高等学校日本史探究/新たな世紀の日本へⅠ

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本節から、3回に分けて「新たな世紀の日本へ」の内容を解説します。第1回目では、世界情勢を見ていきます。

冷戦の終結とグローバル化[編集]

※冷戦後の国際社会はどのようになりましたか?

 第二次世界大戦後、アメリカとソビエト連邦間の冷戦は1950年に全盛期を迎えました。その後、1960年代から1970年代にかけて、アメリカとソビエト連邦の緊張は緩和しました。しかし、1979年終わりにアフガニスタンでクーデタが発生すると、ソビエト連邦は国内の親ソ派が崩壊しないように、軍事介入しました。それでも、アフガニスタン側の反政府勢力は降参せず、1989年2月のソ連軍完全撤退まで続きました。アメリカ大統領ジミー・カーターは、ソビエト連邦のアフガニスタン攻撃に反対を訴えました。以降、アメリカはソビエト連邦に経済制裁を行い、モスクワオリンピックに選手を派遣しなくなりました。

 1981年、ロナルド・レーガンがアメリカ大統領になりました。ロナルド・レーガンは、「強いアメリカ」を取り戻すために、戦略防衛構想をとりました。また、対ソビエト連邦政策でも軍事拡大路線をとり、しばしば演説でソ連を「悪の帝国」と批判しました。ロナルド・レーガンのソビエト連邦の批判から、新冷戦が始まります。その一方で、企業の競争力を高めるために、大幅な減税や規制緩和が取られました。同じように、イギリスのマーガレット・サッチャーや日本の中曽根康弘も、公共支出の削減、国有企業の民営化、労働運動の抑制を行いました。このように、先進諸国の経済政策の流れは大きく変わりました。先進諸国の経済政策の流れについては、従来の有効需要創出政策(ケインズ政策)や福祉国家政策の否定(新自由主義・新保守主義)をとるようになりました。このような背景から、従来の自由放任経済に戻り、「小さな政府」の実現に取り組みました。しかし、アメリカは新冷戦の影響で軍事費負担の増加から、国内産業も衰退するようになりました。以降、アメリカで国家財政と国際収支の赤字(双子の赤字)をもたらし、世界最大の債務国に変わりました。

 当時、アメリカとソビエト連邦は大陸間弾道ミサイルの配備量を競争していたので、軍事費も増加しました。ソビエト連邦もこの軍事費の増加から深刻な経済危機に見舞われました。1982年、ソビエト連邦共産党書記長のレオニード・ブレジネフが亡くなりました。その後、ユーリ・アンドロポフ政権やコンスタンティン・チェルネンコ政権を経て、1985年にミハイル・ゴルバチョフが書記長に就きました。ミハイル・ゴルバチョフは、ペレストロイカ(国内体制の立て直し)を試みました。ペレストロイカには、15年間で所得を倍増させる計画も含まれていました。また、市場原理の導入やグラスノスチ(情報公開)など、政治の自由化や社会の自由化にも取り組みました。さらにアメリカと仲直りしようと、1988年にはアフガニスタンから軍隊を撤退させました。こうして、アメリカのジョージ・ハーバート・ウォーカー・ブッシュ大統領とマルタ島で1989年12月に米ソ首脳会談が行われました。米ソ首脳会談で、東西冷戦の終結と新時代の幕開けを宣言しました。マルタ会談冷戦終結は、当時の人々に衝撃を受けました。

 ソビエト連邦は東側陣営の一体化に力を入れなくなりました。1989年、ベルリンの壁(東西分断の痕跡)が崩壊すると、ルーマニア・ポーランド・ブルガリアなどで社会主義政権の崩壊と改革が進みました(東欧革命)。1990年、西ドイツが東ドイツを吸収すると、ドイツ統一を果たしました。1990年、ミハイル・ゴルバチョフはソビエト連邦唯一の大統領となりました。しかし、ドイツ統一以降、共産主義体制全体が不安定になりました。このような背景から、軍部のクーデタが1991年8月に起こりました。ボリス・エリツィンはクーデタの鎮圧に協力しました。以降、ボリス・エリツィンが大統領になり、共産党の一党支配体制は崩壊しました。旧ソビエト連邦の諸国で、ロシア共和国(ロシア連邦)を中心に緩やかな連合体(独立国家共同体)へ生まれ変わり、市場経済化が進められました。この時代、全面的な核戦争の危機は少なく、核兵器削減への取り組みが行われました。1982年、アメリカとソビエト連邦の核兵器は、広島で投下されたような原子爆弾を合計100万個分持っていました。1982年に戦略兵器削減交渉が始まりました。その後、1987年の中距離核戦力廃止条約を経て、1996年になると、包括的禁止条約が締結されました。

 一方、ヨーロッパ共同体は西側諸国で成り立っていました。マーストリヒト条約が1993年に結ばれると、ヨーロッパ共同体はヨーロッパ連合に変わりました。その後、東ヨーロッパ諸国もヨーロッパ連合に加盟しました。こうして、世界各地で新しい地域秩序に向かう動きが見られました。冷戦が終わってから、東アジア諸国間でも大きな動きがありました。1991年、大韓民国(韓国)と朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)は同時に国際連合に加盟しました。2000年、韓国の金大中大統領と北朝鮮の金正日総書記が第1回南北首脳会談を行いました。第1回南北首脳会談では、お互いの統一を望む動きもありました(南北共同宣言)。1992年、ベトナム・中国・韓国の国交が回復しました。1995年、ベトナムも東南アジア諸国連合(ASEAN)に加盟しました。東南アジア諸国連合は、東南アジアの地域協力機関として定着しました。朝鮮半島の核危機のような安全保障の不安が続いても、1997年のアジア通貨危機があっても、東アジア経済は順調に成長を続けました。その結果、東アジアは世界最大の経済圏となりました。

 1970年代に入ると、産油国は石油開発で豊かになり、経済成長の盛んな国・地域(新興工業経済地域:NIEs)も現れました。アジア新興工業経済地域は、アジアの韓国・シンガポール・台湾・香港で成り立っています。このような国は、外国の資本や技術を取り入れつつ、輸出志向型の工業化を進めて、経済成長を続けました。日本とアジア新興工業経済地域は、東アジアの経済成長を1990年代まで支えてきました。一方、飢餓と貧困が新興諸国の大半で問題になりました。

 中華人民共和国は、市場経済化を進めるため、1970年代後半から改革開放政策を導入しました。その後、1992年から社会主義市場経済も導入しました。その結果、中華人民共和国は2000年代に高度経済成長期を迎えます。中国の国内総生産は2010年を迎えると、日本を抜いて世界第2位になりました。冷戦後、人・商品・資本・情報は世界の国境を越えて自由に動くようになりました(グローバル化)。

冷戦の終結と民主化の進展[編集]

※冷戦終結後、どうして民主化が各地で起こりましたか?

 冷戦が終わると、社会主義経済体制から市場主義経済体制に変わり、政治体制も民主化されました。台湾の戒厳令は1949年に導入されてから、1987年に解除されました。韓国でも1987年、韓国の軍事政権が民主化宣言を行いました。しかし、市民から政治的改革を求める声は高まりました。その後、1993年に市民運動家の金泳三が大統領になりました。こうして民主化が進み、各地で独裁的体制を一掃しました。中国でも民主化運動が起こりました。しかし、中国政府は1989年に民主化運動を武力で弾圧しました(天安門事件)。

 人権は、これまでの政治体制・国際関係の中で無視されてきました。冷戦が終わると、人権を求める声はさらに強まりました。1991年、元慰安婦の韓国人女性が「日本軍は慰安所の設置・運営・慰安婦の移動に関わっていた。」と裁判を起こしました。この事実について日本政府は調査を行いました。1993年になって、その事実を認めました。日本政府は反省の意味を込めて、各国の元慰安婦に「お詫びと反省の気持ち」を送りました。また、歴史研究と教育から未来の記憶にとどめたいと改めて伝えました(河野官房長官談話)。この後、民間の基金(アジア女性基金)がつくられ、被害者の救済に努めました。アジア女性基金は補償金の受け取りを決定しました。しかし、アジア女性基金が賠償金をどのように提供しなければならないかに関して、各国・国内で意見が分かれました。2015年、日本政府と韓国政府は慰安婦問題の最終的な解決に向けて和解しました。

記憶の時代と歴史問題
 冷戦の終結前後、第二次世界大戦の戦争犠牲が見直されました。第二次世界大戦が終わるまで、日系アメリカ人は強制収容所に入るようにいわれました。1980年代後半、アメリカ政府はこれを謝罪して、賠償金も支払いました。ロシアは、1990年代に入るとシベリア抑留の関係資料を日本に送りました。1993年になると、ボリス・エリツィン大統領がシベリア抑留を日本に正式に謝罪しました。一方、1995年に入って、最初の原爆関連の大型展示がアメリカ国立スミソニアン航空宇宙博物館で計画されました。しかし、退役軍人が反対運動を行ったので、この展示は中止になりました。1996年、広島の原爆ドームは重要な場所なので、国際連合教育科学文化機関の世界遺産に登録されました。このような歴史認識は世界中から注目されています。ドイツ・フランス・日本・中国・韓国が協力して、共同歴史教科書を作ろうとしています。

 21世紀になると、植民地支配と奴隷制の影響が国際問題になっています。これまでの出来事を知って、犠牲者に補償して、再発しないように気をつけつつ、どのように記憶するかも各国で重要な課題となっています。

湾岸戦争と平和維持活動[編集]

※国際連合平和維持活動協力法は、なぜ第二次世界大戦後の日本に大きな変化をもたらしましたか?

 冷戦が終わると、ソビエト連邦とアメリカは拒否権を使わなくなりました。こうして国連の平和維持活動は一時的に強まりました。1990年の海部俊樹内閣の時に、イラクが突然クウェートを侵攻しました。1991年、多国籍軍(アメリカ・イギリス・フランス)は国際連合の安全保障理事会決議を受けて、イラクに軍事攻撃を行いました(湾岸戦争)。一方、アメリカから自衛隊を送るように強く求められても、日本は自衛隊を派遣していません。その代わり、総額130億ドルの戦争費用を多国際軍に支援しました。しかし、関係諸国から感謝されなかったので、湾岸戦争後、日本は海上自衛隊の掃海艇をペルシア湾に送りました。

 1992年、宮沢喜一内閣は、日本も国際連合の平和維持活動(PKO)に参加出来るように、国際連合平和維持活動協力法を成立させました。国際連合平和維持活動協力法が成立してから、自衛隊を海外に送れるようになり、カンボジアなどで停戦監視を行うようになりました。アメリカは、国際貢献を理由に自衛隊を海外に送るように求めました。しかし、このようなアメリカの行動が日本国憲法の平和主義に違反していないかと批判されました。こうして、アメリカ主導の国際社会が1990年代に強化されると、日本国憲法に大きな変化をもたらしました。その後、次のような国や地域に自衛隊を送っています。

1993年 モザンビーク
1994年 ザイール(コンゴ民主共和国)
1996年 ゴラン高原
2002年 東ティモール

資料出所[編集]