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高等学校日本史B/高度経済成長の終焉

出典: フリー教科書『ウィキブックス(Wikibooks)』

1970〜80年ごろ

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国政

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1960年代後半、アメリカ経済は国際収支が悪化しており、時のニクソン政権は、ドル防衛の必要にせまられてた。そして1971年8月に、アメリカ合衆国が金とドルとの交換を停止した(ニクソン-ショック)。 (ニクソン大統領の政策なので、ニクソン-ショック(Nixon shock [1])という。)

この結果、1971年12月の10か国蔵相国際会議で日本は円とドルとの交換レートの切り上げをせまられ、1ドル=308円になった。当初、日本は固定相場制を維持しようとしたが、1973年に変動相場制に移行した。


1972年に田中角栄(たなか かくえい)が総理大臣に就任した。

田中内閣では、田中首相が北京に訪れ、毛沢東と交渉し、日中共同声明を発して日中国交正常化が行われ、中華人民共和校と日本との国交が樹立した。(これにともない、日本と中華民国(台湾)とは断交した。) (※ まだ日中平和友好条約は締結されていない。のちの福田赳夫(ふくだたけお)内閣の時代に、日中平和友好条約は締結される。)

(なお、アメリカ合衆国のニクソン大統領は1972年に訪中して、ひとまず米中和解を実現した。しかし、1972年の時点では米中の国交は正常化しなかった。米中国交正常化の年度は1979年からである。)(なお1976年に毛沢東が死去している。)


日本経済では、1972年に田中角栄が、太平洋に集中している工業地帯を、(東北や北陸、山陰や四国などの)各地の拠点都市に分散して、その間を高速道路や新幹線でつなごうとする「日本列島改造計画」を唱え、公共事業を推進した。この結果、土地投機をまねいて地価が上昇した。

1973年10月以降の第1次石油危機(the first oil crisis [2])は、田中内閣の時代の出来事である。

第1次石油危機の原因は、1973年10月の第4次中東戦争が原因である。

この結果、日本でGNP成長率が戦後初めてマイナスに転落し、戦後日本の高度成長は終焉した。なお、日本では物価は上昇し(激しいインフレ)、「狂乱物価」と言われた。


※ なお当時の日本は、ニクソンショックの円高への対応に追われている状況でもあった(参考文献: 山川出版の教科書)。一般的に、円高では物価が下がりやすい、とされている。しかし当時は、それよりも石油危機による原油価格の上昇の影響が上回ったようで、物価高(インフレ)になったのだろう。

石油危機の不安により、日本の消費者たちは「物が無くなる」という不安のために、洗剤やトイレットペーパーなどの買いだめに走り、品不足が起きた。

(しかし、その後の日本経済は先端技術への投資により不況を乗り切り、その結果、しだいにコンピュータや産業用オートメーションの導入が進んでいく。)

また、石油危機などをきっかけに世界的に、インフレ状況下での不況であるスタグフレーションがおとずれ、その対策のため先進各国は1975年、アメリカ・日本・西ドイツ・イギリス・フランス・イタリア6か国の首脳による先進国首脳会議が開かれ、対応に各国が協力しあう事となった。


(なお田中角栄は1974年に金脈問題などにより総辞職し、三木武夫(みき たけお)内閣に変わった。)


1970年代後半、アメリカ財政が「双子の赤字」と呼ばれた(アメリカの)財政赤字と(アメリカの)貿易赤字に苦しみ、アメリカはその打開策として日本に、貿易自由化をもとめてきた。

このため、アメリカは日本に、農産物の輸入自由化などを求めてきた。


田中角栄は1974年に金脈問題などにより総辞職し、後継として「クリーン政治」をかかげる三木武夫(みき たけお)内閣に変わった。

しかし、1975年に田中元首相が米国ロッキード社との(航空機の売り込みをめぐる)収賄容疑で(田中角栄が)逮捕され(ロッキード事件)、その影響で総選挙で自民党が大敗したので、三木内閣は総辞職した。

退陣した三木内閣にかわって、福田赳夫(ふくだ たけお)内閣が組閣された。

福田内閣は、経済政策では貿易黒字・円高不況の解消のため内需拡大を掲げた。外交面では福田内閣は1978年に日中平和友好条約を締結した。


※ 範囲外: 1970~80年代の財政再建
※ 読者は中学校で、1980年代の電電公社や国鉄の民営化を習ったはずだ。この民営化は、後述するが1982年からの中曽根康弘(なかそね やすひろ)内閣の成果である。

しかし、じつは、財政再建が国政で重要問題になったのは、中曽根のころからではなく、1970年代後半の大平正芳(おおひら まさよし)内閣のころからである。そして、いちぶの国営事業の民営化の方針が決まったのは、大平内閣のつぎの1980年からの鈴木善幸(すずき ぜんこう)内閣のときである。

  • 経緯(けいい)

戦後日本は1965年度に赤字国債を1度発行したが、しばらく赤字国債を発行せずに済んだが、しかし1975年以降はそれまでしばらく発行していなかった赤字国債を毎年発行しつづけざるを得ない財政状況になった( 前年の1974年は戦後初のマイナス成長の年)。このため大平内閣のころまでには財政問題が注目され、大平内閣は財政問題に着手した。(※ そもそも大平は、過去の内閣では大蔵大臣(いまでいう財務大臣)をやっていた。財政問題が深刻化しはじめたので、大平が首相に選ばれたのだろう。)

大平内閣は財政問題の対処のため、当初、増税をしようとしたが、しかし世論の反発により、増税をあきらめた。

つぎの鈴木内閣で、増税でなく公務員削減などの行財政改革によって歳出を削減する方針となった。1981年には、行政改革を目的とする第2次臨時行政調査会を発足させ、「増税なき財政再建」が目標にされた。しかし、鈴木内閣では行財政改革は実行されず、つぎの中曽根(なかそね)内閣で行財政改革が実行される事になる。

福田内閣の後継の大平正芳(おおひら まさよし)内閣は、第二次石油危機に対処するなどしたが、1980年の選挙運動中に急死した。

1980年の選挙では自民党が圧勝し、鈴木善幸(すずき ぜんこう)内閣が成立した。

その他

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地方自治

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地方自治では、革新自治体が財政的に行きづまり、革新自治体は減っていった。

1980〜

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大平正芳内閣、鈴木善幸内閣のつぎに、1982年に中曽根康弘(なかそね やすひろ)内閣が成立した。


中曽根は財政改革として、官営(かんえい)事業だった電電公社(現NTT)、国鉄(現JR)、専売公社(現JT)の民営化をした。

(※範囲外) なお、この(電電公社をのぞく)国鉄と専売公社の民営化案は、1950年代後半あたりから既にシンクタンク(政策などの提言をする主に民間の研究機関)のw:産業計画会議(組織名)による政策提言で考えられていたものである。決して中曽根がゼロからアイデアを出したわけではない。60年代や70年代の不況や経済変動などで計画が考えられたわけではなく、すでに1956年ごろには国鉄や専売公社などの民営化の議論があった。

中曽根は首相として初めて靖国(やすくに)神社に参拝した。

また、防衛費について、過去の三木内閣の設定したGNP1%枠とする目安を、中曽根政権の当時、突破し、当時は話題になった。


1987年に中曽根は、後継に竹下登(たけした のぼる)を指名して退陣した。

つづいて1987年11月に竹下登内閣が成立した。

1989年、竹下内閣のもとで消費税が成立して実施された。

しかし政治資金の疑惑により(リクルート事件)、退陣した。

小泉純一郎と中曽根内閣の民営化
(※ 読者は中学校ですでに、2005年の小泉純一郎内閣による郵政民営化法の成立を習っている。)

上述の中曽根内閣の説明でみたように、国営事業・公営事業を民営化する方針は、中曽根政権のころには既に存在した政策である。 けっして、小泉純一郎が初めて民営化政策を考えたのではない。

1980年代末の不動産バブルを時代の基準に考えると、80年代前半の中曽根政権はバブル崩壊前だし、2001年からの小泉政権はバブル崩壊から かなり後である。

けっして、不動産バブル崩壊によって急に民営化政策が考えられたのではなく、まして小泉が急に民営化を考えたのではなく、すでにバブル崩壊前から、財政問題の解決策として、さまざまな事業の民営化が考えられてたのである。

バブル景気の発生と崩壊

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1980年代、貿易摩擦やアメリカの財政赤字の問題もあり、1985年のG5会議によりドル安を誘導するための円高および(ドイツ通貨の)マルク高が合意した(プラザ合意)。そして日本では実際に円高になった。

このため日本の製造業など輸出産業はやや不況になったが、輸入品の価格が下がったこともあり、日本では内需が拡大した。

この頃、一般企業でもパソコンなどのコンピュータが普及しはじめた。(※ たとえばNEC社のPC88シリーズなど)(※ 80年代の時点では、インターネットは、まだ普及してない。携帯電話も、まだ普及してない。)

(※ 範囲外: ) なお、一般家庭には、まだパソコンは高価かつ(比較的)大型なため普及しておらず、かわりに一般家庭には家庭用ゲーム機の「ファミコン」(任天堂の製品)が子ども向けのオモチャとして80年代後半ごろから普及しはじめていた。

また、小売業ではコンビニが全国各地に普及しはじめた。外食産業も、増え始めた。

そして、この頃から、経済界では、今後の予想として従来の建設業や鉄鋼業や自動車などの「ハード」産業にかわり、コンピュータやレジャー産業などの第三次産業や各種のサービス業などの「ソフト」産業がきっと今後は重要になるだろうと思われた。

(※ 範囲外: )レジャー産業への期待などから、観光地を中心として別荘(べっそう)やホテルなどの不動産も開発された。

いっぽう、日本の金融市場は好景気になった(ほぼ、20世紀中の日本では戦後最大の好景気と思われる)。

そして、地価や株価が高騰し、80年代後半の日本の景気は、いわゆる「バブル景気」となった。(※ 当時から「バブル」と言われてた。)


しかし、その後、1990年の前後に、日本のバブル景気が終わる(いわゆる「バブル崩壊」)。 バブル崩壊の原因は諸説あるが(日銀による1989年の公定歩合の引きあげ、などの説)、1990年に株価が下がり、1991年には景気は後退しはじめ、92年には地価も下がった。

その結果、土地を担保に融資をしていた金融機関には、巨額の不良債権が残った。

このため、金融機関じたいが、破産の危機にあい、実際にバブル崩壊後の90年代後半には、いくつかの金融機関が破産していく。

(※ 範囲外: )また、バブル崩壊までは積極的に企業に融資していた銀行などの金融機関が、中小企業などへの融資が消極的になり、当時のニュース報道では、(銀行の)「貸し渋り(かししぶり)」などの流行語が話題になり、資金繰りの悪化した中小企業が倒産していったり、大企業も事業の見直しを迫られるようになっていく。

政府は、(上述のような)連鎖的な景気悪化をふせぐために、政府は金融機関に巨額の公的資金を投入し、公共事業を行ったが、しかし景気は回復しなかった。

  1. ^ 橋場弦 ほか監修『WORLD HISTORY for HighScool 英文詳説世界史』、2019年10月15日 第1版 第3刷発行、P.396
  2. ^ 橋場弦 ほか監修『WORLD HISTORY for HighScool 英文詳説世界史』、2019年10月15日 第1版 第3刷発行、P.396