高等学校日本史探究/日本列島最古の文化Ⅰ

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人類の誕生と日本列島への居住[編集]

※人類はどのような進化を重ねてきましたか?

 地球は46億年前に誕生しました。人類は、約600~700万年前の中新世後期にアフリカでチンパンジーとヒトの共通祖先から分かれました。最古の化石人骨(サヘラントロプス・チャンデンシス)はアフリカのチャドで発見されました。アフリカ東部の大地溝帯は南北に走っており、ここから人類も誕生しました。アウストラロピテクス(南方の猿)も1924年にアフリカ東部の大地溝帯で発見されました。南アフリカの解剖学者レイモンド・ダート猿人を見つけました。歴史学者の研究から、アウストラロピテクス・アファレンシス(アファール猿人)は340万年前から280万年前の新生代新第三紀鮮新世に現れました。脳の大きさは約500ccで、現代人の3分の1ほどの大きさでした。しかし、アウストラロピテクス・アファレンシス(アファール猿人)から二足歩行でまっすぐ立ちました。

北京原人の頭蓋骨は周口店で最初に発見されました。

 ホモ・ハビリスは約230万年前頃に現れました。頭が大きく、石器などの道具を使っていました。そして、更新世の前期に、原人(ホモ=エレクトゥス)が現れました。1891年、オランダの解剖学者ウジェーヌ・デュボワはジャワ島東部のトリニール村の近く、ソロ川の岸で初めてジャワ原人を発見しました。ジャワ原人の脳の大きさは約900ccでした。その後、1927年から北京郊外の周口店の洞窟から原人の化石が約40体分も発見されました。これらの化石は北京原人として知られています。北京原人の脳の大きさは約1100ccでした。北京原人の洞窟遺跡を掘ると、多数の動植物化石・石器・の使用も確認されました。この発掘結果から、原人の生活・文化が明らかになりました。また、原人から、言葉を通じてお互いに話せるようになりました。

 約20万年前頃のアフリカで、人類は旧人に姿を変えました。旧人は1856年、ドイツのデュッセルドルフ市郊外から見つかりました。その証拠として、ネアンデルタール谷のフェルトホッファー洞窟で初めて発見されました。旧人はその地名からネアンデルタール人ともいわれています。ネアンデルタール人は、ヨーロッパとデュッセルドルフ市郊外で発見されました。旧人は現代人に近い脳の大きさを持ちました。また、旧人は洞窟に住み、複雑な石器を作り、死体も埋めていました。

 15万年から10万年前頃、アフリカ大陸で新人(現生人類)ホモサピエンスが現れました。ホモサピエンスの骨格は、旧人よりもさらに現代人に近くなっています。1868年、クロマニョン人がフランス南部のクロマニョン渓谷で発見されました。クロマニョン人は現代人とほぼ同じ種族に入ります。新人は世界中に広がって、旧人を追い出しました。また、一部の新人が旧人と混血して、現在の人類を作り出しました。新人は主に洞窟に住み、とても高度な石器を作って使い、より効率的な狩りや釣りの方法を思いつきました。スペインのアルタミラやフランスのラスコー洞窟などに見られるような美しい絵を描いたり、女性や動物の絵を彫ったりしていました。

人類の起源
 多地域進化説は、広く受け入れられています。人類がどのようにして生まれたのかをこの説で説明しています。原人はアフリカから、それぞれ違う場所で進化の歴史をたどり、旧人も新人も同じように進化しました。その後、遺伝子の研究が大学で盛んになり、アフリカ単一起源説が広く知られるようになりました。この説から説明すれば、次の通りです。

 約10万年前にアフリカからユーラシア大陸へ渡り、ヨーロッパにやってきてクロマニョン人と名づけられました。ネアンデルタール人とクロマニョン人はヨーロッパや西アジアで一緒に暮らしていました。しかし、ネアンデルタール人はやがて姿を消しました。なぜなら、ネアンデルタール人は環境に上手く対応できず、食料をより早く見つけられなかったからです。このように、生物集団間の生命関係をDNAの違いを遺伝子人類学から明らかにされました。遺伝子人類学が、新人の出現についての新しい考え方として大きな影響をもたらしています。

 化石人骨の観察で、人類は猿人・原人・旧人・新人の順番で進化を重ねてきました。しかし、現在の人類学では、この考えを大きく見直しています。人類の化石が多く見つかるようになると、それまで様々な種類の人類が暮らしていた事実が明らかになってきました。しかし、ほとんどの系統は絶滅して、現代人を生み出したのは1系統のみでした。人類最古の化石も次々と見つかっています。1992年、440万年前のラミダス猿人の歯がエチオピアで見つかりました。また、2000年になると、600万年前の猿の骨がケニアで見つかりました。さらに、2002年、猿人の化石がアフリカのチャドで発見されました。この猿人の化石は、約700万年前の化石と考えられています。しかし、この猿人の化石は人類以外の化石との意見もあります。このような発掘調査から、アフリカ大陸が人類誕生の場所と考えられています。原人の段階でアフリカ大陸からユーラシア大陸に渡りました。

日本人の形成
 アジア人(モンゴロイド)は、南方アジア人(古モンゴロイド)と北方アジア人(新モンゴロイド)に分けられます。その中に日本人も含んでいます。なお、モンゴロイドはよく使われていましたが、主に誰かをからかうために使われていました。そのため、この用語は使われなくなりました。その代わり、アジア人・アジア系集団の用語がよく使われています。北方アジア人は氷期の高緯度地方にいました。北方アジア人は極端な寒さにも耐えられるようにしました。その特徴は次の通りです。
  • 体温を保つために、体の体積を大きくしました。
  • 体温を保つために、手足が短くなっています。そのため、皮膚面積が少なくなります。
  • 顔の凹凸が少なく、目が凍らないように厚い一重瞼になっています。

 一方、南方アジア人は寒さに慣れていません。そのため、そのままの姿を保っていたと考えられています。

 現代の日本人は北方アジア人にかなり似ていても、形質人類学から日本人が南方アジア人と同じではないかと考えています。縄文時代の人は低身長で、顔が幅広く、おでこから顎までの高さも低いので、低顔とも呼ばれています。また、顔にバランスの崩れが見られます。考古学者によると、旧石器時代の人骨と縄文人の人骨が似ているので、旧石器時代の人と縄文人は同じ子孫だと考えられています。その外見から、彼らを南方アジア人に分類出来ます。しかし、縄文人は北方アジア人の遺伝子と深く結びついています。そこで、縄文人と弥生人の骨からミトコンドリアDNAを調べました。その結果、日本本土の現代日本人・沖縄の住民・アイヌ人・朝鮮半島の住民・モンゴル人と遺伝子の深いつながりが認められました。しかし、東南アジア人や南太平洋の人々と比べると、あまり遺伝子の深いつながりは見られません。旧石器時代、日本列島・アジア大陸北部の沿海州・シベリア地方と深い文化的つながりを持っていました。考古学の資料からもその内容が確認出来ます。

 弥生時代から古墳時代までの日本列島の人骨から、北方アジア人の特徴が現れています。この時期、朝鮮半島から多くの人々が日本列島に移住するようになりました。彼らは稲作を始めて、新しい技術や文化を持ち込みました。縄文人と比べてこれらの人々は高身長・高顔(面長)でした。これらの人々は弥生時代に九州北部や山口県西部にやってきました。その後、彼らの血と縄文人の血が混ざり合い、全国に広がりました。

資料出所[編集]