中学校社会 歴史/平安時代/院政と平氏の台頭

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院政[編集]

(いんせい)

11世紀の半ばすぎごろになると、藤原氏の影響力は弱まり、藤原氏とは関係のうすい 後三条天皇(ごさんじょう てんのう) が即位した。天皇は、藤原氏の政治に不満をもつ貴族も用いて、政治の実権を天皇にもどした。こうして摂関政治は終わっていった。

後三条の子が次の天皇の 白河天皇(しらかわ てんのう)になり、同様に天皇中心の政治を行った。白河天皇は1086年(応徳(おうとく)3年)に、生存中に次の天皇の堀河天皇に位をゆずり、白河 元・天皇は上皇(じょうこう)として、上皇が政治の実権をにぎった(天皇や上皇が出家すると、法皇ともよばれる)。

上皇の住む住居が 院(いん) と呼ばれていたので、上皇による政治を 院政(いんせい) と言う。

(※ 後三条天皇は院政をしていない。院政をしたのは白河天皇。)

堀河天皇の死後は、白河の孫である 鳥羽天皇(とば てんのう) が即位する。この鳥羽天皇も鳥羽上皇になった。 鳥羽上皇の次は、後白河 元・天皇が後白河上皇(ごしらかわ じょうこう)となり、院政を行った。 このようにして院政が100年ばかり、続いていく。

いっぽう、摂関家だった藤原氏の権力は、おとろえていった。

さて、平安時代に、貴族や寺社の所有する荘園には税をおさめなくてもよいという、貴族につごうのいい権利がある。 税をかけさせない権利を不輸の権(ふゆのけん)と言い、荘園への国司など役人の立ち入りを拒否(きょひ)できる権利を不入の権(ふにゅうのけん)という。有力な貴族でない者の荘園は国司に取り上げられたり、他の豪族にうばわれることもあったので、そのような有力でない者は、朝廷の有力な貴族などに、形式的だが荘園を寄付(きふ)した。これを寄進(きしん) という。 院政のころには、上皇や皇族などに寄進される荘園が増えていった。

また、上皇が仏教を保護したこともあり、寺院に荘園が多く与えられた。

摂関政治のころは天皇の母方の摂関家が政治を支配していたが、院政になり父方の家系に政治の実権が移った。

平氏の台頭[編集]

  • 保元の乱(ほうげん の らん)

さて、天皇家の内部でも天皇と上皇との権力をめぐって対立が起きてくる。これにくわえて、藤原氏の内部の対立も加わり、ついに1156年(保元(ほうげん)元年)には戦乱となって、保元の乱(ほうげん の らん)が起きた。

上皇の側の崇徳上皇(すとく じょうこう)には、左大臣の藤原頼長(ふじわらの よりなが)、平氏の平忠正(たいらの ただまさ)、源氏の源為義(みなもとの ためよし)が、従った。

平清盛(たいらの きよもり)。 明治時代の画、菊池容斎の作。
厳島神社(いつくしま じんじゃ)。広島県。 平氏の一族は、一族の繁栄を厳島神社に願った。 国宝。世界遺産。

天皇の側の後白河天皇には、関白の藤原忠通(ふじわらの ただみち)、平氏の平清盛(たいらの きよもり)、源氏の源義朝(みなもとの よしとも)が、従った。

勝ったのは、後白河天皇の側である。 つまり平清盛と源義朝が加わった側が勝っている。


  • 平治の乱(へいじの らん)

保元の乱の後、1159年(平治(へいじ)元年)に、保元の乱での恩賞に不満をいだいた源義朝(みなもとの よしとも)が兵をあげて乱をおこしたが、平清盛らの軍に鎮圧される。これが 平治の乱(へいじの らん) である。源義朝の子の源頼朝(みなもとの よりとも)は、伊豆(いず、場所は静岡県)に流された。

この件により、平氏の影響力が強まった。

平氏の政権[編集]

清盛は、武士の力を利用しようとする後白河上皇との関係を深めます。 1167年(仁安(にんなん)2年)には、清盛は武士としては初めての太政大臣(だじょう だいじん)になります。

平清盛は、藤原氏の摂関政治のように、清盛の娘の徳子(とくこ)を、天皇の高倉天皇(たかくらてんのう)の后(きさき)にして、生まれた子を安徳天皇(あんとくてんのう)にさせ、平氏が政治の実権を得ていきます。

このようにして、平氏の一族が、朝廷での重要な役職を得ていき、権力をつよめます。


清盛は、宋との貿易を重視し、日宋貿易(にっそう ぼうえき)のための整備に、かかります。今でいう神戸にあった大輪田泊(おおわだのとまり)という港を改修します。日宋貿易により、日本には宋銭(そうせん)が多く入ってきた。 日本と宋との正式な国交は開かれておらず、これらの交易は、民間の交易である。

平氏の一族は栄え(さかえ)、 「平氏にあらずんば 人にあらず」 (意味:平氏の一族でなければ、その者は人ではない。) とまで言われるほど、平氏が栄えた。平氏は全国ほどの土地を支配した。

清盛は 海の神をまつっている厳島神社(いつくしま じんじゃ) を敬った(うやまった)。そして厳島神社の神を、平氏一族がまつるべき氏神(うじがみ)とした。

厳島神社には、『平家納経』(へいけ のうきょう)という、平家が一族の繁栄(はんえい)を願って納めた(おさめた)書が、納められている。

東アジアの情勢[編集]

中国[編集]

10世紀のはじめごろ、907年(延喜(えんぎ)7年)に唐がほろんで、多くの小国に分かれた。979年(天元(てんげん)2年)に(そう)が中国を統一した。 中国では、役人を登用するための試験の科挙(かきょ)が隋のころにつくられたが、宋になって科挙(かきょ)を整えた。

北宋銭(左上3枚)南宋銭(その他)

12世紀に宋は、北方におこった国である金(きん)との闘いにやぶれ、宋は都を長江(ちょうこう、チャンチヤン)の流域にうつし、これ以降の時代を南宋(なんそう)という。南宋に移る前の宋は、北宋(ほくそう)ともいう。

こうして中国の政治が中国南部にうつったため、中国南部の土地の開発がすすみました。

宋の文化では儒学が重んじられ、儒学の一派から、身分の秩序を重んじる朱子学(しゅしがく)がおこった。仏教では座禅を重んじる禅宗(ぜんしゅう)や浄土宗(じょうどしゅう)がさかんになった。

宋の陶磁器(とうじき)。青磁(せいじ)。

宋の技術からは、火薬羅針盤(らしんばん)、木版印刷(もくはん いんさつ)の技術が出来た。宋の産業では、の栽培や、陶磁器などの生産がさかんになった。美術では水墨画がさかんになった。


遣唐使のような役人などの留学は廃止されていたが、民間の商人たちの貿易はつづいた。宋で貨幣に用いられていた銅銭(どうせん)の宋銭(そうせん)は、日本にも輸入された。日本と宋との正式な国交は無く、民間での交易である。

日本で平清盛が支配する時代に、日本と貿易を行った宋は、南宋のほうである。


朝鮮半島[編集]

8世紀に新羅(しらぎ、シルラ)がおとろえ、10世紀の936年(承平(じょうへい)6年)に高麗(こうらい、コリョ)が新羅を滅ぼした。

高麗の産業では、陶磁器の生産がさかんになった。

平氏への反乱[編集]

平氏の独裁的な政治に、他の皇族や、上皇の院、ほかの武士などからの不満が高まっていく。それらが、のちに、平氏の打倒へと、つながる。

ついに1180年(治承(じしょう)4年)、皇族の 以仁王(もちひとおう) は、平氏を滅ぼすように命令を下す。以仁王は後白河法皇の子である。以仁王の命令を受け、各地で武士たちが平氏をほろぼそうと兵をあげた。

※ この乱がきっかけになり、平安時代が終わり、つぎの時代の鎌倉時代になる。説明の詳細は、次のウィキブックス単元 「中学校社会 歴史/鎌倉時代」 へ続く。