高等学校日本史探究/律令制度
小学校・中学校・高等学校の学習>高等学校の学習>高等学校地理歴史>高等学校日本史探究>律令制度
大宝律令の管制
[編集]朝廷は文武天皇時代になると、中国の法律内容を取り入れて、新しい法律を作り始めました。持統太上天皇と藤原不比等は皇族の刑部親王に1つにまとめて欲しいとお願いしました。こうして、日本で初めての完全な法律(大宝律令)が701年に完成しました。718年、藤原不比等が中心になって新しい法律(養老律令)を作りました。養老律令は757年から実際に使われ始めました。しかし、養老律令も大宝律令とほとんど同じ内容でした。律(刑罰)はほとんどそのまま中国の法律を取り入れています。一方、令(行政法)は複数の解説書から全体の内容も分かります。
律令制度が当時の日本にありました。律令制度は律と令の大切な法律から出来ていました。律は犯罪内容について定められています。令は行政法から条例まで細かく決めていました。このような大切な法律から当時の日本は治められるようになりました。
書類の管理方法と役人の制度を唐から当時の朝廷に取り入れました。しかし、当時の朝廷に上手く馴染みません。なぜなら、日本の有力豪族はその仕事を出来ても出来なくても親から子へ役職を受け継いでいるためです。唐のやり方を取り入れても、誰を役人にするのかどうかとか、どんな政策を決めるのかどうかは、有力豪族の力関係で決まっていました。
日本の律令法 |
---|
日本の律令法は唐の制度を手本にして、独自の形に変わりました。日本は国を治めるために律令法を取り入れられました。律は唐の刑法をそのまま取り入れました。一方、令は日本の実情に合わせました。例えば、相続制度を変えたり、親の立場を重くしたりしています。 |
律令制度時代の朝廷は神祇官と太政官で動いていました。神祇官は神にお祈りするために設けられました。一方、太政官は実際の政治を進めるために設けられました。そして、中務省・式部省・治部省・民部省・兵部省・刑部省・大蔵省・宮内省が太政官の中にありました。中務省は天皇の言葉を文書にまとめました。式部省は学校の制度を作ったり、役人を選んだりしていました。治部省は国際交流とか仏教行事の調整をしていました。民部省は人々の戸籍を管理して、税金を集めていました。兵部省は兵士を選びました。刑部省は法律を守りました。大蔵省は国のお金を管理しました。宮内省は皇室の運営をしました。さらに細かい組織(職・寮・司)が中務省・式部省・治部省・民部省・兵部省・刑部省・大蔵省・宮内省の下請けになり、具体的な仕事を進めました。このように、律令制度時代は全員で協力して国を治めていました。
太政官の公卿(太政大臣・左大臣・右大臣・大納言)が集まって国の運営方針について話し合いました。公卿の結論を天皇から認められると、正式な国の政策として実行されていました。律令体制の朝廷はこのような仕組みで動いていました。なお、太政大臣は天皇に付き添って政治の指導をするために設けられました。もし相応しい人がいなかったら、太政大臣は置かれません。その後、中納言と参議も太政官の公卿として参加するようになりました。
手続きはどのように決められていましたか? |
---|
当時、誰が最初に案を出すかで手続きも大きく違いました。天皇からの指示、議政官(公卿)・公卿からの提案、一般官司・一般官人・寺社・僧からの意見がありました。小さな案件でも天皇の名前が使われていました。もし、重要な案件なら必ず天皇の承認が必要でした。どの手続きでも議政官(公卿)が関わっていました。議政官(公卿)は天皇への伝言係としても、議政官(公卿)同士で手続きの判断もしました。結局、どの手続きも「天皇の意志」という形にまとまりました。手続きによって天皇が判断したり、議政官が判断したりしました。様々な文書形式(詔書・勅旨・解など)を使い分けて、誰の判断が強く反映されているかを示していました。重要な手続きほど天皇の関わりが強くなり、文書の形式も格式高いものになりました。つまり、律令体制制度は独裁制でも完全な話し合いの制度でもなく、天皇と議政官の組み合わせから成り立っていました。どちらか一方が極端に力を持つと律令体制制度も上手く機能せず、組み合わせが均等なら上手く動きました。このように、一人の暴走や特定の集団が権力を握らないようにするために律令体制制度もありました。しかし、天皇と議政官の組み合わせが崩れて片方に権力が偏るような時期も何度も現れました。 |
特別な役職[少納言・左弁官・右弁官]が律令国家体制にありました。少納言が宮中の仕事を管理しました。一方、左弁官と右弁官は朝廷の仕事を担当しました。左弁官は文化と生活分野[中務省・式部省・治部省・民部省]を担当しました。一方、右弁官は国防と財政分野[兵部省・刑部省・大蔵省・宮内省]を担当しました。左弁官と右弁官は公卿からの指示を各省に伝えたり、各省からの書類とか報告を公卿に伝えたりしました。
朝廷は弾正台と五衛府から政治の仕組みを強くしました。役人が悪い行いをしていないか弾正台で確かめ、国家を守るために五衛府(衛門府・左兵衛府・右兵衛府・左衛士府・右衛士府)も作りました。
畿内(大和国・山背国・河内国・摂津国・和泉国)は政治の中心として栄えました。畿内以外の地域は七道(東海道・東山道・北陸道・山陰道・山陽道・南海道・西海道)として分けられました。一方、兵庫県の淡路島とか和歌山県(紀伊国)とかは南海道に入っていました。また、武蔵国は東山道から東海道に変わりました。東山道はかなり広く、東北地方から関東地方・中部地方を通って、滋賀県の琵琶湖の付近まで続きました。このような複雑な地域の分け方は、地図を見ないと正確に理解出来ません。
国家を治めるために、三つの地域(国・郡・里)に分けました。この内、里は郷に変わりました。役人が各地域にいました。国司は畿内から派遣され、ある程度の期間で交代しました。郡司は地方豪族から選ばれ、亡くなるまで郡司の仕事を続けました。そのため、郡司は郡司の家族に仕事を渡せました。国司は国内の秩序を守ったり、人口を調べたり、田畑を管理したり、兵を集めたりしました。一方、郡司は地元の生活に関わったり、地元の言い争いを解決したりしました。国司は国府で働き、郡司は郡家で働きました。郡司とか里長とかが公民と関わっていました。中央政府の命令を郡司が公民に命令したり、公民の意見を郡司が受け入れたりするような特別な仕組みも出来ました。
朝廷は国を上手く治めるために、重要な場所に特別な役所を置きました。都の安全は左京職(右側地域)と右京職(左側地域)で守りました。また、海外貿易と国際交流を摂津で行うために摂津職を置きました。さらに、九州地方の福岡県に大宰府を置きました。大宰府は九州全体の政治や軍事を担当していました。
大宰府 |
---|
筑紫の大宰府は、古代日本の西海道でかなり大切な場所でした。総領(大宰)は軍事や外交を担当していました。他の総領(大宰)がなくなっても、筑紫の総領(大宰)だけは残りました。大宰府は西海道の9国3島を管理して、税金も集めていました。そのため、数多くの役人が筑紫の大宰府に集まりました。大宰府は藤原京や平城京を真似ており、「天下の一都会」でした。したがって、大宰府は「遠の朝廷」とも呼ばれました。 |
朝廷は主要道路(官道)と関所を作り、朝廷の指示を全国に広めようとしました。主要道路(官道)の約16km間隔に休憩施設(駅家)を作り、休憩施設(駅家)から馬で各地域に移動して、別の休憩施設で馬を返すような駅制を取り入れました。また、三関が北陸道(愛発関)・東山道(不破関)・東海道(鈴鹿関)に置かれ、軍事的な役割と行政的な役割を持たせました。その結果、朝廷の指示も地方の情報も上手く伝わるようになりました。
朝廷は四等官制の仕組みを使いました。重要な役職がどの役所にも必ず4つありました。株式会社の役職に例えながら説明すると、代表取締役社長に長官[かみ]・専務取締役に次官[すけ]・常務取締役に判官[じょう]・部長に主典[さかん]がいました。このほか、長官・次官・判官・主典以外の役人(一般社員)も朝廷で働いていました。大きな役所とか重要な役所とかなら役職の名前も変わりました。例えば、長官なら左大臣・右大臣・卿・大夫・頭督・帥・守などのように様々な名前で記されました。次官の名前なら介・大輔・少輔と記され、判官の名前なら大掾・少掾・大丞・少丞と記され、主典の名前なら大目・少目・大録・少録と記されました。このように名前を分けて、誰がどのような立場でどのような責任を持つのかを分かりやすくなりました。
★四民官制
官司 |
かみ 長官 |
すけ 次官 |
じょう 判官 |
さかん 主典 |
---|---|---|---|---|
省 | 卿 | 大輔 少輔 |
大丞 少丞 |
大録 少録 |
寮 | 頭 | 助 | 允 大允 少允 |
属 大属 少属 |
大宰府 | 帥 | 大弐 少弐 |
大監 少監 |
大典 少典 |
国司 | 守 | 介 | 大掾 少掾 |
大目 少目 |
郡司 | 大領 | 少領 | 主政 | 主帳 |
初めての官人(役人)は、家柄と出身地から階級(位階)も決まりました(官位相当の制)。各自の階級(位階)に合わせて、相応しい仕事が与えられました。階級の区分はとても細かくなっています。例えば、天皇の息子(親王)なら一品から四品までの4段階、他の皇族(諸王)なら正一位から従五位下までの14段階、一般役人(諸臣)なら正一位から少初位下までの30段階もありました。身分の違いから階級(位階)が決まっても、頑張って成果を出せば階級(位階)も上がりました。
当時、天皇の親戚(親王・内親王・諸王・女王)と官人が国家を治めていました。朝廷の中でも五位以上の官人とその家族は貴族になれました。貴族は自身の地位と自身の官職に応じて、土地・給料・家来を朝廷から貰えました。また、貴族は税金を払わなくてよかったり、罪を犯しても特別な対応をされたりしました。上級官人になればなるほど、朝廷から数多くの土地・給料・家来を貰えました。したがって、畿内の有力氏族が上級官人を独占するようになりました。
蔭位の制が律令制度の中にありました。貴族の子供の中でも高い身分なら必要な勉強をしなくても官人(役人)になれました。蔭位の制から貴族の特別な立場が何世代も続きました。特に有名なのは藤原氏です。藤原氏は蔭位の制を上手く使い、藤原の家族と親戚を官人(役人)として朝廷に送りました。そして、政治でも意見を強めるようになりました。言い換えると、その人の能力や成績ではなく、身分の違いから官人(役人)になれるかなれないかが決まりました。
貴族は官人になるために大学と国学に入りました。朝廷の大学と地方の国学は、入学者も決まっていました。貴族の親戚か特別な書記能力を持つような外来系氏族の子供が朝廷の大学に入れました。一方、郡司の子供が地方の国学に入れました。大学と国学で政治に必要な勉強をしても、身分は変わりません。貴族は大学と国学で卒業しても、下級官人から始まりました。そのため、個人の実力で評価されるように見せかけながら、畿内の有力氏族を守るための仕組みが上手に作られていました。このような仕組みが親から子へと受け継がれました。
律令制度の一部として5段階の刑罰制度が奈良時代にありました。最も軽い笞刑から杖刑・徒刑(強制労働)・流刑(追放)・最も重い死刑まで順番に並んでいました。このような刑罰はさらに細かく分かれていました。笞刑と杖刑は叩く回数も5段階に分かれました。徒刑も働く期間から5段階に分かれました。流刑は近距離・中距離・遠距離に分かました。死刑は絞首と斬首に分かれました。この内、斬首が最も重い刑罰になりました。郡司は一番軽い笞刑しか裁けません。日本の刑罰は中国の刑罰より緩くても、朝廷・天皇・目上の親族を裏切るとかなり厳しく罰せられました。特に、八虐(謀反・謀大逆・謀叛・悪逆・不道・大不敬・不孝・不義)は恩赦からも外され、高い身分でもかなり厳しく罰せられました。
土地・人民の支配制度
[編集]律令体制時代の朝廷は全庶民をきちんと管理するために戸籍と計帳を作りました。戸籍は6年ごとに作られ、各世帯の名前・身分・年齢などが記されていました。この情報を使って、税金を集めたり、兵士を集めたり、土地を分けたりしました。一方、計帳は税金を集めるために毎年作られました。全庶民の情報から、各地域の人数も分かりました。その結果、朝廷は全庶民からきちんと税金を集めました。戸籍と計帳から朝廷は地方の隅々まで管理出来るようになりました。そして、税金を集めつつ、兵士の準備もしやすくなりました。
戸籍から各家族を戸にまとめました。戸は複数の家族から成り立っており、約25人いました。戸は地域庶民と助け合いながら畑仕事の手伝いと災害の手伝いを一緒に行いました。さらに、50戸が集まると行政区画の1里になりました。なお、男系親族は郷戸としてまとめました。その上、寄口・奴婢も郷戸で受け入れて一緒に暮らしていました。8世紀初期を迎えると、郷戸の中に約10人前後の家族(房戸)も作られました。地域の人はこのような仕組みから助け合いながら生活を続け、防衛・災害対応に役立ったかもしれません。
朝廷は土地を管理して6歳以上の全国民に農地(口分田)を分けていました(班田収授法)。この制度は庶民の戸籍を6年ごとにまとめつつ、この戸籍に基づいて、農地を配っていました。口分田の広さは性別・身分によって違いました。また、口分田は自由に売ったり買ったり出来ませんでした。もし、口分田の持ち主が亡くなったら、その口分田を朝廷に返すようになっていました。朝廷はこの仕組みから土地をしっかり管理して、庶民の生活を支えつつ、税金も集めやすくしました。
律令時代の土地は使い方から数種類に分けられていました。輸租田は一般農民の農地(口分田)だけでなく、優秀な人と大切な人にも送られました(位田・功田・賜田)。一方、お寺の農地(寺田)・神社の農地(神田)・役人業務用農地(職田)のような不輸租田は税金を払わなくてよく、朝廷から特別に守られていました。ほとんどの宅地・園地は自由に売ったり買ったり出来ました。反対に、山林・沼地・河川・原野などは公共の土地として使われました。なぜなら、特に法律で制限されなかったからです。朝廷が弱くなると、山林・沼地・河川・原野などを豪族・権力者だけでその土地を好きなように使うようになりました。やがて、墾田永年私財法からこのような土地を先に開いたらその人の土地として使えるようになりました。
律令時代の日本は口分田を全農民に平等に行き渡らせるため、条里制を使って口分田を分けました。この仕組みから大きな口分田を縦(条)648m・横(里)648mの正方形に区切りました。この大きな正方形(里)からさらに小さく36等分に分けて、一番小さな土地の大きさ(坪)を決めました。こうして、どこからどこまでが誰の口分田なのかはっきりさせて全農民に出来るだけ口分田を行き渡るようにしました。
律令制度の時代、朝廷は一般農民に口分田を分けていました。朝廷はこれで一般農民も生活しやすくなると考えられていました。しかし、朝廷が様々な厳しい決まりを一般農民に守るように伝えたので、農民の生活はますます苦しくなりました。3つの厳しい決まりを農民に守らせました。第1に、口分田の米などを税金として朝廷へ納めなければなりません(租・公出挙・義倉など)。第2に、布・手作りの品物などを税金として朝廷へ納めなければなりません(調・歳役・庸・贄など)。第3に、朝廷のために土木工事を手伝います(雑徭など)。このように口分田を貰っても負担が重なり、農民の暮らしも貧しくなりました。
律令国家の朝廷は全ての日本国民を安心して暮らせるようにするために、日本国民に様々な仕事をさせたり、食料を集めたりしました。まず、農民は朝廷から口分田を貰って、口分田を耕しました。次に自分の口分田で米を作ります。このうち、自分の口分田で米を収穫したら、収穫から約3%を国家の税金として毎年各地の倉庫(正倉)に納めさせていました(租)。なお、租は宗教的な儀式から始まっています。
また、朝廷は農民に米を貸しました。農民は朝廷から米を借りたら、その量よりも3割から5割多くして米を返しました(公出挙)。貧しい農民は朝廷の備蓄米で生活を支えていました。朝廷は利息分も受け取っていました。なお、民間の私出挙も同じような仕組みでした。
さらに災害・不作の年でも食料に困らないように、朝廷は百姓・品部・雑戸などから農産物(栗など)を集めて義倉に入れていました。
大人の男性(正丁・次丁)は、地方の特産品と生活必需品(染料・塩・紙・食料品など)を朝廷に納めなければなりません(調)。運脚が地方の特産品と生活必需品を都まで運びました。ただし、若者(中男)・お年寄り(老丁)・身体障害者(残疾)はその負担を少なくしました。
大人の男性(正丁・次丁)が都で働く代わりに、朝廷に品物(布・綿・米・塩など)を納めました(庸)。これも運脚が都まで運びました。
さらに、朝廷の都へ地方の海産物(魚介類・海藻など)を送りました(贄)。贄は当時の法律に定められていなくても、昔ながらの慣習でした。
大人の男性(正丁)は毎年60日まで道路工事・建築工事・朝廷の手伝いに携わっていました(雑徭)。ただし、若者・お年寄り・身体障害者はこの日数を減らしています。このように租・調・庸・雑徭などから国民の役割を分け合い、国家全体を支えていました。朝廷は昔ながらの習慣と宗教行事も取り入れながら、効率よく国家を治めていました。
律令国家は大きな都を作ったり、朝廷の仕事を続けたりするために、地方の人を仕丁・雇役として働かせていました。固定人数が地方から仕丁として選ばれると、都の朝廷に行って様々な仕事をするようになりました。仕丁は調・庸・雑徭を行わなくても許され、朝廷から食料も貰えました。また、大きな工事があると、都周辺の一般庶民を雇役として集めて無理矢理働かせました。雇役は働きに応じてお金と食料を貰えました。しかし、長い道のりを自分のお金で移動しなければならず、途中の食料も自分で用意しなければなりませんでした。そのため、都周辺の一般庶民は疲れと飢えから実家に戻れませんでした。このように、朝廷の仕事のために、一般庶民は厳しい仕事などに苦しみました。
律令国家の朝廷は、農民・一般庶民に税金を払うように命令しつつ、成人男性(正丁)を兵士に選んで働かせました。成人男性は朝廷から兵士に選ばれると、最初に地元の軍団に入って戦い方の練習をしました。やがて、朝廷は兵士を衛士と防人に分けました。衛士は都を守ったり、宮城(皇居)の見張りをしたりしました。また、東日本の成人男性農民は九州北部に行かされ、日本の国境を守るために働きました(防人)。成人男性が朝廷から兵士に選ばれると、税金の支払いとお手伝いの仕事を朝廷からあまりやらなくて構わないと言われました。しかし、正丁は家庭の大事な働き手なので、いなくなると生活も大変になりました。さらに、兵士に選ばれると自分で武器・食べ物・旅行費用も準備しなければなりません。その結果、負担は兵士の負担は、税金を納めるよりかなり重くなりました。このように、兵士は庶民にとって大きな負担でした。
防人 |
---|
日本は白村江の戦いで負けました。その後、日本は朝鮮半島から攻められるかもしれないと心配しました。そこで、九州北部に防人を置いて守りを強くしました。大宝律令以降、全国から兵士を集めるようになっても防人は東国出身の人を選んでいました。約3000人の防人は大宰府周辺と九州北部沿岸部の守りについていました。防人は原則3年間で新しい人と入れ替わりました。しかし、一部の防人は3年経っても地元に帰れませんでした。防人になると、税金の支払いと雑徭をしなくてよくなりました。一方、防人の生活はとても大変で、防人自身で武器と食料を用意しなければなりませんでした。このように苦しい生活を送ったり、家族と別れて悲しみも募ったりするような場面は万葉集の東国防人歌に残されています。この東国防人歌から当時の様子を私達に伝えています。 |
律令時代の身分区分はその人の生活とその人の仕事も大きく決まっていました。最初に、人民の身分区分を良民か賤民に分けました。天皇の家族・豪族・貴族・一般農民が良民に当てはまります。ここで、技術者の身分区分(品部・雑戸)は特別な良民(半自由民)になります。なぜなら品部・雑戸の住居は決まっており、親から子供に技術を引き継がれるからです。このように、人々の身分区分は社会の決まりを守るために使われていました。
賤民(五色の賤)も律令時代の日本にいました。そして、五色の賤は陵戸・官戸・公奴婢・家人・私奴婢で成り立っていました。陵戸は天皇のお墓を掃除したり、天皇のお墓を守ったりしました。官戸・公奴婢は朝廷の掃除をしたり、朝廷の仕事を手伝ったりしました。家人・私奴婢は豪族・貴族の家で働きました。その中でも公奴婢・私奴婢はかなり厳しい決まりの中で暮らしていました。公奴婢・私奴婢は自分で仕事を選んだり、自由な生活を送ったり出来ませんでした。公奴婢・私奴婢を物のように売り買いされたり、家族内で引き継がれたりしました。一方、五色の賤は一般庶民と違うので、氏族名を記して貰えませんでした。寺院・貴族・地方豪族が五色の賤を持てば持つほど金持ちになり、豊かな暮らしも出来ました。陵戸・官戸・公奴婢・家人・私奴婢の数は外国と比べて非常に少なめでした。
資料出所
[編集]- 渡邊晃宏ほか編著『日本史探究』東京書籍株式会社 2023年
- 山中裕典著『改訂版 大学入学共通テスト 歴史総合、日本史探究の点数が面白いほどとれる本』株式会社KADOKAWA 2024年
- 佐藤信、五味文彦ほか編著『詳説日本史研究』株式会社山川出版社 2017年
- 河合敦著『世界一わかりやすい河合敦の日本史B[原始~鎌倉]の特別講座』株式会社KADOKAWA 2014年(絶版本)