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高等学校政治経済/経済/第二次大戦後の国際経済の歴史

出典: フリー教科書『ウィキブックス(Wikibooks)』

第二次大戦後の経済体制

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金本位制とその崩壊

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世界恐慌の後、欧米主要国はブロック経済を推し進めた。そのようなブロック経済が国家間の対立を生んで戦争の一因になったという反省にもとづき、第二次大戦期の終盤ごろから、戦後の国際経済のありかたが国際会議で話し合われた。

1944年にアメリカのブレトンウッズでの国際会議が話し合われ(ブレトンウッズ会議ブレトンウッズ合意、Bretton Woods Agreement)、それらの会議などにより、自由貿易が推進され、また国際的な経済の安定化のため国際通貨基金(IMF、1947年〜、International Monetary Fund)や国際復興開発銀行(IBRD、1946年〜、International Bank for Raconstructuion)が設立された。

また、関税及び貿易に関する一般協定GATT、「ガット」、1948年発効、General Agreement on Tariffs and Trade)では関税の引き下げなどの自由貿易が目指された。このような第二次大戦の経済秩序をブレトン・ウッズ体制またはIMF=GATT体制という。

第二次大戦後、外国為替相場は金(きん)に裏付けされた金本位制だった。金1オンス=35ドル の交換をアメリカ合衆国が保証し、また、各国は自国通貨を一定額のドルと交換する固定相場制だった(戦後当初の日本は、1ドル=360円)。

しかし、しだいにアメリカ合衆国から金が流出していき、そのため、ついに1971年にアメリカのニクソン大統領(Nixon)が金とドルとの交換を停止すると発表した(ニクソン・ショック)。

これにより、固定相場が崩れた。

そのあと、ドルの切り下げ(1オンス=38ドル、1ドル=308円とするなど)で、固定相場制の維持を目指すスミソニアン協定がなされたが、しかし固定相場を維持できず、最終的に先進国は1973年から変動相場制に移行した。(つまり、スミソニアン協定は失敗した)

1976年にIMFが変動相場制を正式に追認した(キングストン合意、Kingston System)。(つまり実質的に、スミソニアン協定の失敗をキングストン合意で認めた事になる)

1980年代、レーガン大統領のレーガノミクス(Reganomics)と言われる政策により、財政赤字と貿易赤字の双子の赤字(ふたご の あかじ)が発生した。ドル高の是正(ぜせい)のため(つまり、これからドル安にするため)、1985年には、各国が協調してドル安にするために為替介入するという合意(プラザ合意)がなされ、ドル安が進んだ。

プラザ合意の成果が行き過ぎ、急激なドル安になったので、こんどは1987年の先進国首脳会談(G7会議、サミット)で、ドル安を抑えようという合意(ルーブル合意、Louvre Accord)がなされた。


※ なお、G7(ジーセブン)会議の構成国は、1975年ごろの先進国首脳会談(サミット)の参加国の6カ国が元になっている。
そもそも1975年ごろのサミットのメンバー国は、アメリカ・イギリス・フランス・西ドイツ・イタリア・日本 の 6か国 である(この6か国のことをG6という)。
その後のサミットで、参加国がしだいに増えたこともあり、参加国の数に応じてG7やG8と言われるようになってきた。
G7(ジーセブン)は、歴史的にはG6にカナダを加えたもの。つまりG7とは、アメリカ・イギリス・フランス・西ドイツ・イタリア・日本・カナダ の 7か国 である。
なおG8(ジーエイト)は、冷戦の終了後、G7にさらにロシアを加えたもの(1998年から「G8」という語が公式に使われ始めた)。つまりG8とは2019年現在では、アメリカ・イギリス・フランス・西ドイツ・イタリア・日本・カナダ・ロシア の 8か国 である。また、この頃、サミットが「主要国首脳会談」とも呼ばれるおうになった。
2014年のロシアのクリミア編入やウクライナへの軍事介入が国際的に非難されたので、2014年以降、ロシアは先進首脳会談への参加を禁止されている。
なお、「G10」とはIMFの主要参加国の10カ国のことであり、サミットの参加国とは異なる。

国際貿易のWTO化とFTA化

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2019年現在、国際貿易の枠組みとしてWTO(世界貿易機関)があるが、これは1980年代後半〜1990年代前半の貿易交渉であるウルグアイ・ラウンドという交渉がもとになったものである。(ウルグアイラウンドは交渉の名前。 協定の名前ではないので、勘違いしないように。)

WTOより前の国際貿易の枠組みは、GATT(ガット)という協定だった。

  • 全体像

第二次大戦後の日本は当初、国際貿易はWTOによる加盟国内での差別のない貿易を中心としており、二国間貿易のFTA(自由貿易協定)には消極的だった。しかし、(1990年ごろには方針が転換され、)2002年にシンガポールと日本のEPAを皮切りに、以降は日本はFTAにも積極的に乗り出すようになった[1]


  • 経緯

第二次大戦前のブロック経済が国家間対立を生んだという反省もあり、1948年の関税及び貿易に関する一般協定GATT、「ガット」、General Agreement on Tariffs and Trade)では関税の引き下げなどの自由貿易が目指された。

GATTの特徴として、すべての加盟国を平等に扱う( 無差別・最恵国(さいけいこく)待遇 )という仕組みがあり、GATTは「自由・無差別・多角」の3原則を掲げてスタートした。

そして、GATTは発足以来、さまざまな多角的貿易交渉ラウンド、Round)を行い、それを通じて、加盟国の関税の引下げなどを実現してきた。

1963年のケネディ・ラウンド(Kennedy Round)では、一括して工業製品の関税を平均35%引き下げた。 1993年代のウルグアイ・ラウンドで(Uruguay Round)は、農産物も例外無しとして議論が及び、また、サービス貿易や知的財産権(特許権、著作権、商標権などのこと)の国際ルールについても、議論が及んだ。

(なお、1973年〜79年には、東京ラウンドが開催されている。)

そして、1995年には、ウルグアイ・ラウンドでの合意にもとづき、GATTを発展させた世界貿易機関WTO、World Trade Organization)が設立された。そして当初のWTOはウルグアイ・ラウンドの合意内容を実施していった。 近年では2001年に中国がWTOに加盟した。

また、2001年からカタールのドーハでドーハ・ラウンドが開かれ、交渉が続いている。ドーハ・ラウンドの交渉は難航しており、停滞している。

ドーハ・ラウンドの難航もあり、各国は、ラウンドによる一括的な貿易自由化ではなく、2国間の自由貿易協定FTA)などで貿易の自由化を進め、国際競争に勝とうとしている。

  1. ^ 帝国書院『06地理探究_内容解説資料.pdf』