内乱記/マッシリアについて
マッシリア(Massilia)は、ギリシア人の植民市・都市国家で、ギリシア語でマッサリア(Μασσαλία)と名づけられた。現在のマルセイユである。
都市国家マッサリア(マッシリア)
[編集]BC600年頃にギリシア系のポカイア〔ラテン名ポカエア(Phocaea)〕からの入植者たちが植民市マッサリア(マッシリア)を創建したとされている。ポカイア人は、後のアレラテ(Arelate)すなわち現在のアルル(Arles)や、ニカイア(Νικαία)すなわち現在のニースも建設した。こうして、都市国家マッサリア(マッシリア)は、最盛期には、現在の南仏からイベリア半島の東北部までを支配した。
BC121年になると、ローマの執政官クィントゥス・ファビウス・マクシムス(Quintus Fabius Maximus)と前執政官グナエウス・ドミティウス・アヘノバルブス(Gnaeus Domitius Ahenobarbus)は、南部ガリアでローマに反抗したアッロブロゲス族を制圧して、属州ガリア・トランサルピナ(後のガリア・ナルボネンシス)を設置した。こうして、マッシリアのかつての版図の多くがローマの属州となったが、都市国家マッシリアはローマの同盟国として、なおも独立を保持した。
ローマ内戦とマッシリア
[編集]BC49年、ローマ元老院を支配する
マッシリアはドミティウスを担いでカエサルに反抗するが、アレラテはカエサル側につき、ここに明暗が分かれる(内乱記 第1巻34節~36節)。ドミティウスは、マッシリアから提供された艦隊を率いて、カエサルの部将デキムス・ ブルトゥス(Decimus Brutus)と海戦を戦うが敗れる(内乱記 第1巻56節~58節、第2巻3節~7節)。
マッシリアの城市は、カエサルの副官ガイウス・トレボニウス(Gaius Trebonius)によって攻囲された(マッシリア攻囲戦:内乱記 第2巻1節~16節・22節)。
敗北が決定的になると、ドミティウスが逃亡した後で、マッシリア市民たちは降伏した。5世紀半も続いた都市国家マッシリアの命運もここに尽きた。
港湾都市マルセイユ
[編集]マルセイユ旧港
[編集]古代のマッシリアは、現在のフランス共和国 プロヴァンス=アルプ=コート・ダジュール地域圏(Provence-Alpes-Côte d'Azur)の首府、ブーシュ=デュ=ローヌ県(Bouches-du-Rhône;ラテン名 Ostia Rhodani)の県庁所在地であるマルセイユ市(Marseille)の第2区(2e arrondissement de Marseille)の南端に位置していた。
関連画像
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ローマの属州ガリア・トランサルピナ(現在の南仏)における部族分布図
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マッシリア港(マルセイユ旧港)のジオラマ(マルセイユ歴史博物館)
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マッシリアのジオラマ(マルセイユ歴史博物館)
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16世紀(1575年)に描かれたマルセイユの絵図
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16世紀(1584年)に出されたマルセイユの絵図
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マルセイユ旧港と古代の海岸線
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15世紀(1423年頃)のマルセイユの都市概略図
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タウロイスの海戦図
関連記事
[編集]- マッシリア
- w:fr:Marseille antique「古代マルセイユ」(仏語)
- w:it:Massalia「マッサリア」(伊語)
- マッシリア港(マルセイユ旧港)
- マッシリア攻囲戦
- マッシリアの海戦
- タウロイスの海戦