高等学校日本史探究/日本列島最古の文化Ⅰ
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本節は、人類の誕生時期と人類誕生後の変遷をまとめます。
人類の誕生と日本列島への居住
[編集]人類の歴史を簡単に説明します。46億年前に地球が生まれました。そして、人類は今から600~700万年前に地球に現れました。考古学者は人類の化石を調べて、猿人・原人・旧人・新人と長い年月をかけて、今の人類に繋がったとまとめています。
人類の進化に関して |
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かつて、考古学者は猿人から、次第に今の人類に近づいていくと考えられていました。しかし、この考え方は否定されるようになり、まるで迷路のような感じだと最近の研究で分かっています。やがて、進化を続けて、今の人類になったと考えられています。考古学者は人類の化石を見つけて、いつ頃どこに住んでいたのかを調べています。例えば、440万年前の猿人の歯がエチオピアで見つかったり、600万年前の猿人の骨がケニアで見つかったりしています。また、700万年前の頭蓋骨が中央アフリカのチャドで見つかっています。しかし、これが本当に人類の祖先なのかどうかまだ分かっていません。さらに、フランス南部の洞窟で、ネアンデルタール人の歯1本と石器が見つかりました。このように、人類の進化は最近の考古学研究で見直されています[1]。 |
人類は、アフリカ大陸で最初に現れています。なぜなら、オーストラリアの人類学者レイモンド・ダートが1924年に猿人(アウストラロピテクス)の化石を見つけているからです。猿人(アウストラロピテクス)の脳はゴリラの脳・チンパンジーの脳と同じ大きさでした。それでも、猿人(アウストラロピテクス)はすでに二足歩行を行っていました。その後、猿人(ホモ・ハビリス)が現れました。猿人(ホモ・ハビリス)の脳は猿人(アウストラロピテクス)の脳よりも大きく、石器などの道具も使えました。
更新世の初めになると、原人が現れました。1891年、オランダの人類学者ウジェーヌ・デュボワがインドネシアのジャワ島で原人の化石を見つけました(ジャワ原人)。また、1927年から中国北京郊外の周口店で原人の化石が見つかっています(北京原人)。周口店洞窟からは、動物の化石・植物の化石・石器・炉の跡も見つかっています。その結果、原人がどんな生活をしていたのか、どんな道具を使っていたのかが分かるようになりました。なお、私達のように原人も言葉を使って話していたかもしれません。
旧人の化石はドイツのネアンデルタールで最初に見つかり、西アジア・中央アジアでも見つかっています(ネアンデルタール人)。旧人(ネアンデルタール人)の脳は、今の人類とあまり変わりません。旧人(ネアンデルタール人)は洞窟に住み、石器を作ったり、故人を土に埋めたりしました。
約20万年前、新人(ホモ=サピエンス)がアフリカに現れました。新人の骨格は今の私達とあまり変わりません。約7万年前、新人(ホモ・サピエンス)がアフリカから世界に羽ばたきました(アフリカ単一起源説)。1868年、フランスのクロマニョン渓谷で新人の化石が見つかっています(クロマニョン人)。クロマニョン人は、洞窟の中で暮らしていました。クロマニョン人は石から石器を作れるようになると、その石器を使って上手に動物を狩ったり、魚を釣ったりしました。また、クロマニョン人は絵も描けるようになります。クロマニョン人の絵はスペインのアルタミラ洞窟・フランスのラスコー洞窟に描かれています。さらに、女性・動物を形に彫刻も刻めるようになりました。そして、最近の研究で人類の遺伝子を調べると、人類の進化もより詳しく分かるようになりました。
次に当時の気温をまとめます。かつての地球は氷だらけでした(氷河時代)。氷河時代は、(更新世)とも呼ばれ、約1万年前まで続きました。そして、更新世の中でも、特に寒い時期(ギュンツ氷期・ミンデルリス氷期・リス氷期・ヴェルム氷期など)がありました。特に寒い時期(氷期)が終わったら少し暖かい時期(間氷期)を迎えました。人類は氷河時代の少し前(新第三紀中新世後半)に現れ、特に寒い時期(氷期)と少し暖かい時期(間氷期)を乗り越えながら、生き続けてきました。やがて最後の氷期が終わると、暖かい時代を迎えます(完新世)。
更新世と完新世の違い |
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地球が生まれてから約46億年も経っています。考古学者はこの長い歴史を分かりやすくするため、時代ごとに区切りました(地質時代)。人類は第四紀後半から現れました。なお、第四紀は更新世と完新世に分かれます。地球が急に暖かくなると、それに合わせて植物・動物の種類も変わりました。もちろん、人類もそれに合わせて生活を変えています。 |
更新世は、海水もかなり凍りました。そのため、海の高さは今より100メートルも低くなりました。もちろん、日本列島も例外ではなく宗谷海峡・間宮海峡・対馬海峡が陸地になり、ユーラシア大陸と繋がりました。ユーラシア大陸と繋がると、大型動物がやってきました。マンモス・ヘラジカは宗谷海峡・間宮海峡(北方ルート)からやってきました。一方、ナウマンゾウ・オオツノジカは対馬海峡(南方ルート)からやってきました。考古学者はこのような大型動物を追いかけつつ日本列島に人類も渡るようになったと考えられています。なお、カラマツ・アカエゾマツ・チョウセンゴヨウなどの針葉樹が日本列島の泥炭層から見つかっています。
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マンモス
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ナウマンゾウ
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オオツノジカ
日本の土は酸性なので、人類の骨は溶けやすくて中々残りません。しかし、琉球諸島は石灰岩から成り立っているので人類の骨も数多く見つかっています。山下町第一洞人は沖縄県那覇市で見つかりました。山下町第一洞人は日本で一番古い人類の骨(約3万2000年前)となります。港川人は沖縄県八重瀬町で見つかりました。中でも港川1号は東アジアで一番綺麗な形で残されています。港川1号の身長は153㎝位で、狭い肩幅・細い腕・大きな手・丈夫な足を備えていました。港川1号は狭い額・大きな顔・強い顎を備えていました。このような顔は、縄文時代の人類にも受け継がれています。さらに、人類の骨は白保竿根田原洞人(沖縄県)・浜北人(静岡県)でも見つかっています。このように、人類の骨は、少しだけ見つかっていますが、更新世時代の人類の骨だと考えられています。1931年、考古学者の直良信夫は兵庫県明石市で腰の骨を見つけました(明石原人)。しかし、戦争で腰の骨が焼かれ、模型しか残されていません。考古学者は腰の骨を調べて、現在の人類にも似ているかもしれないと伝えています。
かつて港川人の骨と縄文人の骨はよく似ていたので、港川人は縄文人の親戚だと考えられていました。しかし、考古学者が港川人の顎を調べると、縄文人とかけ離れていると伝えています。むしろ、港川人の骨はインドネシアジャワ島のワジャク人・ベトナム北部のハンチョー人の骨とよく似ていると伝えています。したがって、港川人は東南アジアからやってきたかもしれないと考えられるようになりました。
資料出所
[編集]- 平雅行、横田冬彦ほか編著『日本史探究』実教出版株式会社 2023年
- 佐藤信、五味文彦ほか編著『詳説日本史探究』株式会社山川出版社 2023年
- 山中裕典著『大学入学共通テスト 日本史Bの点数が面白いほどとれる本』株式会社KADOKAWA 2020年
- 佐藤信、五味文彦ほか編著『詳説日本史研究』株式会社山川出版社 2017年
- 河合敦著『世界一わかりやすい河合敦の日本史B[原始~鎌倉]の特別講座』株式会社KADOKAWA 2014年(絶版本)
ここに注意!!
[編集]- ^ BBCニュース「ネアンデルタール人の絶滅、皆殺しが原因ではなかった=新研究」2024年9月22日参照。