オスマン帝国

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オスマン帝国とは1299年から1922年までユーラシア、アフリカ大陸に存在した国家。

歴史[編集]

建国[編集]

1299年にオスマン1世がアナトリア半島西部にオスマン君侯国(後のオスマン帝国)を建てる。

全盛期[編集]

コンスタンティノープル征服[編集]

詳細は「w:コンスタンティノープルの陥落」を参照

1453年メフメト2世によってビザンツ帝国の首都コンスタンティノープルを征服し、同地に遷都した。これによってビザンツ帝国は滅亡した。

セリム1世[編集]

詳細は「w:セリム1世」を参照

1514年チャルディラーンの戦いでサファヴィー朝を破り、シリアを獲得した。1517年にはマムルーク朝を滅亡させ、メッカ・メディナの保護権を掌握し、オスマン帝国をスンナ派イスラーム教を守護する存在にした。

第1次ウィーン包囲[編集]

詳細は「w:第一次ウィーン包囲」を参照

1529年スレイマン1世によってウィーンが包囲され、ヨーロッパ諸国に大きな脅威を与えた。

プレヴェザの海戦[編集]

詳細は「w:プレヴェザの海戦」を参照

1538年スペイン・教皇連合艦隊を破り、東地中海の制海権を掌握した。

衰退[編集]

ギリシア独立戦争[編集]

詳細は「w:ギリシア独立戦争」を参照

1821年オスマン帝国内のギリシアが独立戦争を起こし、列強諸国はギリシアを支援し、南下政策を行っていたロシア帝国も介入。1829年にはロシアとアドリアノープル条約を結び、ギリシアの独立承認や黒海沿岸の領土をロシアに割譲した。

青年トルコ革命[編集]

詳細は「w:青年トルコ革命」を参照

ミドハト=パシャが起草したミドハト憲法は、アジアの独立国家では最初の憲法だったが、スルタンのアブデュル=ハミト2世はそれを凍結させ、ミドハトを追放した。

これに対して憲法停止に反発した青年トルコ人は「統一と進歩団」を結成し、1908年に革命を起こし憲法を復活させ、政権を握った。 その後政局は不安定になり、国内世論は分裂した。だが、このことがきっかけとなりトルコ民族主義の成長が進んだ。

第1次・第2次バルカン戦争[編集]

詳細は「w:第一次バルカン戦争w:第二次バルカン戦争」を参照

1908年にオーストリア=ハンガリー帝国がボスニア・ヘルツェゴヴィナを併合すると、ロシアは1912年にセルビア、ブルガリア、モンテネグロ、ギリシアの4国をバルカン同盟に結束させ、パン=ゲルマン主義に対抗した。

その後同年のイタリア=トルコ戦争乗じてオスマン帝国に宣戦した。(第1次バルカン戦争)ここでバルカン同盟は勝利したが、獲得した領土をめぐって対立し、ブルガリアと他のバルカン同盟間で戦争になった。(第2次バルカン戦争)

この戦争によってオスマン帝国はドイツ帝国に、ブルガリアはドイツとオーストリアに接近し、第1次世界大戦で同盟国側として参戦することとなる。


第一次世界大戦[編集]

第1次バルカン戦争後にドイツに接近し、密約を結んだことで1914年に同盟国側として参戦した。

だが、国内のアラブ人に反乱を起こされ、劣勢に陥り、1918年に降伏。 1920年にセヴール条約を締結した。

滅亡[編集]

1919年からギリシア=トルコ戦争が起こり、トルコ人が大半を占める地域が占領されると、その地域の保全を目指し、ムスタファ=ケマルによって臨時政府が樹立。セヴール条約に反して連合軍を退けた。 これによってセヴール条約に代わり、ローザンヌ条約が締結された。


1923年にはトルコ共和国が成立。翌24年にカリフ制の廃止、トルコ共和国憲法が発布され、オスマン帝国は滅亡した。

政治[編集]

軍事[編集]

関連項目[編集]

Wikipedia
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