中学受験社会/歴史/中巻

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中学受験社会/歴史/中巻では、中学受験社会の歴史分野について、平安時代の終わり~江戸時代を解説します。

武士の世の中へ(平安時代終わり~鎌倉時代)[編集]

(ぶしの よのなか へ)

平清盛は、藤原氏の摂関政治のように、清盛の娘の徳子(とくこ)を、天皇の高倉天皇(たかくらてんのう)の后(きさき)にして、生まれた子を安徳天皇(あんとくてんのう)にさせ、平氏が政治の実権を得ていきます。

このようにして、平氏の一族が、朝廷での重要な役職を得ていき、権力をつよめます。

清盛は、貿易で、中国大陸の国の宋(そう)と貿易をする日宋貿易(にっそうぼうえき)に、かかります。今でいう神戸にあった大輪田泊(おおわだのとまり)という港を改修します。平氏は貿易をすすめていきます。

日宋貿易により、日本には宋銭(そうせん)が多く入ってきた。

平氏の一族は栄え、 「平氏にあらずんば 人にあらず」 (意味:平氏の一族でなければ、その者は人ではない。) とまで言われるほど、平氏が栄えた。

厳島神社(いつくしま じんじゃ)。広島県。 平氏の一族は、一族の繁栄を厳島神社に願った。 国宝。世界遺産。

清盛は 海の神をまつっている厳島神社(いつくしまじんじゃ) を敬った(うやまった)。厳島神社は、今でいう広島県の瀬戸内海の側にある。 そして厳島神社の神を、平氏一族がまつるべき氏神(うじがみ)とした。

平氏の独裁的な政治に、他の皇族や、上皇の院、ほかの武士などからの不満が高まっていく。

ついに1180年、皇族の 以仁王(もちひとおう) は、平氏を滅ぼすように命令を下す。以仁王は後白河法皇の子である。

以仁王の命令を受け、各地で武士たちが平氏をほろぼそうと兵をあげた。

鎌倉時代[編集]

以仁王(もちひとおう)の命令を受け、各地で武士たちが平氏をほろぼそうと兵をあげた。

源頼朝(みなもとの よりとも)
頼朝は、平治の乱(へいじのらん)で頼朝(よりとも)の父の義朝(よしとも)が平氏と戦って負けたので、小さいころに源頼朝は、伊豆(いず)に流されていた。(伊豆の場所は今でいう静岡県のあたり。) やがて成人して大人になった頼朝が、平氏への反乱をした。
源氏と平氏のたたかい
おもなできごと
1180  源頼朝が伊豆で挙兵するが、石橋山(いしばしやま)の戦い で平氏にやぶれる
 源頼朝が富士川の戦いで平氏をやぶる
1181  平清盛がなくなる
1183  源義仲(みなもとのよしなか)が、倶利伽羅峠(くりからとうげ)の戦いで平氏をやぶる
1184  源義経(みなもとの よしつね)が 一の谷(いちのたに)の戦い で平氏をやぶる
1185  源義経が八島(やしま)の戦いで平氏をやぶる
 源義経が壇ノ浦(だんのうら)の戦いで平氏をやぶる
 平氏がほろびる
  • 源平(げんぺい)の戦い

源頼朝(みなもとの よりとも) は、関東で兵をあげた。富士川の戦いで平氏をやぶったあと、頼朝は関東の鎌倉(かまくら)に、とどまって、勢力の基盤(きばん)をかためた。

そして頼朝は、平氏に不満をもっている武士の北条氏(ほうじょうし)など関東の武士とも協力して、勢力をのばしていった。

頼朝は、自らは鎌倉にとどまり、かわりに弟の 源義経(みなもとの よしつね) の兵をつかって、平氏を西へと追いつめていった。

義経(よしつね)らは義仲(よしなか)を打ちとったあと、平氏の打倒のために兵をうごかし、1184年には 一ノ谷の戦い(いちのたに の たたかい) で平氏をやぶり、つづいて1185年には 屋島の戦い(やしまのたたかい) でも義経らは平氏に勝って、ついに平氏を壇ノ浦においつめ(場所は本州の西の端の山口県の下関「しものせき」)、1185年には壇ノ浦の戦い(だんのうら の たたかい)でヨシツネらは平氏に勝ち、ついに平氏をほろぼす。

これらの源氏と平氏との一連の戦いを「源平の戦い」(げんぺいのたたかい)とか「源平合戦」(げんぺいがっせん)とかという。

源義経(みなもとのよしつね) 小さいころは「牛若丸」(うしわかまる)と言われました。平氏との戦いで多くの手柄(てがら)をたてましたが、兄の頼朝と対立し、東北に追われて、平泉(ひらいずみ)で なくなりました。

義経(よしつね)は頼朝(よりとも)と対立します。 義経らは東北地方である奥州にいる奥州藤原氏(おうしゅうふじわらし)をたよって東北に逃げていたので、奥州藤原氏も頼朝により滅ぼされます。


いっぽう、平氏の滅亡後、頼朝(よりとも)が朝廷に要求(ようきゅう)したことより、新しい制度として、国ごとに守護(しゅご)が一人ずつを置かれ、荘園(しょうえん)や公領(こうりょう)には地頭(じとう)が置かれた。

守護の仕事は、現代風にいうなら、その国での軍や警察(けいさつ)の管理者である。 地頭の仕事は、荘園および公領の管理や、税である年貢(ねんぐ)の取り立てである。

頼朝は1192年に朝廷から征夷大将軍(せいい たいしょうぐん) に任命(にんめい)されます。

頼朝は鎌倉に(今でいう神奈川県の鎌倉市のあたり)、武家による政治の拠点である幕府(ばくふ) を開きました。この鎌倉にある幕府を 鎌倉幕府(かまくら ばくふ)と言い、鎌倉に幕府があった時代を鎌倉時代(かまくらじだい) と言います。

1192年からを鎌倉時代とするのが一般的(いっぱんてき)です。

語呂合わせ :1192(いいくに、いい国)つくろう 鎌倉幕府(かまくらばくふ)

征夷大将軍という言葉の意味は、頼朝の時代からは武士たちの中での最高権力者(さいこうけんりょくしゃ)というような意味になってきます。

もともとの意味は、平安時代の坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)のように東北地方の蝦夷(えみし)と戦う軍での将軍(しょうぐん)という意味でした。

この鎌倉時代から、政治の権力が朝廷から幕府へと移っていき、武家政治の時代になっていきます。

鎌倉幕府のしくみ[編集]

幕府の行政の仕組みは、朝廷による律令制とは ちがっています。

将軍の家来の武士のことを 御家人(ごけにん) という。

将軍は、御家人たちの土地の権利を保証する政策をとるかわりに、御家人たちは将軍のために警備をしたり戦争の時には戦うという主従関係(しゅじゅうかんけい)が、この時代の将軍と手下たちとの主従関係である。

ご恩と奉公

御恩(ごおん)と奉公(ほうこう) という主従関係です。

御恩(ごおん)とは、将軍が御家人の土地の権利を認め保証したり、手柄のあった御家人には新しく領地を与えることです。

奉公(ほうこう)とは、将軍や幕府のために仕事をすることで、具体的には、戦争の時には将軍のために戦うことです。「いざ鎌倉」(いざ かまくら)と言って、御家人は戦いが起きれば、すぐに鎌倉へと行って将軍に指示を聞き、将軍のために戦うべき、とされていました。

この主従関係は土地を仲立ち(なかだち)としています。このように土地を仲立ちとした主従関係を 封建制(ほうけんせい) あるいは封建制度(ほうけんせいど) と言います。

御家人たちの屋敷(やしき)は、武家造(ぶけづくり)という作りで、屋敷のまわりに堀(ほり)があったり、塀(へい)で囲まれてたりと、戦いにそなえたつくりになっています。

「一所懸命」(いっしょけんめい)という言葉があるが、この言葉は、御家人たちが自分たちの領地を守るために命がけで戦う様子から出来た言葉である。


北条政子(菊池容斎 画、江戸時代)

頼朝の死後は、頼朝の子の頼家(よりいえ)が次の将軍になり、さらに次の将軍位は頼朝の子の実朝(さねとも)がついたが、政治の実権は、有力な御家人である北条氏の一族にありました。頼朝の妻は北条政子(ほうじょう まさこ)という女で、その政子の父である北条時政(ほうじょう ときまさ)が執権(しっけん)という役職につき、北条時政らが幕府の実権をにぎりました。

        (中央) 
将軍━━執権━━┳━━┳━侍所
        ┃  ┣━政所
        ┃  ┗━問注所
        ┃
        ┃
        ┃
   (地方) ┗━━┳━守護
           ┣━地頭
           ┗━六波羅探題

北条氏のように執権として政治の実権をにぎる政治のやりかたを 執権政治(しっけん せいじ) といいます。

3代目将軍の実朝は、1219年に頼家の子である公暁(くぎょう)によって実朝は殺されます。こうして源氏の直系の将軍は3代で絶えます(たえます)。


承久(じょうきゅう)の乱[編集]

1221年、朝廷で院政を行っていた 後鳥羽上皇(ごとばじょうこう) は政治の実権を朝廷に取り戻そうとして、北条氏を倒す命令を出しました。 北条氏の幕府軍と、朝廷の軍との戦争になり、北条氏の側が勝ちます。 後鳥羽上皇は島根県の隠岐(おき)という島(しま)に島流し(しまながし)にされ、追放されます。

この争乱を承久の乱(じょうきゅう の らん) といいます。

幕府は朝廷や西国を監視するため、京都に 六波羅探題(ろくはらたんだい) を置きました。上皇側に味方した勢力の土地は取り上げられました。こうして西国でも幕府の支配は強まっていきました。

承久の乱 のあとである1232年に、執権の北条泰時(ほうじょう やすとき)らにより、武家社会の慣習をもとに新たな法律をつくり、御成敗式目 (ごせいばい しきもく) という法律をつくり、この式目が政治や裁判の よりどころ になった。

幕府にとっては御家人からの信頼(しんらい)が、幕府の権力の基盤(きばん)なので、御家人から信頼されるために公平な法律をつくる必要があったのだろう。

鎌倉時代は女の地位が、けっこう高かった。女でも土地の相続(ができ、また女でも地頭(じとう)になれた。

人々のくらし[編集]

武士のくらし[編集]
やぶさめ
犬追物
かさがけ

武士は、日ごろから武芸(ぶげい)に、はげんでいた。やぶさめ(流鏑馬)、かさがけ(笠懸)・犬追物(いぬおうもの)などの武芸に、はげんでいた。3つとも、馬に乗り、弓矢で的をいるものである。

流鏑馬(やぶさめ)では、馬にのって走りながら、いくつもある板の的をつぎつぎに射る。
かさがけでは、馬に乗りながら的をいる。
犬追物では、犬などの動く的を射る。

この3つの武芸を 騎射三物(きしゃみつもの) という。 犬追物では、やわらかい特殊な矢を使い、犬を殺さないようにしていた。

庶民のくらし[編集]

鎌倉時代の農業では鉄を用いた農具が普及し、そのため農業が発展した。

鎌倉時代には二毛作(にもうさく)が西日本で行われるようになった。稲(いね)と麦との二毛作である。秋に米を収穫し、春に麦を収穫する二毛作である。

牛や馬を用いて、牛や馬にスキをひかせて田を耕す方法も行われるようになった。

また、草を焼いた灰や木を焼いた灰( これらを草木灰(そうもくばい)という )を、肥料(ひりょう)として使うようになった。

商業や工業も発展していった。

手工業では、鉄製の農具や武具などを作る鍛冶(かじ)職人や、大工、ほかにも染め物をする職人など、いろいろな手工業の職人があらわれるようになった。

農工業の発達もあって商業も発達した。定期的に市場(いちば)をひらく定期市(ていきいち)が、寺社などの近くで、毎月3回ほど決まった日に市が開かれはじめるようになった。この毎月3回の定期市を 三斎市(さんさいいち) という。

商業には貨幣が必要なので、中国大陸から宋銭(そうせん)が多く、日本に輸入された。

モンゴルとの戦い[編集]

モンゴル帝国の拡大[編集]
モンゴル帝国の拡大のようす。モンゴルの領土が、とても大きくなっています。

13世紀、モンゴル民族がチンギス=ハンによって統一され、モンゴル帝国がつくられました。チンギス=ハンが亡くなった後もその子どもや孫たちが勢力を拡大し、中国をふくむユーラシア大陸の広い地域をモンゴル帝国が支配しました。

フビライ=ハン

チンギスの孫のフビライ=ハンがモンゴル帝国を治めるころ、フビライは国号を(げん)に変えました。

フビライの率いる元は、朝鮮半島を統一していた高麗(こうらい)服属(ふくぞく)させました。また、中国大陸には南宋(なんそう)がのこっているのでした。日本は平安時代に日宋貿易をしていたように宋との結びつきがある国です。

元は南宋を支配下におくため、宋と交流のあった国に次々と服属を求め、したがわなければ兵を送り、支配していきました。

日本にも、フビライからの服従の要求を伝える元からの使者が、たびたび来ます。執権の8代目である北条時宗(ほうじょうときむね)は、元の要求を拒否しつづけます。

元寇(げんこう)[編集]

1274年、ついに元が日本に攻め込みます。元が約3万人の軍勢で博多湾に上陸し、元と鎌倉幕府との戦争になります。

元軍は火薬を用いた新兵器(日本では「てつはう」と呼ばれた)や、毒矢、元軍の集団戦に苦戦しました。それまでの日本では、武士どうしの戦いでは一騎打ちが主流でしたが、外国の軍隊が相手では、日本の慣習は通用しません。

この1274年の元と鎌倉幕府の戦争を文永の役(ぶんえい の えき)といいます。このときは元が壱岐(いき)対馬(つしま)などを一時占領し、武士たちも苦戦しましたが、元軍は撤退していきました[1]

文永の役において、矢が飛び交い、てつはうが炸裂する中を、モンゴル帝国連合軍へ斬り込んでいく御家人の竹崎季長(たけさき すえなが)と、応戦・逃亡するモンゴル兵。画像の合戦の絵は、『蒙古襲来絵詞(もうこしゅうらいえことば)』という絵巻物の一部の絵です。

この戦いのあと、幕府は次の元軍の侵攻に備え、博多湾の沿岸に石塁(せきるい)を築かせます。

1281年に、元の軍勢は、再び日本に襲来してきます。今度の元軍は14万人もの大軍です。 この1281年の戦争を弘安の役(こうあんのえき)といいます。この弘安の役では鎌倉幕府軍も準備を整えており、激しい戦いとなりました。そして、暴風雨により元軍は大きな被害を受けて撤退しました[2]

この2度の元軍の襲来をあわせて、元寇(げんこう)といいます。

フビライは日本襲来を計画しましたが中国大陸南部での反乱などがあり、日本への襲来は延期になり、さらにフビライの関心が中国大陸南部の平定やベトナムの遠征へと関心が変わっていきました。そのうちフビライも死んだので、日本には3度目の襲来は行われませんでした。

御家人は元寇で多くの費用を使いました。しかし、新しい土地を得たわけではなかったため、幕府は御恩としての褒美(ほうび)の土地を、じゅうぶんには用意できませんでした。このため、御家人は幕府に不満を持つようになりました。

『蒙古襲来絵詞』より鎌倉の安達泰盛邸で先駆けの功を訴える季長(右)。
竹崎季長も、恩賞の少なさに不満をもった御家人の一人で、幕府に自分の功績をうったえでるために、彼の元寇での活躍を記した絵巻物を手下のものにつくらせました。それが『蒙古襲来絵詞』だと言われています。

御家人の中には、社会の変化で生活が貧しくなり、借金をする者も出てきました。1297年に、幕府は御家人の借金を帳消しにし、金貸しから取られた土地をとりもどす徳政令(とくせいれい)を出しました。このときのものを特に、永仁の徳政令(えいにん の とくせいれい)といいます。これにより、御家人は一時的に助かりました。しかし、貸したお金が返ってこなくなったうえに担保[3]の土地までうばわれたため、金貸しは御家人にお金を貸さなくなました。そのため、御家人たちの生活はかえって苦しくなっていきました。

鎌倉時代の文化[編集]

武士の支配する社会になったので、平安のころの貴族文化とは、ちがった文化が出てきました。 文芸では、平氏の繁栄(はんえい)から滅亡(めつぼう)までを書いた『平家物語』(へいけ ものがたり)のように、軍記物が人々の関心をあつまました。

琵琶法師。

琵琶法師(びわほうし)という盲目の僧の人物が、琵琶による弾き語りで各地で平家物語などを語り歩いたといいます。当時は、文字の読める人が少なかったのです。

随筆では鴨長明(かものちょうめい)による『方丈記』(ほうじょうき)や、吉田兼好(よしだけんこう)の『徒然草』(つれづれぐさ)などが出てきた。

貴族を中心とした和歌などの文化も残っていた。『新古今和歌集』(しんこきんわかしゅう)が藤原定家(ふじわらのさだいえ)により編集された。後鳥羽上皇(ごとばじょうこう)の命令により、定家が編集した和歌集が『新古今和歌集』である。

鎌倉時代の和歌集は他にもあり、3代将軍の源実朝(みなもとの さねとも)によって残された『金槐和歌集』(きんかいわかしゅう)がある。

木造金剛力士像(国宝)

彫刻(ちょうこく)では、金剛力士像(こんごうりきしぞう)が、つくられました。金剛力士像がある場所は、奈良の東大寺の南大門にあります。この金剛力士像を作った彫刻家(ちょうこくか)は運慶(うんけい)と快慶(かいけい)です。

東大寺は、平安時代からあった寺ですが、平氏に焼き払われたので、鎌倉時代のはじめごろに再建されました。 この再建のときに、中国大陸の宋の建築様式である大仏様(だいぶつよう)が取り入れられました。大仏様は天竺様(てんじくよう)ともいいます。

似絵(にせえ)。源頼朝とされる人物が描かれている。

絵画では、似絵(にせえ)という肖像画が描かれるようになります。

仏教では、武士や民衆にも分かりやすいような教えが好まれるようになり、新しい宗派(しゅうは)が出てきました。その結果、民衆にも仏教が広まるようになります。 鎌倉時代の仏教の宗派には

浄土宗(じょうどしゅう)
浄土真宗(じょうどしんしゅう)
時宗(じしゅう)
日蓮宗(にちれんしゅう)
禅宗(ぜんしゅう)

が、出てきます。


  • 浄土宗(じょうどしゅう)
法然(ほうねん)がひらいた。阿弥陀如来(あみだにょらい)を信じ「南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)」という念仏を唱えるように勧めた。
  • 浄土真宗(じょうどしんしゅう)(一向宗(いっこうしゅう) ともいう)
親鸞(しんらん)が、ひらいた宗。親鸞は、法然の弟子である。
親鸞の考えによると、功徳[4]を積むことができずに煩悩[5]にとらわれた悪人こそ阿弥陀如来の救いにふさわしいと説いきました(悪人正機説(あくにん しょうきせつ) )
  • 時宗(じしゅう)
一遍(いっぺん)が開きました。「踊り念仏」と言って、彼は念仏を唱えながら踊るということをしながら、諸国を歩き、教えを広めた。
    • 浄土宗・浄土真宗・時宗はどれも「南無阿弥陀仏」というお念仏を唱えることを重んじたことから三つをまとめて念仏宗ともいいます。
  • 日蓮宗(にちれんしゅう)(法華宗(ほっけしゅう)ともいう)
日蓮(にちれん)が開きました。法華経(ほけきょう)というお経の教えを重んじ、「南無妙法蓮華経(なむ みょうほう れんげきょう)[6]」という「題目」を唱えることが救いへの道であると説きました。
  • 禅宗(ぜんしゅう)
臨済宗(りんざいしゅう)と曹洞宗(そうとうしゅう)が、あります。
座禅(ざぜん)などの修行(しゅぎょう)により心を鍛え(きたえ)、悟り(さとり)を開く宗教です。この修行の考え方が武士の風習にあっており、武士に禅宗が好まれます。
栄西(えいさい)および道元(どうげん)という人物が、宋に渡って学んできた教えをもとにした宗派です。
・臨済宗
栄西(えいさい) が開きます。

・曹洞宗

道元(どうげん) が開きます。

  1. ^ 以前は暴風雨で被害を受けたからと説明されていましたが、最近の研究では日本の様子を探るための偵察(ていさつ)が目的だったのではないかと言われています。
  2. ^ このときの暴風雨は、のちに「神風(かみかぜ)」と言われるようになりました。
  3. ^ お金を貸すときに預けるもの。お金が返せなければ代わりに担保が取り上げられる。
  4. ^ くとく。神仏からよい報いを与えられるような、よい行い。世のため、人のためになるよい行い。
  5. ^ ぼんのう。心身にまといつき心をかきみだす、一切の妄念・欲望。
  6. ^ 「法華経に帰依(きえ)します」という意味。

室町時代[編集]

(むろまち じだい)

鎌倉幕府の滅亡[編集]

後醍醐天皇。

後醍醐天皇(ごだいごてんのう)は、幕府を倒す計画をたてるが、1324年、計画がもれて失敗する。この1324年の事件を 正中の変(せいちゅうのへん) という。 (※  正中の変は、おぼえなくて良い)

1331年に、ふたたび幕府を倒そうと計画するが、また、計画がもれて失敗する。この1331年の事件を 元弘の変(げんこうのへん) という。 (※ 元弘の変は、おぼえなくて良い)後醍醐天皇は幕府に捉えられ、隠岐(おき)に島流し(しまながし)にされた。(島根県の、隠岐の島)

天皇は島流しになったが、幕府に不満のあった各地の武士や御家人たちは、天皇に味方して各地で兵をあげはじめた。

御家人でない武士の楠木正成(くすのきまさしげ)らが、幕府軍に抵抗した。また、悪党(あくとう)[1]という、幕府や荘園領主に従わない武装勢力が出てき始めて、幕府に逆らう勢力が増えた。

やがて後醍醐天皇が隠岐(おき)から脱出する。

足利尊氏の肖像画

1333年、幕府の御家人であった 足利尊氏(あしかがたかうじ) は幕府を裏切り、後醍醐天皇と協力し、京都の六波羅探題(ろくはらたんだい)を攻め落とした。

同1333年、関東では 新田義貞(にったよしさだ) が鎌倉を攻め落とし、鎌倉幕府は1333年に滅びました。

建武の新政[編集]

1333年、後醍醐天皇は京都にもどり、天皇による新しい政治を始めた。この年に年号を建武にかえたので、この後醍醐天皇による1333年からの新たな政治を建武の新政(けんむ の しんせい) という。

しかし武士に対する恩賞が少なく、また新しい制度が貴族に大きな権力を与えるものであったので、武士からの不満が大きかった。

南北朝の対立[編集]

(なんぼくちょう) 建武の新政への不満から、1335年に足利尊氏が反乱を起こし京都を占領したので、たったの2年ほどで建武の新政は終わった。後醍醐天皇は奈良の吉野(よしの) に逃げます。

いっぽう足利尊氏は、京都で別の天皇の光明天皇(こうみょう てんのう)を立てます。

こうして、天皇が2人、できてしまいました。後醍醐天皇と光明天皇との、2人の天皇です。また朝廷が京都と奈良に、別々の2個の朝廷が出来てしまいました。

尊氏の味方の側である京都の朝廷を北朝(ほくちょう) といい、いっぽう後醍醐天皇の味方である奈良の吉野(よしの)の朝廷を南朝(なんちょう) と言います。ふたつの朝廷をあわせて南北朝(なんぼくちょう)といい、この時代を南北朝時代(なんぼくちょう じだい)といいます。

そして1338年には、その京都の北朝の光明天皇から征夷大将軍に足利尊氏が任命されます。こうして1338年、足利尊氏は京都を拠点にして新しく幕府を開きます。この1338年の幕府は、のちに室町幕府(むろまちばくふ)と言われます。

南北朝の対立は60年ほど続きます。

各地の武士は、北朝か南朝のどちらかについて争いました。しかし、しだいに北朝の側が有利になっていきます。

室町幕府のしくみ[編集]

京都の中央組織では新しく管領(かんれい)が置かれた。この管領は、侍所(さむらいどころ)・政所(まんどころ)・問注所(もんちゅうじょ)などを管理する。 管領は有力な武士であった細川(ほそかわ)氏・山名(やまな)氏・畠山(はたけやま)氏の3氏から交代で選ばれた。

この管領の細川・山名・畠山の三氏の一族たちは、三管領(さんかんれい)とも、よばれます。

(中央) 
将軍━━━┳━━管領━━━┳━侍所
     ┃       ┣━政所
     ┃       ┗━問注所
     ┃
     ┃
     ┃
(地方) ┗━━━━━━━┳━守護━━地頭
             ┗━鎌倉府

室町時代や南北朝時代では、鎌倉時代よりも、各地の武士の影響力が強くなった。 地方の管理のため、鎌倉時代から守護(しゅご)という1国ごとにおかれて兵や警備などを管理する役職があったが、この守護の影響力が強くなる。 守護には、1国の年貢の半分を取り立てる権利が与えられた。地頭(じとう)は、守護の支配下に置かれた。 室町時代の守護の権限には,鎌倉時代よりも大きな権限が、幕府から与えられるようになった。

その結果、守護は、その管理する国を、領地として支配し治めるようになった。このような一国を支配するようになった守護を守護大名(しゅごだいみょう)という。 有力な守護大名には複数の国を支配する守護大名もいた。

有力な守護大名には、細川氏(ほそかわ し)・山名(やまな)氏・大内(おおうち)氏・赤松(あかまつ)氏などがいる。

守護とは別に、鎌倉には鎌倉府(かまくらふ)が置かれ,室町幕府による関東への支配の拠点になった。

足利義満[編集]

足利義満(あしかが よしみつ)。

1392年の3代将軍の足利義満(あしかが よしみつ)のときに、幕府が政治を主導する形で、南朝を説得し従わせます。

義満は彼の住居を京都の 室町(むろまち) につくらせ、その室町の住居が 花の御所(はなのごしょ) といわれて、ここが幕府の拠点になった。この「室町」の名が、この「室町時代」や「室町幕府」の名前の由来である。

金閣。

義満は 金閣(きんかく) という建物(たてもの)を、京都の北山(きたやま)に建てさせます。 義満のころの室町時代の文化を 北山文化(きたやまぶんか) と言います。 金閣は、金箔(きんぱく)が貼られた豪華な建物です。

明との貿易[編集]

(みん との ぼうえき)
  • 中国大陸の明(みん)との貿易へ

日本では室町時代の頃、いっぽう中国大陸では、モンゴル民族の元(げん)にかわって、漢民族の(みん)が帝国を築いていた。

中国大陸では、1368年に漢民族の朱元璋(しゅ げんしょう)という人物が反乱をひきいて、モンゴル人の帝国である元をたおし、あたらしく明(みん)という漢民族の帝国を築いていたのです。(朱元璋は、まだ、おぼえなくて良い。) 朱元璋は皇帝となりの洪武帝(こうぶてい)になります。

3代皇帝の永楽帝(えいらくてい)の1400年ごろ、中国大陸沿岸では海賊(かいぞく)による被害があり、海賊の拠点は対馬(つしま)や壱岐(いき)などの九州や瀬戸内海であった。この対馬や壱岐を拠点にした室町時代の海賊を 倭寇(わこう) という。なお、当時の倭寇は日本人および朝鮮人から、なる。

なお、元寇により、中国大陸との正式な貿易は途絶えていたが、九州を中心に武士や商人らは元寇のあとも勝手に貿易をしていた。

明は日本に対して外交として、倭寇の取り締まりと、正式な国交を日本に求めてきた。この明からの要求におうじ、倭寇の取り締まりをするとおもに、日本から外交の使者を1401年に明へと送ります。送られた使者は、僧の祖阿(そあ)と、博多商人の肥富(こいづみ)であり、彼らが明(みん)へと外交のために行って、日本と明との外交が進みます。

日本は、明との正式な貿易を1404年に始めます。

この明との貿易では、正式な貿易船と海賊船との区別をつけるため、勘合(かんごう)という合い札を用いられた。

縦(たて)に一行、大きく数文字の文字が書かれた札を、文字の真ん中で2枚の札に分け、日本と明とが、その分けたうちの半分の札だけをもちます。正しい貿易相手どうしだと勘合の札を2枚あわせれば、もとの文字のもどるので、相手が正式な貿易船か海賊船かが確かめられる、という仕組みです。

このように勘合をもちいたので、室町時代の日本と明との貿易のことを 勘合貿易(かんごうぼうえき) と言います。

この貿易によって、幕府は大きな収入源(しゅうにゅうげん)になりました。

当時、明は、自分たち明に貢物をおくるという朝貢(ちょうこう)をする外国のみと、明は貿易をする方針をとっていたので、この日本と明との貿易もそうです。日本が明へ朝貢して、おかえしに明が日本に物を与えてあげるという形式の貿易です。 このため、足利義満は、明から、「日本国王」(にほんこくおう)と認められます。中国語では「王」は(中国の)「皇帝」よりも地位がひくいです。

発展的事項 中国以外との貿易[編集]

  • 朝鮮半島との貿易
日本は同じころ、朝鮮とも貿易をはじめました。勘合とよく似た仕組みの 通信府(つうしんふ) を用いられ、通信符により正式な貿易船を確認しました。朝鮮半島に近い場所である対馬(つしま)を治める宗(そう)氏を仲介として日朝貿易が行われました。朝鮮には 倭館(わかん) という館がつくられ、外交のために日本から朝鮮に送られてきた使者をもてなし、また外交交渉するための建物がつくられた。
  • 琉球王国(りゅうきゅうおうこく)との貿易
また、当時、沖縄には 琉球王国(りゅうきゅうおうこく) があり、琉球王国が周辺の国々との貿易をおこなっていたので、日本も琉球との貿易を1415年ごろに開始した。
琉球の貿易相手は多くて、現在でいうフィリピンなどの東南アジアにある国々とも貿易をしていた。
琉球の貿易では、中継貿易(ちゅうけいぼうえき)といって、明や日本などの国々との貿易の仲立ちとしての貿易の商売をしていた。


産業の発展と社会の変化[編集]

産業の発展[編集]

室町時代の田植えの様子。 『月次風俗図屏風』(つきなみ ふうぞく ずびょうぶ)より。
(さんぎょう)

二毛作が各地に広まった。西日本だけでなく東日本にも二毛作が伝わっていきます。

手工業では、業種ごとに同業者どうしの (ざ) という組合(くみあい)がつくられて、座は製造や販売を独占する権利が有力な寺社などから与えられた。

室町時代は、鎌倉時代よりも、ますます商業が発達した。たとえば定期市は、鎌倉時代は月3回の 三斎市(さんさいいち) だったが、室町時代には月6回の 六斎市(ろくさいいち) になった。

室町時代の産業では、運送業(うんそうぎょう)が発達します。商業や農業・工業が発達したので、商品をはこぶ必要がふえたからです。

この時代の陸上での運送業者は、馬を使って運送をすることがおおかったので、 馬借(ばしゃく) と言います。牛車ではこぶ場合は 車借(しゃしゃく) と言います。

商業には貨幣(かへい)が必要です。中国大陸の貨幣が使われました。明の銅銭である明銭(みんせん)を日本に輸入して、つかっていました。この明銭とあわせて、鎌倉時代に宋から輸入してつかっていた銅銭の宋銭(そうせん)も、つかわれました。

永楽通宝

明銭では永楽通宝(えいらくつうほう)が有名である。

他にも、倉庫などの保管業などを行っていたり輸送の管理をしたりする 問丸(といまる) が出来ます。これが問屋(とんや)の起源です。

高利貸し(こうりがし)で金貸しをおこなう金融業者(きんゆうぎょうしゃ)が出てきます。土倉(どそう) や 酒屋(さかや) です。土層(どそう)とは今でいう質屋(しちや)のことで、客から品物をあずかるかわりに、客にお金を貸します。酒屋は、文字どおりにお酒もつくっていましたが、金貸しも行っていました。

いろんな産業が出てきて、名前をおぼえるのが大変ですが、名前だけでなく現代の産業とも関連づけて、学んでください。

農村の自治[編集]

室町時代には、農村の自治が、前の時代よりも強くなります。この自治が強くなった理由のひとつは産業の発達とも関連しています。

色々な村で、用水路や共用地の管理など村の運営(うんえい)のしかたについて、寺社などに集まって自主的に相談しあって決めるという 寄合(よりあい) という集まりが開かれるようになります。

このような主体的な村を(そう)または 惣村(そうそん) という。

このような惣は、産業が発達していた近畿地方から始まり、しだいに地方へも広がっていった。

一揆(いっき)[編集]

室町時代には、農民は、厳しい領主に対しては、集団で対立するようになる。 年貢が重い場合は、集団で領主に押しかけて(おしかけて)訴えでる(うったえでる)という強訴(ごうそ)をしたり、訴え(うったえ)がききいれられない場合は、全員が村から逃亡して村に人がいなくなってしまう逃散(ちょうさん)などで、対抗しました。

  • 土一揆(どいっき)

農民や馬借などは、あまり裕福ではなく、これらの貧しい職業の民は、当時は 土民(どみん) と言われていた。

この土民たちが集団で実力行使にでることを 土一揆(どいっき) という。

室町時代には、貨幣による経済がすすんできたので、生活苦の農民などは借金をする必要が生じました。そのため、借金のふくらむ農民などが多くなり、たびたび借金帳消しの徳政をもとめて高利貸しなどをおそって借金の証文(しょうもん)を焼きすてる土一揆が、よくおきた。

このような一揆のきっかけが、次にいう 正長の土一揆(しょうちょう の どいっき) である。

  • 正長の土一揆(しょうちょう の どいっき)

近江国(おうみのくに、滋賀県のこと)の貧しい馬借(ばしゃく)たち運送業者が、京都で高利貸しをしている酒屋や土倉をおそい、幕府に徳政を要求した一揆である。 当初、幕府は徳政の求めには応じなかったので、一揆の民衆は借金の証文(しょうもん)を焼き捨てたり質物をうばうなど、実力行使(じつりょくこうし)に出た。


応仁の乱[編集]

(おうにん の らん)
 応仁の乱
   細川方(東軍)   山名方(西軍) 
主導者  細川勝元(管領)   山名持豊 
将軍家
(将軍は義政)
 足利義視(義政の弟)   日野富子 
 足利義尚(義政の子) 

8代目将軍の足利義政(あしかが よしまさ)のころ、有力な守護大名のあいだで争いがあり、細川勝元(ほそかわかつもと)と山名持豊(やまなもちとよ)とで幕府の実権を争っていた。 これがもとで、1467年に戦争がおき、全国の守護大名たちは、細川方(ほそかわがた)の東軍(とうぐん)か、または山名方(やまながた)の西軍(せいぐん)との、東西に分かれて争うことになった。 これが 応仁の乱(おうにん の らん) である。乱は京都を中心にしていて、11年ほど乱が続く。

このように細川や山名などの守護大名が権力を持つようになった、そもそものきっかけは、義政が、あまり政治の実務には関心を持たなかった、という事情(じじょう)がある。

なお、戦争の起きたほかの要因としては、将軍の跡継ぎ(あとつぎ)をめぐる問題がある。次の将軍の候補(こうほ)に、足利義政の弟の足利義視(あしかが よしみ)と、それに対立して義政の妻の日野富子(ひの とみこ)が子の足利義尚(あしかがよしひさ)を跡継ぎ(あとつぎ)に推した(おした)ことで、跡継ぎ争いが加わった。

義視(よしみ)は細川氏をたより、義尚(よしひさ)は山名をたよった。

さらに、これにくわえて、有力な守護大名である畠山(はたけやま)氏の一族のあいだでも、争いが起こる。

このような、細川・山名の争いを中心に、他の権力闘争(けんりょくとうそう)が応仁の乱に加わっていた。

応仁の乱の結果[編集]

応仁(おうにん)の乱。 足軽(あしがる)と呼ばれる身軽な兵が活躍した。『真如堂縁起絵巻』(しんにょどう えんぎ えまき)。『真如堂縁起絵巻』は重要文化財。

京都は戦火で焼け野原になる。じっさいに、そのような戦火の焼け野原の光景を歌った和歌が残っている。

なれや知る 都は野辺の夕雲雀 あがるを見ても 落つる涙は

(なれやしる みやこはのべの ゆうひばり あがるをみても おつるなみだは)

(※ 和歌の文は、おぼえなくてもいいですが、応仁の乱の情景を歌った大切な歌なので、知っておいて下さい。)

こうして、室町幕府の勢い(いきおい)は、衰えて(おとろえて)いった。

裕福な貴族や商人などは京都から逃げ、戦火の無い地方に、貴族などは移り住むようになりました。そして、京都の文化が、地方に移り住んだものたちによって、地方へと伝わっていきました。

東山文化[編集]

銀閣(東正面)

義政が京都の東山(ひがしやま)に 銀閣[2](ぎんかく) を建てました。

この義政の時代のころの文化を 東山文化(ひがしやま ぶんか) という。

  • 書院造(しょいんづくり)
書院造(しょいんづくり)
※ 書院造の見やすい画像が無いので、ウィキペディア日本語版や外部サイトなどで書院造りの画像を見て下さい。

書院造(しょいんづくり)という、建築様式の室内の様式が出てくる。 特徴は、

違い棚(ちがいだな)という、棚が段差になった棚がある。
障子や、ふすま、がある。
畳(たたみ)の床(ゆか)

など。

これが、今日の和室(わしつ)の様式に、つながっていく。

代表的な例として東求堂同仁斎(とうぐどうどうじんさい)の部屋が、書院造の部屋で有名である。

  • 水墨画
水墨画。秋冬山水図のうち秋景(東京国立博物館)
雪舟自画像(模本) 、重要文化財、藤田美術館

中国大陸から 水墨画(すいぼくが)が日本に伝わる。雪舟(せっしゅう)などの水墨画の画家がでてくる。水墨画のことを墨絵(すみえ)ともいう。 べつに雪舟が始めたわけでなく、すでに義満の北山文化のころから如拙(じょせつ)や周文(しゅうぶん)らが水墨画をしていた。

  • 茶の湯

書院造の部屋で、おちついた作法にしたがって茶を飲む、茶の湯(ちゃのゆ)が始まる。茶の湯は、今(2014年に執筆。)でも茶道(さどう)として、受け継がれている。

  • 御伽草子(おとぎそうし)

御伽草子(おとぎそうし)が民衆の間で流行した。 『浦島太郎』(うらしまたろう)や『一寸法師』(いっすんぼうし)などがある。

戦国時代の始まり[編集]

地方の守護大名の勢い(いきおい)も、衰えて(おとろえて)いった。応仁の乱で、守護大名が京都に出向いて兵を指揮していたころ、国もとに残っていた家臣らが実権をにぎるというということが起きた。さらに、領地をめぐって争うことも起きた。その結果、したの身分だった者が、上の身分の勢力を倒すこともあった。このように、下の身分のものが上の身分のものを倒し、のしあがる事や、その風潮(ふうちょう)を、下克上(げこくじょう)という。

戦乱は地方へも広がっていき、後に戦国時代(せんごくじだい)とよばれる戦乱の時代に入っていきます。

戦国時代には、地方の各国の最高権力者は、大名(だいみょう)であった。戦国時代の大名を戦国大名という。戦国大名の多くは、もとは守護大名でなかった者が、下克上によって大名になっていった例が多い。大名のなかには、守護大名から、そのまま戦国大名になったものもいる。

戦国大名どうしも、領地の拡大などを目指して戦ったため、戦乱はつづき、100年ほど戦乱(せんらん)の時代が続く。

強い軍を作り、領地内をまとめるために、戦乱の時代に対応した、独自の法律を作りました。これを 分国法(ぶんこくほう)といいます。

武田信玄(たけだ しんげん)。(1521〜1573) 守護大名の一族の出身。甲斐の戦国大名。

たとえば戦国時代の大名の武田信玄(たけだしんげん)は、『甲州法度次第』(こうしゅうはっとのしだい)という分国法を1547年に作った。主な内容は次のとおりです。

「武田信玄の許可なく同盟を結ぶことを禁止する」
「他国に勝手に手紙を出してはならない」

他にも今川(いまがわ)氏の『今川仮名目録』(いまがわ かなもくろく)などの分国法がある。

分国法の内容は国によって違う(ちがう)が、多くの国の分国法では、勝手に他国と連絡をとることを禁止したりして、部下の裏切り(うらぎり)をふせぐための決まりや、部下どうしがあらそったばあいは両方とも罰することで領内を団結させるための決まりが多い。

部下どうしの争いを両方とも処罰することを 喧嘩両成敗(けんか りょうせいばい) という。

大名の多くは家来を自分の城の近くに住まわせた。このため、城の近くに街が出来た。こうして 城下町(じょうかまち) ができた。

今川氏の分国法
一. 今川家の家臣(かしん)は、勝手に他国から嫁(よめ)をもらったり、あるいは婿(むこ)に取ったり、あるいは他国に嫁を出すことは、今後は禁止する。
『今川仮名目録』(いまがわ かなもくろく)


武田氏の分国法
一. 武田信玄の許可なく同盟を結ぶことを禁止する。
一. 他国に勝手に手紙や贈り物(おくりもの)を出してはならない。

などのような内容が書かれている。

一. 喧嘩(けんか)をしたものは、どちらが良いか悪いかに関わらず、いかなる理由でも、両方とも処罰する。ただし、相手から喧嘩を仕掛けられても、こらえた者は処罰しない。
一. 主君から、もらった土地は、勝手に売買してはならない。やむをえず売買する場合は理由を申し出ること。
『甲州法度次第』(こうしゅう はっと の しだい)
1540年



  1. ^ <当時の「悪党」という言葉は、「強いもの」という意味です。
  2. ^ 銀閣には銀箔(ぎんぱく)は、はられていません。なぜ「銀閣」とよばれるのかはいろいろな説があります。

戦国時代[編集]

(せんごく じだい)

鉄砲とキリスト教の伝来[編集]

愛知万博のポルトガル館展示物)

戦国時代の16世紀の1543年に、九州の今でいう鹿児島県の島である種子島(たねがしま)に、ポルトガル人を乘せた中国大陸の船が流れ着く。

このとき、ポルトガル人から鉄砲(てっぽう)が日本に伝わる。当時の鉄砲の仕組みは、火縄銃(ひなわじゅう)という仕組みである。それまでの日本には鉄砲は知られていなく、新兵器であった。

種子島(たねがしま)の領主の種子島時尭(たねがしま ときたか)は、ポルトガル人から大金を払って鉄砲を買い入れ、部下にその仕組みと製造法を学ばせた。 時尭はヨーロッパ人の鉄砲の威力を見て感心し、即座に2000両の大金を支払い2丁の鉄砲を購入したという。

やがて日本の各地に鉄砲の情報が広がる。堺(さかい、大阪府にある)や国友(くにとも、滋賀県にある)で、大量に鉄砲が作られるようになった。

この時代のころ、ヨーロッパでは、海路での貿易が、さかんであった。なぜなら15世紀に入ってから西アジアではトルコ系のオスマン帝国が成長し、ヨーロッパは貿易ルートをオスマン帝国にさえぎられるようになっていた。このため陸路(りくろ)をさけた貿易が、さかんになった。

鉄砲の伝来は戦いの仕方を、大きく変えた。

馬にのって戦う騎兵(きへい)の戦闘から、足軽(あしがる)などの歩兵の集団に鉄砲を持たせて戦う集団戦法に変った。
城の城壁は、鉄砲の弾(たま)を防ぐため、強固になっていった。
戦争の勝負が、早く決まるようになった。


また、キリスト教が日本に伝わった。

フランシスコ・ザビエル。

1549年にはスペイン人の宣教師(せんきょうし)であるフランシスコ=ザビエルが日本の鹿児島に来て、キリスト教を伝えた。

そのあと、他の宣教師も、次々と日本にやってきた。たとえばルイス・フロイスなどの宣教師である。

宣教師は貿易の世話もしたので、大名たちの中にはキリスト教を保護する者が、西日本に多くいた。とくに、キリスト教の信者になった大名を キリシタン大名(キリシタンだいみょう) という。 当時の日本では、キリスト教徒のことを キリシタン と呼んでいた。

南蛮貿易[編集]

このようなことをきっかけに、日本とポルトガルとの貿易が始まり、やがてスペインも日本との貿易を始め、ポルトガル人・スペイン人の商船が、九州の長崎や平戸(ひらど)や、大阪の堺(さかい)の港などを訪れ、貿易をするようになった。

日本への輸入品は、中国の生糸や絹織物など、中国産の物品が中心だった。ヨーロッパの鉄砲、火薬、毛織物、時計、ガラス製品、南方の香料なども、日本に輸入され、伝えられていった。日本からの輸出品は、銀や刀剣だった。当時の日本では銀山の開発が進んでいたのでおり、世界市場に影響を与えるほどの産出量・輸出量だった。

当時の日本人がヨーロッパ人を「南蛮人」(なんばんじん)と読んだので、日本によるヨーロッパとの貿易を南蛮貿易(なんばん ぼうえき)という。

天下統一へ[編集]

織田信長・豊臣秀吉・徳川家康

(おだのぶなが・とよとみひでよし・とくがわいえやす)
  • 桶狭間の戦い(おけはざま の たたかい)
織田信長(おだ のぶなが)
1565年

戦国時代には各地に大名がおり、多くの大名どうしが争っていた。1560年以降から、まず、尾張(おわり、愛知県にある)の 織田信長(おだ のぶなが) が勢力を伸ばし始める。きっかけは、1560年に、桶狭間の戦い(おけはざま の たたかい)で駿河(するが)の大名である今川義元(いまがわ よしもと)の軍に尾張が攻めこまれたが、今川義元を織田らの軍が討ち取り、今川義元は死亡する。このため、今川軍は負ける。

桶狭間の戦い以降、信長は西へと勢力を伸ばしていく。1568年には、足利義昭(あしかが よしあき)を支援して京都に入り、義昭が室町幕府の第15代将軍になります。しかし、信長と足利義昭はやがて対立するようになります。そして、義昭の呼びかけに応じて、さまざまな勢力が信長と戦うようになります。最初は信長も苦しい戦いを強いられていましたが、各勢力を個別に倒していきます。そして、1573年に義昭は京都から追放され、室町幕府は滅びました。

1569年、キリスト教の宣教師のルイス・フロイスと初めて出会い、彼にキリスト教の布教を許可します。信長本人はキリスト教の信者ではなく、信長の狙いは宣教師のもたらす情報などが狙いだとか、あるいは当時に信長と敵対していた仏教勢力への対策などと、言われています。

  • 長篠の戦い
長篠の戦い。左側が織田・徳川の連合軍。右側が武田軍。

1575年に織田・徳川の同盟と、対する敵は、甲斐(かい)の大名の武田勝頼(たけだ かつより)らの戦争である 長篠の戦い(ながしののたたかい) が三河(みかわ)で起きる。この戦いでは、織田・徳川らの鉄砲隊の活躍により、織田が勝ち、武田は負ける。 武田の戦法は騎馬兵による従来の戦法であった。

  • 安土城(あづちじょう)

1576年、近江(おうみ、滋賀県)に城を築かせ(きずかせ)、天守(てんしゅ)を持つ 安土城(あづちじょう) を築かせる。

安土城の城下町では、次に説明する楽市楽座(らくいち らくざ)などの新しい政策が行われた。

  • 楽市楽座(らくいち らくざ)

商業をさかんにするため、関所(せきしょ)で通行税(つうこうぜい)をとることを廃止(はいし)した。 一般に商人は、利益をだすために、費用をあまり払いたくないので、そのため税のひくい場所で商売をしたがります。

また、各産業の同業者組合である座(ざ)の独占権を廃止し、だれでも商売が始められるようにします。このように座の独占権を廃止したことを 「楽座」(らくざ) と言います。

そして、商業を活発にするための信長による一連の規制(きせい)の撤廃(てっぱい)などの商業の振興策(しんこうさく)を、楽市楽座(らくいち らくざ)といいます。

本能寺の変[編集]

1582年

1582年、中国地方へと勢力をひろめるため、織田軍は秀吉などに命じて、中国地方の大名の毛利と戦争をしていました。信長はこれを支援するため中国地方に向かう途中、京都の本能寺に泊まって(とまって)ました。

このとき、家臣の明智光秀(あけち みつひで)が反逆をして、この本能寺で信長および信長の子の織田信忠(おだ のぶただ)たちは死亡します。

この1582年の本能寺での一連の事件が本能寺の変(ほんのうじのへん) です。

( 語呂合わせ:いちごパンツ(1582)の信長 本能寺(ほんのうじ)で、没す(ぼっす) )

もちろん、当時にはパンツなんてありませんので、実際には、いちごパンツなんて、はいていません。語呂合わせのためのジョークです。

羽柴秀吉の台頭(たいとう)[編集]

豊臣秀吉。

信長の死を聞いた羽柴秀吉は、ただちに毛利との停戦をし、そして京都・大阪に向かい 山崎の戦い(やまざき の たたかい) で明智光秀を倒します。

その後、信長の家来だった柴田勝家と戦い、賤ヶ岳の戦い(しずがたけのたたかい)で秀吉軍は柴田軍を倒します。

このようにして、しだいに秀吉の地位は高まっていき、信長の領地を受け継いでいきます。

1583年に秀吉は、大阪にあった石山本願寺(いしやまほんがんじ)の跡地(あとち)に大阪城(おおさかじょう)を築かせ、この大阪城を本拠地(ほんきょち)にした。

そのあと、秀吉は各地の大名たちを平定し従えていきます。

1685年、羽柴秀吉は朝廷から 関白(かんぱく) の称号を、もらいます。 1586年、羽柴秀吉は朝廷から豊臣(とよとみ)の姓(せい)をもらい、豊臣秀吉(とよとみ(の) ひでよし)と名乗る許可を得ます。

そして1590年には、秀吉に従わなかった北条(ほうじょう)氏の治める関東の小田原(おだわら)を攻め、北条氏政(ほうじょううじまさ)を滅ぼします。

同1590年、秀吉に従っていなかった東北の伊達(だて)氏など東北の大名は、秀吉にしたがい、これで秀吉が天下統一をなした

秀吉の政策[編集]

  • 太閤検地(たいこうけんち)

農民から年貢を取るための土地の調査を検地(けんち)という。

検地は信長の時代からも行われていたが、秀吉は各地でちがっていた長さや面積などの単位を全国で統一させた。年貢をおさめる枡(ます)も全国で統一させた。マスの基準(きじゅん)は、京都で使われていた京枡(きょうます)が全国の基準の枡になった。

そして記録によって、田畑の面積や、田の収穫高である石高(こくだか)、その田畑を耕す農民の名前などが記録される 検地帳(けんちちょう) が作られた。

検地帳によって耕作者が、はっきりしたので、農民は田畑を持つ権利を認められたが、同時に年貢(ねんぐ)をおさめる義務をおうことになり、土地を勝手に離れる(はなれる)ことができなくなった。 また、これで、かつての荘園のように土地の権利がはっきりしない土地がなくなった。

  • 刀狩(かたながり)

1588年に農民から刀や鉄砲などの武器を没収する命令の刀狩令(かたながりれい)をだします。名目は大仏を京都の方広寺(ほうこうじ)に作るので材料の鉄が必要なため、という名目です。秀吉の狙いは、一揆(いっき)を防ぐため、というのが現代(2014年に記述)での一般的な考えです。

  • 兵農分離

このような検地や刀狩の結果、農民と武士との中間的な立場の人間がいなくなり、農民と武士との身分のちがいが、はっきりとしました。このようなことを兵農分離(へいのう ぶんり)といいます。

  • キリスト教の禁止

豊臣秀吉は、キリスト教を禁止します。 1587年にキリスト教の宣教師(せんきょうし)を日本の外へ追放(ついほう)するバテレン追放令(バテレンついほうれい) を出します。バテレンとは、ポルトガル語で神父を意味する パードレ padre が由来の言葉。 (※ ポルトガル語表記「padre」は、おぼえなくてよい。)

しかし南蛮貿易は許可していたこともあり、取り締まりの効果は不十分だった。 秀吉は、はじめのうちは南蛮貿易を保護していたので、キリスト教の布教を許していましたが、考えを変えたわけです。では、なぜ考えを変えたのでしょうか。

一般に言われているのは、キリシタン大名の大村純正が長崎をキリスト教に寄付し、長崎がキリスト教の領地になっていることを、九州の平定の際に知った秀吉が、キリスト教は天下統一のさまたげになるだろうと考えたから、と言われています。

朝鮮出兵[編集]

国内を統一した秀吉は、つぎに、外国を征服(せいふく)しようとした。そのため、中国大陸、当時は明(みん)という国を征服しようとした。このための足がかりとして、まず朝鮮(ちょうせん)に通行の許可(きょか)や協力などをもとめたが、朝鮮に断られたため、朝鮮との戦争になり、2度にわたって朝鮮に兵をおくって戦争をした。

この戦争を日本の呼び方で、朝鮮出兵(ちょうせん しゅっぺい) とか 朝鮮侵略(ちょうせん しんりゃく)と いいます。

なぜ秀吉が明への侵略戦争を考えたはじめたかについては、学者でも、まだ理由が解明されていません。仮説(かせつ)は多くありますが、学者の研究途中です。

秀吉の朝鮮出兵は2度、ありますが、最初の1回目の出兵は1592年にあり 文禄の役(ぶんろくのえき) と言い、2回目の出兵は1597年にあり 慶長の役(けいちょうのえき) と言います。

2つの出兵とも、最終的に日本は朝鮮の撃破(げきは)に失敗します。

『行録』などの記述をそのまま絵にしたもので、亀甲船の想像図。少なくとも18世紀以後に描かれたものであり、史料価値はほとんどない。

1回目の朝鮮出兵である文禄の役 では、朝鮮の各地や海上で日本軍は朝鮮軍と戦いましたが、朝鮮の軍人である李舜臣(日本語よみ :り しゅんしん、  韓国語よみ :イ スンシン)がひきいる水軍に、日本は苦戦しました。また明からの援軍が朝鮮に協力したので、日本の戦況は不利になっていきました。

朝鮮の民衆も朝鮮軍に協力したが、このため、朝鮮軍だけでなく朝鮮の民衆も戦争に巻き込まれた。

京都にある耳塚(鼻塚)。朝鮮出兵で切り取られた耳や鼻を供養(くよう)している。

2回目の出兵では、秀吉は、部下に手柄を証明させるために、敵の耳や鼻を切り取って送ってこい、という命令をだします。 このため日本に多くの朝鮮人・民国人の耳や鼻が送られてきます。

戦国時代では、手柄をしめすために敵の将の首を切り取り送るのが一般だったのです。階級の低い敵兵の場合には首ではなく鼻などを切り取っていました。


1598年に日本国内で秀吉が病死し、朝鮮出兵は終わります。

  • 朝鮮出兵の結果
    • 日本の諸大名などからの豊臣氏への信用が弱まり、のちに、豊臣氏が没落していくキッカケの一つになる。
    • 朝鮮に、大きな被害を与えた。
    • 戦争で消耗した明(みん)の力も弱まる。
    • 朝鮮の陶磁器(とうき)の文化が日本に伝わる。朝鮮人の捕虜が日本に連行されたり、物品の略奪などを通して。佐賀県の有田焼(ありたやき)、鹿児島県の薩摩焼(さつまやき)、山口県の萩焼(はぎやき)など。今では、その地方の特産品の一つになっている。
    • 朝鮮の活字(かつじ)技術が日本に伝わる。
信長・秀吉・家康の時代
織田信長
織田信長の顔。
豊臣秀吉
豊臣秀吉の顔。
徳川家康
徳川家康の顔。
1534 尾張の大名の子として生まれる 1537 尾張に農民の子として生まれる 1542 三河の大名の子として生まれる
1560 今川氏を破る
1562 家康と連合する 1562 信長と連合する
1573年 足利氏を京都から追い出す
(室町幕府をほろぼす)
1575 長篠の戦い (信長と家康の連合軍が、武田の軍をたおす)
1576 安土城を築く
1580 石山本願寺を倒し、
一向一揆に勝利する
1582 本能寺の変で明智光秀におそわれ、
信長は自害する
1582 明智光秀をたおす
1583 大阪城を築く
1585 関白になる
1588 刀狩りを命じる
1590 日本を統一する 1590 秀吉の命令で、関東に領地をうつす
1592 朝鮮をせめる
1597 ふたたび朝鮮をせめる
1598 病死する
1600 関ヶ原の戦いで勝つ
1603 征夷大将軍になり、江戸幕府をひらく
1615 豊臣氏をほろぼす
1618 病死する

安土・桃山文化[編集]

信長が生きてて影響力の強かったころの安土文化(あづち ぶんか)と言います。信長が安土城を建てさせたころの文化だからです。秀吉の時代の文化を桃山文化(ももやま ぶんか)と言います。 安土文化と桃山文化を合わせて安土桃山文化(あづちももやま ぶんか)と言います。

  • 茶道(さどう)
千利休
(画:長谷川等伯)

室町時代に生まれた茶の湯は、千利休(せんの りきゅう)により、茶道(さどう)へと発展した。 織田信長のころから、めずらしい茶器(ちゃき)が好まれるようになった。朝鮮出兵のときに陶工を捕虜として連行した理由の一つには、このようなことがある。

  • 絵画
『唐獅子図屏風』(からじし ずびょうぶ)、狩野永徳。

ふすま絵や屏風絵(びょうぶえ)が発達した。狩野永徳(かのう えいとく) や 狩野山楽(かのう さんらく) などの 狩野派(かのうは) の画家が活躍した。ふすま絵や屏風絵(びょうぶえ)を合わせて障壁画(しょうへきが)という。

狩野永徳の作品の『唐獅子図屏風』(からじし ずびょうぶ)が有名。

ほかの派の画家では、長谷川等伯(はせがわ とうはく)が有名。

『洛中洛外図』(らくちゅうらくがいず)。狩野永徳の作品と、されている。
この洛中洛外図には、祇園祭り(ぎおん まつり)のようすが、えがかれている。(まんなかのほうに、祇園まつりのようすが、かかれている。)
現在の京都の 祇園(ぎおん)まつり
  • 南蛮文化

南蛮貿易により、ヨーロッパの医学・天文学・印刷技術が日本に伝わる。

食べ物のパン(pão、パアオ)やカステラ(pão de castela)、カボチャ、また、衣服のカッパ、カードのカルタ(cartas、カールタス)、食べ物のテンプラが日本に伝わる。 (※ ポルトガル語表記は、おぼえなくてよい。「pão」や「carta」などは、おぼえなくてよい。)

「カステラ」の由来は、有力な説はポルトガル語でCastelaがスペインのカスティーリャ地方のことだが、カスティーリャ地方のパンケーキという意味でカステラが日本に伝わって、日本語の「カステラ」になったという。 (※ ポルトガル語表記は、おぼえなくてよい。)


  • 芸能

浄瑠璃(じょうるり)と歌舞伎(かぶき)

  • 浄瑠璃(じょうるり)
民衆のあいだで、三味線の音色に合わせて、人が物語をかたるのを見て楽しむ浄瑠璃(じょうるり)が流行る。この浄瑠璃は、さらに発展し、人の代わりに人形を使う人形浄瑠璃(にんぎょうじょうるり)へと発展した。
  • 歌舞伎(かぶき)
「出雲(いづも)の阿国(おくに)」という女が始めた歌舞伎踊りが人気(にんき)になる。出雲とは、今でいう島根県。

江戸時代[編集]

徳川家康

江戸時代の始まり[編集]

豊臣秀吉が死ぬと、息子の豊臣秀頼が跡を継ぎました。しかし、秀頼はまだ幼かったため、秀吉にしたがっていた大名の一人の徳川家康のいきおいが強まりました。そのため、秀吉の重臣の石田三成などとの対立が起きました。両者の対立は深まり、1600年、家康と三成の軍勢が関ヶ原(せきがはら)(岐阜県)で戦いました。この戦いを関ケ原の戦いといいます。この戦いに家康が勝ち、徳川家の力はますます強くなりました。

1603年、家康は征夷大将軍に任命され、拠点としていた江戸に幕府を開きました。これが江戸幕府であり、この時から江戸時代が始まります。

1614年、 家康は大坂城へ攻め込みました(大坂冬の陣)。1615年、大坂城が攻め滅ぼされ、豊臣秀頼は自害して豊臣氏は滅亡しました(大坂夏の陣)。こうして、徳川家に対抗する勢力はなくなりました。

日光東照宮の陽明門。日光東照宮は、3代将軍家光によって建造が命令され、家康をまつっている。世界文化遺産、および、国宝。

江戸時代初期の政治[編集]

武士の統制[編集]

江戸幕府では、領地の石高が1万石以上の武士を大名と呼びました。1万石に満たない武士で徳川家に直接つかえるものは、旗本と御家人に分けられました。旗本は直接将軍に会うことができ、幕府の高級官僚や武官に任ぜられました。御家人は直接将軍に会うことはできず、下級役人の職に就きました。

大名の支配する領地は(はん)とよばれました。徳川家の親族の大名や、関ヶ原の戦いよりも前に古くから徳川に仕えていた大名は重要な地域や江戸の近くへと配置されました。いっぽう、関ヶ原の戦いのあとに徳川に仕えた大名は、中国・四国や東北など、江戸から遠いところに配置されました。

大名の種類 説明
親藩 徳川家の親族の大名。江戸の近くや重要地点に配置されました。
特に尾張(愛知県西部)、紀伊(和歌山県の大半)、水戸(茨城県)は御三家とよばれ、
尾張と紀伊からは将軍に後継ぎがいなかった場合に、次の将軍を出す資格がありました。
譜代(ふだい) 関ヶ原の戦いよりも前の古くから徳川に仕えていた大名。
譜代は、江戸の近くや重要地点に配置されました。
また、老中などの幕府の重役に就任することもできました。
代表的な大名は、彦根(滋賀県南部)の井伊家、酒田(山形県北西部)の酒井家など。
外様(とざま) 関ヶ原の戦いのあとに徳川に仕えた大名。
九州や四国や東北などに多く、大きな領地をもつ大名も多い。
加賀(石川県)の前田家、薩摩(鹿児島県)の島津家、仙台の伊達(だて)家など。

1615年、大名を取り締まるための法が作られました。これを武家諸法度(ぶけしょはっと)といいます。この法に違反すると、領地の没収などの厳しい処分をうけました。また、それぞれの藩の大名の本拠以外の城を全て破壊させ、大名の居城を一つにかぎらせるという命令もくだされました(一国一城令)。

武家諸法度(元和令抜粋・現代語訳)
一 武芸にひたすらはげむようにしなさい。

一 諸国の城はたとえ修理であっても幕府に報告せよ。ましてや、新しく城をつくることは厳しく禁止する。

一 幕府の許可なく結婚してはならない。

徳川家光(いえみつ)

1635年、3代将軍の徳川家光のときには武家諸法度に、大名には一年ごとに江戸と領地に半数ずつ住まわせる参勤交代という決まりが付け加えられました。 また、江戸に大名の妻や子が住まわせられました。

幕府の目的は、大名の経済力を弱めることと、大名の妻や子を人質に取ることだろう、と今では言われています。

園部藩参勤交代行列図 (1) (南丹市文化博物館蔵)
園部藩参勤交代行列図 (2) (南丹市文化博物館蔵)
園部藩参勤交代行列図 (3) (南丹市文化博物館蔵)

一方で、参勤交代によって道路などの設備が整い、宿場町も出来ていきました。また、江戸の文化が地方にも広がるきっかけともなりました。


朝廷などの統制[編集]

天皇や公家を取り締まるために禁中並公家諸法度(きんちゅうならびに くげしょはっと)という法が作られました。また朝廷と西日本の外様大名を監視するために幕府は京都所司代(きょうとしょしだい)を設置しました。

禁中並公家諸法度(抜粋・現代語に意訳)
一 天皇が修めなければならない芸能は、第一に学問である。

一 家柄が良くても能力のない人物は大臣や摂政・関白に任命してはならない。

一 元号を改める場合には、中国のものから縁起の良いものを選んで決めなさい。

一 紫衣[1]を許された寺の住職は、以前は非常に少なかった。しかし、近年はむやみに許可されている。
これは寺の序列を乱し、名誉を汚すことだ。以後はその能力をよく調べて任命すべきである。

身分制度[編集]

江戸時代の身分別の人口割合。(関山直太朗『近世日本の人口構造』より)

秀吉によって進められた身分の区別は江戸幕府によってより一層進みました。江戸時代には身分はほぼ固定化されました。また、身分ごとの社会的役割や仕事が定められました。

江戸時代の身分はどこに住んでいるかで決まりました。身分ごとに髪型や衣服も決められましたが、これは時代が進むごとに厳格化していきます。

また、百姓や町人は五戸前後を一まとめにして組織化されました(五人組)。五人組は税や犯罪で連帯責任を負わせて互いに監視させたほか、相互扶助の単位としました。

武士[編集]

武士は城下町の武家屋敷に住んでいました。政治と軍事は武士が行うものとされました。

また、武士だけが持つ特権として、名字(苗字)を名乗り、また、刀を身につけることが許されるという特権がありました。この苗字と帯刀の特権を合わせて、苗字帯刀といいます。

百姓[編集]

農村や漁村や山村に住む人々は百姓とよばれました。その中でも、自分の土地を持つ者を本百姓といい、土地をもたないものは水呑(みずのみ)百姓と呼ばれました。本百姓は毎年、税として年貢を納めなければなりませんでした。年貢は主に収穫した米が中心でしたが木材、塩、砂糖などの特産物を年貢とする地方もありました。

有力な百姓は、村の長である名主(なぬし)[2]となりました。名主は年貢の徴収、法の伝達など様々な行政的な事務や地元の要望を領主に伝えるなどの仕事を行いました。

町人・その他[編集]

城下町などの都市に住む職人や商人などは町人とよばれました。彼らは店や住宅の広さなどに応じた税金を支払っていました。

他に、えた、ひにんと言われる、もっとも身分が低いとされた人々がいました。彼らは皮の加工や刑吏(けいり)[3]など、当時の人々からさけられるような仕事をしなければならず、住むところや衣服も他の身分の人々以上に厳しい制限を受けていました。

幕府の仕組み[編集]

中央の仕組み[編集]

   ┏━大老
   ┃
将軍━╋━老中━━━━┳━大目付
   ┃       ┃
   ┃       ┣━町奉行
   ┃       ┃
   ┃       ┗━勘定奉行
   ┃
   ┣━若年寄
   ┃
   ┗━寺社奉行

将軍の補佐をする老中が置かれました。ほかに老中の補佐をする若年寄がいます。老中は幕府による全国支配についての政策を担当し、若年寄は御家人と旗本を管理しました。

臨時に大老が置かれることがありました。大老の地位は老中よりも上で、江戸幕府の最高職ですが、

老中の下に、大名を取り締まる大目付、江戸の町の政治や裁判をおこなう町奉行、財政の管理をする勘定奉行があります。

このほか、神社や寺の管理を行う寺社奉行があります。

地方の管理[編集]

将軍━┳━京都所司代
   ┃
   ┣━大坂城代
   ┃
   ┗━遠国奉行(長崎奉行など)

京都に朝廷と西日本の大名を監視するための京都所司代が、大阪にも大名を監視するための大阪城代がおかれました。また、長崎など幕府が直接支配する地域には遠国(おんごく)奉行が置かれ、町の政治や警察などの仕事を行いました。

江戸時代初期の外交[編集]

朱印船貿易[編集]

徳川家康朱印状/オランダ国立公文書館蔵

徳川家康の時代のころから、東南アジア方面の国々と貿易をしていました。この貿易には、日本の船に幕府の許可を示す朱印状が必要でした。朱印状を持っている日本の船を朱印船と呼びました。この朱印船による東南アジアとの貿易を朱印船貿易といいます。キリスト教が禁止されたあとにも、朱印船貿易は続けられました。

そのため、日本人も活発に貿易を行い、さらに海外に拠点をつくるようになりました。東南アジアのルソン(今のフィリピン)やシャム(今のタイ)にはこのような日本人が集団で移り住み、日本町が出来ました。

朱印船貿易は3代将軍の徳川家光のときに終わります。

オランダとの貿易と鎖国[編集]

家康はイギリスとオランダが日本と貿易することを許し、平戸(長崎県)での貿易が始まりました。そのきっかけは、1600年に豊後(大分県)に流れ着いたオランダ船に乗っていたオランダ人のヤン・ヨーステン(Jan Joosten)とイギリス人のウィリアム・アダムス(william Adams)が幕府の外交の相談役としてつかえたことでした。

スペインに遅れて貿易に参加することになったオランダやイギリスは、キリスト教の布教には関心がありませんでした。その上、オランダは日本との貿易を独占するために、スペインやポルトガルはキリスト教の布教を通じて日本を侵略しようとしている、と幕府につげていました。こうしたこともあって、1624年、幕府はスペイン船の来日を禁止しました。さらに、1639年にはポルトガル船の来航を禁止します。

一方、イギリスはオランダとの競争にやぶれ、日本をはなれました。

こうして、ヨーロッパの国のなかで日本と貿易をできる国は、オランダだけとなりました。また、明・清(今の中華人民共和国)の船も日本に来ることが認められました。

鎖国への歩み
おもなできごと
1612  幕府がキリスト教の禁止令(禁教令)を出し、幕領でのキリスト教が禁止される
1613  禁教令を全国に拡大適用する
1616  外国船との貿易を長崎と平戸に制限する
1624  スペイン船の来日を禁止する
1635  日本人の海外渡航の禁止。海外にいる日本人の帰国の禁止する
1637  島原・天草一揆が起きる
1639  ポルトガル船の来航を禁止する
1641  平戸(長崎県)にあったオランダ人の商館を、長崎の出島に移す
(鎖国の完成)
1824年、もしくは1825年に描かれた出島の鳥瞰図。扇形をしている。

また、幕府はキリスト教の布教も禁止し、外国人の自由な移動を原則として禁止しました。

このような、江戸幕府による外国人と日本人との交流を減らしていった対外政策は、1800年ごろから鎖国と言われはじめ、明治時代から「鎖国」という用語が広がります。

オランダとの貿易は、長崎に出島とよばれた人工島で行われました。幕府は、出島にオランダ人を住まわせました。さらに、幕府は長崎のオランダ商館長に、外国のようすを幕府に報告書の提出を義務づけました。これを『オランダ風説書(ふうせつがき)』といいます。

このように日本でのヨーロッパ人と日本人とのかかわりを制限していった結果、幕府が西洋についての情報と貿易の利益を独占しました。

キリスト教の禁止[編集]

当初、幕府は貿易による利益の方を重んじたため、キリスト教の布教を黙認していました。しかし、キリスト教徒(キリシタン)は増加する一方でした。また、神の前での平等を説くキリスト教の教えは、身分を重んじる幕府の方針と対立する可能性がありました。そのため、幕府は1612年にキリスト教を禁止する禁教令を出します。当初は幕府が直接支配する場所だけに適用されましたが、1613年に全国に適用されるようになりました。

二代将軍・徳川秀忠の頃には、キリシタンや宣教師への取り締まりは厳しさを増していきました。そのため、ひそかにキリスト教を信仰する「隠れキリシタン」とよばれる人々が出てきました。

イエス・キリストの踏み絵

1629年のころから、隠れキリシタンを取り締まるため、幕府は人々にキリストやマリアなどが描かれた銅板の絵(踏み絵)を踏ませ、これを拒否した者はキリシタンであるとして処罰しました。これを絵踏みといいます。

また、すべての人を寺院に所属させる制度を作りました(宗門改(しゅうもんあらため))。寺院は村人の宗派を証明する手続きをする義務を負いました(寺請制度)。

1637年 九州の島原半島(長崎県)や天草島(熊本県)で、キリスト教の信者や農民3万人あまりによる大規模な一揆が起きます。一揆の理由は、禁教によるキリシタンへの弾圧、および、領主による重い年貢などでした。中心人物となったのは、天草四郎(益田時貞)という少年でした。彼を中心として一揆軍は島原半島の原城にたてこもりましたが、12万人ほどの幕府軍により、一揆は鎮圧されました。この出来事を島原・天草一揆(島原の乱)といいます。

島原・天草一揆のあと、宗門改などが強化され、キリシタンの取り締まりはますます激しくなりました。

朝鮮との貿易[編集]

徳川家康の時代に、対馬藩(つしまはん)を通して朝鮮との貿易が行われます。秀吉の時代には朝鮮出兵により貿易が中断しましたが、江戸時代に入り日本と朝鮮との国交が回復し貿易が再開します。鎖国のあいだも朝鮮との貿易は幕府に許され、貿易が続きます。

3代将軍の家光の時代からは、日本で将軍がかわるたびに、朝鮮からの使者が訪れるようになります。これを朝鮮通信使といいます。朝鮮通信使には朝鮮の学者や文化人も同行していたため、日本の学者や芸術家、さらに町人たちとも交流を深めました。

蝦夷地[編集]

江戸時代、現在の北海道は蝦夷地(えぞち)とよばれており、アイヌ民族が住んでいました。

アイヌは、松前藩(まつまえはん)と貿易をしていました。アイヌの人が持ってくるサケ、コンブ、ニシン、毛皮を、米や日用品などと交換していたといいます。

しかし、アイヌの人々にとって不利な割合で貿易がひんぱんに行われていました。また、アイヌの人々を奴隷のように働かせる商人もいました。これにおこったアイヌの人たちが、17世紀の中ごろ、シャクシャインという人物を中心に反乱を起こしました。

琉球王国との交流[編集]

沖縄は琉球(りゅうきゅう)王国という独立国でした。

しかし、江戸時代の初めにあたる17世紀に、琉球王国は薩摩藩によって支配されました。しかし、薩摩藩は琉球王国をほろぼさず、形式的には独立国のままとしました。そして、以前から琉球が行っていた中国との貿易をつづけさせ、その貿易の利益を薩摩藩が手に入れました。

産業[編集]

農業[編集]

農地の開発[編集]

幕府や藩の財政は百姓からの年貢にたよっており、財政をゆたかにするために農業を発達させる必要がありました。そのため、幕府や藩は、新田の開発に力を入れ、開墾(かいこん)が進みました。こうして、全国の田畑の耕地面積が秀吉の頃の約2倍に広がりました。

一方で、江戸時代は貨幣が全国的に流通していたので、武士は年貢米を売って現金化していました。特に藩の年貢米は江戸や大阪にある蔵屋敷に運ばれ、そこで現金に変えられました。

治水工事も進み、農地には水を引く灌漑(かんがい)のための用水路が各地にできました。箱根上水や玉川上水などの用水路もこの時代に完成しました。

九州の有明湾では干拓事業によって農地が広げられました。


新しい農具[編集]

また、備中ぐわ、千歯こき、とうみ(唐箕)などの農具も開発されました。

備中ぐわは耕すための農具で、さらに深く耕せるようになりました。千歯こき(いね)の穂から米つぶを脱穀するための道具です。くし状の部分が鉄製で、何本もの、くし状の「こき」があるので、一度に多くの穂を脱穀できます。とうみは風をおこして米ともみ殻やごみや割れてしまった米などに分ける道具です。

また、灌漑用の道具も開発されました。踏車(ふみぐるま)竜骨車(りゅうこつしゃ)は人間が踏んで回す水車で、水を高いところにあげられるようになりました。こうして、これまでは水を引くのが難しい土地にも水を送ることが出来るようになりました。

商品作物の広がりとその背景[編集]

売ることを目的とした、綿・なたね・茶・麻・あいなどの商品作物の栽培も活発になっていきました。特に、綿の生産の発達により、民衆の服は麻から綿に変わっていくようになります。

商品作物の栽培が広がった理由の一つに、農村でも貨幣が広く使われるようになったことがあげられます。このころから、なたね油やごま油のしぼりかすやいわしを干して固めた干鰯(ほしか)などが肥料に使われるようになります。これらは農村で自給できるものではなく、お金を出して買っていたことから金肥とよばれました。こうした金肥の購入に現金が必要となったのです。

また、米よりも現金化しやすいことに各藩が注目しました。当初は田を商品作物用の畑に変えることは禁止されていましたが、徐々に黙認されるようになります。やがて、財政が苦しくなると、藩は特産品でもある商品作物に注目し、藩の現金収入を増やすために積極的に栽培をすすめるようになりました。

水産業[編集]

江戸時代には大きな船の建造が禁止されていたことなどから沿岸での漁業が中心でした。一方で、麻でできた丈夫な網ができたため、大量の漁獲ができるようになります。

九十九里浜ではいわし漁が盛んに行われました。獲られたいわしは、肥料に加工されたり油を取ったりしました。

蝦夷地ではにしん漁とこんぶ漁が発達しました。にしんやこんぶはアイヌの人々が獲ったものを松前藩が米などと交換しました。

土佐(高知県)や紀伊(和歌山県)では捕鯨やかつお漁が盛んに行われました。かつおはかつお節に加工されて全国に流通しました。

瀬戸内海では塩田が発達し、製塩がさかんとなりました。

工業[編集]

工業の発展[編集]

百姓は、農作業のないときに綿花や絹などの織物や商品作物を加工した商品を生産をするようになりました(家内制手工業)。

やがて、産業が活発になってくると商人が生産に必要な設備や資金などを百姓に貸し与え、百姓が自宅で生産し、出来あがった製品を商人が買い取り販売する、問屋制家内工業とよばれる仕組みが生まれていきました。

さらに、商人や大地主が、生産に必要な設備を買い入れ、多くの働く人をあつめる工場を作り、分業して効率的に生産する工場制手工業( マニュファクチュア)とよばれる生産様式が発達しました。

江戸時代の初期には伊丹(兵庫県)や池田(大阪府)の酒、野田や銚子(共に千葉県)の醤油などが工場制手工業の方法によって発展しました。後に、尾張(愛知県西部地方)の綿織物、西陣(京都府)・足利(栃木県)・桐生(群馬県)の絹織物なども工場制手工業によって生産されるようになります。

  • 鉱業
鉱山の多くは、幕府が経営した。生産された金・銀・銅は貨幣の材料になったり、輸出品になった。

金山

佐渡(さど、新潟県)の金山や、石見(いわみ、島根県)の金山がある。

銀山

生野(いくの、兵庫県)の銀山。


銅山

足尾(栃木県)の銅山や、別子(べっし、愛媛県)の銅山。

銅は長崎貿易の輸出品になった。

鉄は砂鉄や、釜石(宮城県)の鉄山から。

商業[編集]

江戸時代は、商人があつかう商品の量や種類が増えた。このため、商業の仕組みが発達した。貨幣が全国的に流通するようになった。

商品の量や種類がふえ、複雑化していったので、商人も分業化するようになり、問屋や仲買(なかがい)や小売商の区別ができた。

問屋どうしの中でも分業はすすみ、さらに分業化が商品の種類ごとに進み、米をあつかう米問屋や、木綿をあつかう木綿問屋、油問屋など、専業化していった。

発展的事項: 分析(ぶんせき)してみよう。
では、そもそも農民は,なぜ、貨幣を使う必要があったのだろうか?
  • もしかしたら、こういう理由で貨幣が必要なのか?
おそらく、農工業などの産業の規模が大きくなり、また高度化し、もはや農村が一つの村の中で全てを生産することが、むずかしくなっていったのだろう。このため、おそらく村の外から必要な物を買い入れる必要が増えたのだろう。
このようなことが全国各地でふえていき、したがって商人が取り扱う貨幣や仕事の漁も増え、商業の規模も大きくなったことが、商人の分業化の理由だろう。


世間には「貨幣経済が進むと、自給自足がむずかしくなる。」という人がいますが、むしろ順序が逆で「人口がふえるなどして消費がふえ自給自足がむずかしくなったから、貨幣経済をして労働者どうしが協力しあう必要が生じた」と考えるべきでしょう。
とは言え、貨幣がないと生活しづらい社会へと、日本では江戸時代の頃から、なっていったことは、たしかです。
現代の日本の経済も、貨幣がないと生活しづらい世の中です。世界中の多くの国が、貨幣がないと生活しづらい社会に現代は、なっています。


  • 商業のしくみの理由を、読者は考えてみるべきです。
商業について勉強をするときは、このように「なぜ、こういう仕組みが出来たのだろうか?」ということを考えてみてください。1分間ほど、ちょっとだけ考えるぐらいでもいいので、考えてみて下さい。
「なんでかな?」「もしかしたら、こうかな?」と考えてみないと、せっかく用語を勉強しても、あまり記憶に残りません。


考えてみた内容がまちがってるかもしれませんが、だとしたら気づいたときに、おぼえなおしていけばいいだけです。
※この説で紹介した考えも、ひょっとしたら、まちがっているかもしれません。だから、文章をそのままおぼえるのではなく、読者は自分なりに考えてみて下さい。
  • もしかしたら、こういう理由で商取引が活発になったのか?
村の外や藩の外との取引が活発ということは、前提として、村どうし・藩どうしが信用しあっているということです。つまり、日本が平和ということです。江戸時代の商業は、戦国時代とは、ちがう、というわけです。
また、商品を輸送する物流のためには、道路や運送業が必要です。江戸時代の道路や街道などの発達の理由は、「参勤交代のため」という理由の他にも、もしかしたら商業上での商品の輸送が必要という物流上の理由もあったのかもしれません。
なお、大量の商品を運ぶには、海上交通をつかうと、時間はかかるが安く運びやすい。このため、江戸時代は海運が発達した。


戦国時代だと、交通が不便なところに城を気づいたりすることもありましたが、江戸時代での商売となると、交通が便利でないとこまってしまうわけです。

(発展的事項、おわり。)

商人の種類[編集]

いろんな種類の商人の職が出てきます。現代の仕事に関連づけて、おぼえてください。現代の仕事に関連づけないと、おぼえづらいでしょう。

  • 蔵屋敷

江戸時代は貨幣が全国的に流通していたので、武士は年貢米を売って現金化していました。

年貢米や、年貢のかわりの特産物は、江戸や大阪にある蔵屋敷に運ばれ、商人によって売りさばかれ現金化されます。 大阪は商業がさかえ、「天下の台所と言われました。

分業化は蔵屋敷でも、されていました。仕事の種類によって、大阪では蔵元や掛屋などに分業されました。江戸では 札差などがありました。

蔵元は、売りさばきが担当の商人です。今でいう販売員です。

掛屋は、売上金の輸送や保管の仕事です。今でいう銀行の 預金業務や 振り込 のような仕事をしています。


  • 両替商

両替商(りょうがえしょう)は、もともとは、金貨や銀貨や銅貨の交換を、手数料をもらって行なう仕事ですが、そのうち仕事の内容が変わり、今でいう銀行のような預金業務と貸付業務を行なうようになった。

両替商は貨幣の調達などに信用があるので、両替商どうしの帳簿上の処理で貨幣の送金の代わりとする 信用取引の仕組みが発達した。


江戸を中心に関東では金が取引の主流であり、大阪などの関西では銀が取引の主流であったので、両替が必要だった。「両」とは金貨のこと、あるいは金貨の単位である。

  • 鉱山の開発

貨幣をつくるには、材料の金や銀が必要なので、幕府は鉱山を開発しました。 また、貨幣をつくる権利は幕府が独占した。


商業の発達には、交通の発達も必要である。

海上交通の発達[編集]

船は、大量の荷物を、少ない人物で運べます。しかも、一度、船に積めば、目的地までは途中で積み替えをする必要がありません。

このため、大量の商品を運ぶには、海上交通をつかうと、時間はかかるが安く運びやすい。このような理由で、海運(かいうん)が発達した。 また、船も改良され発達した。

菱垣廻船の復元船「浪華丸」

菱垣廻船(ひがきかいせん)

積み荷が船から落ちないように、船の両側に(かき)がつけられ、その垣の形が菱型(ひしがた)に組まれていたので、菱垣廻船という。

樽廻船(たるかいせん)

酒はくさりやすいので、素早く運ぶ必要があった。そのためのスピードが早くなる工夫をされた船である。


  • 航路

東回り航路

東北地方の太平洋側から、太平洋側を通り、江戸までをむすぶ航路。


西回り航路

日本海側の東北地方から、瀬戸内海を通り、大阪までをむすぶ航路。

陸路の交通[編集]

全国を道でつなぐため、街道が出来た。

江戸の日本橋の、ようす。五街道は日本橋が起点。画:歌川広重『東海道五十三次』より。
歌川広重

江戸の日本橋を起点とする幹線道路としての街道が5本あるが、これを五街道という。

五街道と、そのほかの道である 脇街道 などによって、東北から山陰・山陽地方までが道でつながった。

九州や四国も、それぞれの島の内部が、道で、つながった。

五街道は、東北地方の南部の今でいう福島県から京都までしか、つながっていない。

日光へと向かう 五街道のうちの街道が日光街道である。

日光街道は、北関東の宇都宮のあたりで、ふたまたに分かれていて、宇都宮から福島の白河へと向かう奥州街道に分岐している。 (※ 宇都宮・白河など、細かな地名は、おそらく教科書の範囲外なので、学校対策では、おぼえなくてよい。)

以上の二本の街道が、五街道への北への方面である。


次に京都方面について、説明する。

京都の方面へと江戸から向かう街道は3本あるが、そのうちの2本は、じつは、途中(とちゅう)で合流(ごうりゅう)する。

五街道のうちの一つである甲州道中(こうしゅうどうちゅう)は、長野県の信濃(しなの)の諏訪(すわ)のあたりで、五街道のうちの別の一つである中山道(ちゅうさんどう)と合流する。 甲州道中の名前は「甲州」道中だし甲府(こうふ)を通るが、じつは長野県の信濃まで、つながっている。

五街道のうちの一つである東海道は、太平洋ぞいの街道であり、京都まで他の街道とは、つながっていない。東海道の経路は、今でいう神奈川県 → 静岡県 → 愛知県 → 京都 の経路である。 当時の用語で言えば、小田原(おだわら、神奈川) → 駿府(すんぷ、静岡) → 名古屋(なごや、愛知) → 京都 である。

東海道は、もっとも人々の行き来が、さかんだった。


  • 関所
関所の様式の門。観光テーマパークでの復元。

警備上の理由から、街道には、通行者の取り調べるため通行を制限する関所が、おかれた。 関所では、通行者は、関所の役人に、通行許可証である手形を見せる必要があった。

関所では、とくに江戸に入る鉄砲と、江戸から出る女は、きびしく調べられた。鉄砲の取り調べは、反乱を恐れて、のことである。江戸から出る女は、参勤交代で人質として江戸に住まわせた女である、大名の妻が、こっそり江戸から故郷へ帰国することを恐れて、である。

「入り鉄砲に出女」と言われ、これら2つは、きびしく調べられた。


街道には、旅行者が寝泊まりするための宿場が、もうけられた。

大名や幕府の役人のとまる宿である本陣や、ふつうの武士のとまる脇本陣や、一般の旅行者が泊まる旅籠が、もうけられた。

宿場の周辺の人々には、役人などのため人手をかす負担があって、この負担を 助郷(すけごう) という。

東海道には53の宿場があり、東海道五十三次(とうかいどうごじゅうさんつぎ)と言われた。


街道には、通行者が場所をわかりやすいように、並木(なみき) や 道しるべ が、もうけられた。また街道の道のりの約4キロメートルごとに塚(つか)がもうけられ一里塚(いちりづか) が、もうけられた。一里(いちり)とは、長さの単位(たんい)であり、今でいう約4キロメートル。


  • 通信の発達。飛脚(ひきゃく)

郵便物をとどけるため、人が走ったり馬をつかって運ぶ飛脚(ひきゃく)の仕事が発達した。

幕府が管理する飛脚を 継飛脚(つぎひきゃく) という。町人のあいだでは 町飛脚(まちひきゃく) が利用された。


都市の発達[編集]

江戸時代に商業の中心的な都市は、江戸と大阪です。

江戸

将軍のいる江戸城の城下町なので、江戸は「将軍の おひざもと」と言われました。江戸時代なかごろの18世紀には、人口が100万人をこえる大都市になった。

大阪

全国から年貢や特産物が集まり、商業のさかんな街である。年貢を現金化する蔵屋敷(くらやしき)があり、各藩の大名の蔵屋敷が大阪にあった。


その他の都市

京都

天皇の住む皇居(こうきょ)があり、寺社も多い。伝統文化の中心地だった。西陣織(にしじんおり)や清水焼(きよみずやき)などの工芸品(こうげいひん)の産地(さんち)でもある。


4代将軍〜5代将軍のから、幕府は財政が悪化していき、財政のあまり良くない状況が、江戸時代の終わりまでずっと続きます。 江戸時代には貨幣が普及していきますが、田畑の収穫が急にふえるわけでもなく、そのくせ人口はふえるし、鉱山から採れる金銀の量もへっていきますので、今の時代から見れば財政がわるくなっても当然です。

幕府の政治の行き詰まりと改革[編集]

徳川綱吉の政治[編集]

5代将軍の徳川綱吉(とくがわつなよし)は、動物を極端に保護する、生類あわれみの令(しょうるいあわれみのれい)を出した。

綱吉が、いぬ年の生まれで、特に犬を保護したので、犬公方(いぬ くぼう)と大衆から呼ばれて、きらわれた。 令を出した理由は、一節には、綱吉には、子がなく、僧からのすすめで、殺生を禁じたら子ができる、と僧にすすめられ、とくに犬を大切にすれば子ができるとすすめられたらしいのが、令を出した理由だと言われている。


儒学などの学問に力を入れた。湯島に孔子(こうし)をまつる聖堂(せいどう)を立てる。儒学の中でも、とくに朱子学(しゅしがく)という分野を重んじた。

前将軍のときの火事の、明暦の大火(めいれきのたいか)での費用がかさむなどが、財政悪化の理由の一つです。


金貨・銀貨にふくまれる金・銀の量をへらした貨幣を発行したが、貨幣の信用がさがり、そのため物価(ぶっか)が上がった。


  • 発展的事項: 貨幣の質と、物価についての解説

現代でも、一般に、貨幣の信用が下がると、物価が上がります。

江戸時代は貨幣の信用のうらづけは、金貨や銀貨にふくまれている金・銀なので、貨幣の中の金銀のわりあいを減らせば、商人が物を売るときに今までと同じ金・銀を手に入れるには値段を上げなければ金銀の量が前と同じになりません。

なので、貨幣の質をさげると、物価が上がってしまいやすいのです。

(発展的事項、おわり。)

新井白石(あらい はくせき)の改革[編集]

新井白石(あらい はくせき)

新井白石(あらい はくせき)は、綱吉のあとの、6代所軍の家宣(いえのぶ)に使え、7代将軍の家継(いえつぐ)に仕えた。

新井白石は、綱吉のときに質の低下した金貨・銀貨の質をもとの質にもどした。また、貿易で金銀が外国に流出していたので、長崎貿易に制限を掛けた。この白石の政治(せいじ)を、正徳の治(しょうとく の ち)という

綱吉の生類あわれみの令は、白石によって廃止(はいし)されます。

新井白石は儒学者(じゅがくしゃ)であった。


享保の改革[編集]

徳川吉宗(とくがわ よしむね)

8代将軍の徳川吉宗(とくがわ よしむね)のころになっても、幕府の財政は、よくありません。吉宗の理想は家康のころの政治で、吉宗は質素倹約(しっそけんやく)をすすめました。 吉宗の行った一連の改革を享保の改革(きょうほう の かいかく)と言います。

吉宗自身も倹約につとめました。

財政の悪い理由は、収入が少なく、支出が多いわけです。だったら、財政(ざいせい)改革では、何らかの方法で収入をふやして、支出をへらせばいいわけです。

質素倹約には、支出をへらす狙い(ねらい)も、あります。

では、収入を増やすには、どうすればよいでしょうか。米の収穫量の石高(こくだか)をふやせばいいわけです。年貢の米が、収入のもとなのだから、だったら米の石高を増やせばいいので、吉宗は新田(しんでん)の開発をすすめました。 年貢も、ふやしました。

商品作物の開発も、すすめて、菜種・さつまいも、さとうきび、朝鮮人参(ちょうせんにんじん)、・・・などの開発をさせました。

飢饉(ききん)にそなえ、さつまいもの栽培の研究を、青木昆陽(あおきこんよう)に命じます。


  • 目安箱(めやすばこ)

目安箱(めやすばこ)を作って、庶民や町民でも、アイデアを書いて投書(とうしょ)で幕府に意見をとどける仕組みが出来た。目安箱からの意見により、江戸に無料の病院の小石川養生所(こいしかわ ようじょうじょ)が出来た。

  • 火消し(ひけし)

江戸の消防(しょうぼう)である町火消し(まちひけし)の制度を、目安箱の意見も参考にして、整備していった。


  • 実学の許可(きょか)

キリスト教をのぞく、産業や医学や天文学(てんもんがく)などの実学(じつがく)の洋書(ようしょ)の輸入を許可します。当時の輸入された洋書は、ヨーロッパの洋書が中国語に訳された漢訳洋書(かんやくようしょ)です。

また、オランダ語を青木昆陽(あおき こんよう)や野呂元丈(のろ げんじょう)たちに学ばせました。


  • 上米の制(あげまいのせい)

大名の参勤交代をゆるくするかわりに、大名は石高1万石につき100石の割合で米をさしだす上米の制(あげまいのせい)が作られました。上米の制により、参勤交代での江戸の滞在期間は半年になった。それまでは1年の江戸滞在だった。


  • 裁判の改革

公正な政治や裁判をおこなうため、公事方御定目書(くじがた おさだめがき)を出して、政治や裁判の基準を定めた。

このような,吉宗の行った一連の改革を享保の改革(きょうほうのかいかく)と言います。

改革は、ある程度の成果もありましたが、農民にとっては年貢がきびしくなったこともあり、さらに飢饉(ききん)や凶作(きょうさく)も重なって、百姓一揆(ひゃくしょう いっき) や 打ちこわし(うちこわし) が起こった。

吉宗の改革で、年貢の率を、豊作・凶作にかかわらず一定の率にする定免法(じょうめんほう)で、米の値段を安定させようとしていたので、不作のときは農民が苦しくなりました。

米の値段(ねだん)の調整(ちょうせい)につとめた吉宗は「米将軍」(こめしょうぐん)と人々から呼ばれたり、「米公方」(こめくぼう)と人々から呼ばれたりしました。


田沼意次の政治[編集]

田沼意次(たぬま おきつぐ)

10代将軍の家治(いえはる)のころ、幕府の財政が、また悪化していきます。 8代吉宗の改革で年貢は増えたのですが、そのあと、米の値段そのものが下落していったのです。こうして、10代将軍のころ、また財政が悪化したのです。

老中の田沼意次(たぬま おきつぐ)は、農業だけにたよる収入源だけでは無理があると考えたのか、商業を重んじた政策を取ります。

  • 株仲間(かぶなかま)の許可

商人に事業独占の株仲間(かぶなかま)の結成をみとめるかわりに、株仲間から税(ぜい)を取り、収入をふやしました。

  • 長崎貿易

田沼は、長崎貿易もすすめ、日本からの輸出品(ゆしゅつひん)には海産物(かいさんぶつ)や銅(どう)を輸出(ゆしゅつ)することで、日本に金銀を流入させようとします。

また、銅山の開発も行いました。


田沼の政治は、貨幣経済の進む世の中でも安定的に税収をとる工夫をしている、という財政的には合理的な政策であったが、幕府の役人のあいだに賄賂(わいろ)が横行するようになったりして、批判(ひはん)もあった。

天命のききんが1782年(天明2年)から1788年(天明8年)に東北地方を中心におこり、百姓一揆や打ちこわしがおこり、田沼の政治は行きづまり、田沼は失脚(しっきゃく)した。


寛政の改革[編集]

松平 定信(まつだいら さだのぶ)
  • 寛政の改革(かんせいの かいかく)

天命のききんが1782年(天明2年)から1788年(天明8年)に東北地方を中心におきた。天命のききんのつづくなか、老中だった田沼意次(たぬま おきつぐ)が失脚し、新しい老中として松平定信(まつだいら さだのぶ)が1787年に老中になる。 定信は奥州白河(おうしゅうしらかわ、福島県)の藩主で、天命のききんのときに、素早い対策を取り、すばやく商人から米や食料を買いあげて、農民に食料をくばるという方法で、領内で飢饉(ききん)による死者を一人も出さなかったと言われる。

この功績が評価され、定信は老中になった。

このとき、将軍は徳川家斉(とくがわ いえなり)。

定信は、さまざまな改革をおこなう。松平定信の行った改革を 寛政の改革(かんせいの かいかく) といいます。

飢饉(ききん)により、まず、食料生産をふやさないと国が危険な時代になってるので、定信は、食料生産を増やす(ふやす)政策を取る。

江戸に出稼ぎで来ていた農民を農村にかえらせるため帰農令(きのうれい)を出し、農民を農業に専念させます。また、商品作物の制限をし、なるべく米をつくらせます。

凶作でも飢饉(ききん)にならないように、米を蔵(くら)に蓄え(たくわえ)させるという囲い米(かこいまい)の制度を作ります。



ききんで米が不足しているということは年貢による収入も少ないということであり、幕府の財政も少なくなっています。なので、帰農令や囲い米には、財政を安定化させる役割もあります。

定信は倹約をすすめました。ききんで、余計な金をつかっている余裕がないし、そもそも年貢不足による財政難(ざいせいなん)なので、ぜいたくも出来ません。


松平定信(まつだいら さだのぶ)のこれらの改革を 寛政の改革(かんせいの かいかく) といいます。

寛政の改革には、食料の増産(ぞうさん)のほかにも、以下のような政策もあります。

  • 人足寄場(にんそくよせば)

職業訓練です。 ききんにより、農村が荒廃して江戸に人が流入したりして、江戸の町に浮浪者がふえたので、無宿舎を対象に職業訓練を行った。

  • 棄捐令(きえんれい)

借金の負担がおもくなった武士をすくうための、借金帳消しの政策。つまり徳政令(とくせいれい)。当然のごとく、商人は次からは金をかさなくなるので、武士の経済問題が先送りされただけであった。


  • 積み金(つみきん)
江戸では、緊急時のために、金(かね)を貯金していく積み立て(つみたて)をした。
  • 寛政異学の禁(かんせいいがく の きん)
幕府の儒学を教える学校では、儒学の一派である朱子学(しゅしがく)のほかは教えられなくなった。

儒学の派(は)には、朱子学の他にも陽明学(ようめいがく)などがある。 朱子学が正式な儒学である正学(せいがく)とされ、陽明学などのほかの派の儒学は異学(いがく)とされた。


しかし、この改革では倹約を強制し、さらに学問の統制、思想の統制などを行ったり、借金帳消しをさせたため、産業や文化が停滞(ていたい)し、人々の反発がつよまり、定信は6年ほどで失脚(しっきゃく)した。

狂歌には、「白河(しらかわ)の 清き(きよき)に魚(さかな)の 住(す)みかねて もとの濁り(にごり)の 田沼(たぬま)こいしき」とも、うたわれました。 「世の中に 蚊ほど うるさき ものは(わ)なし ぶんぶ(文武)といふて 夜もねむれず」とも、うたわれました。



  • 発展的事項: ききんの根本的な原因
天明の飢饉(ききん)の理由は、冷害が理由の一つですが、それだけが飢饉の理由では無いようです。よく、以下のような他の理由が考えられている。
・根本的な理由は、藩の財政難?
身分が固定されてるので、政治が実情に合わなくなる。 → そのため、藩は財政難になる。 → 財政難をしのぐため、米などの食料を江戸などに売ってしまっていた。 → 農村で飢饉が発生。


田沼の批判される商業を重んじた政策も、ほんらいの目的は幕府の財政難への対策である。
財政難の根本的な原因は、幕府の仕組みそのものが社会に合わなくなっていたことが原因なのだが、政治家たちは、幕府の政治家であるという立場上の理由で、幕府そのものの改革には手をつけられなかった。
江戸時代のなかばの人口は、信長たちの戦国時代よりも、信長や秀吉の安土桃山時代よりも、2倍ちかくも人口が増えている。もはや江戸時代はじめごろの仕組みでは、社会の実体に合わないのであろう。


「商人による米の買い占めが悪い」と、ときどき言われるが、商人は売り物である米を買っただけです。べつに、米をぬすんだわけでは、ありません。商人に米を売る人が、いたわけです。現金が必要で、商人に米を売った人がいるわけです。
商人からすれば金をだして米を買ってきたのですから、買値よりも高く米を売らないと利益が出なくなり、商人が失業(しつぎょう)してしまいます。


・どうも貨幣経済で、農民の支出が増加して貧しくなっているらしい。
・藩が財政難だと、現金収入をかせぐために米を江戸などの都市に売ってしまっていた。江戸などの都市では、農村よりも高い米価で米が売れるので。
・そもそも米は熱帯性の作物であり、品種改良がされてきたとは言え、冷害に合いやすい。アワやヒエなどの雑穀は、米よりも冷害に強いが、米のほうが高く売れるので、米作にこだわった。

(発展的事項、「ききんの根本的な原因」、おわり。)



天保(てんぽう)のききん[編集]

将軍・家斉(いえなり)のとき。

全国的なききん。ききんで死者の大きい地域は東北や北陸だけでなく、関東や、大阪などの西日本をふくむ。 大阪は、この時代の商業の中心地である。その大阪で被害が出てるのだから、すごい飢饉(ききん)なわけである。

幕府や藩には、まずしい人を救うだけの財政的なゆとりがなかった。関東も、ききんの被害が大きく、幕府には、財政的な余裕(よゆう)がない。

幕府が、江戸での打ち壊しをふせぐため、江戸に米をあつめるため、大阪町奉行などに米を買い占めさせた。

このようなことから、幕府に対して反乱が起きる。

大阪の町奉行所の元・役人の大石平八郎(おおしお へいはちろう)が、町奉行に貧民の救済を申し出たが、町奉行に聞き入れられず、その上、大阪で買い占めた米を江戸に送っているという有様(ありさま)だった。

1837年 大塩平八郎の乱(おおしおへいはちろう の らん)

ついに1837年に反乱を起こしたのが、大塩平八郎だ。商人の家を大砲でおそったりした。

乱は一日ほどで、しずめられた。


しかし、大塩の乱が世間の人々の心に与えた影響は大きい。


これから、各地で、一揆や打ち壊しが、ふえてきた。

天保の改革[編集]

水野忠邦(みずのただくに)

1841年に、老中に水野忠邦(みずの ただくに)がつき、対策をとった。水野忠邦の政策を天保の改革という。手本は、松平定信の寛政の改革が、水野の手本であった。

水野の政策では、財政を立て直すため倹約令(けんやくれい)を出した。

物の値段が上がった原因を、水野は株仲間による独占が原因だろうと考え、株仲間(かぶなかま)を解散させた。

だが、物価の上がった本当の理由は、その時代に貨幣の質を下げられて発行されていたのが原因であり、このため、物価の引下げの効果は、ほとんどなく、株仲間の解散は失敗に終わった。


  • 発展的事項: 政策の分析
物価の上昇について、似たような貨幣の質の下がったことによる物価の上昇は、すでに5代将軍の綱吉の時代にもあった。
貨幣の質を下げても、すぐには物価が上がらないから、一時的には財政が豊かになったように見える。
天保の改革は、「改革」というと、なんとなく新しい政策をイメージしがちだが、やっていることは、すでにある吉宗の享保の改革や、松平定信の寛政の改革などに似ていて、水野の政策に目新しいことは少ない。株仲間の解散を命じたぐらいが目新しい改革である。

(発展的事項、「政策の分析」、おわり。)


天保の改革は、他にも、以下の内容がある。

・ 農村から人が流出し、江戸に人が出てきたので、農村にかえすための人返しの令(ひとがえしのれい)を出した。

・ 江戸と大阪を幕府の領地にしようとして上地令(あげちれい)を出したが、多くの大名などに反対され失敗した。


天保の改革は失敗に終わり、たったの2年あまりで終わり、水野忠邦は失脚し、幕府そのものも人々からの信用が下がっていった。


江戸時代の学問[編集]

  • 儒学(じゅがく)

徳川家康をはじめとして幕府は、幕府を保ちつづけるには儒学(じゅがく)などの道徳的な学問が必要だと考え、武士に儒学を学ばせた。

儒学では、平和に必要なのは、忠義の大切さや、子の親への忠孝の大切さなど、上下関係にもとづく忠孝や礼儀が、社会の平和に必要だと考えられていた。

このように上下関係にもとづき平和を求めるという儒学の内容が、幕府の士農工商などの身分差別の制度にも都合が良かったので、儒学が武士に学ぶべきとされる学問になった。

儒学の中でも、朱子学(しゅしがく)と言われる学問は、とくに上下関係による礼節を重んじていたので、幕府は朱子学こそ儒学の中でも学ぶべき学問と定めていき、朱子学が武士の学ぶべき学問とされた。

5代将軍の綱吉のころ、幕府は武士に儒学を学ばせる学校を江戸に開き、 昌平坂学問所(しょうへいざかがくもんじょ) を開いた。ほかの藩も、武士の教育のため、藩校(はんこう)を開いた。


  • 教育
寺子屋の、ようす。

百姓や町民などの庶民は、「読み」(日本語の読み)、「書き」(日本語の習字)、「そろばん」(算数のこと)などを寺子屋(てらこや)で学んだ。

当時の外国では、読み書きの出来る庶民は少なく、世界各国の中でも、日本は文字を読める人が多い国であった。

また、貸本屋(かしほんや)などの書店も、増えていった。

  • 儒学以外の学問

いっぽう、ヨーロッパの政治や道徳や宗教などに関する学問は、日本の社会をまどわし日本を混乱におとしいれる危険な学問であるだろう、というふうなことが江戸幕府に考えられており、西洋の政治に関する学問の多くは禁止をされ、西洋道徳を学ぶことも禁止された。

日本の古典や歴史を学ぶことは幕府は認めていた。なので、たとえば万葉集(まんようしゅう)などの古典や、古事記(こじき)・日本書紀(にほんしょき)などの歴史を学んだり研究する者もあらわれた。

  • 蘭学(らんがく)

ヨーロッパの医学や農学や科学技術など、キリスト教や政治道徳に関係の無い学問を学ぶことは、江戸時代のなかばの18世紀はじめごろ、8代将軍・徳川吉宗の改革などにより、西洋の科学技術などの研究が認められていった。 当時はオランダ語を通して西洋の科学を学んでいたので、ヨーロッパから取り入れた学問のことを蘭学(らんがく)と言った。蘭とはオランダのことです。 吉宗は青木昆陽(あおき こんよう)にオランダ語の研究をさせた。青木昆陽はサツマイモの栽培を広めた。


  • 医学書『ターヘル・アナトミア』の翻訳(ほんやく)
『解体新書』。扉絵は底本『ターヘル・アナトミア』の扉絵とはまったく異なっている。
『ターヘル・アナトミア』(複製)。

18世紀のおわりごろ、オランダの医学書が日本語へと訳(やく)された。翻訳書(ほんやくしょ)を出したのは、小浜藩(おばまはん、今でいう福井県)の医者の杉田玄白(すぎた げんぱく)と、中津藩(なかつはん、今でいう大分県)の医者の前野良沢(まえの りょうたく)の二人がかりである。

杉田たちは、オランダの医学書を見て、人体の内蔵(ないぞう)の解剖図(かいぼうず)が、とても正確に書かれていることに、おどろいた、と言われています。そして、日本の医学が、ヨーロッパよりも遅れている(おくれている)ことに、杉田たちは気づき、ヨーロッパの医学書の翻訳を決意しました。

杉田と前野の協力により、オランダ語で書かれた医学書の『ターヘル・アナトミア』(オランダ語:Ontleedkundige tafelen「オントレートクンディヘ・ターフェレン」)が日本語に訳され、翻訳版(ほんやくばん)が『解体新書』(かいたいしんしょ)として出されたのである。

杉田玄白(すぎたげんぱく

これが、西洋の本を日本語に訳した本のうち、日本では初めての本格的な翻訳書になった。


翻訳の当時は、日本語で書かれたオランダ語の辞書は無くて、たいへんに時間がかかり、オランダ医学書の「ウェインブラーウ(まゆ)は、目の上に生えている毛である。」というような一文でさえ、翻訳するのに1日かかったといいます。翻訳本の出来上がるまでには4年ほどの年月がかかった。

まだオランダ語に対応する日本語が無い言葉もあって、「神経」(しんけい)・「軟骨」(なんこつ)・「動脈」(どうみゃく)・「盲腸」(もうちょう)・「十二指腸」(じゅうにしちょう)などの言葉は、この翻訳のときに前野と杉田が考えた言葉である。

ついでに杉田と前野は、翻訳のときの苦労話などを書いた本である『蘭学事始』(らんがくことはじめ)という本を記した。

ちなみにオランダの医学書のターヘル・アナトミアそのものが、じつは、ドイツの医学書の翻訳本である。

杉田玄白らの翻訳(ほんやく)のときの苦労話が、『蘭学事始』(らんがく ことはじめ)という本に書かれている。


  • 国学(こくがく)

江戸時代のなかばごろから、儒教や仏教の考えにとらわれない立場で、日本古来の古典や文化の研究をする学問が生まれてきて、このような学問を 国学(こくがく) という。

本居宣長

賀茂真淵(かものまぶち)の弟子の本居宣長(もとおり のりなが)が『古事記』の研究を行い、本居宣長(もとおり のりなが)は『古事記伝』(こじきでん)を記し、国学を高めた。 宣長の研究は『古事記』のほかにもあって、平安時代の紫式部の『源氏物語』についても研究している。

国学の、そもそものきっかけは、もっと前の時代に、さかのぼる。 4代将軍の徳川家綱(いえつな)の時代の1650年代のころに水戸藩の藩主であった徳川光圀(とくがわ みつくに)は、日本史の研究を人々に勧め(すすめ)させた。その歴史研究にともなって、万葉集などの古典も研究された。

光圀の命令により、僧の契沖(けいちゅう)が万葉集を研究し、つぎのようなことに気づいていった。


学者たちの古典研究の結果、学者たちから、儒教や仏教の考えにとらわれない立場で、日本古来の古典や文化の研究をする学問が生まれてきて、のちに国学(こくがく) へと発展していく。

つまり、国学の発展にともない、儒学にもとづいた古典研究への疑い(うたがい)が、ふえてきた。

「 『万葉集』や『古事記』などの日本の古典の内容を研究するときに、外国の国の文化である儒教や仏教だけの道徳にもとづいて研究するのは、おかしくないか? 」

「そもそも儒学は中国という外国の学問じゃないか? 仏教だって、中国から伝わったインドの宗教だ。日本古来の宗教ではない。」

「中国の古典を研究するときに、中国の儒教の立場から考えてみるのなら、まだ分かる。」

「しかし、なぜ日本の研究で、しかも平民にまだ儒教や仏教が伝わってない時代の『万葉集』や『古事記』の研究で、儒教や仏教の考えにもとづいてばかりの研究しか、儒学者は研究しないのか? おかしくないか?」

「日本古来の伝統とは、儒学にもとづいてではなく、その古代の道徳を解き明かして、研究するべきだろう?  日本の古典文化を研究するときは、儒教にとらわれない立場で日本古来の古典や文化の研究をするべきだろうと思う。」


以上のような考えが、国学の考え方である。

万葉集の研究を命じられた契沖(けいちゅう)は万葉集を研究し『万葉代匠記』(まんようだいしょうき)を記して1690年に出来あがった。研究を命じた光圀は、のちに日本史の歴史書の『大日本史』(だいにほんし)を記した。


もっとも、国学のきっかけである徳川光国は、儒学を信望してた。また、『万葉代匠記』を表した契沖も、仏教の僧侶である。

この契沖の研究を、さらに発展させたのが、後の時代(吉宗のころ)の荷田春満(かだの あずままろ)であり、さらに荷田春満の弟子の賀茂真淵(かものまぶち)が研究を受け継いだ。

さらに、のちの時代(10代将軍家治(いえはる)のころ)に、本居宣長(もとおり のりなが)が『古事記』の解読(かいどく)と研究を行い、以上に述べたように国学をより発展させた。本居宣長は賀茂真淵(かものまぶち)の弟子である。

  • 科学技術
平賀源内(ひらがげんない)
平賀源内作のエレキテルの複製(ふくせい)。国立科学博物館の展示。

平賀源内(ひらがげんない)が発電機(はつでんき)のエレキテルを作った。エレキテルでの発電の仕組みは、摩擦(まさつ)によって発電する仕組みである。平賀源内は、ほかにも、寒暖計(かんだんけい)を日本で初めて作っている。

伊能忠敬を描いている切手、1995年発行の切手
  • 測量(そくりょう)
江戸時代の測量(そくりょう)のようす

伊能忠敬(いのう ただたか)は、日本全国を地図をつくるために細かく調べる測量(そくりょう)する旅をして、正確な日本地図である『大日本沿海輿地全図』(だいにほんえんかい よちぜんず)を作った。


  • 数学

江戸時代のはじめごろ、4代将軍・家綱、5代・将軍綱吉あたりのころ、関孝和(せき たかかず)が数学を研究しており、たとえば円周率の計算を、かなり正確に研究していた。関の数学研究は当時としては世界的にも高度な研究をしていたが、日本が鎖国をしていたので外国に伝わらなかった。 鎖国化の江戸時代での、日本の数学研究は和算(わさん)と言われる。

江戸時代の文化[編集]

江戸時代の前半の文化[編集]

江戸時代の文化は、江戸時代はじめごろは大阪や京都を中心に発展した。江戸の半ば頃から文化の中心が江戸に移っていった。

ちなみに、江戸時代はじめ頃の大阪や京都を中心とした文化を 元禄文化(げんろくぶんか) と言う。元禄とは、この時代の元号が元禄(げんろく)なので。


  • 俳句

5・7・5の口調で季節の様子を句にする俳句(はいく)は、松尾芭蕉(まつお ばしょう)によって生み出さえた。俳句は連歌が、もとになっている。

芭蕉は、

「古池(ふるいけ)や 蛙(かわず)飛びこむ 水(みず)の音(おと)」

など多くの句を作りました。


また芭蕉は諸国を旅して、その観察した諸国の様子を『奥の細道』(おくの ほそみち)にまとめた。


  • 絵画
『見返り美人図』 菱川師宣の筆。

絵画では、描かれる対象が町人や女性などのようすになり、それらの絵を版画(はんが)を利用して印刷する浮世絵(うきよえ)が、絵描きの菱川師宣(ひしかわ もろのぶ)によって広まりました。


絵画では浮世絵の他にも、装飾画の分野で尾形光琳(おがた こうりん)が活躍しました。

浮世絵は、貿易をとおして外国にも紹介され、ゴッホなどの西洋の画家にも影響をあたえた。


  • 人形浄瑠璃

物語を、三味線などを伴奏にしてリズミカルに節をつけて、あやつり人形をうごかしながら語るという人形浄瑠璃(にんぎょうじょうるり)が元禄期の大阪や京都で、はやりました。

近松門左衛門

人形浄瑠璃の脚本家である近松門左衛門(ちかまつ もんざえもん)が有名で、近松の作品には『曽根崎心中』(そねざきしんじゅう)や『国性爺合戦』(こくせんや かっせん)などがあります。


  • 文芸

町人の生活をえがきた小説が好まれるようになった。町人など、庶民の様子をえがいた小説を 浮世草子(うきよぞうし) という。大阪の小説家の井原西鶴(いはらさいかく)が『日本永代蔵』(にほねいたいぐら)や『世間胸算用』(せけん むねさんよう)などを表した。


元禄文化のさかえた大阪は、商業のさかんな都市であり、町人の気風がつよく影響している。


江戸時代後半の文化[編集]

江戸時代の後半になると、文化は、江戸の町人が中心になった。この江戸時代後半の江戸を中心とした文化を 化生文化(かせいぶんか) という。


  • 小説

作家の十辺舎一九(じゅぺんしゃ いっく)が東海道の旅行のようすを、おもしろおかしく書いて『東海道中膝栗毛』(とうかいどうちゅう ひざくりげ)を書いた。

滝沢馬琴(たきざわばきん)が『南総里見八犬伝』(なんそうさとみ はっけんでん)を書いた。

俳句は、与謝蕪村(よさ ぶそん)や小林一茶(こばやし いっさ)が発展させた。

「雀の子(すずえのこ) そこのこ そこのけ お馬(おうま)が通る(とおる)」(小林一茶の句)


  • 絵画

鈴木晴信が版画の多色刷りの方法である 錦絵(にしきえ) を開発し、そのため、化生文化では浮世絵が大流行して、多くの絵描き(えかき)が出た。

喜多川歌麿(きたがわ うたまろ) :美人画(びじんが)で有名。

安藤広重(あんどう ひろしげ) :風景画で有名。

葛飾北斎(かつしか ほくさい) :風景画で有名。作品に『富嶽三十六景』(ふがく さんじゅうろっけい)など。

『富嶽三十六景』より、一部を紹介。

役者絵。東洲斎写楽の筆。

東洲斎写楽(とうしゅうさい しゃらく) :役者絵(やくしゃえ)で有名で歌舞伎(かぶきやくしゃ)役者などを描いた。


このほか、各地の特産品や工芸品などが、江戸時代全般(ぜんぱん)を通して発展していきました。


[編集]

  1. ^ 最高位の僧侶であることを示した紫色の衣。
  2. ^ 西日本では庄屋とよばれました。
  3. ^ 刑罰、特に死刑を行う人。

江戸幕府の終わり[編集]

外国船の出没(しゅつぼつ)[編集]

ロシアのラクスマン
ロシアのレザノフ

ロシアは勢力(せいりょく)を 千島(ちしま) や 樺太(からふと) にのばしていました。 1778年に、ロシアが蝦夷地(えぞち)の厚岸(あっけし)に来て、日本の松前藩(まつまえはん)に通商をもとめましたが、ことわられました。

寛政の改革のころの18世紀後半に、ヨーロッパやアメリカなど欧米では政治改革や産業の近代化がおこり、そのため欧米の国力が強まって、アジアへ進出してきました。このため日本の近くの海にも、欧米の船が出没しはじめます。

蘭学を学んでいた林子平(はやし しへい)は、書物の『海国兵団』(かいこくへいだん)を1791年に記し、日本は海岸をまもる必要性を人々にときましたが、幕府には世間をさわがせるものだとして林子平は処罰されてしまいます。

しかし、子平の言う通りへの状況(じょうきょう)に、このあとの時代は動いていくのです。

ロシアは、1792年に日本に貿易の通商(つうしょう)を求めるため日本に人を送り、根室(ねむろ、北海道)にロシア人の軍人(ぐんじん)の ラクスマン( ロシア語:Лаксман、英語: Laxman ) がきました。しかし、そもそも外交交渉は日本では長崎で行なうことになっているので、根室での通商の要求は、日本に断られました。日本側は、つぎの交渉では長崎で交渉するようにロシアに伝えます。 (※ レザノフやラクスマンの英語表記やロシア語表記は、小学生・中学生・高校生は、おぼえなくて良い。)


1804年にはロシア人の外交官(がいこうかん)のレザノフ( ロシア語: Резанов , 英語:Rezanov ) が日本の長崎に来て通商の要求をしますが、幕府は、ことわります。

幕府は、北方の海岸の警備(けいび)に力をいれます。また、間宮林蔵(まみやりんぞう)などに千島や樺太の探検を命じます。 また、伊能忠敬(いのうただたか)に、蝦夷地(えぞち、北海道)を測量させた。


レザノフの1804よりもさかのぼって、1796年にはイギリスが日本に来ていた。

イギリスのフェートン号

1808年にはイギリスの軍艦(ぐんかん)のフェートン号が対立しているオランダ船をとらえるために長崎に侵入し、オランダ商館員を人質(ひとじち)にする事件があった。イギリス側は、薪水(しんすい、「たきぎ」と水のこと)と食料を要求し、これを得たのち、日本から退去(たいきょ)した。これを フェートン号事件(フェートンごう じけん) と言います。


1825年に異国船打払令(いこくせん うちはらいれい)を出した。

ヨーロッパのアジア侵略
(※ 発展的分野です。
世界史(せかいし)的な内容になるので、小学校では教わらないのが、ふつうです。ですが、この節であつかう「アヘン戦争」は、中学校では確実にならうほどの、歴史的な重要事項です。読者に時間の余裕(よゆう)があったら、お読み下さい。)

日本が鎖国していたころ、ヨーロッパでは、科学技術がものすごく発達し、ヨーロッパの兵器の技術も発達していった。 19世紀のころ、産業の近代化などで国力をつけていたヨーロッパ諸国は、アジアとの貿易のしかたを変えるようになった。結論から分かりやすく言うと、ヨーロッパによるアジアへの侵略が始まっていった。

もっと、くわしく説明すると、つぎのような説明になる。 日本では戦国時代ごろだった16世紀ごろは、ヨーロッパは、貿易相手のアジアの国とは、あまり戦いをしなかった。だが、そのあと、ヨーロッパの近代化でヨーロッパの国力が強まったことで、ヨーロッパはアジアに対しても侵略的になっていく。

(アフリカや南米では、ヨーロッパは、すでに侵略的だった。)

たとえば、直接、アジアと戦争をして領土を獲得して、領地で現地のアジア人を安い値段で働かせ農産物などを生産して、本国のヨーロッパに産物を輸出するようになった。 また、ヨーロッパの武力を背景に、戦争で負かしたアジア諸国の国政に干渉するようになった。

  • イギリスのインド支配

1800年代のはじめごろ、イギリスはインドに進出していました。イギリスの支配は、だんだんと強まっていきます。イギリスに対する大きな反乱が、1857年には、おきました。(「セポイの乱」と言います。) ですが、イギリスは反乱を武力で平定し、そのあと、イギリスの支配をますますつよめ、インドを支配下におきました。


  • イギリスのアヘン戦争(アヘンせんそう)
アヘン戦争(アヘンせんそう)で、イギリス海軍の軍艦に吹き飛ばされる清軍のジャンク船を描いた絵

インドでの大反乱より昔になるが、1830年ごろ、イギリスはインドを中継として清国(シンこく)と貿易をしていました。

清(シン)は、この時代の中国大陸での中国の王朝です。

イギリスは、あまり輸出品が清(シン)には売れず、そのいっぽうで、清からは茶(ちゃ)などを多く輸入していました。このため、イギリスから支払いのための銀が多く流出しました。この銀の流出をいやがったイギリスが、貿易でかせごうと、支配していたインドで麻薬(まやく)のアヘンをつくり、アヘンを清にこっそりと輸出します。

このため、清には多くの麻薬中毒者(まやくちゅうどくしゃ)が出てきて、また、支払いのための銀が清から流出していきました。

清が、アヘンの輸入を取り締まり始めます。すると、イギリスは貿易の自由を口実にして、戦争を1840年にしかけました。これがアヘン戦争(アヘンせんそう)です。イギリスの海軍の軍艦で、清の船を破壊するなどして、清はなすすべがなくなり、戦争はイギリスの勝利でした。

戦争に負けた清は、不利な条約である 南京条約(ナンキンじょうやく) をむすばされ、多額の賠償金(ばいしょうきん)を支払わされ、また清は香港(ホンコン)をイギリスにゆずりわたすことになってしまいました。


日本にも、清の敗戦の知らせは、貿易相手のオランダなどを通して、幕府の上層部に伝わっていきました。 また、幕府のほかの民間の学者の中にも、アジアがヨーロッパに侵略されていってるという情勢(じょうせい)に気がつく者があらわれはじめてきます。

このあと、フランスなどの他のヨーロッパの国々も、イギリスのように、武力でアジアを支配するようになっていった。


日本の幕府は、アヘン戦争での清(シン)の敗戦を知ったこともあり、異国船打払いの方針のままだと欧米と戦争になってしまい、日本が侵略されてしまう、と考え、1842年に異国船打払いの方針をあらため、外国船に薪(たきぎ)や水・食料を補給(ほきゅう)することをゆるしました。

黒船の来航[編集]

黒船来航
ペリー
日本の浮世絵に描かれたペリー。 嘉永7年(1854年)頃

1853年にアメリカ合衆国の4隻(よんせき)の軍艦(ぐんかん)が日本の浦賀(うらが、神奈川県の港)にあらわれ、4隻の軍艦をひきいたアメリカ人のペリー(Perry)が開国を日本に求め、アメリカ大統領からの国書を幕府に、わたしました。

当時、日本に来た4隻のアメリカの船は、色が黒かったので、黒船(くろふね)と日本の人から言われました。 アメリカの軍艦は、蒸気船(じょうきせん)と言われるもので、石炭などを燃料とした蒸気機関によって動く最新式の船であり、船の煙突からは煙がもうもうとあがっていました。この蒸気船は、それまでのロシアやオランダの船の帆船とは違い、最新式の船でした。

ペリーは日本について事前にオランダの本などから研究していたので、日本人は権力者の命令に弱いということを知っており、わざと幕府のある江戸に近い関東の浦賀に黒船で、やってきたのです。当時の日本では、長崎が外国との外交の窓口でしたが、ペリー達はまったく長崎に行こうとはせず、幕府と直接に交渉をしようとする態度(たいど)です。


このようなアメリカの船と、ペリーの態度を見て、日本人はおどろきました。とりあえずペリーに、返事を出すまで時間がかかるので、一年後に、もう一度、日本に来てもらうように、たのみました。


黒船の来航のときの幕府の様子をからかった狂歌も歌われました。

泰平(たいへい)の 眠り(ねむり)をさます じょうきせん たった四はい(しはい)で 夜(よる)も眠れず

という狂歌です。

「じょうきせん」の意味には、蒸気船と、宇治(うじ)の高級茶の上喜撰(じょうきせん)が、ダジャレで、かけられています。


幕府は、事態(じたい)を重く考え、朝廷にも報告をして、諸国の大名にも相談をしました。相談のあいては、外様大名もふくみます。


いっぽう、アメリカが日本に開国をせまった目的は、燃料や水の補給(ほきゅう)を日本でおこなうために立ち寄りたいよいう理由が、主な目的でした。当時のアメリカは、中国大陸の清(しん)と貿易をおこなっていたり、太平洋で捕鯨(読み:「ほげい」・・・、意味:「クジラとり」のこと)を行っていたので、日本で補給が出来ると都合が良かったのです。

そして1年後の1854年に、ペリーがふたたび、日本に来ました。1854年の交渉では、もはや幕府はアメリカの開国要求をことわりきれず、ついに日本は開国をします。 日本とアメリカとの間で条約がむすばれ、日米和親条約(にちべい わしんじょうやく)が結ばれ(むすばれ)ました。

「条約」とは、国とほかの国とのあいだの、国どうしの約束のことです。日本とアメリカ(米国、べいこく)とのあいだの条約なので、「日米和親条約」という名前になっているわけです。

この日米和親条約により、下田(しもだ、静岡県にある)と函館(はこだて、北海道)が開港され、アメリカ船に燃料や水・食料などを補給することが決まりました。また、下田にアメリカの領事館(りょうじかん)がおかれました。


ハリス
井伊直弼(いい なおすけ)

アメリカの総領事(そうりょうじ)のハリス(Harris)は、幕府に対して、日本とアメリカとの貿易を求めた。

この日米和親条約を結ぶ前のときに、ハリスが交渉相手の日本にした説得(せっとく)の内容(ないよう)は、次のような内容です。ハリス本人の日記によると、「イギリスなどの戦争をためらわない外国から、不利な開国の要求を日本がおしつけらて、戦争をしかけられる前に、アメリカと開国の条約を結んだほうが安全である」とハリス本人の日記には書かれています。この時代、アメリカだけでなくイギリスなどのヨーロッパ諸国も蒸気機関によって、強力な海軍力を手にしていたのです。

ハリスは、次のように幕府の人を説得したと言っています。「もしヨーロッパの国が日本に戦争をしかけたら、日本は負けることになる。運よく、戦争にならなくても、ヨーロッパ諸国は軍事力でおどして、日本に不利な条約をおしつけるだろう。そうなれば、日本の民衆は、あなたたち幕府を見はなし、日本の力は弱まるだろう。しかし、わたしたちアメリカは、平和に日本と貿易しようとしている。ヨーロッパ諸国から不利な条約をおしつけられる前に、先にアメリカと日本とアメリカがおたがいに有利な条約をむすんでしまえば、ヨーロッパも日本に文句をつけられなくなる。交渉によって結ぶ条約と、戦争に負けておしつけられる条約とでは、その内容に大きな違い(ちがい)がある。どのみち、いつかは日本も開国をしないといけない。ならば、今こそ、その開国のときであろう。」というような説得を日本にしたとハリスは言っています。

すでに幕府は、オランダなどからの情報で、「清(しん)がアヘン戦争に負けて、イギリスから不利な条約を清はおしつけられている」という国際情勢を幕府も知っていました。幕府は、日本が欧米との戦争になり、日本が侵略されることを恐れていました。そのアヘン戦争のことを、ハリスも日本に言ってるわけです。

ヨーロッパの国によってアヘン戦争のような戦争を日本がしかけられてしまい、日本が不利な条約をおしつけられるよりも前に、さきにアメリカと日本とのあいだで平和な条約をむすんでしまいましょう、・・・という事です。


さらに、アメリカとの条約を1858年に幕府の大老の井伊直弼(いい なおすけ)は結びました。こうして、日米修好通商条約(にちべい しゅうこう つうしょう じょうやく)が結ばれます。しかし、この条約は朝廷の許可をとらないまま、結ばれた条約でした。


さて、また幕府は、イギリス・オランダ・ロシア・フランスとも、同様の貿易の条約を、結びました。これを、安政の五カ国条約(あんせいの ごかこくじょうやく)と言います。

幕府の井伊直弼による条約締結は、日本を欧米の侵略から守ろうとする考えのものでしたが、当時の庶民の多くは、まだ、欧米の強大な軍事力を知らず、幕府の態度は、臆病者(おくびょうもの)だと思われていました。

また、開国に反対の主張をしていた諸藩の武士たちを、幕府は弾圧していき捕らえて処刑などの処罰をしていきます。この鎖国派への弾圧を「安政の大獄」(あんせいのたいごく)と言います。

桜田門。

のちの1860年、直弼は江戸城の桜田門(さくらだもん)の近くを通っていたときに、「安政の大獄」による弾圧に反対をしていた浪士(ろうし)によって、暗殺されてしまいます。この、井伊直弼が死んだ暗殺事件を「桜田門外の変」(さくらだもんがいの へん)と言います。


  • 不平等条約(ふびょうどう じょうやく)

日米修好通商条約の内容は、日本にとって不利な内容で、不平等な条約でした。

アメリカ人の治外法権(ちがい ほうけん)
日本国内で外国人が犯罪をおかしても、日本の法律では処罰(しょばつ)できませんでした。

この、アメリカ人など外国人が、日本の法律では処罰されないことを治外法権(ちがい ほうけん、英語:Extraterritoriality)と言います。領事裁判権(りょうじ さいばんけん)とも言います。

日本に関税自主権(かんぜい じしゅけん)が無い。
日本への輸入品に、税をかける権利が、日本には、ありませんでした。輸入品にかける税を関税(かんぜい)と言い、国が関税を自由に決まる権利を関税自主権(かんぜい じしゅけん)と言います。日本には、関税自主権がありませんでした。


  • 開国による経済の変化
輸出品として、生糸(きいと)や茶が輸出されたので、それらの産業が発展しました。
国内で品物が不足し、物価が上がりました。輸出によって、国外に品物を多く輸出し過ぎたり、買い占めなどが起こったからです。貿易をしていない米や麦の値段も上がりました。
貿易によって、日本の金が流出しました。このため、幕府は金貨の質を下げたので、ますます物価は上がりました。

このような品不足や物価の上昇などにより、庶民のくらしは苦しくなっていきました。そのため 一揆(いっき) や 打ち壊し が起きました。


庶民だけでなく下級武士にも、開国に不満を持つ者が増えていきます。


世間から、外国を打ちはらおうとする考えが出てき始めます。このような、外国を打払いしようという考えを攘夷(じょうい)と言い、攘夷の主張を攘夷論(じょういろん)と言います。

攘夷論にくわわり、世間では、国学などの影響(えいきょう)もあって、朝廷や天皇を盛り上げて、敬おう(うやまおう)という、尊王論(そんのうろん)が出てきます。

尊王論と攘夷論が加わり、尊皇攘夷論(そんのうじょういろん)という、組み合わせた考えが出てきました。(のちに、尊皇攘夷論は、朝廷に許可を得ず勝手に開国した幕府への批判にかわり、やがて幕府を倒そうという運動へと変わっていきます。)


薩摩藩と長州藩は攘夷の実力行使に出ましたが、外国に負けました。

・薩英戦争(さつえい せんそう)

1862年に関東の生麦(なまむぎ、神奈川県にある)で、薩摩藩の大名行列の前を横切ったイギリス人を薩摩藩の武士が斬り殺すという生麦事件(なまむぎ じけん)が起こりました。イギリスからの犯人の処罰要求を薩摩藩が受け入れなかったので、翌年の1863年にイギリスは薩摩藩と戦争をしました。これが薩英戦争(さつえい せんそう)です。この戦争で薩摩は負け、大きな被害を受け、薩摩はイギリスの実力を知ることになり、薩摩は攘夷論をあきらめることになりました。

戦後、薩摩では政治の方針を攘夷から切り替え、イギリスなどから制度を学んだりして、藩の強さを高める方針へと変わりました。そして薩摩藩では、下級武士であった西郷隆盛(さいごうたかもり)や大久保利通(おおくぼとしみち)らが、イギリスの援助も受けて、彼らが改革の中心になっていった。


・長州藩(ちょうしゅうはん)の下関戦争(しものせきせんそう)

欧米の連合艦隊の兵隊に占拠された下関の砲台
1863年に、下関海峡を通る外国船に、長州藩が、いきなり砲撃を始めました。翌年、外国の連合艦隊(れんごうかんたい)、アメリカ・イギリス・フランス・オランダの4カ国からなる連合軍により反撃を受け、下関の砲台を占拠され、長州は負けました。

長州は、攘夷論のマチガイに気づき、改革を進めていきます。下級武士であった高杉晋作や木戸孝允・伊藤博文らが、イギリスの援助も受けて、彼らが改革の中心になっていきます。


このようにして、薩摩や長州は、実戦から、欧米の実力を知ることに知ることになりました。単純な尊皇攘夷運動はマチガイだと気づくようになりました。まずは、軍隊の近代化が必要と考え、そのためには改革が必要であり、そのためには改革をさまたげている幕府を倒す必要があるという考えが高まりました。幕府を倒す、つまり、倒幕(とうばく)をする必要がある、という気運が薩摩や長州を中心に高まってきました。


  • 薩長同盟(さっちょう どうめい)
坂本竜馬(さかもと りょうま)

薩摩と長州は、過去の歴史的な関係から、両者は対立をしていました。薩摩藩も長州藩も、どちらとも近代的な軍隊を持ち幕府を倒そうとする改革を目指していたのに、両者は対立していました。 しかし、1866年に、土佐藩の坂本竜馬(さかもと りょうま)が両藩の仲立ちをして同盟を結ばせ、薩摩藩と長州藩との同名である薩長同盟(さっちょう どうめい)が1866年に結ばれました。

幕府は、薩長同盟を倒すため長州と戦争をしましたが、幕府の征伐は失敗に終わりました。


イギリスが薩摩や長州の支援をしていましたが、いっぽう、幕府はフランスの支援を受け、軍備や技術の改革をしていました。

  • 大政奉還(たいせいほうかん)
徳川慶喜(とくがわ よしのぶ)

幕府の15代将軍・徳川慶喜(とくがわ よしのぶ)は、1867年に政権を朝廷にかえしました。土佐の藩主の山内豊信(やまのうち とよしげ)などが慶喜に朝廷に政権を返すことを助言しました。

この出来事のことを、つまり徳川幕府が朝廷に政権を返したことを大政奉還(たいせい ほうかん)と言います。

こうして、江戸幕府の約260年の時代は終わりました。

倒幕派は、幕府の再興をきらったので、政治を古来の天皇中心の政治にもどそうとして、王政復古の大号令(おうせいふっこの だいごうれい)を出した。

戊辰戦争(ぼしん せんそう)[編集]

戊辰戦争(ぼしん せんそう)
  • 鳥羽伏見の戦い(とばふしみ の たたかい)

慶喜は、新政府から領地の一部を国に返すように命じら、また慶喜は政治への参加が認められなかった。旧幕府はこれに反発し、京都の鳥羽(とば)・伏見(ふしみ)で戦い1868年に起こし、旧幕府軍と新政府軍との戦いになった。この戦いを、鳥羽・伏見の戦い(とばふしみ の たたかい)と言う。この鳥羽伏見の戦いで幕府軍はやぶれた。

  • 江戸城の無血開城(むけつ かいじょう)
西郷隆盛(さいごう たかもり)の想像図。エドアルド・キヨッソーネ作の版画(西郷の親戚を参考に想像で描写)
勝海舟(かつ かいしゅう)

新政府軍は、鳥羽伏見の戦いで幕府軍をやぶり、西郷隆盛ひきいる新政府軍は江戸へと進み、江戸城を戦わずにして開城(かいじょう)させた。無血開城(むけつかいじょう)という。江戸城の開城の交渉では、倒幕派の西郷隆盛(さいごう たかもり)が、幕府の勝海舟(かつ かいしゅう)とが話し合った。


  • 東北の平定と、北海道の平定

会津藩(あいづはん、今でいう福島県)は、江戸城の開城を不服とし、新政府軍とは対立した。また、東北の諸藩も、会津を支援した。江戸をおさえた新政府軍は北上し、会津藩の城を次々と落としていき平定していった。

五稜郭(ごりょうかく)の空中写真(1976年、国土航空写真)
五稜郭(ごりょうかく)

旧幕府軍は、会津の他にもいたので、新政府軍は、さらに北上し、新政府軍は1869年に北海道の函館(はこだて)の五稜郭(ごりょうかく)にたてこもった幕府軍をやぶり、榎本武明(えのもと たけあき)らのひきいる旧幕府軍は負けをみとめ降伏(こうふく)した。この江戸の北上から五稜郭までの一連の戦争を戊辰戦争(ぼしんせんそう)という。

戊辰戦争が終わり、新政府軍は日本国内を平定した。

関連項目[編集]