高等学校日本史B/織田信長・豊臣秀吉
織田信長の統一事業
[編集]元々織田家は尾張守護代の家柄であった。その守護代の家臣であった織田信秀は勢力を伸ばし、三河の松平氏・美濃の斎藤道三・
信長は、1567年には美濃の大名・斎藤氏を滅ぼす。こうして、濃尾平野を手にした信長は居城を美濃の
1568年、信長は、室町幕府の13代将軍 故・足利義輝(よしてる)の弟の足利義昭(よしあき)を奉じて信長は京都に入った。そして信長は、足利義昭を15代将軍につかせた。
しかし足利義昭は、しだいに信長と対立した。そして義昭は、越前(えちぜん)の朝倉義景(あさくら よしかげ)、近江の浅井長政(あさい ながまさ)、信濃(しなの)の武田信玄(たけだ しんげん)、などの有力な大名や、本願寺(ほんがんじ)と結び、信長に対抗した。
これに対し信長は、1570年、姉川(あねがわ)の戦いで、浅井・朝倉の連合軍を破った。
翌年には信長は、比叡山(ひえいざん)延暦寺(えんりゃくじ)を焼き討ちした。
- (※ 範囲外: )延暦寺を焼き討ちした理由は、次のように幾つかある。 1.延暦寺が、織田の敵勢力の浅井・朝倉の味方をした。 2. そもそも当時の延暦寺は僧兵などをもつ軍事勢力[1]。 3. 延暦寺はどうだかともかく、当時の寺社は「市」や「座」は寺社が後ろ盾となっており、そのため地代などを寺社が得ていた。そのため、たびたび楽市楽座などの政策に寺社勢力が反発・妨害していた。[2]。 などの理由があると思われる。)
- (※ 範囲外: )歴史上、比叡山を焼き討ちしたのは、別に信長が初めてではない。過去にも1435年の足利義教、1499年の細川政元がある。(世間では、知識不足の評論家が、あたかも信長が史上初の焼き討ちをしたかのようなデマを流すことがある。)
そして1573年、信長は、足利義昭を京都から追放して、室町幕府は滅んだ。
そして1575年、長篠の戦いで、織田・徳川の連合軍は大量の鉄砲を活用し、騎馬隊を中心とした武田軍に圧勝した。このとき、武田信玄は既に死亡しており、武田勝頼(たけだ かつより)が武田の大名である。
このころ、信長の領地は、一向一揆に悩まされていた。
1574年、織田は、伊勢長島の一向一揆を滅ぼした。
翌年には、越前の一向一揆を滅ぼした。
そして1580年、ついに、大坂の石山本願寺を屈服させた。
1582年には、信長は、天目山(てんもくざん)の戦いで武田氏を滅ぼした。
信長は、つづいて毛利氏を倒そうと、京都の本能寺に泊まっている途中、家臣の明智光秀(あけち みつひで)に裏切られ、信長は自害した(本能寺の変)。
こうして信長は、日本統一をせずに死亡した。
楽市楽座について
[編集]最初に楽市を始めた人物は、じつは信長ではない可能性がある。(信長以前にも「楽市」という用語があったが、当時はその語句は注目されておらず、信長以前の「楽市」政策の実態がまだ解明されてない。)
1549年に近江(おうみ、現在の滋賀県あたり)の大名の六角氏が、戦国時代でおそらく最初に「楽市」を始めたとも思われている。 そのほか、駿河では今川義元や子の今川氏真が、領地で楽市のような政策をしていたとも、思われている。
いっぽう、「楽座」という用語を最初に始めたのが、おそらく信長だと思われている。要するに、楽座のない「楽市」だけの経済政策をする大名なら、信長の前にも、そこそこ、いたようだ。
すでに楽市という用語があって、信長はさらに「楽座」という用語を付けくわえたわけだから、今迄の楽市よりも、いっそう信長は、規制緩和をすすめたと考えるのが、妥当だろう。
「座」(ざ)というのは、同業者組合のこと。「楽座」の以前は、商人は加入料や営業税を(地元の領主や、座の責任者などに)払って、その業種の「座」に入らないと、営業を行えない場合があった。信長は、その「座」による規制を緩和したということ。
- (※ 範囲外: ) 当時、寺社などが「座」の後ろ盾になる事も多かった。つまり信長は、座の特権を廃止する「楽座」という政策により、寺社への営業税の流れを止めた事になる[3]。このため、中間搾取をする者が減るので、商人からすれば払う税金が下がるし、信長からすれば得られる収入が増えるという算段である。
信長の楽市楽座は、安土城の城下町で行われた政策である。
また信長は、領地で関所を廃止した。
信長の狙いは不明だが、関所撤廃などの結果、それまで関所の通行料などの収入を得ていた寺社や公家は、信長の政策で、資金源のいくつかを断たれた。(※ 参考文献: 東京書籍の検定教科書。) ※ これにより、荘園もまた資金源を絶たれた。
本能寺の変による信長の死後は、権力をにぎった秀吉が、関所の廃止や楽市楽座の政策を行った。
その他、信長について注意事項
[編集]信長は、「天下布武」(てんか ふぶ)の印を使ったが、天下統一はしていない。
信長のキリスト教保護政策については、信長の出会った宣教師はルイス=フロイスである。
秀吉の日本統一
[編集]1582年、本能寺の変が起きて信長が自害した。 。
秀吉は、毛利と和睦して、京都方面に引き返し、山崎の戦い で明智光秀を滅ぼした。
信長の家臣だった柴田勝家が、秀吉と対立した。
1583年、賤ヶ岳の戦い(しずがだけ の たたかい)で、秀吉は柴田勝家をやぶる。勝家自害。(この戦いのあと、中国地方の毛利は秀吉に従う。)
同1583年、秀吉は、石山本願寺の跡地に大阪城を建てる。
1584年、小牧・長久手の戦い(こまきながくて の 〜)で、信長の次男 織田信雄(おだのぶかつ)と徳川家康の連合軍と戦い、勝負がつかないまま和睦に終わる。
1585年、秀吉は朝廷から関白に命じられ、翌1586年には秀吉は太政大臣(だいじょう だいじん)に任命され豊臣(とよとみ)の姓をたまわる。
1588年には秀吉は、京都に新築した 聚楽艇(じゅらくてい) に後陽成天皇(ごようぜい てんのう)を招いた。
いっぽう戦史では1585年、秀吉は、四国の長宗我部元親をたおし、四国を平定する。(なお中国地方の毛利は、すでに1583年から秀吉に従っている。)
そして翌1586年に太政大臣になった秀吉は、天皇の命令であるとして、諸国の大名に戦争をやめるように提唱した。
その後、この停戦命令にしたがわないとして、秀吉は、1587年に九州の島津義久(しまづ よしひさ)を攻めて降伏させた。(義久は生きのこる。)
1590年には、小田原の北条氏政(ほうじょう うじまさ)を攻めて、北条氏を滅ぼした。(このとき北条氏政は死亡。)
同1590年、伊達政宗(だて まさむね)など東北の諸大名も降伏し、秀吉は日本統一をした。
秀吉の政策
[編集]政治体制
[編集]豊臣政権は秀吉の独裁色が著しく、また政権を握っていた時期が比較的短いこともあって、鎌倉・室町幕府のような政権組織の整備が十分にはなされなかった。秀次事件の後に、徳川家康・前田利家・毛利輝元・宇喜多秀家(うきた ひでいえ)・上杉景勝・小早川隆景の6人の有力大名が大老(年寄衆)とされるようになった。
秀吉は死を前にして、秀頼が成人するまでの間、小早川隆景(1597年死去)をのぞく先ほどの五人の有力大名(五大老)と秀吉の腹心の浅野長政・石田三成・増田長盛・長束正家・前田玄以の五人(五奉行)との合議制をしくように遺言した。これがいわゆる五大老・五奉行である。
宗教政策
[編集]1587年には秀吉は、バテレン追放令を出した。この追放令では、宣教師の追放のほか、大名がキリスト教徒になることも禁止した。また、大名が信者を強制的にキリスト教徒にすることや、寺社を破壊することも禁止した。
キリシタン大名の高山右近(たかやま うこん)は、改宗を拒否して領知没収になった。
この追放令では、民衆が個人的にキリスト教徒になるのは、自由とされた。
秀吉は、1596年のサン=フェリペ号事件をきっかけに、そして日本は、フランシスコ会の宣教師・信者の26名を処刑した。
フィリピンを出港したスペインのサン=フェリペ号の乗船員が、土佐に漂着したとき、乗船員が、スペインが各国を侵略する際に宣教師の布教のあとに侵略して植民地化をすると話したため、それが秀吉に報告された。
背景として、イエズス会とフランシスコ会との対立もある、と考えられている。
秀吉は、1588年には海賊停止令を出し、倭寇(わこう)などの海賊を取り締まった。
経済
[編集]豊臣政権の財政的基盤は石高にして約220万石もの蔵入地であった。秀吉は、京都・大坂・伏見・堺・博多・長崎など重要都市、生野銀山・佐渡相川金山などの鉱山を直接支配した。さらに畿内や北九州をはじめとした地域から年貢を徴収し、直臣団への扶持米や戦時の兵粮米とした。
さらに、秀吉は褒賞や軍事費の調達を目的として、1588年に金貨である天正大判を発行する。
- ※ 信長・秀吉以前の時代では、金銀は通貨としては使われていなかった[4]。永楽通報や宋銭・明銭などは基本的に銅貨である(例外的に、一部は鉄銭の場合もあった)。戦国時代ごろに京都など一部の地域で、銀が通貨のように使われ始めていた。そして信長は、金銀通過使用令(要高次出典)を出し、商人たちが金銀を貨幣のように使うのを追認した[5][6](しかし金貨はまだ発行されていない)。そしてついに秀吉の時代になって公式に金貨が発行された。
- 参考文献