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高等学校日本史探究/古代国家の形成Ⅲ

出典: フリー教科書『ウィキブックス(Wikibooks)』
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近江王朝と壬申の乱

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中大兄皇子は琵琶湖近くの大津に都を移しました。大津なら朝鮮半島との外交・貿易がしやすく、新しい国づくりの象徴にもなると考えたからです。その後、中大兄皇子は正式な天皇(天智天皇)になり、国家の発展を目指しました。

天智天皇が国を上手く治めようと考えて、7世紀後半に様々な改革を始めました。668年、当時の法律集(近江令)をまとめました。一方、近江令の内容に関して緩い内容だったという歴史学者もいます。また、天智天皇は670年に人口調査もしました。どれくらいの人が住んでいるのか調べて、庚午年籍にまとめました。庚午年籍の記録は残っておらず、人口調査がその後の新しい制度(公民制)につながりました。

庚午年籍
7世紀後半、朝廷は国民全員の名前を初めて記録しました(庚午年籍)。庚午年籍から初めて人々に苗字(姓)をつけました。庚午年籍が律令国家の身分制度の基礎になりました。調査は地域ごとに行われ、各地域で別々の帳面を記録しました。これは平安時代の古い文献を見ると分かります。朝廷は庚午年籍の情報から税金を集めやすくなり、兵士も集めやすくなりました。一方、地方の豪族は大きな不満を抱えるようになりました。この不満が壬申の乱の原因になり、近江朝廷も崩れました。

天智天皇が671年に亡くなります。その後、誰が次の天皇になるかで大きな戦いになりました(壬申の乱)。壬申の乱の主役は大友皇子大海人皇子でした。大友皇子は朝廷の役職についていましたが、大友皇子の母親が地方の豪族出身なので、天皇になるのは難しいと言われていました。また、大海人皇子の後継者問題とか鸕野皇女(持統天皇)の考えとかも壬申の乱に深く関わっていました。大海人皇子は吉野から東国に逃げて、そこで数万人の兵を集めました。大海人皇子は大和の地方豪族も味方につけて、一気に反撃を始めました。一方、大友皇子は白村江の戦いで疲れており、西の地方豪族も不満を持っていたため、味方の兵士もあまり集まりません。やがて、大海人皇子が飛鳥の都を占領してから、近江の大津宮まで攻めて勝ちました。一方、大友皇子は負けたので、自分の命を絶ちました。こうして、壬申の乱も終わりました。なお、大友皇子は後に弘文天皇と呼ばれるようになりました。しかし、歴史学者の間で本当に天皇になったのかについて今でも意見が分かれています。

673年、飛鳥浄御原宮で大海人皇子が天皇になりました(天武天皇)。この時、統治者の名前を「大王」から「天皇」に変えました。当時の中国は東アジアで最も強く、中国の指導者は「皇帝」と呼ばれていました。また、新羅の指導者は「国王」と呼ばれ、中国から認められていました。日本は自国の立場を示すために、新しい名前も必要だと考えました。第1に、中国の「皇帝」と日本の統治者の立場は同じと示すために日本の統治者を「天皇」に変えました。第2に日本の統治者は新羅の「国王」より上の立場と示すために日本の統治者を「天皇」に変えました。このように、天武天皇は称号を変えて、自国の大切さを他国に示そうとしました。

君主の呼称変更時期
最近、君主の呼称変更時期について新しい歴史研究が進みました。「これまで、君主を大王と呼んでいました。推古天皇の時代になると、君主は天皇に変わりました。」と歴史の授業で教わりましたが、間違いかもしれません。次の2点がその理由として挙げられます。第1に、法隆寺金堂釈迦三尊像光背銘・天寿国繍帳銘・野中寺弥勒像台座銘などの金石文が推古天皇の時代に記されていないからです。第2に、天武天皇時代の日本は唐の文化を数多く取り入れており、唐より先に「天皇」を使うのは考えられないからです。さらに、飛鳥池遺跡から677年に木簡が見つかりました。この木簡に「天皇」「皇子」と記されていました。このような考古学研究から、「天皇」は、天武天皇の時代から使われ始めたのではないかと考えられるようになってきています。

7世紀後半の国内政治はかなり大きく変わりました。第1に、朝廷は国家の名前を日本と決めました。第2に、支配者を天皇と呼ぶようになりました。第3に、国家の法律(律令制度)も整いました。また、兵士は戦いに勝つために伊勢の神へお願いしました。その後、伊勢の神はとても大切な神として伊勢神宮に祀られるようになりました。

天武・持統朝の政治改革

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7世紀後半、天武天皇は新しい政治の仕組み(皇親政治)を取り入れました。新しい政治の仕組みに天皇の親戚(皇族)を取り入れました。一方、大臣は新しい政治でお役御免となりました。鶴野皇女(天智天皇の娘)・草壁皇子・大津皇子・高市皇子・諸王などの皇親が朝廷の重要な役職に就きました。当時の唐と新羅が曖昧な関係なので、それに対応するためでした。天皇の親戚(皇族)が朝廷の偉い役職から地方の役人までを任されるようになりました。一方、氏族層は朝廷内の実務担当として働くようになりました。皇親政治は律令国家の完成まで続きました。

天武天皇は当時の絶対的な権力者でした。都の周りに兵を置いて、軍事力を高めました。その後、天武天皇はその人の実力とどれだけ忠実か大切にするような政治の仕組みに変えようとしました。そのため、採用基準の設定と勤務評価制度などを取り入れしました。また、家柄で役人を選ぶような仕組みをなくしたり、役人全員に給与を払う仕組みを取り入れたりしました。こうして、役人は天皇直属の朝廷で直接働きました。

7世紀後半、天武天皇が日本の統治体制を整えるために様々な改革を行いました。第1に、身分の順番をはっきりさせました。皇族と家来(諸臣)に分けて、皇族を家来よりも上の地位にしました。また、支配者全員で国の政治に携われるように、皇族にも家来の仕事を与えました。第2に、歴史書の編集も始めました。天武天皇中心の歴史書(古事記)と正式な歴史書(日本書紀)を記しました。どちらも大変有名な歴史書です。

684年、天武天皇は新しい身分制度を定めました(八色の姓)。新しい身分制度は8段階の身分(真人・朝臣・宿禰・忌寸・道師・臣・連・稲置)に分けられました。そして、真人・朝臣・宿禰・忌寸の姓は朝廷の高官に就けました。臣とか連とかの氏族でも天皇に気に入られると、朝臣とか宿禰とかの姓に上がりました。一方、天皇に嫌われると氏族の姓は変わらず、地位も下がりました。このように、天武天皇は各氏族の新しい順位を決めました。

天武天皇は国家をさらに治めやすくなるように、様々な規則を作ったり、制度を整えたりしました。例えば、日本のお金(富本銭)を作ったり、新しい都(藤原京)を建てようとしたりしました。また、国の規則(律令)を定めたり、日本の歴史をまとめたりしました。残念ながら、天武天皇はこのような大きな計画を残したまま亡くなりました。

富本銭

鶴野皇女(持統天皇)は、国民を上手に治める仕組みを作りました。689年、飛鳥浄御原令を定めて、その法律から戸籍(庚寅年籍)を作成しました。朝廷は国の中を分けて管理するために、4段階の仕組み(国・評・里・戸)を作りました。この時、朝廷は成人男性の数で家族の大きさを決めました。成人男性は兵士の数に繋がりました。それに、定期的に人口調査をして、人口がどのくらい増えたり減ったりしているのかを調べました。その結果、朝廷はいつでも国内の様子が分かるようになりました。また、持統天皇は土地にも目を向けました。班田使を地方に送って、田畑などを調べさせて、みんなに公平に分ける仕組み(班田収授制度)を作りました。班田収授制度は、税金をちゃんと集めて、農家の生活も安定させるために取り入れました。こうして、持統天皇時代の様々な制度は奈良時代から平安時代の国の運営に大切な土台になりました。

持統天皇が中心になると、新しい都(藤原京)を建てました。藤原京はこれまでの都と全く異なり、道路まで碁盤の目みたいに綺麗に四角く区切られました。このように、藤原京は最初からよく考えて作られました。

藤原宮の復元模型

697年、持統天皇は孫の文武天皇を次の天皇にしました。持統天皇はその後も朝廷の指導者(太上天皇)として政治を取り仕切っていました。この時、政治を朝廷から仕切り、官僚を使って国家を治めるような仕組みがようやく完成しました。

これまでの都と藤原京の違い
昔の日本は、支配者ごとに違う屋敷に住んでいました。各王族は小さい頃からそれぞれ違う屋敷で育ち、大きくなったらそこが自分の拠点になっていました。新しい大王が決まると、旧屋敷をそのまま使って、都にしました。豪族と王族は自分の屋敷から大王の旧屋敷まで通いました。やがて、藤原京が出来ると政治の中心も1つにまとまりました。天皇も同じ場所で政治をするようになりました。天皇の住居・様々な役所が藤原京に集まりました。計画に基づいて、藤原京は区画整理されました。その結果、藤原京は大きな都になり、寺院とか市場とかも作られました。

資料出所

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