高等学校美術I/美術史からプロパガンダ美術が抜けている件
「プロパガンダ美術」とは
[編集]芸術作品は、宣伝広告でもあります。なぜなら、芸術作品をつくるには、お金が掛かります。特に映画やアニメーションなどの映像のうごく作品は、制作に数億円の資金が必要になる場合も多くあります。画家の芸術活動ですら、たとえ消費者や企業からお金を受け取っていない人だとしても、その作家が自身の思想信条を宣伝するために、作品を作っているのです。また、中世キリスト教の宗教芸術の作品のように、そもそも、その宗教の宣伝を目的とした作品もあります。企業でなく国家の宣伝をするために、作品を作る場合もあります。戦争中の絵画や音楽などの作品が分かりやすい例ですが、国家が宣伝するのは、なにも戦時中だけに限りません。国家が宣伝のために作る作品を、「プロパガンダ芸術」[1]や「プロパガンダ美術」のように言います。
ふつう、支配的な政府が、宣伝の目的でつくる作品のことをプロパガンダと言い、たとえばソビエト連邦などが作ったポスターなどにそういう例が多々あります。ポスターの形で提示されることも多く、宣伝(プロパガンダ)目的のポスターのことをプロパガンダ・ポスターとも言い、たとえば1943年の戦争での空襲に立ち向かう市民の絵を描いたソ連のポスターもあります[2]。この時代のソ連は戦争(第二次世界大戦)を始めた側ではないですが(ソ連は連合国の一国。戦争を始めたのは枢軸国(すうじくこく)の日独伊の側)、それであっても、国家などによる宣伝目的の作品のことを「プロパガンダ」と言います。なお、政府などを批判する絵画は「風刺画」(ふうしが)と言います。
- (※ ある時点では政府批判の風刺画であっても、時間が経って政権が変われば、その新政権にとっては以前の風刺画が都合のいい宣伝になる場合もありますが(新政権が旧政権を打倒した場合など)、しかしそういうのは本ページでは議論せずに置いとく。)
学校の美術や音楽の教科書で習う作品には、こういうプロパガンダ作品が、抜けていることに留意してください。小中高の教科書にある作品例は、学生に対する手本も兼ねているので、プロパガンダは政治的に中立ではないので、教育的に好ましくないとして、教科書からは除外しています。
なお、国家の側は、自分たちの線全作品の行為のことをプロパガンダという事は少なく、たとえばソ連なら「社会主義レアリスム」など別の言い方をしたりします[3]。
- ※ 哲学などで「無知の知」と言う言葉があり、「自分が何を知らないか」と知っているかどうか、という意味です。あるいは、「どの程度までなら自分は詳しく知っていて、自分が知らないのはどこからか?」的な意味です。哲学的な意味はともかく、世間では「無知の知」とは、断片的な知識だけが沢山あっても、自分が何を知らないかという自己把握が出来ない人は頭が悪い、的な意味で使われます。心理学・教育学では「メタ認知」という言葉が似たような意味で使われる。「メタ認知」(metacognition)とは、自分の認知活動に対する認知です。具体的には「私は数学は得意だけど、国語は不得意」みたいな情報はメタ認知です[4]。
- 「プロパガンダ美術」という分野を紹介しているのも、こういう「無知の知」「メタ認知」からの理由です。プロパガンダ美術が小中高の美術教育から抜けていることを、自己認識のためにも把握しておいてください。中学生は単に覚えるだけでも良いですが、高校生くらいになったら覚えた内容の程度を把握できるようになってください。将来的に仕事などをする場合に向けて、自己の能力をなるべく正しく把握しておく必要があります。
レーニンいわく、プロパガンダとは、教育を受けていない人の不平不満を利用する扇動との事です。
扇動されたくないなら、きちんと国語・数学・理科・社会・英語を勉強しましょう。
英語科目の話ですが、いま、propaganda という英単語は高校英語です。たしか桐原書店のターゲット・シリーズ(英単語集)のどれかを見ると、高校英語の新語として propaganda があります。
「プロパガンダ」自体はもう20世紀から外来語として日本では使われてきました。
おそらく国語か何かの教科でも「プロパガンダ」などを外来語として使っているのでしょう。
検定教科書には今のところ propaganda は無いようですが、しかし大学入試の英語は検定教科書を無視して出てきます。
大学入試の英語の元ネタの幾つかは、実は国語で使われている外来語だったりもします。
むかし、マンガ『ゴーマニズム宣言』に、今どきの漫画はプロパガンダと書いてありました。ここでは、「広告」と言う意味です。
アニメやゲームの中には、公式に、スポンサー企業の商品を宣伝しているものもあります。1980年代のアニメとか分かりやすくて、スポンサーのおもちゃ会社の商品が、そのまま作中に出てきたりする事もあります。
ほか、もしかしたら公言していないだけで、実はもう、表現の世界には、スポンサーなどとの提携をしている作品も多々あるのでしょう。
有名なのは、本当かどうか分からないが、ファッション雑誌です。実際に流行しているかどうかではなく、ファッション業界が流行させたい服装がx雑誌では特集されたりとか、よく言われます。
こういう「ファッショ雑誌の闇」みたいなの、昭和のころは、よく学校では、教師からの口頭などで習ったりしました。ただ、その「闇」は、本当かどうかは知りません。
一般に、取材にはけっこうなカネが掛かる割に、書籍の値段を上げられないので、実は広告のような記事が混ざっていたりとか。
物語なら、たとえば脇役の人物の、私服とか靴とか、その脇役と街中で遊んでいるときに食べている食品とか、いちいち原作者が取材をしきれません。取材をするにもカネが掛かるのです。
そういう脇役まわりは、経済性を考えれば、広告代理店の指示にしたがって、スポンサーからの資金をもらうのが得でしょう。
原作者が物語の中核をつくって、どうでもいい脇役的な部分だけ、スポンサー的な指示を取り入れればよい。こうすれば、物語性は、壊れません。もし万が一、想定外のストーリー展開で矛盾をしても、脇役なら作中で、転校だとかで居なくなったことにしてフェードアウトをさせれればいい。
なので、登場人物のもっている小物などから、作品の思想だとか作者の意図とかを読み取るのは、やめたほうが良い。深読みを出来ない産業というのもある。
原作者さんが知ってはならない情報というものがある。知っていてはマズイ情報というのがある。まあ、制作チームに悪気は無かったのでしょう。世のために「良かれ」と思って制作チームの各韻がサービス精神でやったことの結果でしょうし、作品の名は上げない。
最初からコラボする事が決まっていて、それから逆算して、新連載が始まったり、みたいな。その後は、辻褄(つじつま)合わせ。
だから、wikipedia みたいなのは、たとえ出典があっても、けっして鵜呑みにしてはいけません。出典そのものの書籍に書かれた取材の情報が、ウソではないものの、真相から大分(だいぶ)離れているからです。
まあ、高校生に向けて言う事としては、やはり、ヘタでも良いので、作品を実際につくる事でしか得られない栄養素というのがある。そういう意味では、部活などの学生時代の課外活動の経験は、けっして無駄にはならない。ただし、大学入試では不利になりますが(受験勉強の時間が減るので)。
まあ、この記事を書いている一人の帽・wiki著者は、まったく創作をできていませんし、距離を置いていますが(本人がこの文を描いています)。
- 「新人作家」は、じつは完全な新人ではない
新人の作家は、実は完全な新人ではありません。
もし新人が本当に、自分の体験をもとに考えた作品を投稿して、そのまま公開すると、作風によっては、原作者の出生地や学歴などが観客にバレてしまいます。
たとえば、神奈川県に住んでいる新人作家が、作中の地名などで もし神奈川の都市を手本にすると、読者に所在地がバレてしまいますので、そういうのは公開前に時間をかけて直すのです。特に女性作家など、出生地バレなどによるストーカー被害を防がないといけないので、そういうダミーの情報操作が作られます。
このため、本当の新人のあいだは、別の仕事が与え垂れます。そして、数年ほど、あるていどの経験を積んでから、自称「新人」として投稿作を手直しをする等して、再デビューする世界もあるのです。
どうせ地名や人名などを直すなら、だったら広告業者の宣伝したい内容に入れ替えても問題ない、ということです。
- 反映論の難しさ
物語から社会を読みとって、「この作品の人気は社会の〇〇を反映している」みたいな評論をするのを、反映論と言います。
しかし、上述のような取材費と、表に出ないスポンサーなどの関係もあるので、とても反映論で、本当に社会を解明するのは難しい。
社会を解明したいなら、普通に、大学受験の社会科(地歴公民b)の勉強をするほうが近道です。