高等学校日本史探究/戦国大名の分国経営Ⅰ

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戦国時代の特質[編集]

戦国大名の勢力範囲

※なぜ戦国大名が生まれましたか?

 室町幕府は応仁の乱以降から大きく力を失い、将軍の地位も飾りだけになりました。また、守護大名が京都で戦時中、地元の守護や守護代、国人がその地位を引き継ぎました。地元の守護や守護代、国人は守護勢力を奪って、戦国大名になりました。戦国時代は、応仁の乱から約100年間続きました。戦国大名では、地方の権力者として、国のような広い場所を任されていました。戦国大名は室町幕府のために活動しないで、室町幕府の力をあまり借りずに領土を広げていきました(分国・領国)。分国(領国)は勝手に治め、独自の規則や法律も作りました。京都の寺社や公家は、荘園収入に頼っていたので、勢力を大きく失い、各地の荘園も大きく失われました。戦国大名以外をみると、一向一揆の発生や足軽の成長などがありました。その結果、京都から人や物の流れが地方に広がり、地方都市や地方村落の成長に繋がりました。

戦国の争乱[編集]

※どのような生い立ちから戦国大名になりましたか?

 室町幕府第9代将軍の足利義尚が病気にかかり、近江の六角征伐中に23歳の若さで亡くなると、足利義稙[足利義材]が第10代将軍になりました。しかし、足利義稙は1493(明応2)年、管領の細川政元と対立して首になりました(明応の政変)。細川政元は次の将軍を足利義澄[足利政知の子]に決めました。明応の政変によって細川氏は室町幕府を乗っ取り、将軍を完全に弱体化させました。斯波氏・畠山氏ともに内部対立があり、家臣に領国を奪われて勢力を失いました。越前の斯波氏領地は守護代朝倉氏に奪われました。尾張の斯波氏領地は守護代織田氏に奪われました。

 1507年に細川政元が殺されても、細川氏内部で対立が続きました。管領の細川高国[細川政元の養子]は足利義晴[足利義澄の子]を第12代将軍に選びました。細川高国は一族の細川晴元に負けて自殺しました。細川晴元も家臣の三好長慶に裏切られて、勢力が衰えました。また、三好家も松永久秀[三好長慶の家来]に実権を奪われました。足利義輝[足利義晴の息子]が第13代将軍に選ばれると、幼い頃から政権を握り、武田信玄や上杉謙信に京都入りを求めました。そのため、松永久秀は恐れて足利義輝を殺しました。この出来事は、下剋上の例えになりました。松平久秀は三好三人衆[三好長逸・三好宗渭・岩成友通]と激しく争いました。一方、三好三人衆は足利義栄を第14代将軍に選びました。こうして室町幕府の求心力は完全に失われました。一方、石山(大坂)の本願寺は、北陸・東海地方から中国地方までの門徒を集めて、大名権力を批判しました。

 応仁の乱の直前、関東で鎌倉公方の足利成氏[足利持氏の子]が関東管領の上杉憲忠を殺害すると、享徳の乱が起こりました。足利成氏は室町幕府から攻められないように下総の古河へ向かいました(古河公方)。将軍足利義政は弟の足利政知を関東に送って、足利成氏を攻めようとしました。しかし、関東武士達の反感が強く、伊豆の堀越に残りました(堀越公方)。その後、鎌倉公方から古河公方と堀越公方に分かれました。関東管領の上杉氏も山内上杉家と扇谷上杉家に分かれて争いました。足利政知が伊豆で亡くなると、家臣達の反対を押し切って、足利茶々丸[足利政知の子]が堀越公方を継ぎました。こうして伊豆国内は大混乱になりました。1493(明応2)年、北条早雲(伊勢宗瑞・早雲庵宗瑞)は今川氏の武力を利用して、隙を突いていきなり伊豆を攻めました。北条早雲は1498年に堀越公方の足利茶々丸を自殺に追い込みました。足利茶々丸は自殺して、堀越公方も滅びました。その後、北条早雲は小田原城を中心に、近隣の相模国へ勢力を伸ばしていきました。北条氏綱は相模に続いて武蔵へ勢力を拡大しました。北条氏康[北条氏綱の孫]の時代になると、北条氏は有力大名になり、常陸・下野・安房などを除く関東地方を支配しました。以後、北条氏は5代100年に渡って関東に大領国を築きました。

北条早雲
 北条早雲は、別名伊勢新九郎長氏とも呼ばれました。出家して早雲庵宗瑞と名乗りました。早雲は後世の通称となりました。子の氏綱の時から北条氏を名乗るようになりました。最近、早雲の身元は伊勢執事[室町幕府の政所]の子孫からと考えられています。戦国大名の北条氏を後北条氏ともいいます。鎌倉幕府の北条氏ではありません。

 16世紀中頃、関東管領の上杉憲政は北条氏の圧迫のため、越後の長尾景虎に助けを求めました。その後、上杉憲政は関東管領の地位と上杉の家督を長尾景虎に継がせました。こうして、長尾景虎は上杉謙信と改名しました。上杉謙信は越後をまとめ、越中の一向一揆も終わらせました、さらに、北関東に進出して、北条氏の領国を奪おうとしました。武田信虎は甲斐の守護大名でした。しかし、息子の武田信玄(晴信)が暴政を理由に武田信虎を領国から追放しました。こうして武田信玄は実権を握り、信濃国まで領国を広げました。その後、西上野や駿河(今川氏の領国)にも領国を広げました。そのため、北信濃の武将達は村上義清のように我慢できず、領国を捨ててまで越後の上杉謙信を頼りました。上杉謙信は領地の返還を約束したので、北信濃の川中島などで頻繁に武田信玄と戦いました(川中島の戦い)。

 美濃は、昔から戦国大名の土岐氏が治めていました。しかし、斎藤道三[美濃守護代当主]は、土岐氏を追い出して美濃の戦国大名になりました。斎藤道三の父は元々京都日蓮宗寺院の僧侶でした。その後、出家して俗人となり、土岐氏の重臣の家に戻って働いていました。今川義元は駿河・遠江を支配しつつ、武田信玄と同盟を結びました。最終的に松平(徳川)氏の三河も支配して、尾張の織田氏を滅ぼそうとしました。近江の浅井氏は守護の京極氏を破り、南近江の六角氏とも争うようになりました。北陸地方は、朝倉氏(管領斯波氏の重臣)が越前を支配しました。朝倉氏は一向一揆を味方につけ、本願寺領国を乗っ取りました。

 16世紀後半、中国地方で有力な守護大名の大内義隆は、重臣の陶晴賢に国を取られてしまいました。安芸国人の毛利元就は、陶氏を滅ぼして大内氏の旧領を引き継ぎました。陶晴賢は大内義隆を自殺に向かわせると、弟の大友義鎮を迎えます。大友義鎮は大内義長と改名します。しかし、陶晴賢と大内義長は毛利氏に殺害されました。毛利氏は中国地方で勢力を広げながら、山陰地方の尼子氏と激しく何度も争いました。

 国人出身の長宗(曽)我部元親は四国の土佐一国を支配すると勢力を広げ、伊予の河野氏と対立するようになりました。豊後の大友義鎮(宗麟)は守護として九州6カ国に大きな勢力を持っていました。やがて薩摩の島津貴久は南九州に勢力を伸ばし、龍造寺隆信も肥前で勢力を伸ばしました。東北地方は婚姻関係の国人達で争っていました。その後、最上氏、伊達氏が戦国大名に成長しました。特に伊達政宗は勢力を伸ばし、蘆名氏(会津の名族)を滅ぼしました。

★戦国大名の出自

守護大名出身 守護代・その一族出身
今川義元(駿河)

武田信玄(甲斐)

大内義隆(周防)

島津貴久(薩摩)

佐竹義宣(常陸)

大友義鎮(豊後)

上杉謙信(越後)

織田信長(尾張)

朝倉孝景(越前)

尼子経久(出雲)

陶晴賢(周防)

国人出身 その他・不明
伊達政宗(陸奥)

浅井長政(近江)

徳川家康(三河)

毛利元就(安芸)

長宗我部元親(土佐)

宇喜多直家(備前)

結城政勝(下総)

竜造寺隆信(肥前)

相良義陽(肥後)

北条早雲(伊豆相模)

斎藤道三(美濃)

松永久秀(山城)

 守護大名は、主に守護代や国人から始まりました。ただし、武田氏・六角氏・大友氏・今川氏・龍造寺氏・島津氏などを除きます。そして、幕府の権力が失われたので、幕府の守護職の重要性も次第に薄れていきました。このように、戦国時代になると古い権力が役に立たなくなり、戦国大名は少しでも長く権力を維持しなければならなくなりました。そのため、守護職のような上からの権力よりも、激しい争いで領土支配が危ぶまれる家臣や生活が危ぶまれる領国民など、下からの支持に頼らなければならなくなりました。戦国大名は、新しい軍事指導者・領国支配者として、両方の仕事を上手くこなせなければならなくなりました。この時、守護大名出身の戦国大名(今川氏や武田氏など)は、室町幕府の許可なく力ずくで領国を治めていました。

分国経営[編集]

執筆中。

資料出所[編集]