中学校社会 歴史/第二次世界大戦

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第二次世界大戦[編集]

ドイツとソビエトのポーランド侵攻直後(1939年)
青いところがドイツとイタリアの勢力圏。
緑色が、ソビエトの勢力。
赤いところがイギリスとフランスの勢力。
ドイツのフランス占領(1940年)
青いところがドイツとイタリアの勢力圏。水色のところが、枢軸国に支配された地域。
緑色が、ソビエトの勢力。
赤いところがイギリスの勢力。

第二次世界大戦の開戦へ[編集]

中国大陸で日中戦争が行われているころ、ヨーロッパではドイツが軍事力を背景にして、オーストリアやチェコスロバキア西部を併合した。

イギリスやフランスは、当初はドイツによる併合を認めていた。併合を認めていた理由は、ドイツの占領した地域がオーストリアなど民族的に近い国だったことや、ドイツが植民地を持たないこと、ソビエト連邦を封じ込めるためであった。しかし、ヒトラー率いるドイツは、その後、ポーランドの領土も要求した。イギリスとフランスは、ポーランドの支援を発表したが、ドイツはこれを無視した。

ドイツは、1938年8月にソ連と独ソ不可侵条約を結んだ上、1938年9月にドイツはポーランド西部に侵攻して占領した。そのため、ポーランドと同盟を結んでいたイギリスとフランスがドイツに宣戦布告[1]し、ドイツ対イギリス・フランスという列強どうしの戦争に発展した。ソ連もポーランド東部に侵攻して占領した。

このドイツによるポーランド侵攻をきっかけとして第二次世界大戦(英語: World War II)が始まった[2]。ただし、まだこのときはアメリカはイギリスの援助にとどまっていた。

第二次世界大戦の開戦後[編集]

ドイツ・イタリア、およびソ連の動向[編集]

1940年には、ドイツ軍は、デンマークとノルウェーを攻撃し占領した。さらにドイツはオランダおよびベルギーを攻撃。ドイツは1940年にはパリを占領し、フランスを降伏させた。そして、イギリス本土に上陸するためにイギリスへ激しい空襲を行う[3]

また、イタリアが、ドイツ側で参戦した。

いっぽう、独ソ不可侵条約をむすんでいたソ連はポーランドの東部を占領し、さらにフィンランドを侵略した。

アメリカ・イギリス・フランスの動向[編集]

1940年6月にフランスには親独政権が建てられた(ヴィシー政権)が、民間人は抵抗運動(レジスタンス)をつづけた。

1941年8月には、アメリカのルーズベルト大統領とイギリスのチャーチル首相との間に、大西洋憲章たいせいよう けんしょうが結ばれた。ドイツに対抗して戦うことを確認した憲章である。このドイツとの戦いを、ファシズム国家による侵略から民主主義を守るための戦い、と宣言した。

日本の動向[編集]

1936年、共産主義国であるソ連に対抗するための、日独防共協定にちどく ぼうきょうきょうていが日本とドイツとの間に結ばれた。また1937年11月にはイタリアが加入し、日独伊防共協定にちどくい ぼうきょうきょうていが結ばれた。

しかし1939年にはドイツとソビエトとの間で、独ソ不可侵条約がむすばれたため、防共協定は、いったん実効性がなくなった。

日本は、ドイツが勝利をつづけていることから、1940年にドイツとイタリアと同盟を結んだ。この三国の軍事同盟を日独伊三国軍事同盟にちどくい さんごく ぐんじどうめい[4](独:Dreimächtepakt、伊:Patto tripartito)が1940年に結ばれた。

この日独伊三国同盟によって、ドイツとの戦争の最中だったイギリスと、イギリスを支持するアメリカと日本との対立は決定的となった。

ユダヤ人の運命[編集]

アンネ=フランク
アウシュビッツ第2収容所。(世界遺産)

ドイツはナチスの政策にもとづき、占領地ではユダヤ人を迫害し、多くのユダヤ人を捕らえ、アウシュビッツ(ポーランド)の収容所など、各地の収容所に送った。ユダヤ人は収容所などで強制労働させられたり、処刑された。このため、ナチスの迫害から逃げるため、多くのユダヤ人が隠れて住んだり、あるいはアメリカなどに亡命ぼうめい[5]した。

このユダヤ人への迫害のようすを伝える史料として、ユダヤ人の少女アンネ=フランクが書いた日記が有名である。アンネは衰弱のため、収容所内にて15歳で亡くなった。

杉原千畝すぎはら ちうね

いっぽう、リトアニアの日本領事館にはドイツに追われたユダヤ人が集まっていた。リトアニアの日本領事館の外交官であった杉原千畝(すぎはら ちうね)は、同盟国ドイツの意向に反して、杉原は人道の観点からユダヤ人をアメリカなどに逃がそうとして、途中経路の日本入国のビザを発給した。このため、約6000人のユダヤ人が命をすくわれた。杉原は毎日、ビザを書きつづけたという。

樋口季一郎(ひぐち きいちろう)

このほか、中国の上海などに逃げようとしていたユダヤ人が、満州国が入国をしぶったために足止めされていたので、日本の陸軍のハルビン機関長の樋口季一郎(ひぐち きいちろう)は、独断で列車の手配をして、通行させた。

なお、救出されたユダヤ人の人数については、史料ごとに人数が違っており、正確な人数は、よく分かっていない。


[編集]

  1. ^ 「これから、◯◯の国に戦争をしかける」という内容の宣言をすること。宣戦布告をする場合は、一般に、銃撃などの実際の戦闘行為をする前に宣戦布告を宣言することが、国際道徳的には望ましいとされている。
  2. ^ これに、日中戦争と後の太平洋戦争も加える。
  3. ^ この戦いをBattle of Britainバトル・オブ・ブリテンという。
  4. ^ 日独伊三国同盟ともいう。
  5. ^ 不当な迫害はくがいを逃れるために、外国に逃げること。特に、民族差別や宗教差別、あるいは政治活動への弾圧などによる迫害から逃れるために外国に逃げることを言う場合が多い。

太平洋戦争[編集]

中国戦線の行き詰まりと日米の対立[編集]

第二次世界大戦が始まった1939年は、日本は中国と戦争をしている最中だった。この頃には、戦争の範囲が拡大しすぎて日本にとっては収拾がつかない状態になっていた。また、アメリカやイギリスは中華民国の蒋介石を支持し、東南アジアなどの植民地から中国を支援していた。そのため、すぐに中国は降伏すると考えていた日本の目論見ははずれ、戦争が長期化していた。日本軍の侵攻は中国の主権と独立の尊重などを取り決めた条約(九カ国条約)違反であるとされ、国際的な孤立も深まった。

日中戦争の行きづまりを解決するため、アメリカやイギリスによる中国への支援ルート(援蒋ルート)を断ち切ろうとした。石油・ゴム・錫などの資源の確保も重要だった。そのため、1939年に日本軍は東南アジアへの足がかりを求めて中国南部へと侵攻した。その結果、米・英・仏は警戒を強め、アメリカは日本に対して経済制裁を始めた。

1940年に入ると、ヨーロッパでドイツが次々と勢力を拡大していた。フランスはドイツに降伏し、ドイツに友好的な政権(ヴィシー政権)が建てられた。それに不満を持つフランスの軍人や政治家たちはイギリスに亡命していたが、このころはほとんど力を持っていなかった。オランダも国土が占領されて政府はイギリスに亡命していた。イギリスもドイツ軍の空襲を受け、激しい戦いとなっていた。

こうしたヨーロッパの状況を見た日本は東南アジアへの侵攻を進めた。そのために、1941年、ソ連と日ソ中立条約を結び、北方の安全を確保した。そして、1940~41年にかけてヴィシー政権の要請を受けるという形をとって日本軍はフランス領インドシナ(ベトナム・ラオス・カンボジアの辺り)に進駐する。アメリカは日本の行動を侵略的な行動と認定し、日本への石油の輸出を全面禁止した。

アメリカにくわえ、オランダやイギリスや中国も、同様に日本への輸出を制限していたので、当時の日本政府やマスコミは、アメリカ(America)、イギリス(Britainブリテン)、中国(Chinaチャイナ)、オランダ(Dutchダッチ)の4カ国の頭文字をとって「ABCD包囲網エービーシーディー ほういもう(または「ABCD包囲陣」)」と呼び、日本の危機を宣伝した。

日本の近衛内閣は、アメリカと交渉を進める一方、1941年の10月上旬までに交渉が上手くいかなければアメリカ・イギリスとの戦争を始めるという方針を固めた。このときの日本の要求は以下のようなものだった。

  1. 米英は日中戦争に口を出さないこと。
  2. 日本の物資の獲得に協力すること。
  3. 米英がこれに応じればフランス領インドシナから撤退する。

これに対して、1941年11月26日にアメリカは日本に対して以下のような要求をつきつけた。

  1. 日本軍の中国・フランス領インドシナからの完全な撤退。
  2. 蒋介石政権の承認と満州国などの日本が建てた傀儡かいらい政権[1]の否定。
  3. 事態を満州事変以前に戻すこと。

このときのアメリカからの要求を「ハル・ノート」(英:Hull note)という[2]

当然、日米交渉は完全に決裂した。

太平洋戦争[編集]

東条英機(とうじょう ひでき)

こうして、打つ手を完全になくした近衛文麿このえ ふみまろは首相を辞職し、陸軍大将の東条英機とうじょう ひできが新たに首相となった。そして、1941年12月1日にアメリカ・イギリスとの戦争を正式決定した[3]

真珠湾攻撃で炎上中のアメリカ海軍の軍艦。(戦艦せんかんウェスト・バージニア。)
※ 艦名(ウェスト・バージニア)は中学教科書には無いが、ネット検索用に記述した。
日本による占領地域の拡大(1937年から1942年)

1941年の12月8日に、日本海軍がアメリカのハワイの真珠湾しんじゅわん(英:Pearl Harbor パールハーバー )にあるアメリカ海軍の基地を奇襲攻撃(真珠湾攻撃しんじゅわん こうげき(英語:Attack on Pearl Harbor))した。真珠湾攻撃の約1時間前には、日本陸軍がマレー半島のイギリス領に上陸し、イギリス軍との戦闘がはじまった。こうして、 主に日本とアメリカ・イギリスが中心となった太平洋方面の戦争を、太平洋戦争(英語:Pacific War または Asia-Pacific War)という[4]

真珠湾攻撃では、航空機によるアメリカ軍基地やアメリカ軍艦への攻撃が、大きな戦果をあげた。その後まもなく発生したイギリス軍との海戦でも日本軍の航空機が活躍したため、日米の海軍では航空機が重視されるようになる。

この奇襲攻撃のあと、アメリカ政府は日本の外交官から日本の宣戦布告の知らせを聞いた。このため、アメリカ国内では、日本の奇襲攻撃は、だましうちだとして、アメリカで反日的な意見が強まっていった。「Remember Pearl Harborリメンバー・パールハーバー」(意味:真珠湾を忘れるな! )が、アメリカでのスローガンになった。

日本のアメリカとの開戦後、ドイツ・イタリアもアメリカに対して宣戦した。こうして、日本・ドイツ・イタリアの3カ国を中心とする陣営(枢軸国すうじくこく)と、アメリカ合衆国、イギリス、フランス、ソビエト連邦、中華民国を中心とする陣営(連合国れんごうこく)とが戦争するという形になった。

開戦当初、アメリカ・イギリスなどは戦争の準備が十分にできていなかったうえ、アメリカ海軍は真珠湾攻撃で大きな被害を受けていた。このため、日本軍は次々と勢力を拡大することができた。その際、日本は列強諸国によるアジアの植民地を解放するというスローガンを掲げた。そのため、当時の日本では大東亜戦争だいとうあ せんそうとよんだ[5]

このように、日米戦争の開戦のはじめごろは日本が有利だった。だが、1942年にミッドウェー海戦で、日本は空母くうぼ[6]を4隻失うなどし、アメリカに大敗した。このミッドウェー海戦の以降、アメリカが優勢、日本は劣勢となる。その後、ガダルカナル島の戦いなどを経て、日本軍は各地で敗北し、当初の占領地の多くを失うだけでなく、太平洋戦争以前から日本が統治していた地域にもアメリカ軍が迫ってきた。

また、日本軍は食料や物資などの補給を軽視したこともあり、そのため戦況が悪化すると、いくつもの戦場で日本兵が餓死した。

なお、日本政府では、戦局せんきょくの悪化にともない、議会では首相の東條英機の指導力をうたがう意見が強くなる。サイパンが米軍に占領されて日本がアメリカ軍の空襲範囲に入ると、東條は議会の政治家からの支持も失い、1944年(昭和19年)7月に東條内閣は総辞職に追い込まれた。

大東亜共栄圏とその実態[編集]

大東亜会議の出席者
軍票(ぐんぴょう)。 軍票とは、占領地で貨幣として使うための特殊な紙幣。日本だけでなく、多くの交戦国が、それぞれの占領地で軍票を使った。写真は、太平洋戦争中に、南太平洋地域で日本軍が使用した1シリング軍票(1942年)。

日本にとっての太平洋戦争の目的の一つは東南アジアの資源の確保だった。しかし、日本は、表向きの戦争の正当化の理由として、ヨーロッパ諸国による東南アジアでの植民地支配の打倒と、現地住民の支配からの解放の理念をかかげた。それを大東亜共栄圏だいとうあきょうえいけんとよんだ。

当時の東南アジアの地域の人々は、すでに独立運動を始めていた。独立運動の指導者たちは日本と利害が一致したので、当初は日本軍に協力した。

しかし、日本軍が支配するようになると、独立運動をおさえこんだり、資源の独占を行ったり、ゴムやジュートなどの軍事的に必要な作物への転換を強制したりするようになった。また、強制労働にアメリカ・イギリスなどの捕虜ほりょ以外に現地の人々を動員したが、厳しい労働と少ない食料などから多くの犠牲者を出した。日本軍は補給を軽視したこともあり、日本軍は占領した各地で物資を略奪した。このため、今度は日本への不満が高まった。

1943年には、東京で大東亜会議だいとうあ かいぎをひらく。これは1941年8月にアメリカ・イギリスが発表した大西洋憲章に対抗するという目的もあった。タイ、満州、ビルマ、フィリピン、インドなどの代表をあつめ、欧米からの植民地支配の解放などをうたった大東亜共同宣言だいとうあ きょうどうせんげんを発表した。しかし、日本軍による厳しい統治にはかわらなかった。

日本の劣勢が明らかになると、各地で日本に対する不満がゲリラなどの形でふき出してきた。ビルマ(現・ミャンマー)のように抗日組織が結成され、大規模な武装蜂起ぶそうほうきを起こした地域もあった。

[編集]

  1. ^ 「傀儡」は操り人形のこと。転じて、日本の言いなりとなる政権のこと。
  2. ^ アメリカの国務長官コーデル・ハル(Cordell Hull)の名が由来。
  3. ^ ただし、11月5日には開戦が事実上、決定していたという見方が強い。
  4. ^ 現在の日本政府もこの名前を用いているので、テストなどではこの戦争は「太平洋戦争」と書いておけばいいだろう。なお、日中戦争から連続し、太平洋だけではなく、東南アジア・インドまで広がった戦争であることを明確にした「アジア太平洋戦争」という呼称が学術的には広く使われている。
  5. ^ この呼び方は戦後にGHQによって禁止された。現在ではこの戦争に肯定的な人が主に「大東亜戦争」と呼ぶ傾向がある。
  6. ^ 海上で戦争用の航空機を運ぶための軍艦のこと。

日本の敗戦へ[編集]

イタリア・ドイツの敗戦[編集]

出来事
1941年 6月 ドイツ軍が独ソ不可侵条約を破ってソ連へ侵攻する。
1942年 6月 スターリングラード攻防戦。
1943年 2月 スターリングラードのドイツ軍降伏。ドイツ軍は大打撃を受ける。
1943年 7月 連合軍のシチリア上陸。ムッソリーニ失脚。
1943年 9月 イタリア降伏。
1944年 6月 アメリカ・イギリス連合軍がフランスのノルマンディーに上陸。
1944年 8月 パリ解放。ヴィシー政権崩壊。
1945年 4月 ヒトラー自殺。
1945年 5月 ドイツ降伏。

第二次世界大戦の開戦直後はドイツ軍が圧倒的な速さで各地を侵攻したが、イギリスへの上陸はできなかった。そのため、方針を転換し、1941年6月に不可侵条約を結んでいたソ連へと攻め込む(独ソ戦)。ドイツが攻めこんでくることを予想していなかったソ連は敗北を重ねるが、首都のモスクワの手前で踏みとどまり、激しい抵抗を行った。そして、1942~43年のスターリングラード攻防戦でドイツ軍は大敗し、ソ連がドイツ占領地へ侵攻を始めた。

ヨーロッパ西部でも、1944年にアメリカ・イギリス連合軍がフランス北西部のノルマンディーに上陸した。こうして、ドイツはアメリカ・イギリスとソ連にはさみうちにされた。そして、1945年4月30日にヒトラーが自殺し、5月2日にはドイツの首都ベルリンがソ連軍に占領される。1945年5月7日、ドイツは連合国に無条件降伏した。

イタリアは1943年7月に連合軍がシチリアに上陸・制圧したことで、ムッソリーニは失脚に追い込まれる。1943年9月にはイタリアは連合国軍に降伏した。

こうして、ヨーロッパでの戦闘は終わった。

ヤルタ会談
 (中央ソファー左から)会談に臨むチャーチル(イギリス代表)、フランクリン・ルーズベルト(アメリカ代表)、スターリン(ソ連の代表)。

アメリカ・イギリス・ソ連の代表は、1945年2月にソ連のヤルタで、ドイツの戦後処理について話していた( ヤルタ会談(ヤルタかいだん))。

このヤルタ会談では、日本との戦争の対応についても話し合われ、密約として、ソ連の対日参戦も決定していた。そして、千島列島と樺太をソ連が領有することが密かに認められた。

そして3カ国の代表は1945年7月には、日本の降伏条件についてドイツのポツダムで会談して話し合い、ポツダム宣言をまとめた。そして中国の同意を得て、アメリカ・イギリス・中国の名でポツダム宣言を発表した。

しかし、この7月のときは、日本はポツダム宣言を受け入れなかった。

日本の敗戦[編集]

  • 学徒出陣

戦争で日本が不利になるにつれて、兵士が足りなくなっていった。そして1943年には、それまで徴兵(ちょうへい・・・兵士として、動員すること。)をされていなかった文科系(ぶんかけい)の大学生も、兵士として動員された。これを学徒出陣(がくと しゅつじん)という。(理科系の大学生は、徴兵されなかった。)

  • 勤労動員(きんろう どういん)

理科系の学生も、工場などで働かされた。また女学生なども「挺身隊」(ていしんたい)として、さまざまな場所で働かされた。 中学生なども、働かされた。このように、学生なども働かせたり、場合によっては男子学生などは兵士として出陣させることをふくめて「勤労動員」(きんろう どういん)と言った。

  • 植民地

朝鮮や台湾でも動員。朝鮮や台湾でも、志願兵や徴兵などを実施。 日本本土では労働力不足だったので、朝鮮などの植民地から日本に連れてこられて働かせられた人もいる。

  • 空襲(くうしゅう)と疎開(そかい)

ミッドウェー海戦で日本が敗れると、戦争はアメリカに有利に進んでいった。そしてアメリカ軍がサイパン島を占領すると、このサイパン島から飛び立ったアメリカ軍の爆撃機(ばくげきき)のB29によって、日本の各地が空襲で攻撃されるようになる。

(※ 資料集にある話題) B29は焼夷弾(しょういだん)を投下して、東京の多くの場所を焼き払った。なお、高度4000メートルもの、普通の飛行機では到達できない高さを、B29は飛んでいる。なお、焼夷弾とは、建造物などを焼き払うために、炎を吹き出す爆弾。燃えやすいように、油などが焼夷弾の中に入っている。
(※ 資料集にある話題) 東京に対する、焼夷弾による爆撃作戦を指揮した軍人は、カーチス・ルメイという人。

学童疎開(がくどう そかい)

都市が空襲の目標になることが多かったので、都市に住んでいる子どもたちは、空襲の危険からのがれるため、両親からはなれて地方へと移り住む(うつりすむ)、疎開(そかい)をさせられた。
  • 東京大空襲(とうきょう だいくうしゅう)
東京大空襲で焼け野原となった東京。

1945年3月10日に、アメリカ軍の航空機が、焼夷弾などによって東京を空襲した。この東京大空襲(とうきょう だいくうしゅう、英:Bombing of Tokyo)では、約10万人の人が亡くなった。

民間人への爆撃である無差別爆撃(むさべつ ばくげき)は、戦時国際法(せんじ こくさいほう、英: Law of War)に違反している。

東京だけでなく、日本全国の主要な都市が空襲にあい、多くの人命が失われた。

  • 沖縄戦(おきなわせん)

1945年4月1日には、アメリカ軍が沖縄(おきなわ)本島(ほんとう)に上陸し、日本軍と地上戦になった。(沖縄戦)  沖縄県民の約12万人が亡くなった。沖縄県民のうち約5分の1から4分の1が亡くなった。また、日本軍によって、集団自決をせまられた沖縄県民も多くいたという。

沖縄戦では日本の中学生も日本兵として動員された。日本の女学生は看護婦などとして動員された。 最終的に日本軍はアメリカ軍に負け、沖縄はアメリカに侵略された。


ガマ(どうくつ)

沖縄では、日本軍や現地住民(もちろん日本人)は、洞窟に立てこもって、米兵との戦闘をつづけた。沖縄の方言で洞窟のことを「ガマ」というので、そのような立てこもりのための洞窟も「ガマ」と呼ばれている。沖縄のこれらの洞窟は、もとから自然に沖縄にあった洞窟である。

米軍は、火炎放射器をつかい、洞窟の外に立って、洞窟のなかを炎で攻撃した。


沖縄からの疎開について

(※ 帝国書院の教科書などに記載あり。高校日本史だが東京書籍の教科書にもある。)

1944年になると、沖縄での戦闘が始まる可能性が高くなり、沖縄の住民たちは疎開(そかい)のため九州や台湾に移動した。

その間、アメリカ軍の潜水艦によって、疎開する学童を多く乗せた対馬丸(つしままる)が撃沈されるという悲劇もあった。

そして1945年3月に東京沖の硫黄島が、米軍によって陥落し、米軍は攻撃の先を沖縄に変えた。 そして1945年4月には、既にアメリカ軍が沖縄本島の中部西海岸(現在、嘉手納(かでな)飛行場のある辺り)に上陸していた。

沖縄には、アメリカ軍の軍艦からの艦砲射撃や、航空機からの爆撃が行われ、地元の人々は、洞窟などに避難するしかなかった。しかし、そのような洞窟も数や場所がかぎられ、地元の人々のなかには、砲弾などの降りそそぐ中で危険な野山をさまよわざるを得ない者たちもいた。



捕虜(ほりょ)への投降(とうこう)について

沖縄にかぎらず、戦争当時の日本では、捕虜(ほりょ)への投降(とうこう)について、「捕虜になっても、米軍に虐待(ぎゃくたい)されて悲惨(ひさん)な目にあうから、捕虜にならず最後まで戦え」などのような内容の教育を日本人はされた。


集団自決について

検定教科書の範囲外だが、集団自決には別の説もある。教科書にない説では、1940年代の当時の法律では、軍人の死者には遺族年金(いぞくねんきん)などの補償金が出るが、軍隊関係でない一般の民間人の死者は補償外だったために年金などは支給されなかった。なので、多くの民間人死者が出た沖縄で、民間人にも補償を適用させるために「集団自決をした」ことで軍命令ということにして、補償金を与えるために作り話をした、という説もある。

この説(民間人に年金を払わせるため、という説)が本当かどうか、まだ歴史学では分からない。このように、歴史はうのみにせず、ときには自分の頭で考えることが大切である。どちらにせよ、痛ましい話である。軍から集団自決を命じられた場合でも、軍命令でなく自決した場合でも、あるいは戦災によって死んだ場合でも、多くの人が死んでしまったことに、かわりはない。


沖縄での住民殺害や自決について

洞窟に沖縄住民とともに隠れた日本軍は、泣きやまぬ乳幼児がいると、米軍に発見されないためにと、乳幼児(にゅうようじ)を殺害したという。

禁止されていた方言を話した地元住民が、スパイ容疑で殺害されたりもしたという。

また、各地での自決には、兵士などから配られた手榴弾(しゅりゅうだん)などが用いられたという。


沖縄での戦闘の終了まで

1945年6月23日に、日本軍の現地司令官は、もはや日本軍は力つきたとして、自決した。こうして、日本軍の組織的な抵抗は終わったが、しかし、日本軍の一部はその後も沖縄各地にひそんで、戦闘はその後も続いた。

終戦の日の8月15日をむかえても、沖縄での戦闘はおわらず、9月7日ごろまで、戦闘は続けられた。

  • 原子爆弾(げんしばくだん)
長崎に投下された原子爆弾のキノコ雲
1945年8月9日
原爆投下後の広島のようす。

アメリカは1945年の8月6日に広島に原子爆弾(げんし ばくだん、 略して原爆(げんばく)とも言う。 )を おとした。広島の街は一瞬で破壊され、広島では10万人をこえる一般市民が亡くなった。 また9日には長崎に原子爆弾が落とされ、8万人ほどが亡くなった。

  • ソ連の参戦

8月8日、ソビエトは日ソ中立条約をやぶって満州に攻めこんだ。

  • ポツダム宣言

日本は、アメリカ・イギリス・中国(中華民国)・ソビエトの代表が決めた宣言で日本の降伏の条件である ポツダム宣言(ポツダムせんげん、英語: The Potsdam Declaration) を1945年8月14日に受け入れ、日本は降伏した。

ポツダム宣言では、日本軍の無条件降伏(むじょうけん こうふく)、という条件を定めている。

1945年(昭和20年)の8月15日には、ラジオ放送で天皇が国民に、日本の降伏を発表した。このときのラジオ放送を玉音放送(ぎょくおん ほうそう)と言う。

こうして日中戦争や太平洋戦闘をふくむ第二次世界大戦は終わった。

   ポツダム宣言(要約、抜粋、現代語訳)

6: 日本国民をだまして世界征服に乗り出すといった過ち(あやまち)を犯した者たちの権力を、永久に除去する。
7: (上記の6条のような)新たな秩序が建設され、(日本の)戦争の遂行能力がなくなると確信できるまでは、連合国は日本を占領する。
8: 日本国の主権がおよぶ領土は、本州・北海道・九州・四国および、連合国の決定する島だけに限る。


10: われら連合国は、日本人を奴隷化することはしないし、日本を滅亡させることもしない。しかし、日本の戦争犯罪人には厳重な処罰をくわえる。日本政府は、日本国民の間の民主主義を復活させなければならず、そのため言論・宗教・思想の自由および基本的人権を確立させなければならない。
  • 韓国の独立

いっぽう、かつて日本に併合されていた朝鮮半島では、1945年9月2日に、北緯38度より北にソ連軍が進出してソ連に占領され、また朝鮮半島の南半分にはアメリカ軍が進出してきた。1948年に朝鮮半島で半島の南側には大韓民国(だいかん みんこく)が独立し、同じ年に半島の北側では北朝鮮(「きたちょうせん」、正式名称は朝鮮民主主義人民共和国(ちょうせん みんしゅしゅぎ じんみん きょうわこく) )が独立する。

  • 満州国の消滅

満洲はソ連軍の軍政下に入り、そのあと中華民国に渡された。

  • シベリア抑留(よくりゅう)問題

日本のポツダム宣言受諾の通告の時期よりも前、ソビエトは1945年の8月8日に満州に侵攻し、ソ連軍は攻撃や略奪(りゃくだつ)をおこなった。ソビエト軍につかまった日本人は、軍人や民間人をとわず、満州にいた日本人はシベリアなどのソ連領に連行されて、奴隷(どれい)のような労働力として日本人が酷使(こくし)された。( シベリア抑留(シベリアよくりゅう)  ) このため、6万人以上の日本人が死亡した。

このソ連によるシベリア抑留は、ポツダム宣言に違反した行為である。ポツダム宣言の条件文は、日本への条件だけでなく、戦勝国どうしにも条件をつけている宣言であり、その約束にソ連は違反しているのである。ポツダム宣言の第9項目では、武装解除した日本兵は日本に送りかえすことを、連合国どうしで約束しているのである。

 ポツダム宣言
九 、日本国軍隊は完全に武装を解除せられたる後、各自の家庭に復帰し平和的かつ生産的の生活を営むの機会を得しめらるべし。


  • 台湾

台湾は、中華民国に編入された。


太平洋戦争に関する用語

教科書には書かれてない用語でも、戦争に関する用語で、常識的に中学生が知って置かなけばならない単語が、いくつかある。

※ たぶん、学校でも教師が口頭で説明するか、あるいは資料集などの副教材などで習うだろう。
「大本営発表」(だいほんえい はっぴょう)

戦時中、日本政府は、ミッドウェーなどの敗北で戦況が不利になっても、国民の戦意(せんい)を低下させないために、ウソの発表をしたり、表現をあかたも勝利してるかのように新聞などでの表現を変えさせた。

たとえば、実際には日本軍が退却していても、あたかも単に軍の進行の方角を変更しただけのように「転進」(てんしん)と発表したりした。

「大本営」(だいほんえい)とは、戦時中の日本軍の本部のこと。

現代では、権力者による、信用できない発表のことを「大本営発表」(だいほんえい はっぴょう)という。


ゼロ戦
※ 資料集で名前だけ紹介されてたりする。
のちにアメリカで復元されたゼロ戦

ゼロ戦(ぜろせん)とは、日本海軍の艦隊戦闘機の一種。「零式艦上戦闘機」(れいしき かんじょう せんとうき)が正式な名称。

性能がなんか良かったらしい。(中学生・高校生は深入りする必要は無い。)


特攻隊(とっこうたい)

日本軍が戦争末期にとった戦法で、航空機などによる体当たり的な戦法である。「特別攻撃隊」の略。航空機による体当たり戦法の「神風特攻隊」(しんぷう とっこうたい)が有名である。当然、パイロット(の日本兵)は死ぬのが普通な、危険な戦法。

※ じつは特攻隊には、航空機による特攻のほかにも、人間魚雷「回天」(かいてん)による特攻もある。細かいハナシになるので、中学の教科書では教えないのだろう。高校の『日本史』用語集に、「回天」まで書いてある。
※ ときどき、知識不足の人が、まちがい知識で「ドイツ軍は戦況が不利になっても特攻作戦を行わなかった」とか言ったりして日本の特攻を批判する場合がある。しかしドイツ軍は第二次大戦で、航空機によるエルベ特攻隊を組織している。


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