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中学校国語/現代文/説明文・評論文

出典: フリー教科書『ウィキブックス(Wikibooks)』
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連想と論証の区別を

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読解とかをするとき、いろいろと具体例をもとに説明するので、関連することを連想するでしょう。感想文や小論文などで「連想」が必要な場合もありますが、「連想は、論証とは違う」ということを自覚してください。

小学校と中学校の読解は、ここが違うでしょう(←仮説)。中学の説明文・評論文では、あなたの想像力だけでなく、作者という他人の想像と合わせて、読解をする必要があるのです(←知ったか振り、要検証)。

読解中の連想は、単なる仮説です。文章に関連することを連想するわけですから、なんらかの因果関係はあります。しかし、その思い浮んだ因果関係は、まだ仮説です。

読んでる作品の文章中で、その連想した仮説が紹介される場合もあれば、紹介されない場合もあります。


なぜ、こういう事をわざわざ言うかというと、世の中には、自分の意見に近い意見の感想だけを聞いて、それで論証したつもりになる人が、けっこう多いんです。また、民主主義での議会の決定手続きは、多数決ですから、てっきり多数の人の感想を聞いて、それで論証したつもりになる人も、けっこう世間には、います(←偏見)。

だから世間には、連想と論証の区別のついてない人が、結構たくさん、いるからです。自分の体験談とその時の感想を述べて、なにかを証明したつもりになっている人が、世間には、けっこう多いのです。

たとえば政治評論とかで、誰かが、なんらかの政策に不満を持ったとしましょう。その人が、その政策を不満に感じる切っ掛けになった体験談と、そのときの感想を述べたとします。それ自体は、国民の意見の一つとしての民主的価値があるので大切な意見なのですが、だからといって、誰かの感想を聞いただけで証明をしたつもりになってはイケマセン。

この例では政治評論を例に上げましたが、べつに政治評論や社会評論だけに限らず、ほかの様々な評論や説明文でも、連想と論証の区別を注意してください。

学問の研究の世界では、 < 自分の意見に近い意見の感想だけを聞いて、それで論証したつもりになる人 > ってのは、まったく相手にされません。

文化系の学問の研究ってのは、その感想とか連想とかを客観的な方法で検証することこそが、研究なのです。もちろん中学生では、まだ研究には早いですが、将来的には、そうなんだ、って事を知っててください。

だから中学校以上の国語の評論などでは、作者の意見と、世間の多数の意見とが、ときどき違う場合もあります。もちろん、あまり違わない場合もあります。

また、たとえ作者の意見と世間の意見が同じでも、その意見に辿りつくためのプロセスが世間の多数と違ってて、珍しいプロセスの場合もあります。そもそも、なんらかの珍しさがある意見だから、わざわざ教材などで紹介するわけです。


体験談とかにもとづく感想を述べたのは、エッセイとか随筆(ずいひつ)とかと言われるジャンルですね。古典で習う、清少納言の『枕草子』や兼好法師の『徒然草』も、随筆です。現代風に言えば、枕草子も徒然草も、エッセイです。それはそれで、価値があります。随筆も、国語で習うでしょう。随筆なんかだと、その価値は、体験の珍しさ、または感想の珍しさにこそあるわけです。

教科書で紹介される作品によっては、随筆と評論との区別が、付きづらい場合もあります。随筆の感想にも、感想の前提として何らかの価値観が付いていますから、価値観があれば意見を感じているはずで、随筆も、間接的に自分の意見を述べているジャンルになります。

随筆と評論との違いは、自分の感想の紹介を重点に負いたのが随筆かな? 評論は、その仮説の検証に重点を置いているのかな?

近代文学作家の作品では、作家名だけでは、評論なのか小説なのか随筆なのかは、判断できません。たとえば夏目漱石だって、評論を書いています。たとえば夏目漱石『私の個人主義』は、おそらく評論でしょう(『私の個人主義』は中学の範囲外なので、無理して読まなくてよい)。小説家の長文作品だって、評論の場合もあれば、随筆の場合もあるし、説明文の場合もあります(←べつに「夏目漱石がそうだ」とは言ってない、「夏目漱石が随筆を書いた」なんて言ってない。連想と論証の区別ってのは、こういうことだ)。

設問文をきちんと読もう

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説明文のテスト問題だと、(課題文ではなく)設問文も、理屈っぽいです。

たとえば、「筆者の主張を、文中で使われてる語句も書き出して用いて、20字以内の文章で、まとめて書け(句読点が必要なら、句読点をふくめて20字以内で)。」と設問文に書いてあったら、たとえ近い内容の15字ほどの名詞が文中にあろうが、それが解答ではなくて、きちんと文章まとめて書くことが解答です。

このような設問では解答のパターンが複数パターンありますが、条件1「筆者の主張」、条件2「文中で使われてる語句も書き出して用いて」、条件3「20字以内」、条件4「文章で」・・・という諸条件があるので、数個のパターンに限定される、というワケです。

たとえ「書き出して」と設問文に書いてあっても、けっして「筆者の主張と最も近い文中の語句を書き出せ」という設問ではなくて、わざわざ設問文で(語句)「も」とか助け船を書いてあるんだし、さらにわざわざ「まとめて」とも設問に書いてあるんだから、きちんと自分で言葉を考えてまとめて書かないと不正解にしてやるぞ〜、という設問なワケです。

このような設問は、高校受験では私立高校などの入試国語で出題される場合があります。このようなタイプの設問は、けっして「引っ掛け問題」でもなんでもなく、むしろ親切です。だって、わざわざ、「文章で」とか、設問に書いてあるんだし。

つまり出題する高校の意図は、「文章」と「名詞」「語句」の区別がつかない受験生の答案は、その区別の語彙力が無い時点で「国語力が低いなあ。語彙力もないし、文章と名詞の区別がついてないから、文法の理解も浅いぞ。よって、この答案を不正解にしてやる。」と判断するわけです。

なにも説明文・表論文に限ったタイプの設問ではなく、物語文などでも同様のタイプの出題される場合もあります。ですが、とくに説明文・表論文に、このようなタイプの問題が出る場合が比較的多いかもしれません(←推測)。

先ほど言ったように、このような自分で言葉を考える必要のある設問の場合、模範解答が複数パターンある場合もあります。

そして入試国語では、私立高校の入試なんかで、こういう模範解答が複数パターンの設問が出る場合があります。公立高校だと、税金で運営されている立場上、答えが複数パターンある問題は、出題しづらい場合があります。

そもそも、こういう公立高校などの採点の都合上があるので、だから入試過去問などでは模範解答が一個のパターンになるような「書き出し」タイプの問題が多いわけです。また、「書き出し」タイプの設問では、採点がほぼ機械的に反復作業で可能なので、大量の受験生を採点する必要のある公立高校入試では、答えが一個になる「書き出し」タイプの設問の場合が多いです。

しかし私立では、学校側に、採点の裁量権があります。(もっとも私立にも私学助成金はあるが・・・) また、他人の主張をまとめるタイプの問題は、出題者から見れば、受験生の読解力と語彙力や論理性を同時に測定できるので、難度が中堅レベル以上の学校では出題される場合もあります。

ただし、最近では不況による私立学校の経営上の都合上、採点するのに手間(つまり人件費)が掛かるので、もしかしたら今では複数パターンの答えのある設問が出題されづらいかもしれません。

また、入試はけっして現代文だけではないので、古典や他教科の受験対策もする必要があるし、なので現代文の読解の勉強時間には限界もあります。

なお、大学入試では、採点の手間の都合上、受験生が多いので、手間の掛かる、答案複数パターンな設問が出題されづらいかもしれません。また、センター入試では、選択問題しか出ないので、このような文章を書かせる設問は出ません。私大なら裁量権があるはずですが、マスコミなどでは「入試問題の答えは一つでなければならない。そうでない問題は悪問。」という考えが強いかもしれず、大学側もマスコミなどからの批判を恐れて、複数パターン解答の問題を出さないかもしれません。

高校入試国語よりも大学入試国語のほうが要求される分析力が浅いってのは、社会問題かもしれませんが(社会科の入試問題ではなく)、しかし現実として、こういう懸念があるでしょう。

おそらく大卒の資格が、いくつかの国家資格では要件や1次試験試験免除になってたりするので、大学入試では公平性の観点から「解答は1個だけ」タイプの設問が好まれるのでしょう。たとえ私大でも、法律上は国公立と同様に「大学」なので、というわけです。