中学受験社会/歴史/上巻

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中学受験社会/歴史/上巻では、中学受験社会の歴史分野について、太古~平安時代を解説します。

はじめに[編集]

時代の表し方[編集]

  • 時代

歴史学習で使う時代の表し方には、まず「時代」があります。これは、「奈良時代」「江戸時代」などと、大きなことがら(都や天皇が変わる)ごとに時代を変えていく表し方です。

  • 西暦

西暦(せいれき)は、イエス・キリストが生まれたとされる年を西暦1年として表します。今は西暦{CURRENTYEAR}}年です。西暦1年より前の年を「紀元前(きげんぜん)(B.C.) 〇年」と表します。なお、西暦1年以降の年を「紀元後(きげんご)(A.D.) 〇年」と表します。

  • 世紀

世紀(せいき)」とは、100年ごとに区切って、年を数える単位です。西暦1年から西暦100年までが1世紀です。西暦101年から西暦200年までが2世紀です。西暦2001年から西暦2100年までを21世紀と言います。たとえば、105年は2世紀、1853年は19世紀です。

旧石器(きゅうせっき)時代[編集]

氷河期(ひょうがき) - 1万年前のくらし[編集]

1万年くらい前までは、地球は氷河期(ひょうがき)と言って、今よりもずっと冷えていたのです。その結果、海水面は今よりも低く、ユーラシア大陸と日本は陸続きだったのです。そのため、大陸の北の方からマンモスオオツノジカが、南の方からナウマンゾウなどの陸上動物が日本にやってきました。これらの動物の化石が、日本列島でも発見されています。

オオツノシカの骨格標本(こっかくひょうほん)

古い時代の物が発掘される場所を 遺跡(いせき) と言います。長野県の 野尻湖遺跡(のじりこいせき) などから、ナウマンゾウの化石が見つかっています。この発見により、ユーラシア大陸と日本が陸続きで、ナウマンゾウやオオツノジカが渡って来たことが証明されました。

これらの動物達と同じくらいの時期か、しばらくあとに、人間もやってきたと考えられています。それが日本人の祖先(そせん)です。

旧石器時代(きゅうせっきじだい)[編集]

石同士を打って作った打製石器
外国での石器の例

石器(せっき)といって、石を砕いてとがらせた物や、石をみがいて作った物が見つかっています。おそらく、石器は動物の狩りをしたり、野菜や果物をとったりするときなどに利用されたのだろうと考えられています。

石を打ち砕いて作ったと思われる石器を打製石器(だせいせっき)と言います。打製石器を多く使っていた時代を 旧石器時代(きゅうせっきじだい) と言います。この旧石器時代は、後述する縄文時代よりも、さらに古い時代です。縄文時代の石器には、旧石器時代とは違い、磨製石器(ませいせっき)という、石同士を磨き合わせて作った石器があります。旧石器時代には、まだ磨製石器はありません。また、土器が製造されてなかったため、この時代は、「先土器時代」や「無土器時代」とも呼ばれます。

岩宿遺跡(いわじゅくいせき)[編集]

アメリカ合衆国オレゴン州レイク郡で採取された黒耀石

群馬県の 岩宿遺跡 からは、一万年以上前にできた地層から打製石器のかけらが見つかっています。岩宿遺跡の石器は、相沢忠洋(あいざわただひろ)という青年により1949年に発見されました。

相沢により、群馬県の関東ローム層の地層から、石器のような黒耀石(こくようせき)の欠片が発見されました。相沢は、この破片を大学に調査してもらおうと思い、明治(まいじ)大学に石の破片の調査を依頼しました。学者の調査で、この遺跡が一万年以上前の遺跡であることが分かり、日本に今までなかったとされた旧石器時代があったことが証明されました。

縄文(じょうもん)時代――土器の使用[編集]

縄文土器

地球の氷河期から数千年経つと、氷河期が終わり、地球は暖かくなり、海面は上昇し、日本列島は海に周囲を囲まれた島になりました。

このころ、日本列島に住んでいる人々は土器 を作りだしました。その土器に縄目の文様(模様)がついているので、この土器は 縄文土器(じょうもんどき) と呼ばれます。

今から約1万6,500年前 (紀元前145世紀) から、今から約3,000年前 (紀元前10世紀) あたりまでの時代を、縄文時代(じょうもんじだい)と言います。


弥生時代の竪穴式住居 (復元、吉野ヶ里遺跡) 。

縄文時代は、たて穴式住居(たてあなしきじゅうきょ) (竪穴式住居) といって、地面に穴をほりさげたあとに、柱を立てて草ぶきの屋根をかけただけの住居にすんでいました。

加曽利貝塚(かそりかいづか)の北貝層断面

縄文人の集落(しゅうらく)があったと考えられる場所からは、貝がらなどを含む、生活ごみが発掘されました。このような場所を貝塚(かいづか) と言います。

前述しましたが、縄文時代の石器には、打製石器の他に、石同士で表面を磨き合わせて作った 磨製石器(ませいせっき)が見つかっています。磨製石器は、石の槍先(やりさき)や、石の矢じり、(おの)などに使われていました。

動物の骨でつくった 骨角器(こっかくき) という刃物も、みつかっています。釣り針(つりばり)や もり (水中の魚を突き刺す武器)などに使用されたと考えられています。

亀ヶ岡遺跡で出土した土偶

縄文時代の遺跡から、土偶(どぐう)という、女性のような形の、土を焼きかためた人形が見つかる場合があります。土偶は、食料が増えることを(いの)ったり、女性の安産を祈ったものだと考えられていますが、本当なのかは不明です。


有名な貝塚として、大森(おおもり)貝塚が知られています。明治時代にアメリカ人のエドワード・モースが大森貝塚を発見しました。この大森貝塚の発見がきっかけとなり、日本各地で貝塚の調査や発掘が始まりました。それ以外にも、福井県の鳥浜(とりはま)貝塚や千葉県の加曽利(かそり)貝塚があります。

三内丸山遺跡(さんない まるやま いせき)[編集]

六本柱建物 (復元)

青森県の 三内丸山遺跡 からは、栗の木を、栽培(さいばい)した形跡が見つかっています。また、多くの土器や石器のかけらもみつかっています。大型の掘立て柱(ほったてばしら) の穴も見つかっています。掘立て柱の用途はまだ分かっていません。ヒスイの玉や、黒曜石で出来た刃物のようなものも見つかっています。ところが、ヒスイはこの地ではとれず、新潟県の糸魚川(いといがわ)などの他の土地で取れるので、他の地域と交易(こうえき)があったと考えられています。

この三内丸山遺跡は、縄文時代を知る遺跡として代表的な遺跡です。

屈葬(くっそう)[編集]

屈葬

縄文人の死者の骨は、手足を折り曲げて、(ほうむ)られている遺体が多く見つかっています。このような葬り方を屈葬(くっそう)と言います。これは、死者から発生すると考えられていた悪霊を寄せ付けないようにするためと考えられています。

弥生(やよい)時代――ムラからクニへ[編集]

米づくりがはじまる

弥生式土器。
紀元1世紀から3世紀に製作されたもの。

紀元前の5世紀ごろ、ユーラシア大陸の中国 や朝鮮半島あたりの人々から、米による稲作 が、日本に伝わりました。

米作りは、まず西日本に伝わり、西日本から東日本へと、米作りが広がっていき、東北地方まで広がりました。

この時代の農具の多くは、まだ、木製 です。ただし、米作りとともに鉄器 の技術 も日本に伝わっているので、一部では鉄を用いた農具も見つかっています。

穂から米をとるのに、石包丁(いしぼうちょう) が、使われました。


  • 弥生式土器

また、このころ、土器は、縄文土器よりも うすくて かたい 弥生式土器(やよいしきどき) をつくるようになりました。弥生土器 とも呼ばれます。「弥生」とは、学者が発見した場所が、東京の弥生町 で見つかったので、「弥生式」「土器」と、よばれています。

縄文土器と弥生土器の違いは、弥生時代のころには、土器をつくる技術が進歩したので、土器の形が 変わったのだろうと考えられています。

  • 高床式倉庫(たかゆかしきそうこ)

米の保管には、高床式倉庫 (たかゆかしきそうこ)で保管されました。「高床倉庫」 とも、言います。

高床式倉庫が高いのは、ねずみ などの動物が入りづらくするためというのが主な理由だろうと考えられています。風通しをよくし、湿気を逃すため、という理由もあるでしょう。ねずみの害を防ぐという理由の有力な根拠として、地面から床までの柱の、柱の頂上に「かえし」がついていて、動物などが登れないように工夫した高床式倉庫が見つかっています。

弥生時代の多くの住まいは、たて穴式住居です。

  • 金属器
銅鐸 (日本の青銅器)

大陸や朝鮮半島から米作りがつたわるととも)に、青銅器(せいどうき) や鉄器 などの金属器 が伝わりました。そして、日本でも弥生時代中に、金属器がつくられるようになりました。

青銅 とは、銅 と すず(金属のひとつ) とを溶かしてまぜあわせた金属でつくられた、合金 です。

青銅器には、銅剣 や、銅矛(どうほこ)銅鐸(どうたく)銅鏡(どうきょう) などがあります。

青銅器は、おもに祭りに使われました。一方、鉄器は、農具や武器などの実用品に使われました。


  • 登呂遺跡(とろいせき)
登呂遺跡。復元、竪穴式住居。

静岡県の登呂(とろ)遺跡 からは、たて穴式住居と、高床式倉庫 が見つかっています。水田の跡もあります。水路やあぜ道は、矢板 という板で、仕切られています。


  • 吉野ケ里遺跡(よしのがりいせき)
吉野ケ里遺跡,遠景

これは佐賀県吉野ヶ里町にあります。

まわりを(ほり) でかこまれた 環壕集落(かんごうしゅうらく) である。

人骨からは矢尻が刺さっているものも見つかっています。これらのことから、人々のあいだで争いがあったことが予想できます。

堀の内側からは、多くの高床倉庫が見つかっています。

おそらくは、米作りによって、食料生産が増えたので人口が多くなって、それぞれの集落で、多くの人口を養うために米の生産量を増やす必要が生じたため、土地や水が必要になり、なので、集落どうしで土地や水をめぐっての争いが起きたのだろうと思われています。

このような争いが、身分の差を作っていった理由の一つだとも思われています。

この吉野ケ里遺跡は、弥生時代を知る遺跡として、代表的な遺跡です。


『漢書』地理誌(かんじょちりし)[編集]

~中国の歴史書に見る日本~

この頃の日本にはまだ文字がありません。ですが、中国の王朝の国には、文字がありました。 その中国の歴史書から、日本の様子も、分かります。

中国の、今の中華人民共和国のあたりに、紀元前1世紀ごろの当時あった帝国の という国の歴史書の『漢書』の中の『地理誌』では、日本の弥生時代のころのようすについても、記述が書かれています。

(漢書にかかれた漢は、前漢である。前漢については後述。漢には、時代によって前漢と後漢がある。)

その頃、漢の人は日本を() と呼び、日本人を倭人(わじん)と呼んでいます。

漢書によると、そのころの、日本は、100あまりの国に分かれており、漢の王朝へ、定期的に貢物 を持って、あいさつ に やってくるそうです。 日本は、楽浪郡(らくろうぐん)(今の朝鮮半島) のむこうにあるようです。


中国の王朝の変化

漢も、最初からあったわけではありません。

() :古代文明の黄河(こうが)文明があったあと、しばらくして()という国がありました。
(いん) :そのあと、紀元前1500年ごろに、殷 という国が出きました。
(しゅう) :つぎに、紀元前1100年ごろに、周 が殷をほろぼします。
紀元前8世紀に、その周が分裂しました。
(しん) :紀元前221年に、秦 が統一しました
(かん) :その秦 が漢 に滅ぼされました。

漢は一度ほろびました。そのあと再び漢の王朝になったので、前漢 と後漢 とに分けられました。

さらに後漢が分裂しました。
三国時代 :多くの諸国の中から有力な勢力が三つ勝ち残った三国時代になりました。

三国時代とは、「三国志」などで有名な、()()(しょく) の三国の時代です。

三国の中で魏が、もっとも強く、最終的に魏が、三国を統一します。統一したあとの王朝の名は「魏」ではなく、別の名前なのですが、まだ覚えなくても良いです。

ここまで、国名だけを、まとめると

「殷 、周 、秦 、漢 、三国時代 」となります。


後漢の歴史書の『後漢書』東夷伝 (ごかんじょ とういでん)によると、倭の奴国(なこく)の王が、後漢に外交の使者をおくり、日本から漢に貢物を送ったことが記されています。 ()とは、100あまり、あった国のうちの一つだと、思われています。

金印 (きんいん) 。漢委奴国王印
金印の印文。漢委奴國王印文

漢の皇帝の光武帝(こうぶてい) は、日本の奴国王に金印を授けたといいます。

金印は、江戸時代の1784年に、今の福岡県の博多湾の志賀島(しかのしま)で、発見されています。金印の印の面には、文字がほられ、「漢委奴国王」と、ほられています。「漢委奴国王」は、「かん の わ のな こくおう」などと読みます。


邪馬台国(やまたいこく)[編集]

  • 『魏志』倭人伝 (ぎし わじんでん)

中国大陸の3世紀ごろの歴史書の 『魏志』倭人伝 では、日本の3世紀ごろは、国の数が30あまりになっていることが分かります。東夷伝では100あまりの国が、魏志倭人伝では30ほどの国まで減っているので、このあいだの長い年月に、統一が進んでいったことが分かります。

そして、日本にこれら30あまりの国を従えた 邪馬(やま)台国 がありました。邪馬台国は、名を 卑弥呼(ひみこ) という女の人物が治めていました。

倭人伝によると、倭 の国では、もともとは男の王をたてていたようですが、戦争が続いたので、卑弥呼を女王にしたようです。


邪馬台国の場所は、現在まだ不明であり、近畿説と九州説があります。 もし、倭人伝の記述どおりの方向に場所を特定しようとすると、九州の南の太平洋の海の上に出てしまい、倭人伝の方向の記述が、あてになりません。

邪馬台国の場所の有力な説は、九州北部にあったという説と、奈良県の大和(やまと)にあったという説です。

邪馬台国は、魏に、外交の使いを送ります。

卑弥呼は、魏の皇帝から、 親魏倭王(しんぎわおう)という称号の入った金印 と、そのほか、100枚の銅鏡と、絹の織物や、毛織物などを、日本は受け取りました。

倭人伝によると、卑弥呼の政治は、まじないや占いによるものだったようです。卑弥呼は、宮殿にこもりきりで、人々の前には、ほとんど姿を見せなかったようです。卑弥呼の弟が、宮殿に出入りをしていて、卑弥呼からの指示を人々につたえていたらしいです。実務は、弟など、卑弥呼でない人物が行っていたようです。

卑弥呼が死ぬと、大きな墓が作られ、また、100人あまりの奴隷(どれい) が、いっしょに埋められました。

倭人伝により、当時の日本の様子が分かります。 身分の差は、人々のあいだに、すでにありました。道端で身分の違う者どうしが出会うと、身分のひくい側のほうが道をゆずったといいます。

服装は、女性は貫頭衣(かんとうい) という、布のまんなかに、顔をだすための穴をあけただけの服を着ていたようです。

また、税の制度があると、倭人伝に書かれています。(いち)も、開かれているようです。

古墳(こふん)時代[編集]

前方後円墳。仁徳天皇陵(にんとくてんのうりょう)と思われている大仙(だいせん)古墳
大阪府堺市

3世紀から4世紀ごろになると、王や豪族の間で大きな墓が作られ始めました。 このような、大きな王などをほうむった大きな墓を 古墳 といいます。特に近畿地方や瀬戸内海の沿岸に見られました。

この、3世紀ごろの時代から、7世紀ごろまでの時代を 古墳(こふん)時代 と言います。

古墳には、いろいろな形のものがあります。円形に盛り上がった古墳を円墳と言います。四角く盛り上がった古墳を方墳と言います。円墳と方墳があわさったような、かぎ穴のような形の古墳を 前方後円墳(といいます。

大阪府の堺市にある 大仙(だいせん)(大山)古墳 は、日本で最大の面積の古墳です。

大仙古墳は、まわりが3重の(ほり)で、かこまれています。

ほかの場所でも、古墳が発見されています。代表的な古墳としては、

稲荷山(いなりやま)古墳…埼玉県
五色塚(ごしきづか)古墳…兵庫県
高松塚(たかまつづか)古墳…奈良県明日香村
江田船山(えだふなやま)古墳…熊本県

などがあります。

  • 古墳の副葬品
はにわ。武装男子立像
はにわ。馬形埴輪

古墳からは、鏡や玉、剣などの副葬品が、発見されている。他にも、はにわ(埴輪)という、土を焼いて作られた人型や馬型などの置き物が、発見されています。

大和朝廷[編集]

奈良県の大和(やまと)地方には、大きな古墳が多い。このことから、この大和の地方に、有力な勢力があったと、考えられている。この奈良地方の有力な豪族たちの政治勢力を 大和政権 といます。

この大和政権の政府を 大和朝廷(やまと ちょうてい) といい、その最高権力者を 大王(おおきみ) といいます。 大王(おおきみ)の一族は、後の天皇とよばれる一族である。


キビとイズモの王朝

当時の日本には、地方によっては、ヤマト政権の他にも有力な豪族の治める王国があった。今でいう島根県あたりの出雲や、今でいう岡山県あたりの吉備での、ヤマト以外の豪族たちの政権である。これらの政権を、大和朝廷や大和政権に対応して、出雲のほうは出雲政権とかイズモ政権とかイズモ王国、吉備のほうは吉備政権やキビ政権や吉備王国やキビ王国などと呼ぶこともあります。

最終的に、のちの時代に日本を支配することになったのは奈良を中心とする政権の大和朝廷である。

イズモ政権やキビ政権については、まだ学者たちが研究中のこともあり、よく分かっていないことが多い。


まんなかの剣が発掘された金錯銘鉄剣

埼玉県の稲荷山古墳から見つかった鉄剣には、ワカタケル大王の名が刻まれた文がありました。文を読むと、この地方の王は、ワカタケル大王に使えていたようです。

熊本県の 江田船山(えだふなやま)古墳 にも、おなじ名前の刻まれた鉄刀があり、ワカタケル大王の支配する領域が、関東地方から九州までの広い範囲に、およんでいたことが、分かります。

正確に言うと、当時はまだ漢字しか文字がなかったので、稲荷山の鉄剣には115字の漢字が刻まれており、その漢字の中に「獲加多支鹵(ワカタケル)大王」という名が、刻まれています。 

また江田船山古墳で発掘されたの鉄刀には、「獲□□□鹵大王」と, 一部が読めなくなっていますが、同じ名前が刻まれています。

後の日本の神話の書の『古事記』や、後の歴史書の『日本書紀』などから「ワカタケル」という人物の存在が知られているので、鉄剣などがワカタケルの存在を裏付ける証拠になったのです。日本書紀に「幼武(わかたけ)天皇」という記述があるのです。 ワカタケル大王とは、 雄略(ゆうりゃく)天皇 だということが分かっています。

  • 氏と姓

日本国内では、日本国内での大和朝廷による勢力拡大が進むにつれ、豪族において、(うじ)(かばね)とによる、後の氏姓制度が作られました。

は、主に、血のつながった者どうしの集団で, たとえば, 蘇我氏(そがし)物部(もののべ)氏・大伴(おおとも)氏などが, とは、政治の地位による称号で、たとえば「(おみ)」や「(むらじ)」という姓があります。

  • 渡来人

5世紀ごろ、朝鮮半島や中国大陸から、多くの人が日本に渡ってきて、日本に移り住んだ。このように、古い時代に外国から日本に移り住んだ人たちを 渡来人(とらいじん) といいます。

この5世紀頃の渡来人により、外国の文化が日本に多く伝わりました。


  • 漢字が日本に伝わりました。
  • 儒教(じゅきょう) が伝わりました。儒教とは、中国の孔子(こうし)が始めた、政治や道徳の思想です。
  • 用水路の土木技術や、(はた)織りの技術、農具や工具や武器などをつくる技術など、新しい技術も、日本に伝わります。


  • 仏教の伝来

また、538年に 仏教も、外国から伝わりました。 仏教は、紀元前5世紀ごろのインドで、 釈迦(しゃか)が始めました。


飛鳥(あすか)時代[編集]

聖徳太子(しょうとくたいし)の登場~

聖徳太子のころ
年令 太子の行ったこと 社会のできごと
6世紀
豪族どうしが争う
574 1才 聖徳太子が生まれる
蘇我(そが)氏が権力をにぎる
589 (ずい)が中国を統一する
593 20才 聖徳太子が摂政となる
7世紀
603 30才 冠位十二階を定める
604 31才 十七条の憲法を定める
607 34才 小野妹子を遣隋使として送る
618 隋がほろんで(とう)となる
622 49年 聖徳太子がなくなる
645 大化の改新

日本では、6世紀ごろから 豪族の影響力が強まり, 豪族同士の戦いや争いも出てきました。

後に、蘇我(そが)氏が物部(もののべ)氏と争います。 蘇我氏は、仏教などの渡来人の伝える外国文化の受け入れに積極的でした。いっぽう、物部氏は、仏教には反対でした。

聖徳太子が描かれた肖像画。まんなかの、一番、背の高い人物が聖徳太子。

推古天皇は、摂政(せっしょう)として聖徳太子(しょうとく たいし)という人物をたて、聖徳太子に、朝廷の強さをますための、あたらしい法律や政治のしくみをつくらせる。 摂政とは、天皇のかわりに、政治の実務を行なうものです。天皇がなんらかの理由で政治の実務が行えない時に、摂政が、たてられます。歴史的には、天皇が幼い場合や、天皇が女性の場合に、摂政がたてられることが多いです。

聖徳太子は 厩戸皇子(うまやどの おうじ) とも言われます。


聖徳太子は蘇我馬子と協力し、これらの改革をすすめました。


聖徳太子らによる改革では、冠位十二階の制と、十七条の憲法(じゅうななじょう の けんぽう)があります。

  • 冠位十二階の制(かんいじゅうにかい の せい)

冠位十二階の制は、家柄に関係なく有能な役人を採用するための制度です。能力や手柄(てがら)によって、役人に位(くらい)が与えられます。位は、一代かぎりです。 役人の位を12段階に分けたので、このような名前で呼ばれます。これ以前は、家柄によって位が与えられたのが、あらためられました。

  • 十七条の憲法(じゅうななじょう の けんぽう)

役人の心がまえを、記したものです。豪族などに対して、役人としての心がまえを述べたものでしょう。

内容を現代風に訳すと、およそ、次のようなことが書かれています。

1条 :争いをやめ、なかよくしなさい。
2条 :仏教を保護しなさい。
3条 :天皇の命令には、したがいなさい。
12条 :百姓(ひゃくしょう)などの民(たみ)から、かってに税や貢物(みつぎもの)をとっては、いけません。
17条 :重要なことを決めるときには、話し合いで決めなさい。

その他にも、いろんなことが書かれていて、全部で17条あるので、十七条の憲法と言います。 もともとの文は漢文で書かれています。この聖徳太子の時代には、まだ、ひらがなが、ありません。のちの歴史書の『日本書紀』(にほんしょき)に、十七条の憲法の原文があります。

原文は、けっこう長いです。

(小学生は、原文をおぼえなくてもいいです。)

原文に、読みやすいように送り仮名をつけ、記述の一部を抜粋(ばっすい)すると、

一(いち)に曰く(いわく)、和(わ)を以て貴し(とうとし)と為し(なし)、忤(さか)ふること無きを宗(むね)とせよ。(後略)
二に曰く、篤く(あつく)三宝(さんぽう)を敬へ(うやまえ)。三宝とは仏(ほとけ)・法(のり)・僧(ほうし)なり。(後略)
三に曰く、詔(みことのり)を承り(うけたまわり)ては必ず謹(つつし)め、君をば天(あめ)とす、臣をば地(つち)とす。(略)

(中略)

十二に曰く、国司(くにのみこともち)・国造(くにのみやつこ)、百姓(おおみたから)に斂る(おさめる)ことなかれ。国に二君(ふたりのきみ)非(な)く、民に両主(ふたりのあるじ)無し、率土(くにのうち)の兆民(おおみたから)、王(きみ)をもって主となす。(略)

(中略)

十七に曰く、夫れ事独り断むべからず。必ず衆(もろもろ)とともに宜しく論(あげつら)ふべし。(後略)

といったふうに、書かれています。

十七条の憲法は、「憲法」と言っても、現代の日本の「日本国憲法」(にほんこく けんぽう)のような、他の法律の基本となる民主主義の理念や、日本国の国家理念がふくまれたものとは、ちがうので、混同しないでください。



聖徳太子らの行った重要な政策には、外交政策も、あります。中国を支配していた(ずい)という帝国(ていこく)との外交です。ある国と、別の国とが、政治の取り引きをすることを外交と言います。

607年に、外交の使者として 小野妹子(おののいもこ)たちを 隋に送りました。遣隋使(けんずいし)の派遣(はけん)です。

なお、小野妹子は男です。

(ずい)に外交の使者を派遣するので「遣隋使」といいます。

外交の結果、日本は隋と国交を結びます。国交とは、それまで、つきあいのなかった2つの国どうしが、平和に、かかわりを持ち始めることです。 また、隋の文化や制度は日本よりも進んでいたので、多くの文化や制度を、日本は取り入れます。

隋と国交をむすぶとき、日本は、隋と日本とを対等の立場で、国交を結ぼうとします。そして、対等の立場で国交をむすぶことに、日本は成功します。

それ以前の外交では、中国大陸の帝国には、周辺国が貢物を持ってきて、中国の帝国の属国として外交をむすぶことが、ふつうでした。

当時の隋は、朝鮮半島の高句麗(こうくり)と敵対していたので、高句麗と日本が協力することを恐れたのだろう、と言われています。


隋の歴史書である『隋書』(ずいしょ)に、この妹子との外交に関する記述があります。

(小学生は原文を覚えなくてもいいです。)
隋の皇帝である煬帝(ようだい)。真ん中の人物が楊帝。

隋の皇帝へと、小野妹子が差し出した国書(こくしょ)には、

「日出ずる処(ひ いずるところ)の天子(てんし)、書(しょ)を日(ひ)没する処(ぼっするところ)の天子に致す(いたす)。恙無きや(つつがなきや)」 ※おぼえなくて良い

(原文 :日出處天子致書日沒處天子無恙) ※おぼえなくて良い

とあります。両国とも「天子」(てんし)という表現を用いていることに注目してください。つまり、日本の天皇と、中国大陸の皇帝を、同じ地位(ちい)と見ているわけです。

ほかにも、日本のことを「日出ずる処」と書いて、隋(ずい)を「日没する処」と書いてあります。

当初、この日本からの国書を読んだ隋の皇帝の煬帝(ようだい)は、日本を無礼な国だと思い激怒したといいます。

『隋書』には、漢文で書かれています。これを日本語に読み下すと

訳 :帝は国書を読んだが、不満であった。部下の外交官に言うには「日本からの書は、無礼である。二度と私に日本からの国書を見せるでない。」

と、なります。

ですが、隋の皇帝・煬帝(ようだい)は高句麗との戦争を有利にすすめるため、隋は日本に良い待遇をしたのです。

日本の側も、隋と高句麗都との敵対した情勢に関する情報をつかんでおり、その情勢を利用して外交での交渉に利用したのです。


飛鳥文化[編集]

聖徳太子が政治をおこなっていた時期でもある7世紀ごろ、今でいう奈良県である飛鳥地方に都が置かれていました。この時代のことを 飛鳥時代(あすかじだい) といい、この時代の文化を 飛鳥文化(あすかぶんか) といいます。

この飛鳥文化は仏教を中心とした文化である。

  • 法隆寺
法隆寺。金堂と五重塔
法隆寺の釈迦三尊像(金堂)

聖徳太子は、法隆寺を、607年に、建てさせます。法隆寺の場所は、今でいう奈良県にあります。法隆寺は、現存する木造建築の中で、世界最古の木造建築です。法隆寺は、世界文化遺産に1993年に登録されました。

法隆寺には、 釈迦三尊像(しゃか さんぞんぞう) や 百済観音像(くだらかんのんぞう) 、おさめられている。

玉虫厨子

そのほか、法隆寺には絵画の玉虫厨子(たまむしのずし)など、多くの美術品が、おさめられている。


法隆寺の柱は、円柱の中央が、ふくらんでいる。これはギリシア建築に多く見られる特徴でエンタシスという特徴である。

その他、唐草文様などが美術品に見られるが、唐草文様の発祥はギリシアである。

これらのことから、ギリシアや中東の美術文化が、おそらくは中国大陸を通して、日本に美術文化が入って来ていることが分かる。


さて、聖徳太子は、四天王寺(してんのうじ)も、建てさせます。場所は、今でいう大阪府です。



飛鳥時代の、ほかの寺では、広隆寺(こうりゅうじ)の弥勒菩薩像(みろく ぼさつぞう)も、飛鳥時代の仏像として有名である。


聖徳太子の死後[編集]

622年に、聖徳太子が、死にます。 聖徳太子の死後は、蘇我氏が権力が強まります。 蘇我馬子(そがのうまこ)も、626年に、なくなります。

まず、蘇我馬子の子である蘇我蝦夷(そがの えみし)の権力が、強まります。さらに、馬子の孫であり、蝦夷の子である蘇我入鹿(そがのいるか)の権力が強まります。

643年に、蘇我入鹿は、山背大兄王(やましろのおおえのおう)という聖徳太子の子である人物と、山背大兄王 の一族を滅ぼします。

このような強権的な蘇我氏に対して、豪族たちからの不満が高まります。


  • 乙巳の変(いっしのへん)  ※ 小学生は、おぼえなくて良い。

645年に、ついに、皇族の中大兄皇子(なかのおおえの おうじ)と、豪族の中臣鎌足(なかとみの かまたり)(藤原鎌足)との協力により、蘇我入鹿は殺害されます。蝦夷は、この事件を知り、自殺します。

この蘇我氏の死亡した事件を 乙巳の変(いっしのへん) という。 (※ 小学生は、おぼえなくて良い。)

  • 大化の改新(たいか の かいしん)

このあと、中大兄皇子らが権力を取り、政治改革を色々と行なう。この皇子らの改革を 大化の改新(たいか の かいしん) という。645年に年号(ねんごう)を「大化」(たいか)に定めたので、この一連の改革は大化の改新と呼ばれています。 「大化」という年号により、日本では、はじめて年号が定められます。年号をさだめることは、中国大陸の帝国を参考にしたのです。

645年の覚え方には、「虫殺し」(むしごろし、645ろし)と覚える語呂合わせ(ごろあわせ)が、あります。

645年 :大化の改新 虫殺し(645ろし)

645年の一連の事件により、皇極天皇(こうぎょくてんのう)は退位して、皇極元・天皇の弟の孝徳天皇(こうとくてんのう)が645年に天皇になります。

改新の詔[編集]

(かいしん の みことのり)

中国大陸では、すでに618年に隋(ずい)が滅んでおり、(とう)という帝国になっていた。日本も、これに対して、政治改革をする必要があった。

さて、改革の内容はと言うと・・・

646年に改新の詔(かいしん の みことのり)が出されます。これは改革内容の方針や目標を表したものです。この詔の発見は『日本書紀』で発見されています。

改革の内容は、以下の、公地公民(こうちこうみん)、班田収授(はんでんしゅうじゅ)、租(そ)・庸(よう)・調(ちょう)、国司(こくし)の設置(せっち)、です。


  • 公地公民(こうちこうみん)

これまでは豪族や皇族たちが持っていた土地は、すべて朝廷のものになります。豪族や皇族が持っていた人民も、朝廷が持つことになります。この命令が公地公民(こうちこうみん)です。朝廷が管理できない土地の存在を禁止します。同様に、朝廷が管理できない住民の存在も禁止します。


  • 班田収授(はんでんしゅうじゅ)

人民の戸籍(こせき)を作り、人民に耕作をさせるための口分田(くぶんでん)という田を与え耕作させます。

この当時の戸籍とは、人民をひとりずつ、公文書に登録することで、住所や家族の名や年齢、家の世帯主、などを把握することです。

この飛鳥時代に、すでに「戸籍」という言葉がありました。

このような情報の管理は、税をとることが目的です。税の台帳である計帳(けいちょう)をつくるため、戸籍が必要なのです。

現在の日本での戸籍とは、「戸籍」の意味が少しちがうので、注意してください。「計帳」という言葉は、この飛鳥時代の言葉です。詔の本文に書かれています。

詔の本文に、「初造戸籍計帳班田収授之法。」とあります。現代風に読みやすく区切りを入れれば、「初 造 戸籍 計帳 班田収授之法。」とでも、なりましょう。


目的は、収穫から税収をとるためです。前提として、公地公民が必要です。 6年ごとに人口を調査します。 税を取るにも、まずは人口を正しく把握しないと、いけないわけです。女にも、 口分田が与えられます。

原則として、6才以上の男に2反(720歩=約24アール)の田を与え、女(6才以上)には男の3分の2(480歩=約16アール)の田を与えています。5才以下には与えられません。

死んだ人の分の田は、国に返すことになっていました。


  • 租(そ)・庸(よう)・調(ちょう)
一般の人々の負担
 種類 内容
 税  収穫(しゅうかく)の約3%の稲(いね)
調 地方の特産物(糸、きぬ、わた、塩、
魚、海そう、鉄、・・・)などを納める。
麻の布を納める。(労役の代わり。)

 兵 
 役 
防人 九州北部で兵士を3年。

税(ぜい)の種類です。

祖(そ)とは、田の収穫量の、およそ3%を、国に納めよ(、という税です。 調(ちょう)とは、絹(きぬ)や、地方の特産物を、国に納めよ、という税です。

庸(よう)とは、都に出てきて年10日以内の労働をせよという労役(ろうえき)か、または布を納めよ、という税です。

前提として、公地公民(こうちこうみん)や班田収授(はんでんしゅうじゅ)などが必要です。

この他、防人(さきもり)という、九州で警備(けいび)の兵士をする、兵役(へいえき)の仕事がありました。租庸調(そようちょう)を都に運ぶ負担も、他の農民たちの負担でした。

この防人のつらさを歌った歌として、つぎのような歌が、残っています。

 さきもりの歌  ( 『万葉集』(まんようしゅう)より )

 唐衣(からころも) 裾(すそ)に取りつき 泣く子らを 置きてそ来ぬや 母(おも)なしにして


(現代語訳) 唐衣の 裾(すそ)に、すがって 泣きつく子どもたちを (防人に出るため)置いてきてしまったなあ、 (あの子たちには)母もいないのに


  • 国・郡・里

政府の組織や、地方行政の組織にも、改革が加わります。 まず、日本全国をいくつかの 国(くに) に分けて管理し、国は郡(こおり)に分けられ、郡は里(さと)に分けられます。

      国 (国司)
      ┃
      郡 (郡司)
      ┃
      里 (里長)

国には、中央の朝廷から、国司(こくし)という役人が派遣され、この国司によって、それぞれの国が管理されます。

郡を管理する役職は、郡司(ぐんじ)という役職の役人に管理させます。たいて、その地方の豪族が郡司です。


国際情勢[編集]

7世紀のなかばになると、朝鮮半島で戦乱が起きます。 660年に百済(くだら)が、 新羅(しらぎ) という国に滅ぼされます。 朝鮮半島には百済という国があって、その百済は、日本とは親しかったのでした。

新羅は、唐(とう)の協力を、えています。

  • 白村江の戦い(はくすきのえ の たたかい)

日本は百済を復活させるため、新羅と戦争をします。663年に、中大兄皇子の指導により朝鮮半島に軍を送り、日本 対 新羅の戦争が起きます。これが白村江の戦い(はくすきのえ[はくそんこう] の たたかい) です。新羅と唐の連合軍に、大敗しました。

なお、後に新羅は676年に高句麗(こうくり)も滅ぼし、朝鮮半島を統一することになります。


日本国内の強化[編集]

白村江の戦い にやぶれた日本は、国内の政治に集中します。中大兄皇子は、唐と新羅の攻撃にそなえるため、九州の防備を強化します。九州北部に 防人(さきもり) という防衛のための兵士たちを置き、水城(みずき)という土塁(どるい)と濠(ほり)を作ります。さらに北九州や瀬戸内海周辺の西日本の各地に山城(やまじろ)を作ります。


667年に、中大兄皇子は都を移します。奈良の飛鳥(あすか)から、今でいう滋賀県である近江(おうみ)に都を移します。大津宮に都が移ります。 この都を近江(おうみ)にうつしたことも、攻撃に備えてなのかもしれません。近江は、飛鳥よりも内陸にあります。


668年に中大兄皇子は天皇として即位し、天智天皇(てんじ てんのう)になります。

668年に、法典である 近江令(おうみりょう) が出来ます。天智天皇が中臣鎌足に命じ、役人たちに編纂(へんさん)させたものです。

全国的な戸籍である 庚午年籍(こうごねんじゃく) が作成されます。


  • 壬申の乱(じんしんのらん)

天智天皇がなくなると、天皇の座をめぐり、天智の弟の大海人皇子(おおあまのおうじ)と、天智の子の大友皇子(おおとものおうじ)とが、672年に争い戦争になる。これを 壬申の乱(じんしんのらん) という。大海人皇子が勝ち、大海人皇子が 天武天皇(てんむてんのう) になる。

天武天皇の死後、皇后の持統天皇(じとうてんのう)が即位します。持統天皇は、都を奈良に移し、藤原京(ふじわらきょう)を建設させます。

大宝律令[編集]

(たいほう りつりょう)

701年の文武天皇(もんむてんのう)のときに、 大宝律令(たいほうりつりょう) という法典が完成する。この大宝律令を編纂(へんさん)した人物は、藤原不比等(ふじわらの ふひと) らが中心に編纂(へんさん)した。藤原不比等は、中臣鎌足(なかとみのかまたり)の子である。

「律」は罪人をさばくためのい刑法で、「令」(りょう)は役所や役人などに対する法律です。

政府の中央組織には 二官八省(にかんはっしょう) が置かれた。

二官には、紙をまつる宗教を行なう神祇官(じんぎかん)と、一般の政務をおこなう太政官(だじょうかん)がおかれた。

太政官の下に、大蔵省などの八省が置かれた。

班田収授や、租庸調(そようちょう)も定められた。

         
           ┏━━中務省
   ┏━太政官━━━╋━━式部省
   ┃       ┣━━民部省
天皇━┫       ┣━━兵部省
   ┃       ┣━━刑部省
   ┃       ┣━━大蔵省
   ┗━神祇官   ┣━━宮内省
           ┗━━治部省

中務省(なかつかさしょう)の仕事は、詔(みことのり)や勅(ちょく)の作成。
式部省(しきぶしょう)の仕事は、役人の人事や教育。
民部省(みんぶしょう)の仕事は、戸籍や租税。
兵部省(ひょうぶしょう)の仕事は、軍事や警備。
刑部省(ぎょうぶしょう)の仕事は、刑罰や裁判。
大蔵省(おおくらしょう)の仕事は、物資の管理や財政。
宮内省(くないしょう)の仕事は、宮中の事務や庶務。
治部省(じぶしょう)の仕事は、儀式や外交。

奈良(なら)時代[編集]

平城京 条坊図
平城京 条坊図












文武天皇(もんむてんのう)のつぎの天皇である元明天皇(げんめいてんのう)の時代に、都が移る。710年に、奈良の 平城京(へいじょうきょう) へと移る。藤原京から平安京に移る。

年号をおぼえる語呂合わせは「なんと(7、10)、うつくしい(きれいな)平城京」。

794年に平安京(へいあんきょう)に都が移るまで、この平城京が都である。平城京に都があった710年から80年間ほどの時代を奈良時代(ならじだい) と言う。

平城京は、道の通りが碁盤目(ごばんめ)のように、区画(くかく)が整理されています。このような、碁盤目のような区画のつくりを 条坊制(じょうぼうせい) と言います。

和同開珎

経済では、この奈良時代の都では、和同開珎(わどうかいちん)という貨幣が708年に発行され、流通していました。 これより古い貨幣には、7世紀後半の天武天皇の頃に富本銭(ふほんせん)という貨幣がつくられています。

  • 税について。墾田永年私財法(こんでん えいねん しざい の ほう)

農民は貧しく(まずしく)、多くの農民は竪穴住居に住んでいた。また、人口が増えたので口分田は不足した。税の負担は重く、口分田を捨てて逃げ出す農民が増えた、

朝廷は税を増やすため、田を増やす必要があり、そのため、法律を変え、開墾した3代にわたり、田を所有できるように法を制定した。これが 三世一身の法(さんぜい いっしん の ほう) であり723年の出来事である。

さらに743年には、期限が無く所有し続けられる 墾田永年私財法(こんでん えいねん しざい ほう) が制定された。

これは、つまり公地公民の原則を廃止したことになる。

また、貴族や豪族は、これを利用し、私有地を広げた。この貴族の私有地は、のちに 荘園(しょうえん) と呼ばれることになる。

  • 古事記、日本書紀

712年に『古事記』(こじき)という天皇家や貴族などにつたわる神話の時代をまとめた書が、できます。この『古事記』は、天武天皇により編纂が命じられ、712年に完成しました。

『古事記』は、稗田阿礼(ひえだのあれ)が、暗記していた神話や歴史を、太安万侶(おおのやすまろ)が3巻の書にまとめた書です。

神話の時代から推古天皇にいたるまでの出来事が古事記に書かれています。


また、日本の歴史書の『日本書紀』が720年に完成します。神話の時代の伝説から、7世紀末ごろの持統天皇にいたるまでの国家と天皇の歴史を書いた、歴史書のような書です。

日本書紀の編纂は、時代順に出来事を書く編年体(へんねんたい)で記述しています。

日本書紀は、舎人親王(とねりしんのう)らが、全30巻にまとめています。

大仏づくり[編集]

聖武天皇のころ、飢饉(ききん)がつづいたり、貴族の反乱が起きたりします。

東大寺盧舎那仏像

737年には病気の天然痘(てんねんとう)が流行り、多くの死者が出る。 740年には、九州で、貴族の藤原広嗣(ふじわらのひろつぐ)による反乱も起きた。 政治が不安定になる。 また、人口が増えて公地公民が上手くいかなくなってきた。

聖武天皇は、仏教の力に、すがる。

まず741年に国ごとに 国分寺 (こくぶんじ)と 国分尼寺 (こくぶんにじ)を建てさせる。

都には 東大寺 (とうだいじ)を建てさせた。

743年に、東大寺の本尊(ほんぞん)として大仏を作らせる。

東大寺の大仏は、盧遮那仏(るしゃなぶつ)という仏です。 ※おぼえなくて良い。


行基(ぎょうき)という僧(そう)がいました。彼は、民衆のために用水の池や端をつくったりしながら、諸国をまわって教えをといていたので、民衆に、したわれていました。 しかし、朝廷は、はじめは、行基の行動をとりしまります。当時は、民衆への仏教の布教が禁止されていたし、寺の外での活動も禁止されています。 朝廷からは、おそらく行基は、民衆をそそのかす危険人物だろう、と思われていたのです。


さて、大仏を作るのは、とても多くの労働力を必要とするので、朝廷には、民衆の支持が必要でした。このため、民衆に慕われていた僧の行基(ぎょうき)の活動を認めます。

遣唐使と鑑真[編集]

(けんとうし と がんじん)

中国大陸の帝国が唐にかわっても、かつての遣隋使(けんずいし)と同様に、日本から中国の唐に、外交の使者の (けんとうし)遣唐使 を送ります。

遣唐使は、奈良時代のあいだは、おこなわれています。

のちの時代の平安時代に遣唐使は廃止されます。奈良時代には、まだ遣唐使は廃止されません。

717年に唐にわたった 阿倍仲麻呂(あべのなかまろ) や、仲麻呂と供に唐にわたったこともある 吉備真備(きびのまきび) が遣唐使として有名です。

なお、最初の遣唐使として630年に唐に派遣された犬上御田鍬(いぬがみ の みたすき)は、最後の遣隋使でも、あります。

阿倍仲麻呂は、日本に帰ろうとして乗った船が難破(なんぱ)し、日本に帰れず、最終的に唐の皇帝に仕えることになります。

吉備真備は日本に帰れます。吉備真備は2回も唐にわたり、日本に帰れます。

  • 鑑真(がんじん)
鑑真和尚像

日本の朝廷らは、唐の有名な僧の 鑑真(がんじん) に、日本でも仏教をひろめてほしいと、鑑真を日本へ招き(まねき)ます。この招きを受け、鑑真は日本への渡航をおこないますが、5回も失敗し、6回目で日本に着きます。6回目で日本についたころには、鑑真は失明しています。海の水しぶきをあびつづけることは、目に悪いのです。

鑑真は、奈良に 唐招提寺(とうしょうだいじ) を開きました。

天平文化[編集]

(てんぴょう ぶんか)

奈良時代の文化は、仏教の影響と、唐との交流の影響が、特徴(とくちょう)です。 とくに、聖武天皇の治めた 天平(てんぴょう) の年号の時代に、この傾向が強いので、この奈良時代の文化を 天平文化(てんぴょうぶんか) と言います。

正倉院正倉
校倉造(あぜくらつくり)。正倉院の宝物庫は、三角形の断面の木を組み合わせたつくりの校倉造で、つくられている。

東大寺にある 正倉院(しょうそういん) には、奈良時代の美術品や、聖武天皇が日用した道具などが収められています。

※ 有名な宝物で「螺鈿紫檀五絃琵琶」(らでんしたんごげんのびわ、図参照)や「瑠璃杯」(るりのつき)が保存されているのですが、ウィキペディアに画像がありません。外部サイトや参考書で、画像をお探しください。


宝物には、ギリシャやペルシャ、インドなどから運ばれてきたものもある。シルクロードという中国大陸からヨーロッパまでの貿易の通路を通ってきた宝物である。後世の言い方だが正倉院のことを「シルクロードの終着駅」とも例える。

(※ 赤漆文欟木御厨子〜蘇芳地金銀絵箱蓋は、おぼえなくて良い。)

文学では、和歌(わか)をまとめた万葉集(まんようしゅう)が759年ごろから編纂(へんさん)されます。 貴族の作った和歌だけでなく、農民や防人などの様々な身分の者が作ったと思われる和歌も収録されています。

合計で4500首の歌が収録されています。

貴族の歌人では、柿本人麻呂(かきのもとのひとまろ)や大伴家持(おおとものやかもち)、山上憶良(やまのうえのおくら)、山部赤人(やまべのあかひと)などが有名です。

万葉集の文字の読みは、万葉仮名(まんようがな)という、漢字の音で日本語を表す読みです。たとえば、次のような句を次のように読みます。

(万葉仮名文)去來子等 早日本邊 大伴乃 御津乃濱松 待戀奴良武 (※ おぼえなくて良い。)
(訓)いざ子ども 早く日本(やまと)へ 大伴(おおとも)の 御津(みつ)の浜松(はままつ) 待ち恋ひぬらむ(まちこいぬらん) 

平安(へいあん)時代[編集]

貴族がさかえた時代
かつての天平文化の仏教保護の政策などにより、仏教の僧や寺院の影響力が強くなる。

のちの天皇や朝廷は、これらの仏教勢力を嫌がり、そのため、桓武天皇(かんむてんのう)により、寺院の多い現在でいう奈良県から京都府へと都をうつす。まず784年に京都府の 長岡京(ながおかきょう) にうつす。さらに794年に京都府の 平安京(へいあんきょう) にうつす。

 鳴くよ(794、なくよ) ウグイス 平安京[1]


「ホーホケキョー」とウグイスは鳴きますが、それと「へいあんきょう」をかけたダジャレの語呂合わせ(ごろあわせ)です。

平安時代(へいあんじだい)の当時に、こういうダジャレがあったわけでは、ありません。現代の私たちが、歴史上の出来事のおきた年をおぼえるための語呂合わせ(ごろあわせ)です。

奈良から平安京への寺院の移転は禁止されます。


他にも、社会の変化で、もはや、公地公民による昔の政治が上手くいかなくなり、政治のしかたを改める必要もあったのだろう。

平安京に都を移してから約400年間は、政治の中心地は平安京だったので、この時代を 平安時代(へいあんじだい) という。

くわしくいうと、後に1192年に武士である源頼朝が権力をにぎる鎌倉幕府(かまくら ばくふ)ができますが、794年から1192年までを平安時代と言うことが多い。

なお、平安時代より、あとの武士による政治の時代になっても、都は平安京のままです。明治時代に東京に都が移るまでは、平安京が日本の都でした。平安京のつくりは、唐の都である 長安(ちょうあん) を、参考にしています。

桓武天皇は、公地公民が上手くいかない理由の一つである、税負担の重さに改革の手をつけます。 税負担の重さを減らしました。

雑用(ぞうよう)の日数を60日から30日に減らします。

また、桓武天皇の政権は、東北地方に支配を広げます。

東北地方の 蝦夷(えみし) とよばれる人々は朝廷の支配に反対し、たびたび反乱を起こしていました。朝廷は 坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ) という人物を 征夷大将軍(せいいたいしょうぐん) という役職(やくしょく)に任命し(797年)、彼に東北の平定を命じ、東北の平定のため、東北に兵を送らせます。

蝦夷の族長はアテルイ(阿弖流為)という人物で、アテルイの兵力と、対する田村麻呂らの朝廷軍との戦いです。 結果的に、田村麻呂の側が勝ちます。つまり朝廷の側が勝ちます。

アテルイは負け、802年に降伏(こうふく)します。アテルイは平安京に連行されたのち、京にて処刑されます。 田村麻呂は、アテルイの命を助けるよう減刑をもとめましたが、貴族たちの反対により、アテルイは処刑されました。

東北での戦争のさい、胆沢城(いさわじょう、場所は岩手県) などが田村麻呂らにより築かれ、朝廷による東北支配の拠点になります。


  • 仏教界の変化
最澄
空海

平安時代に入り、奈良時代の仏教とは、変化をした。天台宗 (てんだいしゅう)や真言宗(しんごんしゅう)という新しい宗派(しゅうは)ができ、それが広まった。奈良時代の仏教とはちがい、新しい平安時代の宗派は、山奥(やまおく)で修行(しゅぎょう)をしたりする仏教である。

僧の最澄(さいちょう)と僧の空海(くうかい)による、新しい仏教の考え方が広まった。おそらくは朝廷が、奈良時代の政治に深く介入した従来の仏教勢力をきらい、かわりに新しい宗派を保護したのだろう。

最澄も空海も、遣唐使と共に唐にわたり留学し、唐の新しい仏教の教えを学んできた僧である。

最澄は805年に日本に帰国し、比叡山(ひえいざん、滋賀県にある。)に 延暦寺(えんりゃくじ) をたて、天台宗 (てんだいしゅう)をひろめた。最澄は伝教大師(でんきょうだいし)とも言われます。

空海は806年に帰国し、高野山(こうやさん、和歌山県にある。)に 金剛峯寺(こんごうぶじ) をたて、真言宗(しんごんしゅう)をひろめた。空海は 弘法大師(こうぼうだいし)のことです。ことわざの「弘法も筆のあやまり」(こうぼうもふでのあやまり)の弘法大師のことです。

比叡山と言い、高野山と言い、ともに山であることに注目もしよう。朝廷の、仏教の政治介入をきらう事とも、つじつまがあう。

  • 荘園(しょうえん)

奈良時代に墾田永年私財法により、開梱した土地の所有が認められるようになったので、貴族たちや寺社は農民らに開墾をさせ、貴族の所有する土地を広げていった。この貴族の所有する私有地が 荘園(しょうえん) である。

また、平安時代に、貴族や寺社の所有する荘園には税をおさめなくてもよいという、貴族につごうのいい権利が出来た。 税を収めない権利を不輸の権(ふゆのけん)と言い、荘園への役人の立ち入りを拒否(きょひ)できる権利を不入の権(ふにゅうのけん)といいます。 これら不輸不入の権もあり、貴族の荘園は、どんどんふえていき、朝廷の税収は減るので財政は悪化し、律令政治が上手くいかなくなります。

有力な貴族でない者の荘園は国司に取り上げられたり、他の豪族にうばわれることもあったので、そのような有力でない者は、朝廷の有力な貴族に、形式的だが荘園を寄付した。これを寄進(きしん) という。


  • 摂関政治(せっかんせいじ)

9世紀の中頃になると藤原鎌足(ふじわらのかまたり、中臣鎌足のこと。)の子孫の一族の藤原氏(ふじわらし) が、権力を強めます。

藤原氏の一族は、代々、娘を天皇の妃(きさき)にしています。 すると、藤原氏は天皇の母方の親戚(しんせき)ということになるので、藤原氏の権力が強まる、という仕組みで、さらに権力を強めました。

藤原道長(ふじわらの みちなが)

藤原氏の一族では、とくに11世紀の前半に 藤原道長(ふじわらの みちなが) と、道長の子の藤原頼通(ふじわらのよりみち)らの親子が権力をにぎっていた時代が、もっとも勢力が、さかんでした。

道長が有名なので、よく、教科書などに道長が取り上げられますが、藤原氏の権力は、べつに11世紀に急に強まったわけではなく、9世紀ごろから藤原良房(ふじわらのよしふさ)が摂政になったりなど、すでに藤原氏の勢力が強かったです。皇族以外で摂政になったのは、良房が、はじめてです。

天皇が幼いときは、藤原氏の者が摂政になり政治の実権(じっけん)を握り、天皇が成人しても藤原氏は関白(かんぱく)という地位になり実権をにぎり、政治を行いつづける、という手法で権力を強めました。このような摂政や関白として政治を行なうという政治の方法を 摂関政治(せっかん せいじ) といいます。

道長の読んだ歌で、つぎの歌があります。

「この世(よ)をば わが世とぞ思ふ(おもう) 望月(もちづき)の 欠けたることも なしと思へば(おもえば)」

意味は、「この世は 自分(道長)のためにあるようなものだ 望月(=満月)のように 何も足りないものはない」という意味です。

藤原実資(ふじわら さねすけ)の日記。
寛永2年(1018年)、今日は道長さまの娘さまの威子(いし)さまが、中宮(ちゅうぐう)になられる日である。道長さまが私(=日記の作者。実資)を呼んで、こう、いわれた。
「和歌をよもうと思う。君もかならず歌をかえしたまえ。」と言われた。
私は返事をして「きっと歌をかえしましょう。」と答えた。
つづけて、道長さまはこう言われた。「自慢(じまん)の歌なのだよ。べつにあらかじめ作っておいた歌では無いがね。」と。
そして、歌をよまれた。「この世をば 我が世とぞ思う 望月の 欠けたることも なしと思わば。」と。
私は答えた。「とても、すばらしい歌です。かえす歌も作れません。(道長いがいの)みんなで、このお歌を唱和するのがよろしいでしょう。」ともうしあげた。みんなも、私の言葉におうじ、この歌を唱和した。道長さまは、たいそう気をよくして、歌をかえさなかった私をせめなかった。
(『小右記』(しょうゆうき)より。藤原実資(さねすけ)の日記。一部分。)


平等院 鳳凰堂

道長の子である藤原頼通(ふじわらの よりみち) は、平等院鳳凰堂(びょうどういんほうおうどう)を、たてさせています。十円玉に描かれている、あの建物(たてもの)は、平等院鳳凰堂の絵です。

10円

平安時代の文化[編集]

  • 遣唐使の廃止と、国風文化

まず、894年に、遣唐使が廃止されます。

:語呂合わせ:白紙(はくし、894)に戻そう(もどそう) 遣唐使
菅原道真(すがわらの みちざね)

菅原道真(すがわらの みちざね)の進言によります。


遣唐使の廃止の理由は、すでに唐から多くのことを学んであること、中国大陸で内乱が多く唐が弱っていること、船の遭難(そうなん)など死の危険が多く有能な人材の命を損ないかねないこと、経済的な負担が大きい、などです。

この遣唐使の廃止により、日本の貴族文化では、だんだん、中国大陸の文化の影響(えいきょう)が、うすれていきます。

かわりに日本独自の貴族文化が発展していきます。この平安時代に発展した日本独自の貴族文化を国風文化(こくふうぶんか) と言います。


なお、その後、菅原道真は藤原氏と対立し、901年には太宰府(だざいふ)に追放されてしまいます。

漢字からひらがなへの変化
  • かな文字の発明

ひらがな や カタカナ などの かな文字 が、平安時代に発明されます。 ひらがなは、漢字の形をくずして、発明されました。カタカナは漢字の へん や つくり などの一部をもとに発明されました。

カタカナの由来

この時代、ひらがなやカタカナは、女が用いる字であった。貴族の紀貫之(きの つらゆき)は男だが、名を隠し、女を名乗り『土佐日記』(とさにっき)を描いた。 紀貫之が、国司(こくし)として、四国の土佐(とさ)に派遣されていたので、土佐から京にかえるまでの様子をしるした日記です。


ほかにも、古今和歌集(こきんわかしゅう、紀貫之の編集) や竹取物語(たけとりものがたり) などが、かな文字を用いた作品です。

古今和歌集は、紀貫之(きのつらゆき)という人物による編集です。醍醐天皇(だいごてんのう)の命令により、紀貫之らが編集しました。

  • その他の文化
典型的な寝殿造である東三条殿の復元模型(京都文化博物館)
1. 寝殿(しんでん)、2. 北対(きたのたい)、3. 細殿(ほそどの)、4. 東対(ひがしのたい)、5. 東北対(ひがしきたのたい)、6. 侍所(さむらいどころ)、7. 渡殿(わたどの)、8. 中門廊(ちゅうもんろう)、9. 釣殿(つりどの)
江戸時代の束帯(阿部正弘)
五衣唐衣裳(俗称 十二単)(京都御所にて)

平安時代には、貴族の衣服の正装(せいそう・・・正式な服のこと)が変わります。

男の貴族の服は 束帯(そくたい) になり、女の貴族の服は 十二単(じゅうにひとえ) になります。

貴族の住居の形が 寝殿造(しんでんづくり) になる。

絵画には、日本の風景などを書いた 大和絵(やまとえ) が出てくる。寝殿造りの屋敷の屏風(びょうぶ)や ふすま などに大和絵が描かれた。絵巻物などにも大和絵は描かれた。

鳥獣戯画の一部分

大和絵の作品では、鳥獣戯画(ちょうじゅうぎが)や源氏物語絵巻(げんじものがたりえまき)などが有名です。

鳥獣戯画(ちょうじゅうぎが)は、当時の社会を風刺するために、かえるやさる、うさぎなどの動物たちを擬人的に描いて表現した絵です。

文学の物語では『源氏物語』(げんじものがたり)という創作(そうさく)の物語が、貴族の紫式部(むらさきしきぶ)によって描かれました。この源氏物語は、主人公は貴族の「光源氏」という人物で、光る人物を中心にして貴族の恋愛などを書いています。

なお、名前が後の幕府の源氏(げんじ)と似ていますが、べつに光源氏は武士ではありません。源氏物語が出来た1007年ごろは、まだ鎌倉幕府はありません。紫式部は女です。藤原為時(ためとき)の娘です。

大和絵にも、「源氏物語絵巻」(げんじものがたりえまき)が、描かれました。絵画を使って、物語を絵で表したものを絵巻物(えまきもの)といいます。

随筆では、貴族の清少納言(せいしょうなごん)が『枕草子』を記しました。清少納言が 日常生活や自然を観察して、感想を述べたものです。 清少納言は女です。


  • 浄土教(じょうどきょう)
空也の像 (六波羅蜜寺) 

平安時代の中ごろは、伝染病が流行ったり(はやったり)、災害が起きたりしたので、社会の不安が大きくなった。このため、宗教では、人々に安心を与える宗教が、平安時代の半ば(なかば)ごろから、流行る(はやる)ようになる。

阿弥陀如来像 (平等院・鳳凰堂)

浄土教という信仰が流行るようになる。阿弥陀如来(あみだにょらい)にすがり、「南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)」と念仏を唱えていれば、死後には、極楽浄土へ行ける、という信仰である。

浄土教を布教した人物では、空也(くうや)という人物が有名である。空也(生:903年〜没:972年)は、10世紀中ごろ、諸国をまわり、庶民に浄土教を布教していた。人が集まる市(いち)で布教していたことから、空也は、市聖(いちのひじり)とも呼ばれます。

仏教の教えによると、1052年は釈迦が死んでから1000年後ということらしく、死後1000年ともなると釈迦の教えがおとろえて世の中が悪くなるという思想があり、この思想は 末法(まっぽう) と言われた。この末法思想もあって、浄土信仰は広まっていった。

金色堂。外側の覆堂(おおいどう)

地方にも浄土教がひろまり、各地に阿弥陀仏をまつる寺院である 阿弥陀堂(あみだどう) がたてられた。たとえば岩手県の平泉(ひらいずみ)には 中尊寺金色堂(ちゅうそんじ こんじきどう)という阿弥陀堂 が、たてられた。大分県に富貴寺大堂(ふきじ おおどう)が、たてられた。

平安時代の武士たち[編集]

平安時代には、地方の豪族たちは私有地を広げていったのであった。

9世紀の中ごろから、豪族や有力な農民たちは、自分たちの土地や財産をまもるためには、兵力をたくわえていった。一族の者や、手下の農民たちに武装させるようになった。

このようにして、武士が、できていった。

武士たちは、一族の かしら を棟梁(とうりょう)として、それぞれの一族ごとに武士団を結成していった。

貴族の中にも、これにならい、武士団をつくり棟梁となって兵を指揮する者が、地方貴族から出てきた。源氏や平氏などが、そのような貴族の武士である。

源氏も平氏も天皇の子孫です。

武士の中には、朝廷に対して反乱を起こす者も出てきました。

  • 平将門(たいらの まさかど)の乱

10世紀の935年に、平将門(たいらの まさかど)が反乱を関東地方で起こします。朝廷は、ほかの武士の助けを借りて、将門の反乱を鎮圧します。

  • 藤原純友(ふじわらの すみとも)の乱

939年には、藤原純友(ふじわらの すみとも)が反乱を瀬戸内海の周辺で起こし、海賊らを率いて反乱を起こします。朝廷は、ほかの武士の助けを借りて、反乱を鎮圧します。

朝廷の力だけでは、この2つの反乱をしずめることはできず、ほかの武士の協力をえる必要があり、これらの反乱により武士の影響力が増すことになった。

この2つの反乱のことを、起きた年の年号をとり 承平・天慶の乱(じょうへい・てんぎょう の らん) と言う。

  • 東北地方での反乱

10世紀の1051年には東北地方で反乱が起き、安倍頼時らが反乱を起こします。この反乱の鎮圧を、源氏である源頼義(みなもとのよりよし)および源義家(みなもとのよしいえ)らの兵が鎮圧します。この反乱と鎮圧の争乱を 前九年の役(ぜんくねん の えき) と言います。 源氏が鎮圧を行ったので、関東地方では源氏の影響力が強まります。

院政[編集]

(いんせい)

11世紀の半ばすぎごろになると、藤原氏の影響力は弱まり、天皇には、藤原氏とは関係のうすい 後三条天皇(ごさんじょうてんのう) が即位した。天皇は、藤原氏の政治に不満をもつ貴族も用いて、政治の実権を天皇にもどした。


天皇は1069年には荘園整理令(しょうえん せいりれい)を出し、不法な荘園を取りしまった。


次の天皇の 白河天皇(しらかわ てんのう) も、天皇中心の政治を行った。 1086年には生存中(せいぞんちゅう)に次の天皇の堀河天皇(ほりかわ てんのう)に位をゆずり、白河 元・天皇は上皇として、政治の実権をにぎります。

上皇の住む住居が 院(いん) と呼ばれていたので、上皇による政治を 院政(いんせい) と言います。

堀河天皇の死後は、白河の孫である 鳥羽天皇(とばてんのう) が即位する。この鳥羽天皇も白河上皇の次の鳥羽上皇(とば じょうこう)になった。

鳥羽上皇の次は、後白河 元・天皇が後白河上皇となり、院政を行った。

このようにして院政が100年ばかり、続いて(つづいて)いく。

いっぽう、藤原氏の権力は、おとろえていった。


さて、天皇家の内部でも天皇と上皇との権力をめぐって対立が起きてくる。 これにくわえて、藤原氏の内部の対立も加わり、ついに1156年には戦乱が起きる。

保元の乱(ほうげん の らん)である。

上皇の側の崇徳上皇(すとく じょうこう)には、左大臣の藤原頼長(ふじわらの よりなが)、平氏の平忠正(たいらの ただまさ)、源氏の源為義(みなもとの ためよし)が、従った(したがった)。

平清盛(たいらの きよもり)。

天皇の側の後白河天皇には、関白の藤原忠通(ふじわらの ただみち)、平氏の平清盛(たいらの きよもり)、源次の源義朝(みなもとの よしとも)が、従った。

勝ったのは、御白河天皇の側である。 つまり平清盛と源義朝が加わった側が勝っている。

この乱の後、1159年に、保元の乱での恩賞に不満をいだいた源義朝が兵をあげ乱をおこしたが、平清盛らの軍に鎮圧される。これが 平治の乱(へいじのらん) です。

この件により、平氏の影響力が強まります。

  • 平氏の台頭(たいとう)

清盛は、武士の力を利用しようとする後白河上皇との関係を深めます。 1167年には、清盛は武士としては初めての太政大臣(だじょう だいじん)になります。

脚注[編集]

  1. ^ 鳴くよ(794、なくよ) 感動(桓武天皇、かんどう) 平安京 とも言う。

関連項目[編集]

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