高等学校日本史B/安保闘争の時代
安保改訂
[編集]岸内閣は1960年1月に訪米して、日米相互協力および安全保障条約(新安保条約)をアメリカと結んだ。この条約で、アメリカの日本防衛義務が明文化され、軍事行動の前には事前協議が規定された。また、この条約の期限は10年間とされた。
いっぽう社会党・共産党などの革新勢力は、この新安保のせいで日本がアメリカの戦争に巻き込まれる危険があるなどと主張して、反対運動を行った。
しかし自民党は議会の手続きどおりに1960年5月に採決を行った。「強行採決」などと批判された。(※ 革新勢力は、自分たちの気に入らない法案の採決のことを、よく「強行採決」という。しかし保守政党は単に、議会で国会法などの手続きどおりに採決しているだけである。)
国会での新安保の採決により、反対運動が盛り上がり、安保反対勢力は「民主主義の擁護(ようご)」などのスローガンをかかげて1960年5月〜6月にかけて連日、国会周辺で大きなデモが起きた(安保闘争)。
このデモには、全日本学生自治総会(全学連)の学生や、市民や労働者をあわせて、数万人が参加した。
新安保条約は参議院での賛成を得られないまま6月に自然成立し、岸内閣は新安保条約が発効するまでは内閣を続けて、条約が発効したのち、岸内閣は総辞職した。
日韓基本条約と沖縄返還
[編集]総辞職した岸内閣にかわって1960年に池田勇人(いけだ はやと)内閣が成立した。
池田内閣は、国交の無い中華人民共和国とも、貿易協定(LT協定)を締結した。
東京オリンピック後の1964年、池田内閣は総辞職した。
ついで成立した佐藤栄作(さとう えいさく)内閣は、大韓民国の朴正煕(パクチョンヒ)政権と国交正常化交渉をすすめ、日本は1965年に日韓基本条約を結び、韓国との国交を正常化した。
このとき、日本は、韓国を朝鮮半島で唯一の正式な政府と認めた。(つまり、日本は北朝鮮を認めてない。)
ついで佐藤内閣は、非核三原則「(核兵器を)持たず、つくらず、持ち込ませず」を公言した。
さらに1971年に沖縄返還協定が調印され、翌72年には沖縄が日本に復帰した。
しかし、沖縄にある広大なアメリカ軍基地はそのまま維持された。(また、核兵器がアメリカ軍艦に搭載されたまま日本に寄港していた可能性のあることが、2010年に推定された。)
東アジア外交において、佐藤内閣はアメリカの意向どおりに親台湾の方針をとった。