ない国の間に経済格差を生みます(南南問題)。また、資源の輸出後に儲けたお金を一部の人が独占しているため、貧富の差も大きくなっています。

資源に恵まれた国々[編集]

 ナイジェリアはアフリカ最大の産油国です。ビアフラ地方を中心に石油が埋蔵されています。輸出の8割以上が石油と石油製品で、そのほとんどをアメリカに輸出しています。アンゴラはアフリカ第2位の産油国です。2002年の内戦終結後、油田開発に力を入れ、石油の約半分を中国に送っています。アルジェリアの石油は、国全体の輸出の約4割を占めています。また、天然ガスも多く埋蔵しており、地中海横断パイプラインを通してヨーロッパ諸国へ送られています。今世紀に入って国際連合がリビアの独裁政権に対して経済制裁を緩めてから、リビアでも急速に油田開発を進めています。さらに、エジプトは石油製品や原油を大量に輸出しています。このように、アフリカ各国は原油や天然瓦斯を産出して、欧米諸国へ送っています。

 カッパーベルトは、コンゴ民主共和国とザンビア共和国の国境にあります。銅鉱石がカッパーベルトで採掘され、タンザン鉄道を経由して出荷されます。タンザン鉄道は、タンザニアのダルエスサラームとザンビアのカピリ・ムポシを結んでいます。中国からの支援も受けて、1975年に完成しました。かつてコンゴ民主共和国とアンゴラを結んでいたベンゲラ鉄道は、アンゴラの内戦で破壊され、現在修復を行っています。南アフリカは、石炭(トランスヴァール炭田)・金・クロム・プラチナ・バナジウム・チタンなどに恵まれています。ボツワナ共和国・コンゴ民主共和国・アンゴラ共和国は、ダイヤモンドを豊富に産出しています。南アフリカ共和国は、レアメタルも豊富に産出されています。また、コンゴ民主共和国は、他国よりもコバルトを大量に産出しています。

未発達な工業[編集]

 アフリカの工業化は遅れています。植民地時代は、鉱産資源の採掘・販売を制限して、アフリカを工業製品の市場として販売しました。その影響で、独立後も内戦や不安定な政治が続き、所得水準も低かったため、国内市場が弱く、工業の発展も遅れました。今でも、電力供給・鉄道・港湾・金融制度・就学者数などは、決して恵まれているようには思えません。

Map of Africa by 2020 nominal GDP per capita (USD)
アフリカのGDP

 対外債務の増加・モノカルチャー経済への依存・工業化資金の不足などが原因で、何カ国も破綻しました。こうした中、国際通貨基金と世界銀行は、構造調整政策に取り組むように求めました。構造調整政策によって、アフリカ諸国も計画経済から自由市場へと移行しなければ新たな融資を行えなくなりました。複数の国がこれを受け入れて市場経済化を進めると、一部の国で国内総生産が増加しました。しかし、貧富の差はさらに広がりました。リベリア・シエラレオネ・スーダン・コンゴ民主共和国などでは、内戦の影響で経済成長も遅れました。また、内陸国も経済成長に影響を与えるかもしれません。アフリカ南部の国々は、周辺諸国と経済協力しているので経済も成長しています。

 1980年代以降、内戦や旱魃などの影響でアフリカ経済は伸び悩んでいました。しかし、2000年代に入るとアフリカ経済は回復に向かいました。この場合、鉱産資源の価格は国際市場で上がっています。ボツワナなどの一部の国で、輸出指向型の工業化を進めて、モノカルチャー経済から抜け出し、一人当たりの国内総生産を増やしました。

資源を活かす工業化[編集]

 鉱産資源の豊富な国は、原料地指向型の工業化が進んでいます。リビア・アルジェリア・ナイジェリアなどの産油国では、石油精製業や石油化学工業が発達しています。ザンビアは銅鉱石を多く産出するため、ザンベジ川のカリバダムによって銅の精製業が発展しました。一方、南アフリカ共和国は、サハラ以南のアフリカで圧倒的な地域大国となり、工業製品の輸出を中心に取引されるようになってきています。鉱業や醸造業などの世界的な企業を数多く持ちます。ヨハネスブルグにはアフリカ最大の証券取引所もあり、アフリカと世界経済を結ぶ役割を果たしています。元々BRICsは4カ国を表していました。これに、南アフリカ共和国も加わり、BRICsのSが大文字に変わりました。鉄鋼・機械工業・自動車工業などで、周辺国から出稼ぎ労働者が集まって働いています。また、チュニジアとモロッコは、石油・天然瓦斯・様々な工業製品をヨーロッパにほとんど輸出しています。北アフリカのチュニジア・モロッコ・エジプトは元々人件費も安いので、衣料・皮革・食品工業などの軽工業が主要な産業となっています。さらに、電気・機械の部品をヨーロッパへ輸出しています。

モノカルチャー経済からの脱却と多角化[編集]

 これまで、アフリカの複数の国では、工業製品を輸入して、一次産品を輸出する貿易を行っていました。一次産品とは、自然から育てられ、採取され、そのまま利用される産品をいいます。例えば、農畜産物・林産物・水産物・鉱産物などが一次産品にあたります。一部の農産物や鉱物資源の輸出が行われる限り、モノカルチャー経済(単一経済)も続きます。そのため、世界経済の変化に弱く、高付加価値産業の育成や産業の多角化にも問題が出てきています。ガーナは、カカオ豆のモノカルチャーから抜け出すため、アコソンボダムの水力発電を使ってアルミニウムの製造を盛んに行いました。ヴォルタ川のアコソンボダムは、1965年に建設されました。貯水量が少ない乾季になると、発電量も減少します。しかし、旱魃に伴う電力不足や、他国との競争が激しくなるなどの問題が発生します。一方、第三次産業は非常に素晴らしい成長を遂げています。

日本とアフリカの貿易[編集]

 カカオ・珈琲・タコ・白身魚・グレープフルーツ・薔薇など、多くの農水産物がアフリカから日本に輸出され、日本人の生活に役立っています。また、スマートフォンやハイブリッド車の生産に、アフリカ産のレアメタルが必要です。日本はこのような一次産品を中心にアフリカから輸入しています。一方、アフリカ諸国の経済が発展すると、自動車需用も増えます。このため、日本は新車・中古車・トラック・自動車部品などをアフリカに大量に輸出しています。

日本のアフリカへの支援[編集]

 日本はアフリカから多くの農水産物や鉱物資源を輸入しています。しかし、アフリカ諸国は貧困や内戦などの問題を抱えています。そこで、日本政府は政府開発援助非政府組織を通じて、教育・医療・輸送インフラの整備・貧困削減・平和構築・環境保全などの支援を続けています。このように、「人間の安全保障」の考え方から、人間の生存を重視します。その背景から、日本人はタンザニアの農村開発やニジェールの学校建設や教育制度の整備を進めています。また、今後のアフリカ社会を引っ張っていく人材も育成しています。

アフリカへの日系企業進出[編集]

 製造業や資源関連産業を中心に日系企業のアフリカ進出が進んでいます。例えば、南アフリカ共和国では、日本企業の自動車製造や鉱山開発などが行われています。しかし、2000年代以降、消費市場の高まりから、化粧品・家電製品・調味料・缶詰などの分野でも日系企業のアフリカ進出が進んでいます。近年、発展途上国の低所得者にも、BOPビジネスの支援が行われています。蚊帳・乳幼児向け栄養食品・アルコール消毒液など、日本企業の技術協力によって、発展途上国の低所得者に届けられています。経済的貧困者(Base of the Economic Pyramid:BOP)とは、世界で最も所得の低い人々を指す言葉です。BOPビジネスは、世界人口の7割を占める経済的貧困層を対象にしています。水や生活必需品の提供、貧困の削減など、現地の様々な課題を解決出来るでしょう。BOPビジネスの具体例として、ウガンダ産のサトウキビが挙げられます。ウガンダ産のサトウキビを材料にして、アルコール消毒液を日本の技術や品質管理の手法で生産しています。このアルコール消毒液は、医療機関の衛生環境改善・院内感染の防止に役立ちます。

生活の変化と他地域との結びつき[編集]

新興市場としてのアフリカ[編集]

アンゴラ首都ルアンダの中心部(2015年)

 21世紀から、農作物も鉱産資源も値上がりしたので、アフリカの経済が潤っています。このような理由から、近年、アフリカの人口も首位都市に集中しています。農村の出稼ぎ労働者は、同郷の出身者同士で就職の支援を受けたり、生活の面倒を見たりしています。そのため、民族集団が違えば、職業も変わります。そうした職業の多くは路上販売者のようなインフォーマルセクターです。ナイジェリアやアンゴラなどの石油資源国でも、都市部を中心に高層ビルやショッピングモールが建設されています。各国で、携帯電話の利用者や自動車・家電などの耐久消費財の購入者が急速に増えています。外資系企業の進出も進み、内戦や紛争などの危険はあっても、さらなる市場の拡大や地域の成長が期待されています。

北アフリカと他地域との結びつき[編集]

 北アフリカ諸国は豊富な石油資源に恵まれているので、軽工業が発達しています。また、地中海の温暖な気候を求めて、北アフリカ諸国に向かう観光客も増えています。例えば、アフリカ主要都市とヨーロッパまでを地中海経由で結ぶ直行便が複数あります。このような理由から、外国人向けの観光業がエジプト・ケニア・タンザニアで重要な産業になっています。また、北アフリカからヨーロッパまでパイプラインが通っており、天然瓦斯を運んでいるので、貿易も盛んに行われています。パリやロンドンでは、アフリカ諸国からの移民も数多く住んでいます。

サハラ以南のアフリカが抱える課題と自立への取り組み[編集]

 サハラ以南のアフリカ諸国は、海外からの債務を抱えており、自力で経済を回せません。国内の貧富の差も大きく、マラリア・ヒト免疫不全ウイルス・エボラ出血熱・COVID-19などの感染症も問題になっています。このような背景から、観光産業・情報通信技術産業を発展させて、豊かな自然や文化を生かし、経済の多様化を図ろうとしています。また、先進国からの支援を受けて、自立を目指しています。近年、中国は資源を手に入れるためにアフリカへ進出しており、経済・政治の両面で関係を深めています。

両地域との結びつきを深める中国[編集]

 中国は、銅の輸出をしやすくするために、内陸国のザンビアからタンザニアを結ぶタンザン鉄道の建設に協力しながら、それまでの友好関係をさらに深めています。中国は銅やレアメタルを輸入したいと考えています。しかし、中国製格安輸入品の増加によって、ザンビアやタンザニアで工業発展の遅れや中国人労働者に雇用を奪われるなどの問題も起きています。

地形と気候[編集]

安定陸塊と大地溝帯[編集]

 アフリカ大陸は全体が台地になっており、アフリカプレート上の安定陸塊です。マダガスカルも安定陸地なので、固有種も数多く生息しています。その理由は、長い間、本土から切り離されたため、動植物も独自の進化を遂げたからです。標高200m以下の低地は全体の1割程度なので、海岸線に広い平野はあまり見られません。紅海・エチオピアからヴィクトリア湖・ザンベジ川河口まで、標高2000m以上のエチオピア高原、アフリカ最高峰のキリマンジャロ山などの火山、タンガニーカ湖やマラウイ湖などの断層湖が広がっています。アフリカ大地溝帯(グレートリフトヴァレー)は、最も広い箇所で幅100km、全体で7000kmもある大きな断層帯です。また、火山地帯なので、地震もよく起こります。地球の内部からマントルがアフリカの大地溝帯で出てきます。上昇流が周辺の地殻を押し上げているので、プレートが東西に割れています。将来、大地溝帯がアフリカを東西に分断すると考えられています。アフリカ大地溝帯では、現世人類の化石がたくさん見つかっているので、人類進化の舞台になりました。

低い台地と高い台地[編集]

 北アフリカからコンゴ盆地にかけて、標高200~1000mの比較的低い台地が続いています。その東部をナイル川が流れ、その河口に大きな三角州を形成しています。一方、北西部には新期造山帯のアトラス山脈があり、険しい山が連なっています。全長6695kmのナイル川は、世界で一番長い川です。南スーダンからハルツームまでの本流(白ナイル)は、赤道地帯から流れています。白ナイルはハルツームから南スーダンに流れています。ハルツームで、水量豊富な青ナイル(エチオピアのタナ湖源流)に合流します。

 ギニア湾中央沿岸地域は、海岸から急に高度を上げますが、サハラ砂漠に向かうにつれて、標高の大幅な減少が見られます。そのため、ニジェール川の上流部はサハラ砂漠に向かって流れますが、途中で南東に変わり、ギニア湾に注いでいます。コンゴ川中流のコンゴ盆地は、キサンガニからキンシャサまで河川交通は賑やかですが、コンゴ川の下流は急流なので河川交通も閑散としています。

 コンゴ盆地南部からアフリカ大陸最南端まで、標高1000m以上の高い台地が続きます。南アフリカ共和国のメサで先カンブリア時代の硬い岩盤層の台地(テーブルマウンテン)が見られます。古期造山帯のドラケンスバーグ山脈は、南アフリカ共和国の南東部にあり、石炭の産出地になっています。

赤道を中心に広がる気候帯[編集]

植生の季節変動、2月と8月

 アフリカの気候区分は、赤道から高緯度にかけて帯状に近い形で変化します。その理由として、アフリカ大陸に天候を大きく左右する山脈があまり見られないからです。したがって、アフリカ大陸に亜寒帯気候や寒帯気候がありません。気候区分は、熱帯気候(約4割)・乾燥気候(約5割)・温帯気候(約1割)になります。

アフリカ北部の気候[編集]

 コンゴ盆地周辺とギニア湾沿岸は、熱帯モンスーン気候です。コンゴ盆地は赤道を通っているので、熱帯雨林気候です。これらの地域は、エボラ出血熱やマラリアの流行地域としても知られています。熱帯雨林気候の北と南は、サバナ気候です。まばらな草原が広がり、乾燥していてもバオバブの樹木などは耐えられます。一方、北東部のエチオピア高原は高山気候です。日中は暖かく乾燥していて過ごしやすく、標高5000m以上の高地(ケニア山やキリマンジャロ山など)では万年雪が見られます。

 サバナ気候の高緯度側にステップ気候が広がり、さらに進むと砂漠気候に変わります。アフリカ北部では、亜熱帯高圧帯の真ん中に北回帰線があります。北回帰線の周辺に世界最大のサハラ砂漠が広がっています。また、ソマリア半島も砂漠気候になります。高緯度のアトラス山脈より北側は、温暖な地中海性気候です。人が暮らせるオアシスやワジも見られます。サハラ砂漠の東部に、世界最長の外来河川(ナイル川)が南から北へ流れています。サハラ砂漠の面積は860万㎡で、西側に岩石砂漠(ハマダ)が数多く広がり、東側に砂砂漠(エルグ)が広がっています。ワジにオアシス集落が広がり、交易に駱駝が使われてきました。

アフリカ南部の気候[編集]

 ベンゲラ海流が寒流を北上させるため、アフリカ南部の西海岸にあまり雨が降らず、ナミブ砂漠のような海岸砂漠も残ります。一方、暖流のモザンビーク海流は、アフリカ南部の東海岸に暖かく湿った空気を運びます。そのため、低緯度側で南北方向にサバナ気候が広がり、高緯度側で温帯湿潤気候が広がります。アフリカ大陸の南端は地中海性気候ですが、内陸部はステップ気候や温帯冬季少雨気候が広がっています。南半球の温帯冬季少雨気候は4月から9月まであまり雨が降りません。一方、南半球の地中海性気候は11月から3月まであまり雨が降りません。マダガスカルは南東貿易風帯にあります。このため、東側は上昇気流の影響で雨量も増えます。1月から3月になると、サイクロンの影響も受けます。一方、国土の南西部は下降気流になるので、乾燥気候になります。