ナポレオン戦争

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ナポレオン戦争はフランス革命後のナポレオン台頭のころから始まり、1815年のワーテルローの戦いで終結した戦争。ヨーロッパの主要国がほとんど参戦し、フランス革命の理念を世界各国へ輸出した。

概要[編集]

1796年の第一次イタリア戦役から始まったと考える研究者は少ないが、ここではそこから扱う。

1796年、ナポレオンはリヴォリ、アルコレ、カスティリオーネ、マントヴァなどでオーストリアに対し戦勝を重ね、カンポ・フォルミオ条約を締結した。

1798年、ナポレオンは総裁政府にエジプト遠征を進言。これが認められ、ナポレオンはエジプトに上陸。陸では戦勝を重ねるが、海では敗北。フランスから切り離されてしまった。しかし、フランスでの総裁政府に対する風当たりが強まって来るや、ナポレオンは少数の部下とともにエジプトを脱出。ブリュメール18日のクーデタを起こし、統領政府を立て、ふたたびイタリア遠征を画策。勝利し、オーストリアとリュネヴィル条約を締結した。その後、教皇とはコンコルダートを、イギリスとはアミアンの和約を結び、国内では自身は終身統領に就任。皇帝への足場を固めていった。

1804年5月28日、ナポレオンは帝政の開始を宣言し、同年12月2日戴冠。また、イギリスとの関係が悪くなると、ドーバー海峡付近のブローニュに18万の兵を駐屯。しかし、オーストリアが進行するや、その軍を南ドイツ、イタリア方面へ向け、その後、ウィーンへ入城。そのご、アウステルリッツの戦いで先勝。オーストリアとプレスブルクの和約を結び、講和した。そのご、1806年にはプロイセンを、1809年、オーストリアを再び破ると、1812年にはロシアに侵攻。しかし、これには敗退し、また、スペインでの半島戦争でも苦戦を強いられた。1813年のライプツィヒの戦いでも敗北すると、フランスの劣勢は決定的となる。その後もナポレオンは各地で戦勝を収めるが、劣勢は覆されず、1814年4月11日、ナポレオンは退位。ここで一時的に帝政は終結した。

しかし、エルバ島に追放されたナポレオンは復古した王ルイ18世の人気がないことを知るや、エルバ島を脱出。再び皇帝に即位。ベルギーを再び攻めるが、いくつかの戦勝にもかかわらず、失敗。ワーテルローの戦いを機に再び退位。その後、セントヘレナ島へ流され、1821年、彼はその生涯を終えた。

主要な戦い[編集]

参戦国[編集]

おもにフランス側

主に対仏大同盟側

時期によって陣営が変わった国

関連項目[編集]

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