中学校社会 歴史/日本の立憲政治のはじまり

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自由民権運動[編集]

板垣退助(いたがき たいすけ)。土佐藩の出身。
 1874年に故郷の高知県で政治結社の立志社をつくり、自由民権運動を広めた。のちに自由党をつくった。

いっぽう、征韓論にやぶれて政府を去っていた板垣退助(いたがき たいすけ)らは、西南戦争の前から、言論活動によって、政府への批判を主張した。

1874年に、板垣は、政府に対しての求めで、選挙で選ばれた政治家による政治をおこなう民撰[1]議院(みんせんぎいん)を、すぐに設立するように求め、民撰議院設立の建白書(みんせんぎいんせつりつ の けんぱくしょ)を政府に提出しました。

当時の日本の政治には、まだ選挙の制度が無かったので、薩摩藩や長州藩の出身者など明治維新に影響力のあった藩の出身者たちから成りたつ、少数の政治家によって政治が決まっていた藩閥政治(はんばつ せいじ)だったのです。

この民撰議院の設立の要求のように、国民が政治に参加できる社会をもとめる運動を自由民権運動と言います。自由民権運動は、はじめのうちは不平士族を中心とした運動だったが、しだいに農民や商工業者などにも支持をされていきます。

  • オッペケペー節(オッペケぺーぶし)
「権利幸福きらいな人に 自由湯(じゆうとう)をば飲ましたい オッペケペーオッペケペッポペッポッポー」

などいいう歌詞の歌が流行った。俳優の川上音二郎(かわかみ おとじろう)が歌ったことで有名になった。

このような、演説に節(ふし)をつけた歌のことを演歌(えんか)という。

民撰議院と大日本帝国憲法[編集]

自由民権運動の演説会
政府は「集会条例」や「新聞紙条例」などを制定し、その条例によって、政治などの演説をするには警察の許可が必要とされた。そのため、自由民権運動の演説はたびたび規制された。

1880年(明治13年)に、各地の自由民権運動の代表が大阪に集まり、国会期成同盟(こっかい きせい どうめい)を作り、署名を集めて、政府に対して国会開設を要求した。

しかし、1881年のときには、まだ、国会を開くために必要になる、憲法(けんぽう)などの法律がありませんでした。憲法とは、その国の法律をつくるさいの基本となる考え方を定めたり、法律をつくるときの決まりごとや、国会の決まりごとなどを定めた法律です。

国会の決まり事をきめた法律すら出来ていないので、まだ民撰議院を開くことは出来ません。

大隈重信(おおくま しげのぶ)。 立憲改進党を結成する。1914年には総理大臣になった。現在の早稲田大学の前身である東京専門学校の創立者でもある。

国会の開設の時期や憲法の方針をめぐって、政府では意見が分かれ、大隈重信と岩倉具視(いわくらともみ)の意見が対立した。岩倉は、ドイツにならった憲法を時間をかけて作ろうとした。いっぽう、大隈重信は、イギリスにならった憲法をつくるべきと主張し、ただちに国会を開くべきだと主張した。

1881年に政府が北海道開拓使の施設を安く商社に払い下げようとしたことが、新聞で問題になった。政府は払い下げを中止した。

そして1881年、北海道の開拓使の施設を関係者に安く払い下げようとする事件が起きると、民権派による政府への批判が強くなり、政府はこの民権派の動きに大隈が協力したとして、大隈を政府から追い出し、10年以内に国会を開くことを国民に約束しました( 国会設立の詔(こっかいせつりつ の みことのり) )。(実際に、10年後の1890年に国会が開かれます。数え年での10年後なので、1881年の10年後が1890年になる。)

この1890年の国会の開設にそなえて、政府は、議会制度に必要になる憲法(けんぽう、英語:Constitution コンスティチューション)を作りました。
そして、板垣退助は自由党を結成し、一方、政府から追放されていた大隈重信は立憲改進党(りっけん かいしんとう)を結成した。

憲法案

政府とは別に、民間で将来の憲法の提案が色々と考えられました。これを私擬(しぎ)憲法といいます。有名なものに以下のものがあります。

  • 「五日市憲法」(いつかいち けんぽう)

五日市憲法は、東京の五日市町(いつかいち ちょう)(※ 現在の あきる野市(あきるのし) )で発見された憲法案です。

内容の一部を現代語訳すると、

・ 日本国民は、各自の自由を達成することができる。他人が妨害してはならない。かつ、国はこれを保護しなければならない。
・ すべての日本国民は、法律を守っている限り、事前に検閲(けんえつ)を受けることなく、自由に思想・意見・論説・絵画を著作し出版でき、公衆に対して討論・演説もできる。

このように、五日市憲法案には、検閲の禁止や、言論の自由もあり、いまの日本国憲法に近い内容の条文も多い。


大日本帝国憲法[編集]

明治時代の日本国の憲法を、大日本帝国憲法(だいにっぽんていこく けんぽう)と言います。また、この憲法のあとのころから、日本の国名は「日本」のほかに「大日本帝国」(だいにっぽんていこく、だいにほんていこく)という言い方もされるようになりました。

伊藤博文(いとう ひろぶみ)。4度、総理大臣になった。1909年に、朝鮮で政治運動家に暗殺された。
ローレンツ・フォン・シュタイン(Lorenz von Stein)

明治政府は、ヨーロッパの憲法を調べさせるため、伊藤博文(いとう ひろぶみ)らをヨーロッパに派遣しました。伊藤らは、イギリスの法学者であるスペンサーやドイツの法律学者であるグナイストから憲法学を学び、またオーストリアの法律学者のシュタインから憲法学のほか軍事学や教育学などさまざまな学問を学びました。

※ かつての昭和ごろ、「伊藤博文はドイツ憲法を手本にした」という学説が主流でしたが、その学説はやや事実と異なるようです。最新の歴史研究によると、伊藤が学んだスペンサー(イギリスの法学者)が、伊藤に「日本が憲法をつくるなら、日本の伝統に基づいたものにするのがよい」などというような内容のアドバイスをしており、べつに伊藤は手本をドイツだけに限ったのではないようである事などが分かっている。(※ 参考文献: 山川出版社『大学の日本史 教養から考える日本史へ 4近代』 、2016年第1版)

スペンサー(イギリスの法学者のひとり)などは、もし日本が憲法をつくるなら、欧米の憲法の文章をまねるだけではダメであり、日本の国の歴史や文化にあっている憲法を考えて作るべき必要があるということを教えました。また、伊藤は、シュタインから憲法を学んだほか、軍事学や教育学、はたまた統計学や衛生学など、さまざまな学問を学びました。

そして帰国後、伊藤はドイツ(プロイセン)を中心にさまざまな国の憲法を手本にして、 大日本帝国憲法を作りました。

また、伊藤の帰国後の1885年(明治18年)に、立憲制の開始にそなえて内閣制度がつくられ、伊藤は初代の内閣総理大臣になった。

伊藤は、日本の憲法の天皇についての条文は、ドイツが日本と同じように皇帝をもっているので、ドイツの憲法を手本にするのが良いだろう、と考えたようです。

大日本帝国憲法(だいにっぽんていこく けんぽう)は1889年に明治天皇から国民に発布[2](はっぷ)されます。

 大日本帝国憲法(抜粋)

第1条 大日本帝国ハ万世一系(ばんせいいっけい)ノ天皇之(これ)ヲ統治ス
第3条 天皇ハ神聖(しんせい)ニシテ侵ス(おかす)ヘカラス(べからず)
第5条 天皇ハ帝国議会ノ協賛(きょうさん)ヲ以テ(もって)立法権ヲ行フ
第11条天皇ハ陸海軍ヲ統帥(とうすい)ス
第20条 日本臣民ハ法律ノ定ムル所ニ従ヒ(したがい)兵役(へいえき)ノ義務ヲ有ス
第29条 日本臣民ハ法律ノ範囲(はんい)内ニ於テ言論著作(げんろんちょさく)印行集会及(および)結社(けっしゃ)ノ自由ヲ有ス(ゆうす)

現在(21世紀)の日本と比べると、大日本帝国憲法は国民にとっては制限の有る項目が多いものの、大日本帝国憲法は、アジアの国では初めての本格的な憲法となった。当時の日本からすると、大日本帝国憲法は民主的に進歩した憲法だった。

そして、明治の日本は憲法を持ち憲法に基づいた議会政治を行う、アジアでは初めての立憲国家(りっけんこっか)となった。

新憲法は翻訳されて、世界各国に通告された。

※ このように、日本の(明治につくられた)憲法は、天皇制についてはドイツを手本に、その他の部分については欧米のさまざまな憲法を取り入れたという、折衷(せっちゅう)的な憲法であろうという分析が欧米の新聞や学者などによってなされました。

大日本帝国憲法の内容では、まず、天皇が日本を統治すると定められた。そして実際の政治は、大臣(だいじん)が行うとされた。 つまり、日本を統治するのは、藩閥でも華族でもなく、天皇であるということである。ただし、天皇の独裁ではなく、内閣の助言をもとに天皇が政治を行うとした。また、予算や法案の成立には、議会の同意が必要だった。このように、大日本帝国憲法の成立を期に、日本は事実上の立憲君主制(りっけん くんしゅせい)となった。

明治憲法下の国家のしくみ

司法・立法・行政などの最終的な決定権は、天皇が持つ事になった。

外交や軍事の、最終的な決定権は天皇がにぎる事とされた。憲法では、軍隊は天皇が統率するものとされた。宣戦や講和も天皇の権限になった。

つまり、政治家が勝手に戦争を初めたり講和したりするのを禁止している。 (このように軍隊を統率する権限を 統帥権と言います。天皇が統帥権(とうすいけん)を持っています。)

外国と条約をむすぶのも、天皇の権限である。

国民は、天皇の「臣民」(しんみん)とされた。 国民の権利は、法律の範囲内という条件つきで、言論の自由や結社・集会の自由、心境の自由などの権利が保証された。ただし、現在(西暦2014年に記述)の日本の権利と比べると、当時の権利は国民にとって制限の多いものであった。

国民には兵役(へいえき)の義務があることが憲法にふくまれていた。

なお、右の図中にもある「枢密院」(すうみついん)とは、有力な政治家をあつめて、天皇の相談にこたえる機関である。

帝国議会[編集]

憲法発布の翌年1890年には、国会での議員を選ぶための総選挙が行われた。つづいて国会である帝国議会(ていこくぎかい)が同1890年に開かれた。(第1回帝国議会)

議会の議院(ぎいん)は衆議院(しゅうぎいん)と貴族院(きぞくいん)との2つの議院からなる二院制(にいんせい)であった。

この1890年のときの選挙で選ばれたのは 衆議院の議員のみ、である。一方の貴族院では議員は、皇族や華族などの有力者から天皇が議員を任命しました。

衆議院の立候補者に投票できる権利である選挙権(せんきょけん)は、国税の高額な納税(年間15円以上。)が必要で、満25才以上の男子に選挙権が限られた。実際に選挙に参加出来たのは全人口の約1.1%ほど(約45万人)に過ぎなかった。その後、普通選挙の実施を目指して、大正デモクラシーなどを通じて人々は努力していくことなる。


※ 現在の日本のような18才以上の日本人なら誰でも選挙権のある普通選挙(ふつうせんきょ)とは違い、この明治時代の選挙のような制限事項の多い選挙の仕方を「制限選挙」(せいげんせんきょ)と言います。

また、第一回帝国議会の衆議院総選挙での、政党ごとの議席の割合では、自由民権運動の流れをくむ政党が多くの議席を獲得しました。


  • 発展的事項:大津事件(おおつ じけん)
ニコライ皇太子。1891年、長崎に訪問時のニコライ皇太子(左の車上の人物がニコライ。)

1891年、ロシアの皇太子のニコライ2世(ロシア語: Николай II, ラテン文字表記: Nicholai II)が日本を訪問し、日本政府はニコライを接待していた。

皇太子ニコライが滋賀県の大津町(現 大津市)を訪問中に、警備の仕事だったはずの日本人の巡査の一人に切りつけられるという事件が起きた。犯人は、その場で取り押さえられ、捕まった。

この事件で、日本の政府はロシアの報復をおそれて、裁判所に犯人を死刑にするように要求した。

児島惟謙(こじま これかた)

しかし、当時の最高裁判所である大審院(だいしんいん)の院長である児島惟謙(こじま これかた)は、日本の刑法の法律にもとづくと、この場合は死刑は不可能であり、無期懲役(むきちょうえき)にするべきと主張とした。

日本の新聞などの世論は、これに注目した。日本だけでなく、欧米も、この事件の判決に関心をもった。もし、裁判所が死刑の判決を出せば、裁判所は政府のいうままで、場合によっては法律も曲げることがあることを示す。それは近代国家では決してあってはならないことである。しかし、犯人を死刑にしなければロシアとの戦争になるかもしれない。または多額の賠償金や領土を要求されるかもしれなかった。

結局、日本の裁判所は、法律にしたがって、犯人を無期懲役にすることに決まった。

その他[編集]

教育勅語[編集]

憲法発布の翌年の1890年には教育勅語(きょういく ちょくご)が出された。教育勅語では、「忠君愛国」(ちゅうくんあいこく)の道徳が示され、また、親孝行などを中心とする道徳も示された。

法律の整備[編集]

憲法の交付に続いて、刑法(けいほう)・民法(みんぽう)・商法(しょうほう)などの法律も公布されていった。民法での家の制度は、父親や長男などの家長(かちょう)・戸主(こしゅ)の権限が強く、実質的には江戸時代での家の制度と、あまり変わらなかった。一夫一妻制が制度化されたことにより、女性の地位は安定したが、あいかわらず女性の地位は低かった。

同じころ、地方制度も整備され、市制・町村制などが定められた。知事や市長を任命するのは、政府によって任命された。

  1. ^ 「民撰」のかわりに「民選」と書いてもいい。検定教科書の清水書院や日本文京出版では、「民選」の表記を使っている。なお、東京書籍や帝国書院の教科書では「民撰」の表記。
  2. ^ 法律などを人々に広く知らせるという意味。