高等学校日本史B/桃山文化

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姫路城(ひめじ じょう)
姫路城には、この時代の城郭建築の特徴がよく残っている。姫路城は、この桃山時代に、大改修され、現在でもそれに近い状態で現存している。

建築では、城郭建築では、戦国時代の後半に戦が収まってくると、高層の天守閣と、巨大な石垣が、建築された。また、平地に城がつくられる場合が多かった。(※ 城下町などとの関係?)

(※ なお、現在の大阪城の天守閣は、第二次世界大戦後の昭和になってから復興されたものである。また、安土城は消失している。姫路城以外の現存する古城は、例えば江戸時代に増築・改築されたりしていて、桃山時代の特徴が減っている。)


狩野永徳『唐獅子図屏風』

この時代、美術では、こういう(ページ右のような)屏風絵(びょうぶえ)や襖絵(ふすまえ)が流行した。


金箔の背景に、青や赤や緑で色をつける手法のことを、濃絵(だみえ)という。(これとは画風は違うが、平安時代から「だみえ」という美術用語があったらしい。※ 参考文献 : コトバンク『濃絵』ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説 )

つまり、狩野永徳の屏風絵などに濃絵(だみえ)の作品が多い。

なお、屏風絵や襖絵をまとめて、現代では「障壁画」(しょうへきが)という。


茶道では、信長が恩賞として家臣に茶道具などを与えたこと等により、織田配下の武将のあいだで茶の湯の人気が高まった。

つづく秀吉も、茶の湯を重視した。

信長・秀吉の時代、堺の町衆(ちょうしゅう、まちしゅう)出身の千利休(せんの りきゅう)がそれまでの日本の侘び茶(わびちゃ)の文化をひきつづき普及させ、利休は茶人として活躍した。(わび茶の創設者は、千利休ではない。室町時代の村田珠光(むらた じゅこう)という、別の人が侘び茶(わびちゃ)を創設した。)

いっぽう、秀吉は、大阪城内に黄金の茶室をつくった。


茶道についてのまとめ
古代~中世に、どうやら最澄(さいちょう)などが遣唐使として中国にわたり、帰国後、日本に茶を輸入して紹介したらしい。詳細は不明。
室町時代、茶道は当初、侘び茶ではなく闘茶(とうちゃ)という茶ソムリエのクイズゲームとして、日本で普及していった。武士のあいだで闘茶が流行し、酒宴なども行われる豪勢なものであったが、室町幕府によって闘茶は規制された[1]
室町時代の中期(1400~1500年代)、村田珠光(むらた じゅこう)が、侘び茶を創始。
戦国時代~安土桃山時代のころ(1550~1600年代)、千利休が、村田などの先人にひきつづき侘び茶を発展させる。
織田信長などの有力大名に、茶道や千利休などの茶人が気に入られる。
日本統一した秀吉も信長にひきつづき、茶道的な文化を振興した。
(※ 備考: )もともと日本の室町時代における茶の文化で先に流行したのは、侘び茶ではなく闘茶である。のちの戦国時代・安土桃山時代に秀吉が黄金の茶室などを作ったりしたが、秀吉の意図はともかく、もともと茶会は、武士が豪遊するものであるのが、闘茶の流れからすれば由緒ただしい。


文学では、イソップ童話が日本語に翻訳され、『伊曾保物語』(いそほ ものがたり)として日本に輸入された。しかし、これらの欧文和訳の翻訳文学は、その後の江戸時代の鎖国政策のため、短命に終わった。

いっぽう、日本発の文学は、この時代の文芸は、特に知られてない。

  1. ^ 相澤理『歴史が面白くなる 東大のディープな日本史【古代・中世編】』、株式会社KADOKAWA (中経文庫)、2016年7月15日 第1刷発行、P246