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高等学校美術I/進路に関係しそうな話題

出典: フリー教科書『ウィキブックス(Wikibooks)』
※ 美大進学しなくても、どういうものかおおよそ、知っておきましょう。
弁護士などにならなくても法科大学院とか司法試験とか、おおよその事を中高のどこかで習うでしょ? それと同じです。


進路に関すること

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一般的に、ある程度偏差値の高い高校では、美術1または美術2の授業の終盤に、美術大学の受験に関する概要が教師から説明されることが多い。これは、音楽1や音楽2といった芸術科目でも同様であり、生徒が進路を具体的に考え始める時期に合わせた配慮といえる。

美術大学を目指す生徒にとっては、高校の美術の授業だけでは受験対策として十分ではない場合が多く、そのため多くの生徒は画塾や美術予備校に通うようになる。いつから予備校に通うべきかという問題については、多くの高校の美術教員が「高校2年の後半から、遅くとも高校3年の初めには始めた方がよい」と指導している。これは、入試で課される実技試験の対策には相応の時間が必要であり、また各大学の出題傾向に応じた訓練を積むことが求められるからである。

しかしながら、このような一般的な通塾の時期に対して、異なる意見を述べている著名な画家も存在する。たとえば、日本画家の千住博は、『芸術新潮』2022年7月号のインタビューにおいて、「高校3年から予備校に通い始めても大丈夫です。その前は学校の勉強をしっかりやっておいた方がいいですよ」と語っている。この発言は、小学生から寄せられた「いつから美大を目指して準備をすればいいですか?」という質問に答えるかたちでなされたものであり、美術に限らずまずは基礎的な学力をしっかりと身につけることの重要性を示唆している。

また、千住はアメリカの芸術教育との比較にも言及しており、アメリカでは「子どもに好きなことをやらせ、好きなことを突き詰めさせる」という教育方針が一般的であると述べている。これは学びの主体性を重んじ、創造性を育むために有効だと考えられている。一方で、日本の教育現場では「やるべきこと=勉強」を優先しがちであり、その結果として創造性が後回しにされる傾向があると批判的に捉えられることもある。

千住自身の体験としても、美術に本格的に取り組み始めたのは高校3年生からであり、予備校に通い始めたのも同じ時期であったという。美術教師からは「今から始めても間に合わない」と言われたが、最終的に東京藝術大学に現役合格しており、その経験から「遅すぎるということはない」と自信をもって語っている。

もちろん、このような例は一部に過ぎず、多くの受験生にとっては早期の準備が有利であることには変わりない。しかし、進路選択の時期や準備の開始時期については一律に語れるものではなく、生徒一人ひとりの状況や資質に応じた柔軟な対応が求められる。早期からの通塾が望ましいという一般論と、遅いスタートでも成功し得るという個別の事例は、互いに矛盾するものではなく、進路選択における多様な可能性を示すものである。


美大に進学すべきかどうか

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大企業などのデザイン部門では、美術大学などを卒業していないと就職が難しい場合がある。いわゆる「学歴フィルター」や「足切り」と呼ばれる選考の制限が存在し、美大卒や難関大学卒を条件とする企業も少なくない。特別な実績、たとえば都道府県レベル以上のコンテストで受賞歴があるなどのケースを除き、高卒や専門学校卒では書類選考すら通らないことが多い。特に高卒者に対しては、新卒採用の応募資格すら認めない企業も見られる。

こうした状況の背景には、大学卒業を前提とする新卒一括採用制度の存在がある。日本の大手企業では、未経験の学生を一括で採用し、入社後に社内で育成する仕組みが一般的であり、この制度のもとでは大学卒業が当然の前提とされている。そのため、学歴が不足していると、たとえ高いスキルを持っていたとしても、その力を評価してもらえる機会が得られないまま就職活動が終わってしまうこともある。

さらに、これらの学歴的条件が美術系教育において特に強く影響する点に注目すべきである。美術大学に進学するためには高額な学費が必要であり、その準備のためには高校在学中から予備校や画塾に通うことが一般的である。たとえば美術予備校の費用は年間で数十万円にのぼり、美大進学のためには多くの家庭が相応の経済的負担を強いられる。このように、美術教育の入り口に立つ時点で、すでに経済力による選別が始まっている。

その結果、デザイン業界におけるスタートラインは平等とは言い難い。経済的に恵まれた家庭の子どもがより良い教育機会を得やすく、就職活動でも有利に働く。このような構造は、個人の努力だけでは乗り越えにくい壁を形成しており、デザインの世界においても学歴と経済格差がキャリア形成に大きく影響している現実がある。

このような構図のなかで、高いスキルや感性を持ちながらも、学歴や経済的事情によって機会を奪われている人々の存在は見過ごされがちである。本来であれば、作品そのものや表現力によって評価されるべき芸術やデザインの分野において、学歴や出自が評価の前提となってしまっている現状には、多くの問題が内在しているといえるだろう。

絵の自由とストーリーの自由とを混同しないように

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商業マンガにおいて、しばしば「絵」は比較的自由であると言われるが、これはあくまで視覚的な表現、つまり「絵」に関する自由であり、物語そのものについては必ずしも自由ではない。アニメと比べれば、多少は自由度が高いと言えるかもしれないが、商業的な出版流通の仕組みのなかで語られる「自由」には限界がある。

たとえば、書店やコンビニといった場所に流通する商業マンガでは、それらの市場や構造そのものを批判するような内容を描くことは、原則として困難だとされている。実際、そうした内容を扱うことに対して、マンガ家や評論家たちが「それはできない」と語る場面は少なくない。このような規制や制約は、出版という産業が特定の経済的利害や慣習と結びついていることに起因する。

同様のことはテレビドラマの世界でも見られる。たとえばスポンサー企業が電話会社や家電メーカーである場合、その企業のイメージを損なうような描写は、たとえフィクションであっても許容されにくい。推理ドラマなどで、犯人が固定電話のケーブルを凶器にして絞殺を行うといった描写は、制作側が避けるべき表現とされており、実際に放送されることはほとんどない。これは、視聴者に不快感を与えることを避ける以上に、スポンサー企業との関係維持を優先するテレビ業界の構造を反映している。

また、商業マンガの多くは、単発ではなく長期連載を前提として制作される。物語を自ら構想する場合でも、他者が用意した原作をもとに作画を担当する場合でも、年単位で継続的に制作を続ける体力と責任感が求められる。自分の気が向いた時だけ、数日間集中して描くといったスタイルでは、商業マンガを職業として成立させることは難しい。それはアニメ制作においても同様であり、商業的な制作現場では、安定的かつ計画的なスケジュールのもとで作業を続けることが求められる。

この点は、漫画家やアニメーターに限らず、イラストレーターや画家として生計を立てる場合にも当てはまる。たとえば、キャラクターのイラスト1枚あたりの相場は、背景なしで5000円から2万円程度が一般的とされている。これを土日だけに制作した場合、年間の収入は十数万円にとどまることが多く、それだけで生活を支えるのは不可能に近い。仮に地方から上京し、月額4万円程度のアパートを借りて暮らすとすれば、年間の家賃だけでも48万円以上が必要となる。このような事情から、イラストなどの創作活動を本業にするためには、日常の大半を制作に費やす生活スタイルが前提となる。 一方で、土日などの空いた時間だけで創作活動を行い、趣味の延長として作品を発表したり、わずかな収益を得ているアマチュア作家も存在する。彼らは平日にはまったく別の職業に従事しており、絵に関わる収入は副収入に過ぎない。そのような働き方が存在することは事実だが、それは「創作で生計を立てている」というより、「創作を生活の一部として楽しんでいる」スタイルと見るべきである。


美術という科目の都合上、絵の話に片寄りますが、じつは商業マンガでは物語をつくる仕事も必要であり重要です。

教科書に載るようなマンガは基本的にほぼすべてが商業マンガです。鉄腕アトムもドラゴンボールもドラエモンも、すべて商業マンガです。

べつに資本主義を賛美するような物語でなくても、そのマンガ作品を掲載する雑誌や単行本に値段をつけて本屋などを通して販売しており、少なくとも作家たちと編集スタッフの食い扶持としての商売としてマンガを描いていることに変わりないので、商業マンガです。

読者には当然のことかもしれません。「お前(wiki編集者)なんかに言われなくても分かるわい」とか「物語が重要って、常識だろ」とか読者の絵描き高校生は思うかもしれませんが、ですが、たとえアナタ個人はマンガ業界などの事情を分かっていたとしても、意外と世間の子供は分かってない可能性がありますし、大人でも分かっていない人はチラホラいます。現にネット上では、マンガ家やアニメーターの絵を、イラストレーターの絵と比較して、(マンガ家やアニメーターの絵を)「ヘタだ」とか批判している、業界の違いによる絵柄の違いすらもよく分かってない大人も多くいます。口先では「マンガでは物語が重要」とか言いながら、実際には絵柄ばかり見るような人とかチラホラいます。世間の人はべつにプロ編集者でも何でもないので、そういう見方しかできない人がいるのも仕方ありません。


で、基本的に商業マンガの多くでは物語性も必要です。そもそもマンガの特徴が、絵だけでなく文字もつかって物語を表現できる点です。このため商業マンガ家になろうとする場合、もし原作マンガを掲載するマンガ出版社への原稿持ち込みでは、読者ウケの良い物語を考えられないマンガ家志望者は掲載・連載をもらうのが難しくなるでしょう。そもそも、マンガ原稿の持ち込みの時点で、物語を考えられない人はマンガ1話ぶん(16ページや20ページ)の物語を考えられない時点で持ち込み原稿が完成しないので、持ち込みすら不可能になるかと思います(したがって、マンガ原作者としてはデビューできなくなってしまう)。

雑誌と「連載」と取材チーム
※ 他にこの内容のコラムを書く場所が見つからないので、ここに書きます。

ニュース系の活字の雑誌の「連載」などだと、一般的に、一つの連載でも実は2チームや3チームがあったりして交代で連載を作っていたりします。(ただし、マンガ産業はどうか知りません。)

ニュース系の雑誌だと、まるで戦国大名の織田信長の「鉄砲三段撃ち」みたいに、代わりばんこで、連載を作っていたりする場合もあります。

仮にAチーム、Bチーム、Cチームとすれば、来月号ではAチームの記事が掲載の場合は、Aチームは記事の仕上げをしていて、ほかのチームは1か月後や2か月後に掲載される記事の取材をしている最中、・・・的な感じです。

その連載にある著者さんの名前は、じつは監修者の名前にすぎず、実際は下働きで調査をしている別の人がいる、的な場合もあったりします。(マンガはどうか知りません。ニュース系の雑誌の話をしています。)

ただし、イラストレーターなどは、こういう交代が難しいでしょう(絵柄が変わってしまうので)。だとすると、かなりのハイペースで連載をしている事になります。

なお、アニメ産業などだと、「作画監督」が交代で、代わりばんこになっています。


物語ではなく漫画の絵をえがく事に専念する「アシスタント」という仕事はありますが、基本的に原作者の下働きです。アシスタントの側が部下です。漫画家の側が雇い主です。このため「下働きはイヤだ」とか「自分の作品をつくることを優先したい」みたいな発想の人はアシスタント職になれないので、よほどマンガ絵が上手くて読者の需要にマッチしてない限りは、自分で読者ウケのいい物語を作れない限り、目標の漫画家と言う職業にはつけない可能性が高まるでしょう。

「物語を考えるのが苦手」ならまだしも、そもそも「物語を考えるのがキライ」とか「資本主義に毒された読者ウケの良い物語なんか考えたくない」とか考える若者・学生・無職などは、商業マンガ家以外の進路も考えたほうが安全かもしれません。どんなにマイナーなマンガ雑誌への持ち込みでも、最低限、編集を食わせるだけの売上をねらえるような作品の物語を作れそうにない人、そもそも編集を食わせる作品を作る気のない人は、マンガ雑誌でのデビューは困難です。自費出版などしか道が残されていません。電子出版などで自費出版の価格を抑えられる可能性のあるIT社会の現代ですが、しかし自費出版であることに変わりはないです。


「なりたいか」ではなく、プロ目標で創作を「やりつづけてきたか」「今後もやりつづけられそうか」

次に述べることは、もう1990年代後半あたりから、たとえばアニメ評論家で元アニメ会社社長の岡田斗司夫(としお)などによって文芸情報雑誌『ダヴィンチ』掲載記事で言われてた事なのですが、岡田の知人のマンガ編集者からの情報とのことだったか、マンガ家志望者の少なくない人が、持ち込み原稿がそもそも完成していない(ページ数不足とか、ペン入れしてないとか、用紙が違うとか)とか、そういう段階らしいです。なので岡田は、「(漫画家などに)なりたい人はなれない。」(すでに原稿を書くなど作品づくりを実際に)やってる人でないとなれないと(決して一言も「やればプロになれる」とは言ってません)、文芸情報雑誌『ダヴィンチ』でもう1990年代後半に述べています。それでも、未完成でもとりあえず作画に取り掛かっていればマシなほうで、そもそも作り始めていない自称・志望者すらも少なからずいるらしいです。2010年代以降のYouTubeでも岡田は似たような事を言ってますが、決して2010年代に言い始めたわけではなく、90年代から言われている事です。そして、文芸界隈でも受け入れられている事です。マンガに限らず小説出版社の界隈でも同様でしょう。

2010年以降の現代ですら、SNSなどでマンガ家や編集者などからも、似たような未完成原稿の投稿作・持ち込み作の情報が上がっています。

で、1990年代のダヴィンチにこういう話がもう書かれているので、そういう雑誌を読んでる90年代後半当時の高校教師が、進路指導などでこういう情報を教えるわけです。

別に「漫画家になるためにマンガを書け」とは言ってません。「(アナログにしろデジタルにしろ)ペン入れするレベルのマンガすらも書き始めても居ないのに、『マンガ家になりたい』とか読迷い事をほざくな」と進路指導などの前に教室全体に私立の進学校などでは言われるわけです(公立ではどうか知りません)。


昭和の戦後のマンガ追放運動みたいな時代ならともかく(手塚治虫すら運動家に本を焼かれた時代です)、1990年代以降のテレビに漫画家やアニメ監督も出ている時代に「家ではマンガを書かせてもらえなかった」と言うのは基本、通用しません(よほどの虐待家庭とかでないかぎり)。まして2020年代、美術教科書などで平成のマンガやアニメが紹介される時代です。

当時の文芸雑誌ダヴィンチでも、今時、マンガを書こうと思えば家で書けるでしょ、的なことは岡田によって指摘されていたと思います。(もしダヴィンチでは言ってなかったとしても、岡田はよく、そういう事を言います。)

マンガ絵やアニメ絵の練習のための下書きなんて市販のノートとかエンピツ・消しゴムとか筆記用具があれば可能です。よほどの極貧家庭でないかぎり、練習できるでしょう。仮にノートが買えなくても、新聞と一緒に来る広告の裏とか、いろいろと手段はあります(今時は新聞を取ってない家も多いかもしれませんが)。


社会人になって25歳とか35歳とかすぎてこういう事をようやく知るのと(もしくは気づかないまま人生を終えるのと)、15歳とか17歳とかで中学高校でこういう事を知るのとで、人生は違ったものになるでしょう。

あ、上記のような事実に知らない・気づかないのは、決して学校が悪いのではなく、あなたの頭が悪いのでしょう。1990年代にもう言われている事だし、他の作家や雑誌編集者なども似たような事をSNSなどでよく言うので、気づかないのは無能です。

上述のようにマンガやアニメ絵の練習のための下書きなんてノートとかあれば可能だし、アナログ原稿のための漫画用ケント紙(マンガ用の原稿用紙)は文房具屋で普通に売っているので、決して(漫画家に)「なりたいか」や「やってみたいか」ではなく、実際に(マンガを描くというのをアナログにしろデジタルにしろ)「やってみたか」「今後もやれそうか」などが問われます。さらに自作を(決してアナタの好みの作風ではなく)プロの商品の品質に今後も近づけるために練習だのをしたいか、すでにプロ品質に近づける努力を始めているか、そして将来的に週刊・週間とか月刊とかのペースで定期的に成果物の納期を要求される仕事環境で「やりつづけたいか」とか「やりつづけられそうか」などが問われています。

マンガ出版社やアニメ会社などは、決してw:キッザニアとかの子供向け職業体験テーマパークのサービスではありませんので、単に体験してみたいだけなら、自分で勝手に4コマ漫画なり何なりを作って知人やネットにでも発表すればいいと思います。


企画は部分的に試作してから出す

マンガ産業以外にも上記の考えを応用するなら、集団制作のコンテンツの会社などで、なにか企画を出すときは、試作をしてから企画を出すべきでしょう。分野によっては試作費用が高くなる場合、せめて身の回りの文房具などで作れる範囲でいいので試作を始めるべきでしょう。

たとえば演劇も多くの映画も、まずは脚本を試作します。

学校の美術だと1人の作業が多いのでこういう考えに至りにくいですが、しかし、学校でも演劇部とか音楽なんかだとこういう考えも必要でしょう。たとえば演劇部なら、部内で「既存のシナリオばかり演劇にしてたらツマラン! そうだ、部で新作を作ろう! 脚本も部で書こう!」とか企画を部に出すなら、その新作の脚本がとりあえず出来てから公演の企画を通しましょう。もし新作脚本が完成してないのに公演の企画まで通されたら、公演のための稽古を他の部員ができずに、大道具も小道具も制作できずに、スケジュールが遅れてしまいます。

脚本が完成しないうちは、次回の公演の作品は、学生演劇なら例年通りに既存のシナリオを公演していればいいのです。


ともかく企画は、簡易な試作が出来るまでは、企画を採用しないで保留するなど、そういう態度が必要かもしれません。

打合せでは一見よさそうに見えるアイデアでも、実際に試作をしてみたら欠点のたくさん見つかるアイデアなんてのもあります。とても簡易な試作でいいので、「じっさいに試作しながら企画の打ち合わせを深めていく」的な態度が必要です。


さて、仮に企画用の試作が完成して提出しても、とりあえずの企画なので、あとから変更されます。

漫画家だって、難度も原稿の試作(ネーム)の没(ボツ)を編集から、くらって、ネームを修正しています。


「漫画家になりたい! でも書きたい作品は決まってない! 私の企画を採用してくれたら作品を考えます!」ではなく、やるべきは「このマンガ作品を書きたい! ・・・(数週間経過) 書けた! この作品でお金を稼げたらいいなあ! そうだ漫画家になろうか!」みたいな思考の順序です。

岡田の文芸評論雑誌『ダヴィンチ』の評論でも、自称・原稿持ち込みで「漫画家になりたい! でも書きたい作品は決まってない! もし、あなたの出版社で私を採用してくれたら、これから内容を考えます!」みたいな人は漫画家になれないと90年代の時点でもう言われてます(マンガ出版社がそもそも完成原稿のない企画は、原則、受け付けません。応募規定として原稿の完成が規定されています)。


ともかく、どの業界でも、企画はあとで変更されますが、とりあえず企画の段階で、とりあえずの絵のような試作が必要です。たとえば、アニメ産業はそうなっています。アニメ『新世紀エヴァンゲリオン』の1995年放映前の93年ごろの企画書では、スポンサー企業などに通す企画書の段階でもう、最終26話までの簡易なシナリオと(番組の次回予告などで使うメッセージの内容)、全部の放映回(全26話)に1枚ずつイメージイラストがあります。

スポンサー企業などに持ち込み作品は、けっして「テレビアニメを作りたい! でも作品のシナリオは決まってない!」ではダメなのです。「このような作品を作ろうとしています! (ここで、絵つき・簡易シナリオつきの企画書をばーん!) この絵のアイデアを実現するには、お金がもっと必要です! 出資してください」でないと、企画がその段階で通らなくなるでしょう。

つまり、企画と言っても2段階あって、そもそも試作前の「どのような作品をこれから試作するか?」という制作チーム内での前半の企画と、試作ができたらスポンサー企業などに売り込み「このような作品を商業化したい! 出資してください!」みたいな企画の後半部の2段階がありそうです。

ほとんどの美大作は後世に残らない

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大学評論家で、山内太地(やまうち たいち)と言う人がいて、この人は日本中の大学すべてを訪問したことのある人です。美大も訪問しています。彼は、(おそらく)東京に住んでいたとき、美大の卒展もよく見学していました[1]

そして、おそらく十数年後(具体的な時期は不明)、彼・山内が気づいたのは、彼が卒展で見て楽しんだ数々の作品は、残念ながら美術界に影響を与えていない事です。

もしかしたら、外部の人からは分からないような美術業界内部で活躍している作家もいるのかもしれませんが、しかし少なくとも、作家の芸術的作品が直接的に世間に好評を博すようにはなっていないというのが事実です。そのくらい、すごく「狭き門」というか、抽象芸術みたいなので商業的に成功するのは、倍率の高い世界です。

美大に入学するのに浪人を何年しても、それですら、その卒業生の作品が全然、後世に伝わらないのです。

美大入試の学力試験に向けて

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なお、美大に進学するにしても、最低でも高校生1年生の期末テストを攻略できる程度の5教科の学力は必要でしょう。決して5教科が得意でなくてもいいので、少なくとも高校2年の終わりくらいまでは、学校の期末試験レベルで良いので5教科などもシッカリと真面目に勉強しておいて、そして絵の練習と両立できる範囲でいいので、せめて1年生の内容くらいは5教科を復習などで理解しておくと良いかもしれません。2年生になってからの復習でも良いので1年の内容を理解しておいてください(けっして丸暗記で切り抜けようとするのではなく)。

入試に小論文のある美大もあります。学力が低すぎると、小論文の質が下がりかねません。

美大の小論文では、べつに学力アピールするための小論文を書く必要はありませんが(そもそも小論文のない入試形態の美大もある)、まあ常識的に高校の期末試験レベルは楽しく理解して勉強しておいてください。


美大などに進学する場合でも、美大には美術教師になる教員免許のための課程もありますので、もし学力が低すぎると美術教師にはなれません。5教科の学力が低すぎると、たとえば教員採用試験に不合格になるかもしれません。

仮に入試で小論文の無い美大でも、大学4年での卒業論文の存在を忘れてはいけません。べつに高校の時点で大学レベルの卒業論文が書ける必要は無いですが、そういう能力も将来的に必要になるという事は念頭においてください。

なお、べつに勉強が得意でなくてもマジメに高校の勉強をしていれば、あとは美大の授業を普通にきちんと受けていれば、どの美大生も卒業論文を書けるレベルになるはずでしょうから、過度な心配はしなくて大丈夫です。(博士論文などとは違い、学部の卒業論文なんて、あまり大したものではありません。)


ともかく、こういう美大の事情もありますので、美大の入試の受験科目でも、美術の実技以外にも、英語(多くの私立美大の入試でほぼ英語が必須)および、国語の学力試験もあります。

大学によっては実技試験だけで入学できる入試形態をもつ美大もあるかもしれませんが、しかし大学である以上は、大学入学後に最低でも高校を卒業できる程度の学力が建前上は要求されます。


高校の1~2年生でいきなり美大の学科試験に特化するよりも、まずはふつうに5教科および副教科(保健体育や情報科目や家庭科など)を期末試験レベルで良いので勉強しましょう。

受験の細かなことは、それぞれの高校3年あたりの進路相談や塾・予備校で聞いてください。

ジャンルと用語

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上記の、職業・進路に関することでもありますが、業界によって用語の意味が違います。

たとえば、同じ「デザイン」という言葉でも、業界によって意味がまったく違います。

「デッサン」、「デザイン」、「スケッチ」、「パース」、「デザイナー」等、、・・・何でもいいですが、単語の発音・表記だけは流用していますが、しかし業界によって言葉の意味が微妙に違う場合もありますので、それぞれの進路志望先での用語の意味を確認しておいてください。

具体的には、理科の「スケッチ」と美術の「スケッチ」は違います。

「デザイナー」も、美術系のデザイナーと、ソフトウェア業界の「デザイナー」とでは、意味がまったく違います。

パースも、建築のパースと、アニメのパースとは違います。


「デッサン」は、たとえば美術のデッサンとは別に、日本ではマンガやアニメについての線画を描くための人体各部の比率の知見のことを「デッサン」と言います。たとえばアメリカンコミックス作家クリストファー・ハートの著書の日本語訳版『驚くほどかんたん 人体デッサン』では、アメコミ風の人体を描くためのコツとして、目と目のあいだは目1つぶんの説明とか、正面の顔の横幅は目5つぶんだとか、説明しています[2]

なお、このような人体各部比率の知識を「デッサン」と読んでいるのは日本語版だけであり、英語版『human anatomy made amazingly easy』ではドローイング drawing と呼んでいます。たとえば日本語版にある「頭部のデッサン」は、英語版では drawing the head です。

「美術」という言葉自体、アニメ業界では別の意味で使われます。アニメ業界では「美術」とは主に背景のことです[3]。決してアニメ業界で美術史やら抽象アートやらが要求されているわけではないので、誤解なきよう。


こういうふうに業界ごとの要求される能力が違うので、ひとくちで「画力」や「デッサン力」などと言っても、業界ごとに要求される「画力」などが違っていることも、商業などの実務ではありえます。

高校レベルでは各業界の各論には入りませんし入れないので、各自で将来の志望に向けて、意味を確認しておいてください。

実務を無視し続けると、就活でツラくなる

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なお、商業ポスターでも題字くらいはイラストレーターなどが手書きで書く場合などもありうるでしょうから、高校の文字手書きポスターの経験は、決してまったくの無駄にはなりません。そのような文字をイラストレーターがデザインするジャンルのことを「レタリング」や「デザイン文字」などと言います。

同様、タッチペンなどコンピュータ機器を使わずに絵の具などで書いた経験も、決して、まったくの無駄にはなりません。


ただし、だからといって決して「授業で美術教師の言う通りに描いていればいい」などと思考停止せず、絵の仕事の実務 と 中高の美術教育の違い については「無知の知」として把握しておいてください。もし、目先の授業や、あるいは目先の美大受験などだけに目を捕らわれて、実務との違いについて無視をし続けていると、たとえば大学卒業後・専門学校卒業後などに商業デザイナーやイラストレーターなどを本業でもバイトでも目指す場合などに、就職活動などの前後の段階で、無視しつづけた実務と自分の想像(妄想)とのギャップの大きさで、精神的・肉体的に負担がキツくなってしまいます。


あるいは、もしかしたら就職活動の段階ですでに、実務を無視しつづけた結果として不採用などの不利益を味わう羽目になるでしょうか。たとえば、商業デザイナーの就職活動のための自作品の持ち込みで、もし抽象アートのような油絵を作品持ち込みで提示しても、特別な理由が無い限りは高確率で不採用になるだけだと思います。

目指す業界の実務については、実務などの仕事における現実を無視して逃げようとしても、業界の現実があなたを追いかけてくるだけです。

高校の段階はまだ普通教育ですので、実務の勉強の深入りを避けるという意味で実務勉強を後回しにするのは構いませんが(高校の美術もそれを見越してか、実務には深入りしていない)、しかし多くの絵描きは、決して最終的に仕事では実務的なことからは逃げられません。(例外があるなら、トップクラスの芸術家として成功でもしない限りは。)

自分ひとりが実務的な手法に従うかどうかに関係なく、絵の業界の同業者や競合他社や注文者なども含めて、社会と多くの他人が実務で動いているのです。


アマチュアのフリしてる業界人にダマされないように

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世の中には、絵画や音楽などの幾つかの分野で、アマチュアを名乗っているが、実際には業界人でありどこかのコンテンツ制作会社などに所属しているプロな人がいます。

2024年7月、企業向けセキュリティソフトのバグによって世界中のwindowsが異常停止するシステムトラブルが発生しました。この事により、アマチュアのフリをしている業界人が多数存在している事がバレました。


プロの作家が趣味で自主制作をする場合、守秘義務やら制作会社のブランドイメージなどで、所属する会社や事務所などの名前を言えない人もいますので、察してあげましょう。彼らの自称「アマチュア」的な自己紹介を、決して真に受けてはいけません。


アニメ評論家の岡田斗司夫(としお)は2005年に、『プチクリ』という本を出し、プチ(小さい)・クリエイターの意味で、創作系業界のプロではないが(小売業とか飲食とか別業界で働いているとか)趣味で副業的に作品を作って発表しているクリエイターと言う意味の言葉をつくり、当時の流行を説明しました。

しかしその後、岡田は2012年あたりに、おおよそ(リーマンショックなどの)「不況によって、従来のペースでの創作活動をつづけるのが難しくなった元・プチクリの話をいくつも聞かされている。今はそういう時代になってしまった」という風な感じのことを何かの書籍で言いました。それが現実です。

次に述べることは、岡田は言ってない事ですが、裏を返せば、不況なのに自主制作がハイペースな人は、よほどの好待遇の職場で働いているのでないかぎり、まあそういう意味です。


長期的に副業で創作をするのは、不可能ではないですが、作りこみのされたセミプロ的な作品を週刊・月刊のようなペースで作るのは、かなり敷居(しきい)の高いことです。


また岡田とは別に、2008年ごろ当時のほかのアマチュア人気作家でも、本業の仕事との両立が難しくなり、2010年以降は創作の専業に転職したことを公言している作家も少なからずいます。

政治の選挙では、実質的には政党の支援を受けているのに、庶民派アピールとして軽視的にはどこの政党にも所属せずに、「無党派」「無所属」を名乗る立候補者も多くいます。

アニメ会社との提携高校

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普通科高校のほかにも、「美術科」という専門学科をもつ美術高校があります。公立の美術高校が、各県にいくつかあります。

アニメ会社の比較的に近くにある美術高校の公立校が、そのアニメ会社と提携している場合があり、講師などをその美術高校に派遣して講演などしている場合があります。

それ以外の地方からアニメ業界に就職しようとする場合、アニメ会社などと提携している首都圏や地方都市(京都・大阪や名古屋など)の美術高校との、そういう地域の提携高校との競争になります。

アニメ会社と提携していない場合、そもそもアニメ会社が近隣に無い地域という不利があります。アニメ会社の新人の賃金は、月あたり5万円以下が相場であり、アパートの家賃(5万円以上)が払えないという相場です。(親からの仕送りが無いと参入できない。)

アニメ産業は地場産業(じばさんぎょう)です。

仕送りが必要なので、断じて「裸一貫(はだかいっかん)で上京して・・・」という業界ではないです。裸だとアパートの入居資金が払えないので上京できません。

ダメな消費者たち

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理解者ヅラした偽善的な消費者たち

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世間の、創作ファンの人の多くは、たとえばソイツの家の近所の公民館とかで定期的に開催されている芸術公演すら、まったく見に行かない人たちです。

世間の偽善者のなかには、「創作の意義はカネではないから、芸術家を目指すなら、自由に表現すればいいと思うよ」とか、なんか理解者ヅラしたつもりで無責任に言う人もいます。たしかに、内発的なモチベーションも必要ですし、好きでないと続けられませんし、モチベーションが無い人は苦痛で向かない業界でしょう。

しかし、公民館とかで芸術イベントが定期的に開催されたりといった事の存在そのものを知らないまでに低レベルの偽善者が、気楽に自由をすすめます。

たしかに、芸の道は、決まったマニュアルの無い世界ですから、そういう意味では作家が自己の判断・決断で「自由」に表現しなければいけないのですが、しかしそれは「自己責任が問われている」というような意味です。

偽善者は、たとえばネット上の無料動画サイトなどでプロ歌手の歌ばかり聞いていて、まったく近所の主婦や中高年男性たちの公民館での合唱なんて聞いてくれない人です。そういう、自分たちが言動不一致の偽善者であることにすら気づけない低レベルの偽善者たちが、なんか同人マンガ即売会イベントかなんかあたりのマナーを、あたかも日本の芸術業界の全体だと勘違いしたのか、気軽に「自由にすればいいと思うよ」とか言います。

もう偽善者の頭がわるすぎて、この程度のちょっと込み入っただけの思考すらも出来ない人たちです。そして大衆娯楽は、その程度の思考力の人をターゲットにしていたりもします。そしてそういう大衆娯楽が、作家の食い扶持の多くなのが現実です。

別に公民館イベントのような表現を真似ろとか言いませんが、商業的な就職を目指すなら非推奨ですが、しかし少なくとも、世間の偽善者の多くは、そういう公民館イベントの存在を知らないレベルまで低レベルです。


商人の都合にダマされてはいけません。口先で「芸術が大切だ」とかいう商人たちは、公民館での近所の主婦や中高年男性たちの公演なんて見てくれないのです。

でも、その程度の商人によって、芸術産業は回ってもいます。

日本には独自の若者文化なんて本当は無くて、全部、投資家である老人達があてがった文化に踊らされているだけで、大抵はアメリカなど先進国・宗主国を参考にしている。そこからはみ出したものは排除される。

アニメの視聴率は低い

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よく、アニメファンが「アニメは日本が世界に冠するコンテンツで、・・・」以下略とか言います。

こう聞くと、あたかも視聴率が高いように思えます。

しかし実際には、もう2010年以降、アニメはテレビ上では視聴率が低いのがテレビ業界などでは知られています。

普通にニュース番組とか、創作物なら刑事ドラマなどのほうが、視聴率が高いのが現実だと、テレビ業界では有名に知られています(2010年代ではそうでした。2020年代はどうか知りません)。

もっとも、テレビ以外にもネット・ダウンロードなどのコンテンツ鑑賞の方法もあります。なので、一概に、アニメが不人気とも言えません。しかし、どちらにせよ、テレビ視聴率に関するかぎり、実はあまり視聴率が高くないのが実態です。


ほかにも、アニメファンはよく「グッズを買って、買い支える」とか言いますが、実際に、矢野経済研究所などによる統計の数字を見ると、アニメファンのグッズ消費額が小さめで年間で約2万円であり[4]、主張が疑わしいのが知られています。

矢野経済研究所などによる統計で、アイドルファンが年間に8万円くらいグッズを買っているのが、ああいうコンテンツ界隈で、いちばん消費の多い業界だと知られています。(ただし、マンガ雑誌も毎週買うと、それなりの金額になるので、それが抜けている統計かもしれません。)アイドルファンほどではないですが、ゲームファンも、消費額がそれなりに多い。

アニメファンの消費は、アイドルファンに大きく劣り、ゲームファンにも劣ります。なるほど、テレビがアイドル・コンテンツばかりになるのも当然です。

ネットではアニメファンの声が大きいですが、典型的な「カネを出さずに口を出す」です。もしくは、消費額が小さい割には、大きな声を出している。

『医龍』という医学マンガで、募金箱に1円の募金をしただけで、自分がとても立派な人間になったかのように多くの人は思っている、というセリフがありました。世間には、1円のアニメ消費やマンガ消費をしただけで、自分はアニメに沢山の口出しをする道理があると思っているような人が、きっと多いのでしょう。

そのアイドルファンの消費ですら、年間でたった8万円です。高校生には多そうな金額に思えますが、しかし塾の年間の費用の30万円とか40万円もしくはそれ以上・円などと比べると、はるかに見劣りする金額です。

1円募金マンのいう事を、けっして真に受けてはいけません。


中高生の好きな、「人狼(じんろう)ゲーム」と言うヤツですな。仲間のフリした敵を、オオカミ人間にたとえて、それを探しだすデス・ゲーム。見つけないと自分が死ぬ(という設定のゲーム)。

「アニメが好き」でも「マンガが好き」でも何でもいいですが、もしその業界全体が儲からないとしたら、実はウソをついて「好き」と言っている人が多いのです。

しかも、人狼は自分が敵だという自覚がありますが、募金マンは自覚すらも無い。その募金マンの気まぐれの消費に期待する産業。


アニメ・マンガの話ではないせすが、美術系の学校の卒業の学歴なんて、他業界からは「アタマ痛い」とか言われてる学歴です[5]。「アタマ悪い」を通り越して「アタマ痛い」です。

このように、本音では「アタマ痛い」業界とか思っていながら、口先では称賛をしている人狼が、はびこっているのがコンテンツ産業の界隈です。消費者のレベルに比例しているのでしょう。

ああいう業界に終身雇用・年功序列は無い

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基本的に、クリエイター業界やアーティスト業界は、終身雇用ではないです。このwikiを書いている人はクリエイター系ではないので詳しくは知らないですが、しかしそれでも、ほとんどのクリエイター系の職業は終身雇用でない事は確実です。

漫画家やアニメーター向けの絵の技法書などの入門書を見ると、さいさん口酸っぱく、プロの漫画家・アニメーターの著者が、漫画家やアニメーターは終身雇用ではなく年功序列でもないことをたびたび忠告しています。

なにもマンガやアニメに限らず、基本的には、クリエイターやアーティストと言われる仕事のほとんどは、終身雇用・年功序列ではありません。(例外があったとしても、かなりの狭い枠でしょう。とんでもなく狭い枠でしょう。)

作品ごとの期間契約、みたいな労働形態が基本です。これはこれで柔軟な働き方ができるので、良い面もあるでしょう。


ときどき、よく、若いクリエイター志望者で、サラリーマンを馬鹿にするクリエイター志望者がいます。しかし、よくよく彼ら若者の言い分を聞いてみると、なにかクリエイター系の仕事について、サラリーマン的な勘違いをしている人もいます。

どうも、勘違いしている若者の中には「いったんクリエイターとして認められれば、定年まで安泰(あんたい)」みたいな勘違いをしている若い人が、定期的にあらわれます。つまり、たとえば、いったんどこかのコンテンツ制作企業に入れば、たとえば出版社でいう編集員や、あるいはテレビ局でいうディレクターか何かみたいな社員の人が、手ごろなハードルの仕事を持ってきたりしてくれて、定年までクリエイターの面倒を見てくれるもんだと勘違いしているのです。

口先ではクリエイター風なことを言っていながら、行動パターンがまるで世間の商社サラリーマン志望者みたいな人もいます。単に志望先が一般商社などからコンテンツ制作企業などに変わったというだけにすぎず、行動がクリエイターやアーティストになっていない人もいます。

「需要と供給」からは逃げられない

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創作に関する産業でも、収入のためにお金を設けようとするかぎり、経済学でいう「需要と供給」の法則の影響を受けます。

需要の低さを気にせず就職してみるのも、若者には良いかもしれません。たとえば、別の仕事を目指して、十数年後のあとで「やっぱ絵描き(あるいはミュージシャンなど)を目指せばよかった・・・」とか後悔しながら別の仕事をするよりも、とりあえず絵描きの仕事を目指して頑張ってみるのも良いかもしれません。中学高校などで教育者が「自分のやりたい仕事を目指しなさい」とか進路指導するかもしれませんが、それも妥当でしょう。

しかし時々、若者は、この進路指導をなぜか、まるで「需要と供給」を無視することだと勘違いをしがちです。そんなことは中高の進路指導の先生は言ってないと思うのですが、幾人かの若者はそう勘違いをするのです。

「需要と供給」の法則からは、公務員ではない民間の業界であるかぎり、どんな業界からも逃れられません。

べつに、「そこらの商人に従え」なんて言ってません。ただ、「需要と供給」の法則からは逃げられないのは確実です。

業界外の人からは見えづらい需要もあるので、あまり需要の低さに絶望して業界就職をあきらめてしまうのも問題です。しかし、だからといって「需要と供給」をいつまでもガン無視してよいものでもありません。

「需要と供給」を頭の隅において、もしかしたら自分の知らない需要と供給があるかもしれないことも想定しつつ、とりあえず、いろいろと作品づくりをやってみるのが、その業界を目指す人なら良いのでしょう。


1990年代の書籍『大学で何を学ぶか』の著者であるルポライター・評論家である浅羽通明(あさば みちあき)が書籍中で、読者で小説家を目指す若者(当時)のハガキに、自分の筆力よりも需要を気にするのが先なんだよと、説教をしています。若者は、内容はおおむね「僕は才能があるでしょうか」と相談してきて、文章書きとしては業界人である浅羽は、おおむね「才能じゃなくて、書きたい作風の需要があるかなんだよ」と説教を言っています。浅羽と仕事をしてきた雑誌社(大人向けの雑誌)や出版社などは、そうなのでしょう。浅羽の経歴は、けっして創作の分野ではないので、必ずしも浅羽の説教を100%信じる必要はないですが、しかし他の作家(創作系)の人も、程度の差はあれ、需要の事を言っています。

浅羽とは別の雑誌記者の仕事ですが、週刊ポストだか週刊大衆だかああいう雑誌記者の仕事で、熱心に取材をして記事を書いて裏取りをしても、取材の結果、大して話題性の高そうな情報が得られなかったので、記事がお蔵入りになった、・・・なんて話も聞きます。

仕事は、自分の能力だけでなく、自分と志望業界との相性、マッチングです。能力の高低だけではなくて、マッチング。


「消費者に何が需要があるか」というのは、実際に作品を出してみなければ分からない場合もあるので、あるていどは見切り発車のように需要を考えずに作品をつくる事も重要でしょう。しかし、決して何時までも需要を無視する事もまた、普通の人には不可能です。よほどの天才でない限りは。


たとえば、どんなにウンコのアニメーションをリアルに描ける画力と意欲があっても、たとえそのウンコ(リアル風)動画がどんなに上手なデッサン力に支えられていても、テレビ業界の放送倫理に重大な違反をするので、そういう需要がテレビアニメには無いので(ただし、変態むけの有料のエロアニメは除く)、

「私のこの画力で、子供むけのテレビアニメを作って、夕方のお茶の間に放映したいです! ゆくゆくは国民的アニメに!」という夢は絶対にかなわないのです。

「需要が低い」なんて生易しいものではなく、そもそも「需要がゼロ」または「授業がほぼゼロ」という事すらあるのです。

例のウンコ(リアル風)アニメは極端な例ですので、さすがにそのままの志望の若者はいないでしょう。

しかし、少し変わった志望を持つ人は、要注意です。ウンコ本物テレビアニメの夢のように、志望業界が、もしかしたら自分の本当の夢には合わない、マッチングしないという場合もあります。なので、あまり人生の早期の段階で、ひとつのジャンルだけに限定するのはキケンです。

まとめると、けっして志望の職業を先に決めるのではなく、書いてて楽しい画風なり物語なりを先に見つけて、その表現の趣味をどうやって続けるかを考えるほうが良く、運よく需要とマッチングすれば画力によっては作家の仕事もあるかもしれない、くらいに考えるのが安全でしょう。


夢の需要を予想するコツは、「その夢を構成するパーツ部品が、単品でも、需要がそこそこあるか」でしょう。

たとえば、ウンコのアニメの夢は、とりあえずアニメ化を抜きにしても、静止画のウンコのリアル風イラストの段階でも、基本的には需要が無い。少なくとも、家庭向け・子供向けとしては需要が無い。

ギャグマンガとかのデフォルメされたウンコ絵は除きます。ウンコ学習ドリルとかありますが、ああいうギャグ調の絵の話ではありません。ここでは、リアル風ウンコの絵の話をしています。

1枚の静止画のウンコ風リアルイラストでも需要が無いのに、これを動画にして1秒あたり8枚や12枚も書いて3分アニメ作っても需要がありません。つまり、夢のパーツ単品で、消費者から嫌悪されていて需要がゼロ近いものは、どんなに追加要素を加えてアレンジしても、需要はゼロ近くのままです。

あるいは、アニメではなく漫画や映画などの物語が夢だとしましょう。

物語に絵を加えて人気を高める手法も、あくまで元の物語が単品でも、そこそこ面白い場合です。

物語が単品で、読んでくれた消費者から好かれていない場合、それに絵を加えることで消費者から好かれるのは、至難のワザです。だから映画などの映像業界では、絵を作りこむ前に、物語をあるていど作りこみます。

夢も、これと同じです。

夢の個々のパーツが、単品またはそれに近い状態でも、ある程度、消費者からウケる要素でない限り、基本的にその夢はかなわない可能性が高いでしょう。


例外として、マンガだと、どうしても絵と物語の両方の組み合わせが必要ですが、そのような場合でも、たとえば新しい絵柄なら、「新しい絵柄のアイデアと、標準的なパターンの物語」でも受けるかどうかを検証しなければいけません。

つまり、新規の部分以外は、業界標準品質だったとしても(とはいってもプロ級での「標準」ですので、とても上手ですが)、ウケるかどうかを考えないといけません。

逆に、もし物語の新しいアイデアなら、絵柄が普通だったとしてもウケるかどうかを、先に検証する必要があります。


日本のコンテンツ産業での実際の事例をあげます。

テレビのお笑い番組のプロデューサーだった「テリー伊藤」と言う、その業界の偉い人がいます。

この人が、テレビ業界で管理職のとき、若手がテレビのバラエティ番組の立ち上げの企画会議のとき、若手が、「(当時の男性アイドルで人気トップだった)キムタクこと木村拓哉(きむら たくや)を出して、番組を盛り上げましょう」とか言ったとき、

テリーはそれをダメ出しして、

そういう風に考えるんじゃなくって、まず普通の男性タレントの登場でもウケるような演出などのアイデアを考えるのが先なんだよ、・・・みたいな感じのダメ出しを会議でしました。(wiki追記: そもそも若手のアイデアに、高額の予算が必要なトップアイドルなんて、与えられないですし。)

これです。まず、アイデア単品、またはアイデア以外は標準品質との組み合わせでも、そこそこウケるかどうかの検証または検討が先です。

単品・標準品での検証・検討もされてないアイデアに、けっして、高予算は与えられないのです。

「ローカライズ」という加工

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日本のアニメや漫画は世界で流行です。しかし実は、絵は、国ごとに微妙に修正を加えられている場合があります。これを「ローカライズ」と言います。

たとえば日本のアニメの外国輸出で、原作マンガではタバコを加えている男性が、外国アニメ版では棒キャンディーを加えている男性になっていたりとか。

日本版では裸の女性の絵が、外国版では下着姿の女性の絵になっていたりとか。

そういうローカライズが、よくあります。

だからどうって事は特に無いのですが、まあ、厳密には、完全には同じ絵を見ているわけではない。

別に小説などと比べて絵がバカにされているわけでもなく、小説などの翻訳でも、翻訳の際に微妙に改変がある事もあります。輸出先の人に売れやすいように、または法令などに合うように、または分かりやすいように、微妙に表現の改変はされているのが実情です。

たとえば「猫の手も借りたい」という表現の翻訳ですら、たとえば国によっては猫は悪魔の使いだったり、魔女の使いだったりして、意味合いが変わる。外国版の視聴者層・観客が、必ずしも日本文化への知識が豊富だとは限らない。私たち日本人が「ビーバーのように〇〇だ」とか「カンガルーのように〇〇だ」とか言われても分からないのと同じ。


子供向けの長寿アニメグッズなどの絵柄でも、日本だと、アニメの塗りの影響からか、グラデーションなどは控えめの絵柄が多い一方で、ヨーロッパ版などだとグラデーションを使いまくりの絵柄だったりするような作品もありました。

グラデーションどころか、ゲームなどで絵柄をあまり売りにしていない作品だと、絵柄の輪郭線のデザインそのものが、全く別の絵柄になっている場合もあります。


逆パターンもあって、外国産のアニメや実写映画などの日本版が、じつあ登場人物のセリフの意味合いが、外国の原作版とは結構な違いのある場合もあります。

ローカライズの具体的な方法についての説明は、省略します。業界によって異なるし、業界を目指さない人には必要が無いからです。

とりあえず、ローカライズという作業が存在しているという事だけ、紹介しておきます。

アメリカ合衆国は、一見すると外国のコンテンツも積極的に取り入れているように見えますが、1990年代には実はアメリカ文化について「映画・アニメは吹き替えをせずに海外コンテンツを字幕で見る」という習慣がほとんど無く、基本的にはアメリカ人の多くは英語に翻訳されたコンテンツばかりを視聴すると1990年代は言われていました(最近はどうか知りません)。

売上の水増しコンテンツ

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デジタルコンテンツは、値段を簡単に変えることができます。

たとえば一万部(10000部)ほど売れた電子マンガがあるとしましょう。

現在、価格が千円(1000円)で販売されていたら、あたかも 一万部×千円 = 一千万円 の儲けのように見えます。

しかし、そう思う人は、純真すぎる。

値段はもしかしたら1円の期間があったかもしれません。だとすると、1円×1万部で たった1万円の売り上げです。

作家本人・出版社が一千万円の売り上げといったら詐欺ですが、しかし他人に言わせれば法的には問題ありません。たとえば広告会社に言わせればいいのです。さらに責任逃れのために、広告としてではなくネットの匿名掲示板などで議論のフリをしてステマ的に宣伝させれば、さらに脱法できます。

ネット上の宣伝にかぎらず、「宣伝費を使って商品を買い取って、売上を水増し」というのは、昭和の昔からよくある宣伝手法です。


コンテンツの統計を見る場合は、こういった自己買取りや値段操作なども考慮しないといけないので、あまり小規模のコンテンツの統計は、鵜呑みにしないほうが良いでしょう。

株取引など金融取引でこういう感じの自己買取りなどを行うと違法ですが、裏を返せば金融市場でなければ、脱法できてしまうのです。

学校美術の商業離れ

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学校の美術の科目は、商業のコンテンツ産業のイラストとは大きく違います。最近は減りましたが、昭和の昔はこれを混同してた人も多くいました。

ネットで作品発表できる今のこの時代、もし高校在学中にセミプロ級の業績を残せない水準なら、現時点では進路を 絵描きだけ/作家だけ に限るのは、すごく危険、とだけ言っておきます。

高校野球で活躍してプロ野球選手になる人は、甲子園という大会で活躍して、業績を残しているわけです。


たとえ学校の美術の成績が良くても、公開の大会などで業績を出せないなら、現時点では、素人です。特に、相対評価ではなく絶対評価に通知表の基準が変わった現在、高校の美術・音楽の成績なんて、なんの信用もありません。


芸術だと、スポーツのようなハッキリした勝負の基準が無いので、人によっては自己評価を肥大化させがちです。

とはいえ、「自分は天才」とでも思わなきゃヤッテけない分野でしょうから、まあ、若干の程度なら、そういう自惚れもあって良いでしょう。

ですが、限度があります。売れ線の画風の練習を無視すれば、当然ですが、作品は基本的には、売れません。例外として、抽象芸術などで大ヒットしない限りは。そして、それはかなりの狭き門ですし、仮にヒットしても果たしてそれだけで一生食っていけるのか不明です。

やはり、現時点でセミプロ級の業績を出せないなら、自己評価を見直しましょう。


世の中には、「絵を描くのが好き」というよりも、「美術の授業がラクだから」や「他の仕事が嫌いなだけ」という理由で絵を描く人もいる。これは絵に限らず、音楽やピアノ、ギターなどにも当てはまる。しかし、絵を描くのが好きな人が多い一方で、他の仕事や学問に対する興味が相対的に薄い場合もあり、これは決して悪いことではない。ただし、限度がある。

「限度」がどこにあるのかは業界によって異なるため一概には言えないが、「他の仕事が嫌いなだけで、実は絵を描くのもそんなに好きじゃなかった」という人が、進路を絵描きに限った場合、人生が非常に厳しくなる可能性が高い。特に、美術や音楽などの分野では、競争が少ないこともあり、一時的な成功が大きな勘違いを招くことがある。

脚注・参考文献

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  1. ^ [https://twitter.com/yamauchitaiji/status/1752107055916503525 (アカウント名)山内太地『やりたいことがわからない高校生のための 最高の職業と進路が見つかるガイドブック』3刷 @yamauchitaiji(※ここまでアカウント名)、午前8:10 · 2024年1月30日]
  2. ^ クリストファー・ハート 著『驚くほどかんたん 人体デッサン』、グラフィック社、2008年5月25日 初版 第1刷 発行、P8、
  3. ^ 成富ミヲリ『絵はすぐには上手くならない』、彩流社、2015年11月10日 初版 第二刷発行、P45
  4. ^ 矢野経済研究所 著『「オタク」に関する消費者アンケート調査を実施(2023年) 』2023/11/30
  5. ^ (動画)『「身分社会『学歴身分と就職差別』」森永卓郎×深田萌絵 No.74』2024/08/02、 1:10 あたり