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高等学校日本史B/幕藩体制の動揺

出典: フリー教科書『ウィキブックス(Wikibooks)』

経済問題の根本原因

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人口問題が諸問題の根源

教科書に書いてないが、江戸時代の人口は、中盤以降、約3000万人の水準がつづき、幕末まで人口はそのままの水準で停滞するのである。 もし人口が4000万人くらいになろうとすると、飢饉などが起きて、3000万人の水準にもどるのが史実である。

江戸時代の財政難や飢饉などの根本的な原因のひとつは、日本の国土での米などの食用農作物の生産量に対して、人口が多すぎることである。しかし幕府の歴代の政権は人口問題にまったく手をつけない。

おそらく幕府にとっては、農民たちが子供をたくさん産んでくれたほうが、将来の労働力が増えて好都合なので、産児制限をしないのだろう。

歴代の政権は、その場しのぎで、様々な改革をする。

享保の改革

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1716年に7代将軍 家継(いえつぐ)が幼くして(8歳で)死去し、徳川本家の血統が絶えると、三家のひとつの紀州藩主の徳川吉宗(よしむね)が8代将軍になった。

吉宗は綱吉以来の側用人による政治をやめ、有能な人材をとりたてた。吉宗の在職期間の29年間の改革のことを享保の改革(きょうほうのかいかく)という。

吉宗は財政の再建のため、武士には倹約令を出し、また、増税的な手法や、統制経済的な手法を行った。

まず、諸大名に石高1万石につき米100石を納めさせる上米の制(あげまいのせい)を定め、かわりに参勤交代の期間を半減した。(しかし1730年に上米制を廃止し、参勤交代も元の制度に戻した。)

定免法(じょうめんほう)は、江戸時代中期以降に幕府領を中心に採用された年貢の計算方法で、過去数年間の平均収量を基準に年貢を定額にするものである。それまでは「検見取法(けみどりほう)」と呼ばれ、年ごとの生産高を基準として年貢を決めていたが賄賂や不正の温床となっており、吉宗が享保7年に定免法を採用した。

農民にとっては以下のような利点があった:

  1. 検見役人の接待を始めとする諸費用の節約
  2. 検見を受ける時期の稲刈の適期を失うことがなくなる
  3. 年貢量が一定となるため計画的な農業経営や蓄積が可能になる

さらに、米の収穫量そのものを増やすために、新田開発も推進した。江戸の日本橋には高札を立てられた。享保年間には町人請負新田として、越後の紫雲寺潟新田や河内の鴻池新田が作られた。

統制を行う一方、1730年に大阪の堂島の米市場(堂島米市場)を公認し、米価の統制を行った(公認する=幕府が口出しできる)。

このように米の問題に積極的に吉宗は取りくんだため、吉宗は「米将軍」(こめしょうぐん)「米公方」(こめくぼう)といわれた。


また、(おそらく裁判にかかる行政費用を削減するためか、)金銭貸借に関しては幕府に訴えさえず当事者間で済ませる相対済し令(あいたい すましれい)を出し、幕府は金銭貸借の争訟を放置した。

(※ 中学校では、江戸時代の改革の内容については、現代でも通用するような政策を中心に習った。
しかし、実際には、現在では まったく通用しないような政策もまた、江戸時代の改革政策には含まれる。)

株仲間をつくることを認めるかわりに、運上金(うんじょうきん)や冥加金(みょうがきん)などの営業税を納めさせた。

また、旗本の大岡忠相を取りたてて町奉行にするなど、人材の登用も積極的に行った。

さらに(大岡忠相など有力な奉行(3奉行)の成果か)裁判の判例などを紹介した公事方御定書(くじがた おさだめがき)を制定するなどの改革をして、司法を合理化した。公事方御定書は上下二巻からなっていて、下巻のことを「御定書百箇条」という。


江戸の都市改革にも力を入れた。 そして、江戸の防災として、防火に力を入れた。火災時の延焼をふせぐための空き地である火除け地を江戸の各地に設定した。 さらに、それまでの定火消(じょうひけし)のほかに、町火消(まちひけし)を設置させた。なお、町奉行として大岡忠相を登用したのも都市改革のひとつ。

さらに、評定所に目安箱(めやすばこ)を設置し、庶民の意見を聞いた。そして、医者小川笙船の目安箱への投書にもとづき、貧しい人のための病院である小石川養生所(こいしかわ ようじょうじょ)を設置した。

また、青木昆陽(あおき こんよう)や野呂元丈(のろ げんじょう)にオランダ語を学ばせ、蘭学を学ばせた。また、キリスト教に関係のない、中国語に翻訳された洋書(漢訳洋書(かんやく ようしょ))の輸入を許可した。

さらに、青木昆陽の奨励のもと、甘藷(かんしょ)の栽培を推進した。(甘藷とは、サツマイモのこと)

その他、さとうきび、櫨(はぜ)、朝鮮人参の栽培を奨励した(ハゼからは、蝋燭(ろうそく)の原料がとれる。)

しかし1732年、享保の大飢饉が起き、翌年、江戸で米問屋に対する打ちこわしが起きた。

田沼時代

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蝦夷錦(えぞにしき)を着たアイヌ。
蝦夷錦(えぞにしき)はアイヌと中国・ロシアとの交易品。この時代の前後、アイヌは、サハリン経由の通商路で中国東北部・ロシア南東部とも交易を行っていた。
蝦夷錦。 国立民族学博物館 にて


10代将軍家治のとき、1772年に田沼意次(たぬま おきつぐ)が側用人から老中になった。

この頃、ロシアがオホーツク海の近隣に進出しており、ロシアはアイヌとも交易をしていた。

仙台の医師の工藤平助は、そのような状況について書籍を書いて『赤蝦夷風説考』(あかえぞ ふうせつこう)を著した。

工藤の研究成果が幕府の耳にも入り、田沼は最上徳内らに蝦夷地の調査を命じた。また、田沼は、ロシアとの交易も企画したが、最終的に失敗に終わった。


経済政策では、田沼は、年貢に頼る財政では限界があると考え、商業の経済力を活用して財政再建をしようとする政策を目指した。

田沼は、銅座や人参座や真鍮座(しんちゅうざ)など、扱う商品ごとに株仲間を認め、営業税として運上金冥加金を取って、税の増収をした。


なお、田沼意次は、大阪の商人資本を活用して下総(しもうさ、現在の千葉県あたり)の印旛沼(いんばぬま)および手賀沼(てがぬま)の干拓工事を試みたが、(利根川の)洪水で、1786年に中止になった。


長崎貿易では、金銀の獲得のため、銅の輸出を目指すとともに、海産物(ふかひれ、いりこ、ほしあわび、等)の「俵物」(たわらもの)の輸出を目指した。


いっぽう、幕府役人のあいだで、賄賂(わいろ)による人事が横行するなど、問題になった。

また、1782〜83年ごろに凶作が起き(冷害が原因だと言われる)、さらに1783年に浅間山の噴火が起き、天命の大飢饉(てんめいの だいききん)となり、東北地方で多くの餓死者を出した。それに加え田沼意次の息子の田沼意知が1784年に佐野政言に江戸城で殺される事件が起こった。

このため、全国で百姓一揆や打ちこわしが起こった。将軍家治が死去すると、田沼は老中を罷免(ひめん)され、失脚した。

この頃の学問

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洋学

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8代吉宗が将軍になる前の1695年、天文学者の西川如見は、長崎にあつまる世界地理の情報をもとに『華夷通商考』を表した。

その後、1716年ごろに吉宗が将軍になり、漢訳洋書の輸入を許可して、洋学が発達した。

そして、吉宗は、青木昆陽(あおきこんよう)や野呂玄上(のろ げんじょう)にオランダ語を学ばせた。

『蔵志』の解剖図
解体新書。

医学では、洋学よりも先に、山脇東洋(やまわき とうよう)が1754年に、実際の解剖観察にもとづく知見をまとめた『蔵志』(ぞうし)を発表し、大まかな解剖図ではあるが、人体の内臓の大まかな様子が分かった。また、これらの研究により、解剖観察による実証的な解剖学への関心が高まった。

その後、医師の前野良沢(まえの りょうたく)は、目にした西洋の医学書にある精密な解剖図などの図におどろき、前野はオランダ語の医学書を翻訳しようと思い立ち、晩年の青木昆陽からオランダ語を習った。

そして、前野良沢は杉田玄白(すぎた げんぱく)とともに、オランダ語の解剖書を翻訳し、1774年に『解体新書』として発表した。この『解体新書』には、かなり正確な人体解剖図があり、人々をおどろかせた。

前野・杉田らは自分らの学問を「蘭学」と読んだため、オランダ語の翻訳によって輸入された学問は、以降「蘭学」と呼ばれるようになった。


ついで、良沢の門人である大槻玄沢が入門書『蘭学階梯』(らんがくかいてい)を出した。また、宇田川玄随(うたがわ げんずい)は、西洋医学の内科書の翻訳書を出した。

また、大槻玄沢の門人である稲村三伯(いなむら さんぱく)が、日本最初の蘭日辞典である『ハルマ和解』(はるまわげ)を1796年に出した。

いっぽう、田沼意次よりも9歳ほど若い平賀源内(ひらが げんない)は、長崎で学んだ科学知識をもとに、摩擦発電機や寒暖計などを作成したり、西洋画法を日本に伝えたりした。

このような洋学の普及により、西洋のさまざまな自然科学が輸入された。

国学

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日本の古典を実証的に研究する国学(こくがく)は、元禄時代に契沖(けいちゅう)による『万葉集』の研究によって始められた。

その後を継いで、荷田春満(かだの あずままろ)や賀茂真淵(かもの まぶち)が、日本の古代思想を研究した。

特に真淵は、仏教や儒学が伝わる前の日本の古代思想を研究する必要性を主張した。

賀茂真淵より約40歳ほど若い本居宣長は、国学の研究を目指して賀茂真淵の弟子になって学んだ。

そして本居宣長は、35年間もの歳月をかけて古事記を研究し、『古事記伝』をあらわし、

また宣長は、『源氏物語』なども研究し、日本のこころの本質は「もののあはれ」であると、宣長は主張した。

真淵に学んだ盲目の塙保己一(はなわ ほきいち)は、幕府の援助を受けて、和学講談所を設立し、古典の収集・保存・分類を行い、『群書類従』(ぐんしょ るいじゅう)を出した。

松平定信

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寛政の改革

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松平 定信(まつだいら さだのぶ)

田沼意次(たぬま おきつぐ)が失脚し、新しい老中として松平定信(まつだいら さだのぶ)が1787年に老中になり、定信は11代将軍家斉(いえなり)に仕えた。定信はもともと奥州白河(おうしゅうしらかわ、福島県)の藩主。

ちょうど、その1787年のころ、江戸で天明の打ちこわしがあった。

定信は、吉宗の時代の政治を理想と考え、緊縮的な政策を行った。松平定信の行った改革のことを 寛政の改革(かんせいの かいかく) という。

  • 食糧問題

飢饉(ききん)により、まず、食料生産を増やさないと国が危険な時代になってるので、定信は、食料生産を増やす政策を取る。

定信は、農民による江戸への出稼ぎを制限し、江戸に出稼ぎに来ている農民を農村に帰らせた(旧里帰農令(きゅうり きのうれい))。また、各地に食糧を貯蓄するための社倉(しゃそう)や義倉(ぎそう)を立てさせた(囲米(かこいまい))。

  • 経済問題

武士相手に米の売却業と金融業をする職である札差(ふださし)による6年以前の武士への借金を放棄させた(棄捐令(きえんれい))。かわりに、幕府は札差に低利で融資を行った。

また、江戸の町々に町費(町入用)を節約させ、節約金の7割を積み立てさせ(七分積金(しちぶ つみきん))、災害や飢饉のさいの資金源にしようとした。

江戸の石川島に人足寄場(じんそく よせば)をつくり、無宿人を強制的に収容し、職業訓練(や手工業などの強制労働)などの教育をして定職につかせようとした。 また、人足寄場は、無宿人のほかにも、軽犯罪者に(社会復帰のための)職業訓練や、懲役のような労働をさせるための施設でもある。 この政策のおかげで江戸の治安は良くなっていった。

  • 寛政異学の禁(かんせいいがく の きん)

湯島の学問所(のちの昌平坂学問所)では、朱子学以外(異学)の学問を禁止した(寛政異学の禁)。(儒学の派には、朱子学の他にも陽明学(ようめいがく)などがある。) 朱子学が正式な儒学である正学(せいがく)とされ、(陽明学などの)他の派の儒学は異学(いがく)とされた。

  • 出版統制

民間に対しては、出版統制を行い、政治への風刺や批判を取り締まった。

そして、林子平(はやし しへい)が1791年に発刊した『海国兵談』(かいこく へいだん)などで海防の必要性をとなえたことが、幕府批判と捕らえられ、処罰をされた。

そのほか、幕府は洒落本(しゃれぼん)の出版を禁止した。このため、『仕縣文庫』の作者で有名な洒落本作家の山東京伝(さんとう きょうでん)などが弾圧された。


その他

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  • 朝廷問題と定信の退任

松平定信が老中の時代の1789年、光格天皇が実父(閑院宮典仁親王)に与える称号について、朝廷は幕府に同意を求めてきたが、定信はこれを拒否した(「尊号一件」 (「そんごういっけん」))。

この尊号一件の是非をめぐって、定信は将軍家斉と意見が対立し、1793年、定信は老中の座から しりぞいた。

松平定信の退任後も、しばらくの間、寛政の改革と似たような政策が続いた(松平信明ら率いる寛政の遺老と言われる定信の盟友らが政治を引っ張った為)。


  • 諸藩の改革

寛政の改革のころ、それぞれの藩も、改革を行い、倹約や農業育成などにつとめた。

藩の財政収入を増やすため、特産品の生産と専売に力を入れる藩もあった。

また、藩校を設立して、教育に力を入れる藩もあった。


米沢藩の上杉治憲(はるのり)、秋田藩の佐竹義和(さたけ よしまさ)が、この時代の藩の名君だと言われる。

  • 民衆の反感

狂歌には、

世の中に 蚊ほど うるさき ものは(わ)なし ぶんぶ(文武)といふて 夜もねむれず」
白河(しらかわ)の 清きに魚の 住みかねて もとの濁り(にごり)の 田沼(たぬま)こいしき」

と、うたわれた。

「蚊ほど」は、「これほど」の意味の「かほど」と かけている。「ぶんぶ」は、蚊の羽音のぶんぶんと、文武をかけてる。

「白河」とは、元・白河藩主の松平への皮肉。「田沼」とは、田沼意次と かけている。

時事

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1789年、クナシリ・メナシでアイヌの蜂起が起きた。