高等学校日本史探究/新たな世紀の日本へⅢ

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 「新たな世紀の日本へ」の第3回目では、森喜朗内閣から岸田文雄内閣までの国内政治と歴史全体の課題を見ていきます。

「構造改革」と対テロ戦争[編集]

※構造改革の結果、その後の日本社会はどのように変わりましたか?

 2000年4月、小渕恵三内閣が突然病気で倒れると、森喜朗が自民党総裁に選ばれました。その後、森喜朗は内閣(自由民主党・公明党・保守党の連立政権)も組閣しましたが、2001年に総辞職しました。2001年4月、自由民主党総裁選挙の結果、小泉純一郎内閣(自由民主党・公明党・保守党の連立政権)が他の議員と大きく差をつけて選ばれました。

小泉純一郎と金正日総書記

 小泉純一郎内閣は、「小さな政府」を目指すため、新自由主義的政策を支持しました(聖域なき構造改革)。小泉純一郎内閣は「聖域なき構造改革」として、郵政民営化・地方税財政改革・町村合併・金融法や労働法の緩和・国立大学法人化などを実施しました。その結果、大企業の利益は上がり、中小企業の利益は下がり続けました。また、派遣業の拡大から非正規労働者も増加して、貧困・所得格差・地域格差の拡大や社会保障費の減少に繋がりました。外交では、金正日総書記に会うために朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)へ渡って、現地で日朝平壌宣言に合意しました。日朝平壌宣言は、植民地時代の反省から国交正常化に向けて努力して、拉致問題や核問題の解決などに取り組み、お互いの安全を脅かさないようにするための合意でした。しかし、北朝鮮が日本人の拉致を認めると、日朝関係は悪化しました。

 2001年9月11日、アメリカでテロ組織が世界貿易センタービルと国防総省を攻撃しました(アメリカ同時多発テロ事件)。ジョージ・ウォーカー・ブッシュは、アフガニスタンのテロ組織に対して宣戦布告をしました。その後、アフガニスタンに軍隊を送り、武力攻撃に踏み切りました。日本でテロ対策特別措置法が成立すると、自衛隊はすぐにインド洋に渡り、アメリカ軍の後方支援に当たるようになりました。自衛隊の創設から、初めて戦時中に自衛隊が海外へ渡りました。2003年になると、対テロ戦争参加諸国(アメリカやイギリスなど)は、イラクに大量破壊兵器を持っていると考えました。そのため、国際連合の明確な決定がなくても、「テロとの戦い」をきっかけにイラク戦争を始めました。日本もイラク復興支援特別措置法を成立させて、自衛隊をイラクに送りました。同時に、武力攻撃事態法のような非常事態法も成立させました。

憲法改正論と政権交代[編集]

※安倍晋三内閣は、戦後政治をどのように変えましたか?

 イラク派兵や非常事態法の成立など、日本国憲法の平和主義に関わる政治問題が次々と浮かび上がってきました。2004(平成16)年、これを守るための市民活動団体「九条の会」が立ち上がり、各地に広がりました。2005年、自由民主党が憲法草案を発表すると、憲法改正問題が政治の話題になりました。

 小泉純一郎内閣が2006年に任期満了で総辞職すると、2008年まで、安倍晋三福田康夫麻生太郎と立て続けに内閣が交代しました。2008年、アメリカの投資銀行リーマン・ブラザーズが経営破綻しました。リーマン・ブラザーズの経営破綻から、世界金融危機(リーマン・ショック)が発生して日本経済を苦しめました。その結果、企業の倒産が相次ぎ、派遣業従事者も規制緩和で増えていましたが、世界金融危機を背景にほとんど解雇されました。派遣社員達が解雇(派遣切り)されたので、日比谷公園に年越し派遣村を作って、派遣社員達の越年支援を行いました。

 リーマンショックからほぼ1年後の2009年8月に衆議院議員総選挙が行われました。衆議院議員総選挙の結果、民主党が自由民主党に圧勝したので、政権交代になりました。政権交代後、鳩山由紀夫内閣(民主党・社会民主党・国民新党の連立政権)が成立しました。政権交代後、民主党は政策実現に苦労しました。鳩山由紀夫内閣は沖縄県の普天間基地県外移設の公約を守れなかったので、総辞職して菅直人内閣に交代しました。2011年3月11日、東日本大震災福島第一原子力発電所事故が発生しました。東日本大震災の影響で死者・行方不明者は1万9000人を超えて、大勢の避難者も生まれました。2011年8月、菅直人内閣は東日本大震災の対策が足りなかったので総辞職しました。菅直人内閣から野田佳彦内閣に交代しました。菅直人内閣と野田佳彦内閣では政権運営に手をつけられなくなりました。このため、与党と野党は社会保障のために消費税引き上げで合意しました。2012年12月の衆議院議員総選挙で自由民主党が圧勝しました。反対に、民主党は衆議院議員総選挙で大敗しました。その結果、政権は再び自由民主党に戻り、第2次安倍内閣(自由民主党と公明党の連立政権)に代わりました。

 安倍晋三内閣は「戦後レジーム(戦後体制)からの脱却」をスローガンとして、日本国憲法第9条の解釈を大きく変えました。閣議決定では集団的自衛権を認めました。その後、日米の新ガイドラインと安全保障関連法が2015年に成立しました。これに対して、数千人が国会前に集まり、安全保障関連法案に不満を示しました。また、大規模な金融緩和・財政出動・成長戦略が経済政策として実施されました。さらに、消費税も2回(5%→8%・8%→10%)引き上げられました。

 2019年、明仁天皇が生前退位して元号を令和に改めました。退位特例法に基づき、明仁天皇は上皇となりました。2020年、新型コロナウイルス感染症(COVID-19)が世界中に流行しました。日本政府も感染対策に取り組んで、東京オリンピック・パラリンピックが1年遅れで開催されました。第2次安倍晋三内閣は持病のため任期途中で総辞職すると、菅義偉内閣が自由民主党総裁選挙で選ばれました。しかし、次の菅義偉内閣も自由民主党総裁の任期満了で総辞職します。自由民主党総裁選挙の結果、現在の岸田文雄内閣が選ばれて、2021年10月から日本の政治を任されています。

新しい世界を目指して[編集]

※人間同士のやり取りは、歴史の中でどのように変わりましたか?

 20世紀は21世紀に向けて多くの課題を残しました。その一方で、日本社会の姿も大きく変わりました。NPO(民間非営利組織)法人が増えて、社会参加も活発になりました。

 冷戦が終わると、先進国は核兵器の廃絶に向けて動き出しました。インターネットは軍事的に使われなくなり、一般市民に提供されるようになると、すぐに普及して、情報通信環境を大きく変わりました(IT革命)。インターネットの普及は半導体技術や通信機器の改良と同じ時期に起こりました。2000年代後半から、スマートフォンが若い世代を中心に人気を集めるようになり、新聞などを読む人が減り始めました。ソーシャルネットワーキングサービス(SNS)は人々の交流方法を大きく変えました。その一方で、ソーシャルネットワーキングサービス(SNS)の悪影響も問題になっています。

 国際関係と情報通信環境も変わりました。その効果から、日本のテレビ番組・ゲーム・アニメ・食文化が海外でも好まれるようになりました。その中でも、日韓協定が1998年に結ばれると、韓国国内で日本の大衆文化を解禁しました。また、日本でもアジアの大衆文化(韓国・中国など)が広まりました。歴史問題や対立があっても、文化交流や相互理解が進み始めました。

17の持続可能な開発目標の一覧

 しかし、飢餓・貧困・疾病が世界中で大きな問題となっています。このような背景から、国連サミットで持続可能な開発目標(SDGs)が2015年に採択されました。持続可能な開発目標SDGsでは、2030年までに世界をより良く、よりよい社会にするために、17の目標を定めました。「誰一人取り残さない」を原則として、貧困をなくし、民族間・国家間の不平等をなくし、世界に平和と正義を広めるために、日本も積極的に取り組んでいます。

 特に、気候変動は環境変化や生態系の破壊を招いており、このままいくと、人類が生き残れなくなるかもしれません。国際連合や日本政府は気候変動を少なくするため、次のような対策を取りました。1992年、国連環境開発会議(地球サミット)が開かれました。1997年、京都の気候変動枠組条約締約国会議で京都議定書が認められました。京都議定書では、先進国の温室効果ガス排出削減目標を定めました。2000年に入ると、循環型社会形成推進基本法が成立しました。循環型社会形成推進基本法は、家電製品や容器包装などのリサイクルを求めるために定められました。2015年、気候変動枠組条約締結国会議でパリ協定が定められました。パリ協定以降、発展途上国も温室効果ガス排出削減に向けて努めなければならなくなりました。

 原子力は温室効果の影響を受けにくく、大量のエネルギーを生み出せます。しかし、高速増殖炉「もんじゅ」の事故(1995年)、茨城県東海村の臨界事故(1999年)、東京電力福島第一原子力発電所の事故(2011年)が発生しました。その結果、原子力発電の安全性について、国民の信頼を大きく失いました。現在、太陽光発電・風力発電・地熱発電・バイオマス発電などの再生可能エネルギーへの関心が高まっており、その整備も進められています。

 世界は核軍縮に向けて動き出しました。2000年代後半に入ってから、アメリカのバラク・オバマ大統領が「核兵器のない世界」を求めるようになりました。2017年、国際連合は核兵器禁止条約を成立させました。核兵器禁止条約は核保有国(アメリカ・ロシア・イギリス・フランス・中国など)と日本(アメリカの同盟国)の反対を押し切って、2021年に発効しました。

沖縄の基地問題
 沖縄は、復帰後も基地負担に悩まされました。それでも観光業が沖縄の経済を大きく成長させました。1995年、海兵隊員の少女虐待事件が起こりました。当時の日本は、日米地位協定を結んでいたので、犯人の身柄引き渡しや取り調べも禁止されていました。このため、県民総決起大会を開いて、少女虐待事件について怒りを爆発させました。沖縄は基地中心の経済から離れたいと思っています。したがって、沖縄の怒りから日米安全保障条約を見直し、日米特別行動委員会(SACO)を立ち上げました。これまで、普天間飛行場の返還などが合意されていました。その合意から訓練の一部移転を実施しました。しかし、沖縄県名護市辺野古の新基地建設が含まれていたので、大きく批判されました。結局、普天間飛行場の移設は実現していません。

 民主党政権になってから、県民の反対意見がさらに強まりました。2014年、新基地建設反対派の翁長雄志が「オール沖縄」を掲げて幅広い支持を集めたので、沖縄県知事選挙に当選しました。翁長雄志沖縄県知事は、基地問題の解決に向けて様々な働きかけを行いました。このような動きは、国政選挙にも広がっています。

 21世紀に入り、日本は大きな転換点を迎えています。東京圏の人口集中が続いても、2009年を過ぎると日本の人口が減り始めました。その結果、少子高齢化が進みました。日本の人口は2020年時点で1億2615万人です。しかし、日本の人口は2053年に入ると1億人を下回ると予想されています。その後も日本の人口は減少を続け、2070年に入ると8700万人になると予想されています。また、65歳以上の老年人口割合(高齢化率)も、この期間で28.6%から38.7%まで伸びると予想されています。亡くなるまでに結婚しない人が増え、それまでの標準世帯も減っています。そのため、家族のあり方が見直されています。このように、少子高齢化が進むと家族や地域社会の活動も難しくなります。また、労働人口も減るので、経済が伸び悩み、税収や保険料も下がります。さらに、社会保障制度は国民生活のセーフティネットとも考えられています。しかし、少子高齢化が進むと社会保障制度も大きな影響を与えます。日本政府は高齢化対策として、公的介護保険制度を1997年に整備されました。また、75歳以上の高齢者向けに後期高齢者医療制度も導入されました。さらに、長期的な視点から、公平な年金制度の見直しも検討されています。

 男女平等社会基本法が1999年に制定されました。近年、複数の自治体で同性間の交際を認めるようになりました。このような傾向から、性的指向が違っても相手に受け入れられやすくなっています。若者の数が減り続けているので、政治や社会に参加するように求められています。このため、政府は公職選挙法を2015年に改正して、選挙権年齢を20歳から18歳に引き下げました。また、2015年までの高校生は通達で政治参加を禁止していました。2015年に入ると、主権者教育を進めるために高校生の政治参加を一部認めました。

 住民は、地域社会を守り、より住みやすい場所にするために、力を合わせて活動しなければなりません。偏見は、その人を嫌な気分にさせ、社会を分けてしまいます。そのため、偏見をなくすために様々な取り組みが行われました。例えば、ヘイトスピーチ解消法・障害者差別禁止法以外にも、自治体単位の条例が定められています。一方で、幅広い法律を導入して、差別をなくさなければならない重要性がますます高まっています。21世紀までの人類史で、特に日本社会で広く知られ、日本人の活躍に注目しながら、その歴史を追いかけなければなりません。歴史を掘り下げてみると、過去をより詳しく分かるようになるかもしれません。平和のうちに生きる権利を実感して、その歴史を次の世代に伝えましょう。

資料出所[編集]