高等学校日本史B/明治の近代化の改革

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殖産興業[編集]

富岡製糸場(とみおか せいしじょう)
フランスから輸入された機械を導入している。工女は約210人。工女の多くは各地から募集した士族の女性。「富岡工女」と呼ばれた。

1870年に設立された工部省が、鉄道・鉱山・製鉄などの官営事業を担当した。

1873年に設立された内務省が、製糸・紡績などの軽工業の振興を担当した。

また、内務省は、群馬県に富岡製紙場を設置するなど、各地に軽工業の官営模範工場を設置した。


工業には、交通手段として鉄道も必要だし、また通信の普及も必要である。

(通信機のほうが設置が簡単だったようで、(電源のほかには、せいぜい通信ケーブルをひくくらいで済むからか))

鉄道よりも先にまず1869年に日本初とみられる本格的な電信線が東京・横浜間に設置された。

鉄道の設置には莫大な費用が必要なので、イギリスから費用を借入れした。

つづいて鉄道が工部省の担当のもと1872年、新橋・横浜間に設置された。ついで1874年、大阪・神戸間の鉄道が設置された。


また、電信は1874年ごろまでに北海道から長崎まで、つながった。


郵便は、1871年に前島密(まえじま ひそか)の意見によって官営の郵便事業が東京および大阪で発足された。

海運では、有事のさいの輸送を確立するために、政府は岩崎弥太郎(いわさき やたろう)の三菱会社(みつびしかいしゃ)に手厚い保護を与えた。

そのほか、さまざまな事業で、三井(みつい)・三菱などの特定の民間の大企業が、優遇・保護された。このように、政府とむすびついた商人たちのことを政商(せいしょう)という。

宗教[編集]

宗教政策では新政府は、王政復古の祭政一致の理念により、神仏習合を禁じて1868年に神仏分離令(しんぶつ ぶんりれい)を出した。そのため、全国にわたって廃仏毀釈(はいぶつ きしゃく)の運動が起き、各地で仏像や寺院が破壊された。

いっぽう、政府は神道(しんとう)の国教化を目指し、1870年に大教宣布の詔(だいきょうせんぷ の みことのり)を出し、神社制度や、皇室行事にもとづく祝祭日を設定した。

皇室行事とは、紀元節(きげんせつ)や新嘗祭(にいなめさい)などのこと。

キリスト教については、新政府は当初、旧幕府のキリスト教の禁止を継続し、長崎の浦上のキリシタンが弾圧を受けていたが、列国の強い抗議により、1873年にキリスト教禁止の高札(こうさつ)が撤去され、キリスト教の信仰が黙認されるようになった。これを機に多くの外国人宣教師が来日し、布教活動を行った。

靖国(やすくに)神社
(※ 清水書院や実教出版など、いくつかの検定教科書で紹介されている。)

靖国神社の前進となる東京招魂社(とうきょう しょうこんしゃ)は、このころ(1869年)作られた。

招魂社では、戊辰戦争以来の国事に協力して死没した者をまつった。

(※ 教科書に無い話題: )戊辰戦争前に死んだ吉田松陰など、のちに新政府側に都合のいい思想家も、まつられている。いっぽう、戊辰戦争で政府軍の敵側である白虎隊や、西南戦争で反乱軍だった西郷隆盛は、まつられてない。


教育[編集]

1871年に文部省が設置された。そして、すべての日本国民の子どもの男女に教育をさずけるべきとの理念のもと、1872年に小学校から大学までの制度や学区などについての学制を定めた。(※ いくつかの検定教科書では、フランスの学制を参考にしたのだろうと分析されている。山川出版や清水署員など)

しかし、学校建設費や授業料の負担が地域や保護者に課せられたため、反発運動が高まり、政府は1879年に学制にかえて教育令を出した。

高等教育については、1877年に旧幕府の開成所や医学所などを統合して東京大学(現在の東京大学の前身)をつくった。そして、多くの外国人教師が招かれた。

そのほか政府によって、教員養成のための師範学校や、女子教育のための学校、産業教育のための専門学校もつくられた。

いっぽう政府とは別に、福沢諭吉慶応義塾、新島襄(にいじま じょう)の同志社(どうししゃ)英学校、大隈重信の東京専門学校(のちの早稲田大学)などの私立の学校が設立された。

時計と「隠れたカリキュラム」
※ 第一学習社『歴史総合』のコラムに書いてある話題だが、学校教育により、人々に時計や時刻をもとにした生活習慣が根付いたことが、社会的な影響として大きいと書かれている。同様の言説は、平成の昔からよく歴史評論では言われている。明治以前の江戸時代、機械の時計は庶民には値段が高く、普及していなかったのである。

日本は明治維新により近代化が必要になったが、産業・経済の近代化では工場が必要だが、工場労働者は時刻にもとづいて労働中は計画的に時間を管理される必要があるので、前提として人々に時間をもとにした行動習慣を教育する必要があった。だから学校教育でも時間割に基づいて行動したり、授業中は私語をつつしむ事や実技以外の座学の授業では原則として着席するなどの何気ない習慣も、工場労働者を育てるための規律の教育という意図があると、よく教育評論では昔から言われている。

さて、検定教科書では深入りしてない話題なのだが、教育学の用語で1970年代の古くから「隠れたカリキュラム」という欧米人の提唱した概念があり、その分析法を明治日本にあてはめるなら、「隠れたカリキュラム」とは、けっして表向きの「国語」「数学」や「体育」などの授業ではなく、まさに上述の時間割という習慣をつけさせることや、そのほか産業革命時代の労働者として都合のいい機械的な単純反復作業によって達成できる労働や勉学の奨励、そのほか国家の政策に都合のいいような思想に染めていくことなどが、「隠れたカリキュラム」の代表例・典型例としてよく言われる。