高等学校日本史B/室町文化と戦国時代の文化

出典: フリー教科書『ウィキブックス(Wikibooks)』

戦国時代の織田信長の時代に、茶の湯(いわゆる茶道のようなもの)が武士のあいだに普及する。

だが、茶の湯そのものは、けっして信長の時代に始まったわけではない。


落ちついた感じの茶道が始まったのは、室町時代の後半(東山文化)であり、そのころの村田珠光(むらた じゅこう)が 侘び茶(わびちゃ) を始めた。

※ 村田珠光の詳しい実像は不明である[1]。僧で茶人であることは分かっている。小学校・中学校の歴史教育などでは、素性のよくわかっている千利休などが優先して紹介されるのは仕方ないだろう。

なお東山文化(ひがしやま ぶんか)とは、銀閣を8代将軍 足利義政(よしまさ)が建てたころの文化のことである。

そもそも、東山文化の特徴が、おちついた感じの文化である。(※ 銀閣も東山文化。読者は、頭の中で関連づけよう。)


なお、村田珠光は、茶道の説明のさいに、禅(ぜん)にたとえて茶道を説明した。

(※ 範囲外)もともと、寺院などで、眠気覚ましなどに茶が飲まれていた。
(※ 範囲外)なお、禅も茶も、中国由来。中国文化を参考にしている可能性。なお、禅僧は外交使節として、中世では、よく日中貿易に同行していたこともあった。

村田より以前は、茶道というよりも、茶の品種を当てるクイズのような 闘茶(とうちゃ) というジャンルだった。

(※ 世界史の範囲: )なお、中国大陸で茶の栽培が普及した時代は、唐のころの時代である(参考文献: 帝国書院の世界史資料集)。
文献によっては、隋の時代に庶民に普及したとも言われる。日本に茶が伝わった時代がいつかは不明であるが、遣唐使の最澄が茶の種子を日本に持ち帰ったことが知られている。
(※ 範囲外)三国志の小説で、よく、武将になる前の若い劉備が、病気の母のために茶を買い探しにいくシーンがある。このように、漢の終わり、三国時代のころには、茶のような植物が、薬用として考えられていたと思われる。(ただし、この頃の茶は、飲用ではなく(茶葉をかじる)食用だった可能性もある。)


絵画では、戦国時代に狩野永徳(かのう えいとく)が活躍するが、狩野派も、けっして狩野永徳が始めたわけではない。

(※ 範囲外)狩野永徳は狩野派の4代目である[2]。(何代目かは検定教科書には無く、覚えなくていい。)
狩野元信の作品

狩野派は、室町時代の後半に、狩野正信(まさのぶ)・元信(もとのぶ)の父子が、始めたのである。

ただし、正信のころの狩野派の画風は、水墨画に近い。水墨画を基調として、それに着色をした、独自の画風を、正信らは、あみだした。

この画風は、当時っぽい用語で言えば、水墨画に大和絵の手法を取り入れたわけである。


この水墨画じたい、(日本の小学校では)雪舟(せっしゅう)が有名だが、じつは日本で水墨画を始めたのは雪舟ではない。

雪舟の以前は、水墨画は、禅を説明するための補助的な美術であり、寺社の僧によって水墨画が作られていた。だが、雪舟は、水墨画を禅とは独立した美術として作品を作り出した。

雪舟は、明(ミン)に渡って水墨画の知識を日本に持ち帰った。だが、べつに日本初ではない。

雪舟は、西日本を中心に何度か引っ越し、日本の自然を水墨画で描いた。 (※ なんだか、江戸時代の松尾芭蕉(まつお ばしょう)と、やってることが似ていますね。)


上述のように、ところどころ「禅」(ぜん)が出てくる。

これは、室町時代の前半には、禅が流行したからである。

※ もうひとつの理由として、室町時代の当時、禅宗以外には、あまり芸能を修行できる場所が無かったらしい。(※ 参考文献 : ウィキペディア『雪舟』)

そして、室町時代の後半の文化は、茶道や美術などのそれぞれの文化で、禅の制約から脱却する文化という段階に移る。

脚注[編集]

  1. ^ 『芸術新潮 』2022年10月号、新潮社、P18
  2. ^ 下濱晶子『10歳からの「美術の歴史」』、株式会社メイツユニバーサルコンテンツ、2020年11月30日 第1版 第1刷発行、P.108