高等学校日本史B/室町幕府の展開

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3代将軍 義満の子の足利義持(よしもち)は義満から将軍職を任命された。4代将軍 足利義持は、父 義満の没後に、外交において、明への朝貢という形式を嫌い、明と断交した。(しかし、のちに6代将軍 義教(よしのり)の代に貿易および国交を再会した。義教は、幕府の財政安定のためと、自身の権威確立(明から日本の将軍は「日本国王」とみなされた)のため、貿易を再会した。)

6代将軍はクジ引きで選ばれ、足利義教(あしかが よしのり)が6代将軍になった。義教は、将軍権力の強化をねらって、1438年に関東に大軍を派遣して、長年対立してきた鎌倉公方(かまくらくぼう)足利持氏(あしかが もちうじ)を滅ぼした(永享の乱)。

しかし、1441年に有力守護の一人である播磨(はりま)守護の赤松満祐(あかまつ みつすけ)によって義教は謀殺された( 嘉吉の変(かきつのへん))。まもなく、赤松氏は、幕府軍によって討伐された。

義教の死後、将軍の権力は失墜し、以降の足利将軍は、強力な指導力を持てなかった。

関東では、1460年代後半の応仁の乱よりも速く、すでに1440年代には持氏の死後の主導権あらそいによって、戦国の世に入っていた。 1454年の享徳の乱により、関東は、持氏の子の成氏(しげうじ)による古河公方(こがくぼう)と、伊豆の堀越(ほりごえ)を拠点とする政知(まさとも)の堀越公方(ほりごえ〜)とが対立した。

こうして、1450年代後半には、関東は戦国に突入した。(なお、戦国時代の関東南部の大名の北条氏は、15世紀末に、この堀越公方の領地をうばって大名になった。)

のちに、1460年代後半の応仁の乱によって、(日本の)全国各地で戦乱が広まる。