中学校社会 歴史/第二次世界大戦

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第二次世界大戦と太平洋戦争[編集]

第二次世界大戦[編集]

ドイツとソビエトのポーランド侵攻直後(1939年)
青いところがドイツ。
緑色が、ソビエトの勢力。
赤いところがイギリスやフランスの勢力。
ドイツのフランス占領(1940年)
青いところがドイツ。水色のところが、最終的にドイツに占領された場所。
緑色が、ソビエトの勢力。
赤いところがイギリスの勢力。

中国で日中戦争が行われているころ、ヨーロッパでは、ドイツ・イタリアと、イギリス・フランスとの間に1939年に戦争が起きた。この1939年のドイツとイギリス・フランスとの戦争に、アジア地域で行われていた日中戦争をくわえて、第二次世界大戦(だいにじ せかいたいせん,英語: World War II)と言う。

アメリカはイギリスの援助にとどまり、まだ、この1939年のときには、アメリカは戦闘には参加していない。 きっかけは、ドイツが1939年9月にポーランドに侵攻したことで、ポーランドと同盟を結んでいたイギリスとフランスが、ドイツに宣戦布告した。 こうして第二次世界大戦(だいにじ せかいたいせん)が始まった。


用語

宣戦布告 ・・・ 「これから、◯◯の国に戦争をしかける」という内容の宣言をすること。宣戦布告をする場合は、一般に、銃撃などの実際の戦闘行為をする前に宣戦布告を宣言することが、国際道徳的には望ましいとされている。

(※ 範囲外: )日常語で「宣戦布告」という場合には、対立する相手に直接言う場合が多いが、しかし法的には、宣戦布告はかならずしも相手国に直接言う必要はない。法的には、宣戦布告の方法としては、第三国や中立国などに向けて宣言する事で、攻め込もうとする相手国に知らせてもいい。


第二次世界大戦の開戦までの、いきさつ[編集]

ドイツによる領土拡大[編集]

ドイツは、軍事力を背景にして、オーストリアや、チェコスロバキア西部を併合した。

イギリスやフランスは、当初はドイツによる併合を認めていた。併合を認めていた理由は、おそらく、ドイツの占領した地域がオーストリアなど民族的に近い国だったことや、ドイツが植民地を持たないことや、ソビエト連邦を封じ込めるための理由であろう。 しかし、ヒトラー率いるドイツは、その後、ポーランドの領土を要求した。イギリスとフランスは、ポーランドの支援を発表したが、ドイツはこれを無視した。

ドイツは、1938年8月にソ連と独ソ不可侵条約を結んだ上、1938年9月にそしてドイツはポーランド西部に侵攻して占領した。そのため、ポーランドと同盟を結んでいたイギリスとフランスがドイツに宣戦布告し、ドイツ対イギリス・フランスという列強どうしの戦争に発展した。ソ連もポーランド東部に侵攻して占領した。

こうして、第二次世界大戦が始まった。

第二次世界大戦の開戦後[編集]

ドイツの動向[編集]

1940年には、ドイツ軍は、デンマークとノルウェーを攻撃し占領した。さらにドイツはオランダおよびベルギーを攻撃。ドイツは1940年にはパリを占領し、フランスを降伏させた。フランスでは民間人が抵抗運動(レジスタンス)をつづけた。ドイツは、ヨーロッパの多くの地域を占領した。

また、イタリアが、ドイツ側で参戦した。


いっぽう、ソビエトは事前の1939年8月にドイツと独ソ不可侵条約(どくソ ふかしん じょうやく)をむすんでいた。ソ連はポーランドの東部を占領し、ドイツとソビエトでポーランドの東西を分割した。またソ連はフィンランドを侵略した。

ユダヤ人の運命[編集]
アンネ=フランク
アウシュビッツ第2収容所。(世界遺産)

ドイツはナチスの政策にもとづき、占領地ではユダヤ人を迫害し、多くのユダヤ人を捕らえ、アウシュビッツ(ポーランドにある)の収容所など、各地の収容所に送った。ユダヤ人は収容所などで強制労働させられたり、処刑された。このため、ナチスの迫害から逃げるため、多くのユダヤ人が隠れて住んだり、あるいはアメリカなどに亡命(ぼうめい)した。


用語
亡命(ぼうめい) ・・・ 不当な迫害(はくがい)を逃れるために、外国に逃げること。特に、民族差別や宗教差別、あるいは政治活動への弾圧などによる迫害から逃れるために外国に逃げることを言う場合が多い。


このユダヤ人への迫害のようすを伝える史料として、ユダヤ人の少女アンネ=フランクが書いたとされる日記が有名である。アンネは衰弱のため、15歳で亡くなった(アンネ自身は処刑されてない)。

杉原千畝(すぎはら ちうね)

いっぽう、リトアニアの日本領事館にはドイツに追われたユダヤ人が集まっていた。リトアニアの日本領事館の外交官であった杉原千畝(すぎはら ちうね)は、同盟国ドイツの意向に反して、杉原は人道の観点からユダヤ人をアメリカなどに逃がそうとして、途中経路の日本入国のビザを発給した。このため、約6000人のユダヤ人が命をすくわれた。杉原は毎日、ビザを書きつづけたという。

樋口季一郎(ひぐち きいちろう)

このほか、中国の上海などに逃げようとしていたユダヤ人が、満州国が入国をしぶったために足止めされていたので、日本の陸軍のハルビン機関長の樋口季一郎(ひぐち きいちろう)は、独断で列車の手配をして、通行させた。

(※ 『つくる会』および育鵬社の教科書に、樋口の記述がある。)

なお、救出されたユダヤ人の人数については、史料ごとに人数が違っており、正確な人数は、よく分かっていない。


アメリカ・イギリスの動向[編集]

1941年8月には、アメリカのルーズベルト大統領とイギリスのチャーチル首相との間に、大西洋憲章(たいせいよう けんしょう)が結ばれた。 ドイツに対抗して戦うことを確認した憲章である。このドイツとの戦いを、ファシズム国家による侵略から民主主義を守るための戦い、と宣言した。


日本の動向[編集]

いっぽう、中国大陸では、日中戦争がつづいていた。

日本は、ドイツが勝利をつづけていることから、1940年にドイツとイタリアと同盟を結んだ。

すでにドイツとイタリアが同盟をむすんでいたので、これに日本も加わった日独伊三国軍事同盟(にちどくい さんごく ぐんじどうめい、独:Dreimächtepakt、伊:Patto tripartito)が1940年に結ばれたのである。日独伊三国同盟(にちどくい さんごく どうめい)とも言う。

(※ 小中高の教科書を確認したところ、「日独伊三国軍事同盟」と「日独伊三国同盟」のどちらとも用いられる。)

この日独伊三国同盟によって、イギリスは、日本の敵側になった。(フランスは、この時点ではドイツに占領されているので、はぶいた。)

また、アメリカはイギリスを支持していたので、日本とアメリカとの関係は悪くなった。


すでに1936年に、共産主義国であるソビエトに対抗するための、日独防共協定(にちどく ぼうきょうきょうてい、ドイツ語: Antikominternpakt)が日本とドイツとの間に結ばれていた。また1937年11月にはイタリアが加入した日独伊防共協定(にちどくい ぼうきょうきょうてい)が結ばれていた。

しかし1939年にはドイツとソビエトとの間で、独ソ不可侵条約(どくソふかしん じょうやく、英: German-Soviet Nonaggression Pact)が、むすばれた。これによって、防共協定は、いったん、実効性(じっこうせい)が、なくなった。

しかし、日本とドイツはふたたび協力しあうことになり、1940年に日独伊三国同盟が、むすばれたのである。

太平洋戦争[編集]

当時、日本は、中国と日中戦争をしている最中だった。

日本は、石油を輸入にたよっていた。石油がないと、軍艦などが動かせないからだ。

しかし、日本は、油田を持つインドネシアを植民地に持つオランダとの交渉に失敗し、石油をアメリカからの輸入にたよっていた。 この当時、まだインドネシアは独立していなくて、「オランダ領東インド」(オランダ語:Nederlands-Indië、英語:Dutch East Indies)というオランダの植民地であった。


また、アメリカやイギリスが、日中戦争において、中華民国の蒋介石を支援するため、東南アジアなどの植民地から中国を支援していた。この、米英による中国への支援のルートを援蒋ルート(えんしょうルート)という。


石油などの資源を確保するため、日本政府の近衛文麿(このえ ふみまろ)内閣は、東南アジアを占領しようと考えた。また、援蒋ルートを日本は断ち切りたかった。(今のベトナムやラオスやカンボジアのあたりの地である、)フランス領インドシナに日本は軍を進めました。(当時、まだベトナムやラオスやカンボジアは独立していなくて、フランスの植民地であった。)

これに対して、アメリカは、日本への石油の輸出禁止にふみきった。アメリカは日本の行動を侵略的な行動と認定した。

(※ 範囲外: 実際はインドシナ進駐の当時、ヨーロッパのフランス本国自体がすでにドイツに占領されており、欧州フランスにはドイツに友好的な政権(ビシー政権)がドイツの手によって建てられており、日本軍はその仏ビシー政権およびドイツを支援する形でベトナムなどを確保したのである。ビシー政権に反対する旧勢力はイギリスなどに亡命し、「自由フランス」を建てていた。よって形式的には、日本はインドシナのフランス国家軍と戦争をしたわけではなく、日本はインドシナ地方の「自由フランス」支持者の軍と戦争をしたのである。 この日本の行動が、ドイツと戦争をしていたイギリスや、イギリスを支援していたアメリカの警戒をまねき、アメリカが日本への石油輸出を禁止に踏みきったのだろう。)

アメリカにくわえ、オランダやイギリスや中国も、同様に日本への輸出を制限していたので、当時の日本はこれを「ABCD包囲網」(エービーシーディー ほういもう)と読んだ。ABCDとはアメリカ(America)、イギリス(Britain ブリテン)、中国(China チャイナ)、オランダ(Dutch ダッチ)の4カ国のことである。

現代(2014年に記述。)では「ABCD包囲陣」(エービーシーディー ほういじん)とも言う。(英語表記は、ABCD line、または ABCD encirclement)


まだ、アメリカとは戦闘は始まってません。

日本の近衛内閣は、アメリカと交渉をしました。しかし、アメリカからきびしい要求をつきつけられました。(このときのアメリカからの要求を「ハル・ノート」(英:Hull note)と言う。アメリカの国務長官のコーデル・ハル(Cordell Hull)の名が由来。)

アメリカからの要求は、満州事変より前の状態にもどすため、日本軍を中国から撤兵させろ、などといった要求でした。 また、フランス領インドシナからの撤兵も要求しました。

このため、日本国内では、アメリカとの戦争をためらわないとする強硬論が出ました。

太平洋戦争[編集]

東条英機(とうじょう ひでき)

日本の首相が変わり、近衛文麿(このえ ふみまろ)から東条英機(とうじょう ひでき)に首相が変わった。東条は陸軍大将である。

アメリカとの交渉はまとまらず、ついに日本政府はアメリカとの開戦を決定した。

真珠湾攻撃で炎上中のアメリカ海軍の軍艦。(戦艦(せんかん)ウェスト・バージニア。)
※ 艦名(ウェスト・バージニア)は中学教科書には無いが、ネット検索用に記述した。

日米戦争の開戦のときの日本の首相は、東条英機(とうじょう ひでき)です。

日本による占領地域の拡大(1937年から1942年)

1941年の12月8日に、日本海軍がアメリカのハワイの真珠湾(しんじゅわん、 英:Pearl Harbor パールハーバー )にあるアメリカ海軍の基地を奇襲攻撃したことで、 太平洋戦争 (たいへいよう せんそう)が始まります。真珠湾攻撃(しんじゅわん こうげき、英語:Attack on Pearl Harbor)などの、日本を中心とした太平洋方面の戦争を、太平洋戦争(たいへいよう せんそう,英語:Pacific War または Asia-Pacific War)と言う。

この真珠湾攻撃では、航空機を利用したアメリカ軍基地やアメリカ軍艦への爆撃が、大きな戦果をあげました。なので、真珠湾攻撃の以降、日米の海軍では、航空機が重視されるようになります。なお、海上で戦争用の航空機を運ぶための軍艦のことを、「空母」(くうぼ、英:carrier)と言います。

軍艦の分類
(※ 入試範囲外)
種類 性質
空母 航空兵器を載せる。
戦艦 艦砲射撃で攻撃するための、
比較的に大きな軍艦。
潜水艦 水中にもぐって、
魚雷(ぎょらい)で敵艦を攻撃する軍艦。
巡洋艦
(じゅんようかん)
比較的に普通の軍艦。
駆逐艦
(くちくかん)
比較的に移動スピードの速い軍艦。
魚雷(ぎょらい)攻撃を攻撃手段とする場合が多い。


※ 艦の種類は暗記は不要なので、覚えきれなければ、論述テストでは単に「軍艦」とでも書けばいい。
※ 「駆逐」(くちく)とは、追い払う、駆除(くじょ)する、などの意味の二字熟語。 西洋の格言で「悪貨は良貨を駆逐する」という格言がある。高校の漢字テストで普通に「駆逐」(くちく)の単語も出るので( 過去にセンター試験に出たこともある)、中学生の今ここで「駆逐」(くちく)を読めるようにしておこう。


この奇襲攻撃のあと、アメリカ政府は日本の外交官から日本の宣戦布告の知らせを聞いた。このため、アメリカ国内では、日本の奇襲攻撃は、だましうちだとして、アメリカで反日的な意見が強まっていった。 「リメンバー・パールハーバー」( Remember Pearl Harbor 、意味:真珠湾を忘れるな! )が、アメリカでの反日スローガンになった。

日本のアメリカとの開戦後、ドイツ・イタリアもアメリカに対して宣戦した。


同1941年12月8日、いっぽう、日本陸軍はマレー半島(イギリス領)に上陸し、戦闘します。

枢軸国(すうじくこく)と連合国(れんごうこく)
(※ ほぼ中学の範囲内)

日本とドイツとイタリアの3カ国のことを枢軸国(すうじくこく、英語: Axis Powers、ドイツ語: Achsenmächte)という。いっぽうアメリカ、イギリス、フランス、ソビエト、中国の陣営を連合国(れんごうこく)と言う。

※ 「枢軸国」という用語は、自由社のほか、東京書籍などの教科書でも紹介される。

第二次世界大戦は、枢軸国 対 連合国 の戦争である。つまり、ドイツとイタリアと日本との枢軸国(すうじくこく)という陣営(じんえい)が、イギリスとフランスとソビエトとアメリカと中国という連合国(れんごうこく)という陣営を相手にたたかう戦争になった。

第二次世界大戦で、日本と戦った相手の国について、よく勘違いされやすいことがあるので、注意点をいくつか書きます。

・ 日本は、韓国とは戦争をしていません。そもそも朝鮮は日本に併合されていたので、韓国という国は当時は、ありません。朝鮮は日本の側である枢軸国の側です。戦後、韓国が日本から独立したこともあって、まぎらわしいですが、少なくとも太平洋戦争では日本と韓国とは戦争していません。
・ 日本は、台湾(タイワン)とは戦争をしていません。当時、台湾島は日本国の一部です。
・ 現代のインドネシアやベトナムやミャンマーなどのような、東南アジアの主権国家は、当時は東南アジアには、ありませんでした。当時、東南アジアは、オランダやフランスなどのヨーロッパの国の植民地でした。つまり、東南アジアには、タイをのぞいて、東南アジアには独立国がありませんでした。しかしタイだけは、タイの場所がイギリスとフランスの植民地の国境ぞいの場所にあったので、タイは、ヨーロッパ諸国どうしが戦争をしないように、タイだけは植民地にされずに済んだのです。このタイのように、強国(欧米など)の領土どうしが、ぶつかりあわないようにするために、あえて、どの国も占領しないで、その現地民族にまかせて独立させておく国のことを、「緩衝国」(かんしょうこく)という。(※ 「緩衝国」の用語は検定教科書では範囲外だが、たぶん中学で習うはず。私(wikibooks利用者:すじにくシチュー)は、たしか公立中学の社会科授業で、タイの「緩衝国」を習った。) つまり、第二次世界大戦が終わる前までは、タイは、ヨーロッパ列強にとっての緩衝国でした。タイ以外の国は、ヨーロッパによって、支配され、独立国ではありませんでした。

もちろん、当時の東南アジアの人たちは、ヨーロッパ列強による支配に不満があります。東南アジアの地域の先住民たちは、独立を望んでいたので、植民地政策を行って先住民を支配しているオランダなどの国は、先住民たちの敵でした。
先住民と日本は、オランダやフランスなどを敵と考え利害が一致したので、先住民たちの多くは日本の側に協力しました。このことが、戦後の東南アジア各国の独立に、つながっていきます。


「大東亜戦争」という、よびかたについて
(※ 範囲外。暗記しなくていい。)

第二次世界大戦の当時、日本では、この太平洋方面の戦争のことを「大東亜戦争」(だいとうあ せんそう)と言ってたが、戦後になり戦勝国のアメリカが「大東亜戦争」の用語は軍国主義であると考え使用が禁止されたので、それからは太平洋戦争という表現がつかわれるようになった。

歴史学者の中には、「アジア・太平洋戦争」という用語を用いる人もいる。だが、べつに「アジア・太平洋戦争」という用語を学校の歴史の授業で用いるべきと決めたような日本国民の合意も法律も無い。

中学校・高校のテストでは、この太平洋方面の戦争についての名前のことは「太平洋戦争」という表記を書いておけば、とくに問題はないだろう。

(※ 小中高の検定教科書を確認したところ、「太平洋戦争」(The Pacific War)と「大東亜戦争」(Great East Asia War)と「アジア太平洋戦争」のどちらとも用いられることを確認してある。2014年に記述。
第二次大戦後は「太平洋戦争」という呼びかたが一般化したので、本書では、とくに断らないかぎり「太平洋戦争」という呼びかたという呼びかたを用いる。)
(※ 一部の歴史学者や教育者が「アジア太平洋戦争」という呼び方を用いており、検定教科書などにも紹介されている場合もある。しかし、世間一般では定着していない呼び方である。いっぽう、「大東亜戦争」「太平洋戦争」の両方とも、法的にも当時は公的場面での使用が決定された呼称であるが、しかし「アジア太平洋戦争」という呼びかたを強制するような法律は無い。検定教科書で「 最近は「アジア太平洋戦争」という呼び方も増えている。 」などと紹介しようが、そもそも検定教科書とか参考書ぐらいでしか、中学生・高校生の周囲の世間では目にする機会の無い表現であり、おそらく実態は教科書会社の執筆者に「アジア太平洋戦争」という呼び方の支持者がいて、「アジア太平洋戦争」という呼び方の支持者を増やそうとしているのであろう。そもそも、最近になって出てきたばかりの呼び方なのだから、その呼び方の支持者がゼロ人以下に減ることがないので、最近になって呼び方が増えるのは当然である。検定教科書での紹介の仕方が中立的な紹介とは言いがたい。
はっきり言うと、一部の教科書は歴史を印象操作をしている疑いがある。そもそも、出てきたばかりの新説(「アジア太平洋戦争」という呼称の提案のこと)というのは、その説の支持者はゼロ以下に減る事がないので、新説の支持者は増えていく傾向にあるのは当然である。しかし、支持数の増加傾向と真偽は別である。もし、増加傾向のみを取って、あたかも学問の定説のように印象づけようとしているのだとしたら、悪質な行為であろう。
「太平洋戦争」の呼称には、このような事情があるため、もし「アジア太平洋戦争」の呼称を強制する教員がいたとすれば、その教員は、教育の裁量権の濫用であり、社会的に批判されるべきである。)


日米戦争の開戦のはじめごろは日本が有利だった。だが、1942年にミッドウェー海戦(ミッドウェーかいせん)で、日本はアメリカに負けます。このミッドウェー海戦の以降、アメリカに有利になり、日本は不利になります。

また、日本軍は食料や物資などの補給を軽視したこともあり、そのため戦況が悪化すると、いくつもの戦場で日本兵の餓死が発生した。


なお、日本政府では、戦局(せんきょく)の悪化にともない、議会では首相の東條英機の指導力をうたがう意見が強くなる。マリアナ沖海戦での敗退やサイパンの敗退などがつづき、東條は議会の政治家からの支持も失い、東條内閣は総辞職に追い込まれる。 そして東條内閣のつぎには、1944年(昭和19年)7月22日から小磯國昭(こいそ くにあき)を首相とする小磯内閣(こいそないかく)が誕生し、1945年(昭和20年)4月7日まで小磯内閣がつづいた。

大東亜共栄圏[編集]

大東亜会議の出席者
軍票(ぐんぴょう)。 軍票とは、占領地で貨幣として使うための特殊な紙幣。日本だけでなく、多くの交戦国が、それぞれの占領地で軍票を使った。写真は、太平洋戦争中に、南太平洋地域で日本軍が使用した1シリング軍票(1942年)。

日本は、資源が少なかったので、資源を確保するために、東南アジアに日本軍が進出した。日本軍は、東南アジア現地のオランダ軍やイギリス軍などと戦った。

このとき、日本は、表向きの戦争の正当化の理由として、ヨーロッパ諸国による東南アジアでの植民地支配の打倒と、現地住民の支配からの解放の理念をかかげて、戦争をした。

日本は占領した土地には、きびしい統治をした。また、日本軍は補給を軽視したこともあり、そのため日本軍は占領した各地で物資を略奪した。だが、現地の独立運動の指導者たちはヨーロッパの支配からの独立を目指していたので、きびしい日本の統治にもたえぬき、日本に協力をした。

(のちに、第二次大戦では日本が負けますが、するとイギリス軍やフランス軍やオランダ軍は、ふたたび東南アジアを支配しようと、もどってきました。だが、現地の先住民たちはヨーロッパ人の軍とたたかい、次々と東南アジアで国が独立していきます。)

二次大戦中の話にもどる。

1943年には、東京で大東亜会議(だいとうあ かいぎ)をひらき、タイ、満州、ビルマ、フィリピン、インドなどの代表をあつめ、欧米からの植民地支配の解放などを宣言した大東亜共同宣言(だいとうあ きょうどうせんげん)をした。 (「大東亜戦争」という呼び名は、この宣言よりも1941年に前に決まっている。)

そして、東南アジアを欧米の支配から解放し、東南アジアにアジア諸民族たち自身の勢力地である 大東亜共栄圏(だいとうあきょうえいけん) を設立するという目的が、戦争の表向きの目的として、かかげられた。

第二次大戦のあと、最終的に、東南アジアは欧米の植民地支配から独立するので、東南アジアの解放については目的を達成したことになる。


※ 範囲外: 占領地での略奪について

よく、「第二次世界大戦の戦争中、日本軍は占領地で略奪をした」などと批判されることがある。(※ 学び舎(教科書会社)の教科書でも、批判的に書いている。)


これは、どういう事なのだろうか?

まず、そもそも占領地で物資を集めること自体は、べつに国際法では違法ではない。(税金を集める事が違法でないのと同じ。問題視される場合は、物資を集めた結果、(他の地域と比べて)大量の死者や犠牲者を出してしまうような場合であろう。)

どこの国の軍による占領でも、占領期間が長引けば、現地で物資を調達するのが通常である。

また、日本は明治時代までの過去の歴史の経験上でも、戦争のさいには現地で補給をするのが慣習だった(戦国時代とか、源平合戦とか、例はいくつもある)。日本国内での戦争では、それでも特に問題がなかったのである。


ところが、第二次世界大戦で、東南アジアまで戦線が伸びた時に、問題が起きた。現地調達だけでは食料が足りないのである。(原因は研究途上だが、)どうやら日本や中国・朝鮮半島は、例外的に、食料生産量が高い、または食糧調達の仕組みが充実している地域であったようだ。その例外をてっきり世界の常識だと勘違いしたまま日本軍は東南アジアまで進撃してしまのか、ともかく日本軍は第二次世界大戦では食糧難に悩むことになる。

食糧難のため、東南アジアなどでの戦闘に勝利して、現地の連合軍の兵士を捕虜にしたさい、現地の(イギリス兵などの)捕虜(ほりょ)は食料を減らされ、餓死者などの犠牲者が出たので、戦後、捕虜虐待として問題視された。(これとは別に、単に現地の日本軍司令官が、国際法に違反して、捕虜の処刑を命じた例もあるとされる。)


さらに、(東南アジア地域の)島部の戦闘では、島内では不十分な量の食料しか生産できず、日本の補給船などもアメリカ軍の空爆などにより撃沈され、日本兵に大量の餓死者が出た。

戦後日本の言い伝えでは、東南アジアのガダルカナル島の戦闘では、日本兵の死者数については、戦闘そのものによる死者数よりも、餓死した日本兵のほうが人数が多かったとか、後世の日本では言い伝えられているくらいである。

ドイツの敗戦[編集]

第二次大戦の戦況は連合国に有利にすすみ、枢軸国のドイツ・イタリア・日本は不利になっていった。まず、1943年にはイタリアが降伏した。 そして、1945年5月にはドイツが降伏(こうふく)した。


1942年に連合国軍がイタリアに上陸。
1943年にイタリアを降伏させる。ムッソリーニは失脚。のちにムッソリーニは処刑される。
1944年6月に、アメリカ軍・イギリス軍の連合軍がフランスのノルマンディーに上陸。
1944年8月にパリ解放。
1945年5月にドイツが解放される。解放前の1945年4月にヒトラーは自殺。


こうして、ヨーロッパでの戦闘は終わった。

ヤルタ会談
 (中央ソファー左から)会談に臨むチャーチル(イギリス代表)、フランクリン・ルーズベルト(アメリカ代表)、スターリン(ソ連の代表)。

アメリカ・イギリス・ソ連の代表は、1945年2月にソ連のヤルタで、ドイツの戦後処理について話していた( ヤルタ会談(ヤルタかいだん))。

このヤルタ会談では、日本との戦争の対応についても話し合われ、密約として、ソ連の対日参戦も決定していた。そして、千島列島と樺太をソ連が領有することが密かに認められた。

そして3カ国の代表は1945年7月には、日本の降伏条件についてドイツのポツダムで会談して話し合い、ポツダム宣言をまとめた。 そして中国の同意を得て、アメリカ・イギリス・中国の名でポツダム宣言を発表した。

しかし、この7月のときは、日本はポツダム宣言を受け入れなかった。

日本の敗戦へ[編集]

  • 学徒出陣

戦争で日本が不利になるにつれて、兵士が足りなくなっていった。そして1943年には、それまで徴兵(ちょうへい・・・兵士として、動員すること。)をされていなかった文科系(ぶんかけい)の大学生も、兵士として動員された。これを学徒出陣(がくと しゅつじん)という。(理科系の大学生は、徴兵されなかった。)

  • 勤労動員(きんろう どういん)

理科系の学生も、工場などで働かされた。また女学生なども「挺身隊」(ていしんたい)として、さまざまな場所で働かされた。 中学生なども、働かされた。このように、学生なども働かせたり、場合によっては男子学生などは兵士として出陣させることをふくめて「勤労動員」(きんろう どういん)と言った。

  • 植民地

朝鮮や台湾でも動員。朝鮮や台湾でも、志願兵や徴兵などを実施。 日本本土では労働力不足だったので、朝鮮などの植民地から日本に連れてこられて働かせられた人もいる。

  • 空襲(くうしゅう)と疎開(そかい)

ミッドウェー海戦で日本が敗れると、戦争はアメリカに有利に進んでいった。そしてアメリカ軍がサイパン島を占領すると、このサイパン島から飛び立ったアメリカ軍の爆撃機(ばくげきき)のB29によって、日本の各地が空襲で攻撃されるようになる。

(※ 資料集にある話題) B29は焼夷弾(しょういだん)を投下して、東京の多くの場所を焼き払った。なお、高度4000メートルもの、普通の飛行機では到達できない高さを、B29は飛んでいる。なお、焼夷弾とは、建造物などを焼き払うために、炎を吹き出す爆弾。燃えやすいように、油などが焼夷弾の中に入っている。
(※ 資料集にある話題) 東京に対する、焼夷弾による爆撃作戦を指揮した軍人は、カーチス・ルメイという人。

学童疎開(がくどう そかい)

都市が空襲の目標になることが多かったので、都市に住んでいる子どもたちは、空襲の危険からのがれるため、両親からはなれて地方へと移り住む(うつりすむ)、疎開(そかい)をさせられた。
  • 東京大空襲(とうきょう だいくうしゅう)
東京大空襲で焼け野原となった東京。

1945年3月10日に、アメリカ軍の航空機が、焼夷弾などによって東京を空襲した。この東京大空襲(とうきょう だいくうしゅう、英:Bombing of Tokyo)では、約10万人の人が亡くなった。

民間人への爆撃である無差別爆撃(むさべつ ばくげき)は、戦時国際法(せんじ こくさいほう、英: Law of War)に違反している。

東京だけでなく、日本全国の主要な都市が空襲にあい、多くの人命が失われた。

  • 沖縄戦(おきなわせん)

1945年4月1日には、アメリカ軍が沖縄(おきなわ)本島(ほんとう)に上陸し、日本軍と地上戦になった。(沖縄戦)  沖縄県民の約12万人が亡くなった。沖縄県民のうち約5分の1から4分の1が亡くなった。また、日本軍によって、集団自決をせまられた沖縄県民も多くいたという。

沖縄戦では日本の中学生も日本兵として動員された。日本の女学生は看護婦などとして動員された。 最終的に日本軍はアメリカ軍に負け、沖縄はアメリカに侵略された。


ガマ(どうくつ)

沖縄では、日本軍や現地住民(もちろん日本人)は、洞窟に立てこもって、米兵との戦闘をつづけた。沖縄の方言で洞窟のことを「ガマ」というので、そのような立てこもりのための洞窟も「ガマ」と呼ばれている。沖縄のこれらの洞窟は、もとから自然に沖縄にあった洞窟である。

米軍は、火炎放射器をつかい、洞窟の外に立って、洞窟のなかを炎で攻撃した。


沖縄からの疎開について

(※ 帝国書院の教科書などに記載あり。高校日本史だが東京書籍の教科書にもある。)

1944年になると、沖縄での戦闘が始まる可能性が高くなり、沖縄の住民たちは疎開(そかい)のため九州や台湾に移動した。

その間、アメリカ軍の潜水艦によって、疎開する学童を多く乗せた対馬丸(つしままる)が撃沈されるという悲劇もあった。

そして1945年3月に東京沖の硫黄島が、米軍によって陥落し、米軍は攻撃の先を沖縄に変えた。 そして1945年4月には、既にアメリカ軍が沖縄本島の中部西海岸(現在、嘉手納(かでな)飛行場のある辺り)に上陸していた。

沖縄には、アメリカ軍の軍艦からの艦砲射撃や、航空機からの爆撃が行われ、地元の人々は、洞窟などに避難するしかなかった。しかし、そのような洞窟も数や場所がかぎられ、地元の人々のなかには、砲弾などの降りそそぐ中で危険な野山をさまよわざるを得ない者たちもいた。



捕虜(ほりょ)への投降(とうこう)について

沖縄にかぎらず、戦争当時の日本では、捕虜(ほりょ)への投降(とうこう)について、「捕虜になっても、米軍に虐待(ぎゃくたい)されて悲惨(ひさん)な目にあうから、捕虜にならず最後まで戦え」などのような内容の教育を日本人はされた。


集団自決について

検定教科書の範囲外だが、集団自決には別の説もある。教科書にない説では、1940年代の当時の法律では、軍人の死者には遺族年金(いぞくねんきん)などの補償金が出るが、軍隊関係でない一般の民間人の死者は補償外だったために年金などは支給されなかった。なので、多くの民間人死者が出た沖縄で、民間人にも補償を適用させるために「集団自決をした」ことで軍命令ということにして、補償金を与えるために作り話をした、という説もある。

この説(民間人に年金を払わせるため、という説)が本当かどうか、まだ歴史学では分からない。このように、歴史はうのみにせず、ときには自分の頭で考えることが大切である。どちらにせよ、痛ましい話である。軍から集団自決を命じられた場合でも、軍命令でなく自決した場合でも、あるいは戦災によって死んだ場合でも、多くの人が死んでしまったことに、かわりはない。


沖縄での住民殺害や自決について

洞窟に沖縄住民とともに隠れた日本軍は、泣きやまぬ乳幼児がいると、米軍に発見されないためにと、乳幼児(にゅうようじ)を殺害したという。

禁止されていた方言を話した地元住民が、スパイ容疑で殺害されたりもしたという。

また、各地での自決には、兵士などから配られた手榴弾(しゅりゅうだん)などが用いられたという。


沖縄での戦闘の終了まで

1945年6月23日に、日本軍の現地司令官は、もはや日本軍は力つきたとして、自決した。こうして、日本軍の組織的な抵抗は終わったが、しかし、日本軍の一部はその後も沖縄各地にひそんで、戦闘はその後も続いた。

終戦の日の8月15日をむかえても、沖縄での戦闘はおわらず、9月7日ごろまで、戦闘は続けられた。

  • 原子爆弾(げんしばくだん)
長崎に投下された原子爆弾のキノコ雲
1945年8月9日
原爆投下後の広島のようす。

アメリカは1945年の8月6日に広島に原子爆弾(げんし ばくだん、 略して原爆(げんばく)とも言う。 )を おとした。広島の街は一瞬で破壊され、広島では10万人をこえる一般市民が亡くなった。 また9日には長崎に原子爆弾が落とされ、8万人ほどが亡くなった。

  • ソ連の参戦

8月8日、ソビエトは日ソ中立条約をやぶって満州に攻めこんだ。

  • ポツダム宣言

日本は、アメリカ・イギリス・中国(中華民国)・ソビエトの代表が決めた宣言で日本の降伏の条件である ポツダム宣言(ポツダムせんげん、英語: The Potsdam Declaration) を1945年8月14日に受け入れ、日本は降伏した。

ポツダム宣言では、日本軍の無条件降伏(むじょうけん こうふく)、という条件を定めている。

1945年(昭和20年)の8月15日には、ラジオ放送で天皇が国民に、日本の降伏を発表した。このときのラジオ放送を玉音放送(ぎょくおん ほうそう)と言う。

こうして日中戦争や太平洋戦闘をふくむ第二次世界大戦は終わった。

   ポツダム宣言(要約、抜粋、現代語訳)

6: 日本国民をだまして世界征服に乗り出すといった過ち(あやまち)を犯した者たちの権力を、永久に除去する。
7: (上記の6条のような)新たな秩序が建設され、(日本の)戦争の遂行能力がなくなると確信できるまでは、連合国は日本を占領する。
8: 日本国の主権がおよぶ領土は、本州・北海道・九州・四国および、連合国の決定する島だけに限る。


10: われら連合国は、日本人を奴隷化することはしないし、日本を滅亡させることもしない。しかし、日本の戦争犯罪人には厳重な処罰をくわえる。日本政府は、日本国民の間の民主主義を復活させなければならず、そのため言論・宗教・思想の自由および基本的人権を確立させなければならない。
  • 韓国の独立

いっぽう、かつて日本に併合されていた朝鮮半島では、1945年9月2日に、北緯38度より北にソ連軍が進出してソ連に占領され、また朝鮮半島の南半分にはアメリカ軍が進出してきた。1948年に朝鮮半島で半島の南側には大韓民国(だいかん みんこく)が独立し、同じ年に半島の北側では北朝鮮(「きたちょうせん」、正式名称は朝鮮民主主義人民共和国(ちょうせん みんしゅしゅぎ じんみん きょうわこく) )が独立する。

  • 満州国の消滅

満洲はソ連軍の軍政下に入り、そのあと中華民国に渡された。

  • シベリア抑留(よくりゅう)問題

日本のポツダム宣言受諾の通告の時期よりも前、ソビエトは1945年の8月8日に満州に侵攻し、ソ連軍は攻撃や略奪(りゃくだつ)をおこなった。ソビエト軍につかまった日本人は、軍人や民間人をとわず、満州にいた日本人はシベリアなどのソ連領に連行されて、奴隷(どれい)のような労働力として日本人が酷使(こくし)された。( シベリア抑留(シベリアよくりゅう)  ) このため、6万人以上の日本人が死亡した。

このソ連によるシベリア抑留は、ポツダム宣言に違反した行為である。ポツダム宣言の条件文は、日本への条件だけでなく、戦勝国どうしにも条件をつけている宣言であり、その約束にソ連は違反しているのである。ポツダム宣言の第9項目では、武装解除した日本兵は日本に送りかえすことを、連合国どうしで約束しているのである。

 ポツダム宣言
九 、日本国軍隊は完全に武装を解除せられたる後、各自の家庭に復帰し平和的かつ生産的の生活を営むの機会を得しめらるべし。


  • 台湾

台湾は、中華民国に編入された。


太平洋戦争に関する用語

教科書には書かれてない用語でも、戦争に関する用語で、常識的に中学生が知って置かなけばならない単語が、いくつかある。

※ たぶん、学校でも教師が口頭で説明するか、あるいは資料集などの副教材などで習うだろう。
「大本営発表」(だいほんえい はっぴょう)

戦時中、日本政府は、ミッドウェーなどの敗北で戦況が不利になっても、国民の戦意(せんい)を低下させないために、ウソの発表をしたり、表現をあかたも勝利してるかのように新聞などでの表現を変えさせた。

たとえば、実際には日本軍が退却していても、あたかも単に軍の進行の方角を変更しただけのように「転進」(てんしん)と発表したりした。

「大本営」(だいほんえい)とは、戦時中の日本軍の本部のこと。

現代では、権力者による、信用できない発表のことを「大本営発表」(だいほんえい はっぴょう)という。


ゼロ戦
※ 資料集で名前だけ紹介されてたりする。
のちにアメリカで復元されたゼロ戦

ゼロ戦(ぜろせん)とは、日本海軍の艦隊戦闘機の一種。「零式艦上戦闘機」(れいしき かんじょう せんとうき)が正式な名称。

性能がなんか良かったらしい。(中学生・高校生は深入りする必要は無い。)


特攻隊(とっこうたい)

日本軍が戦争末期にとった戦法で、航空機などによる体当たり的な戦法である。「特別攻撃隊」の略。航空機による体当たり戦法の「神風特攻隊」(しんぷう とっこうたい)が有名である。当然、パイロット(の日本兵)は死ぬのが普通な、危険な戦法。

※ じつは特攻隊には、航空機による特攻のほかにも、人間魚雷「回天」(かいてん)による特攻もある。細かいハナシになるので、中学の教科書では教えないのだろう。高校の『日本史』用語集に、「回天」まで書いてある。
※ ときどき、知識不足の人が、まちがい知識で「ドイツ軍は戦況が不利になっても特攻作戦を行わなかった」とか言ったりして日本の特攻を批判する場合がある。しかしドイツ軍は第二次大戦で、航空機によるエルベ特攻隊を組織している。