利用者:すじにくシチュー/サブページ3

出典: フリー教科書『ウィキブックス(Wikibooks)』

数学者の本と英語教育[編集]

wikiの学習方法あたりのページだと、知ったかぶりのバカ編集者が口出しをしてくるけど、

数学のできない人が英語を勉強しても、数学書とか訳せないよ。

ソースは、数学者の森毅(もりつよし)の本に、実際に英語教授に数学論文の翻訳を頼んでみて失敗したケースがある。「数学者が翻訳したほうが早い」という結果になった。

無能が口出しをしてくるのがwikiです。

数学者の戸瀬信之(とせ のぶゆき)が、おおよそ内容「英語の勉強よりも学問のレベルを国際的な水準に高めるほうが先決」って何かの著作だか対談で述べてのも、そういう事。

自動車業界とパクリ[編集]

「日本の自動車産業はアメリカのパクリ」みたいな事を電機大の理工学部のころ、機械要素の科目の里見忠篤教授が言ってたのを思い出した。

特許数とか内実とかは知らない。

なお、その里見教授はホンダ自動車の出身。

そういえば、半導体関連の業界に勤務してた頃も、年配の営業マンの人が、「お前の上司がお前に教えていること、あれ、俺が外資から教えてもらったことを今のお前の上司に教えてやっただけ」って言ってたなあ。

アメリカ人が発明したことを、少しだけアレンジを加えて、あたかも日本初かのように喧伝するのが日本企業です。

ウソ都市伝説「開成高校は文武両道」を聞いた小学時代[編集]

私が小学生の1990年代前半のころ、学校の担任から、「開成高校は文武両道」というウソの都市伝説を聞いた記憶がある。

このように、「偏差値の高い高校は、文武両道であってほしい」という、おそらく庶民の願望にもとづくウソの都市伝説が、世間では広まりやすい。

公立高校信仰の幻想をくだく出来事[編集]

スポーツと学業の両立の難しさ[編集]

中学のころの同窓生で、運動部の部長の人で、とてもスポーツと学業ができて公立中から早慶の付属校に進学したチビの子がいたけど、それでも地区予選での2~3回戦あたりの敗退でしたよ。そんだけ、学業とスポーツの両方で好成績を残すのって、難しい。

あと、その子はべつに勉強をサボってるわけじゃない子だけど、正直、塾や受験勉強で習わないことは、あまり知らない子だった。あまり図書館とかには入り浸ったりするような読書家ではない感じ。

だから私のほうが、理科とか詳しかった。

別の子で、同じくらいスポーツができて公立高校に進学した子で、その早慶に進学した子とは中学時代は仲良くて(たしか同じ部の副部長)公立高校でスポーツのつよい高校でそこそこの進学高校に進学したチビの子がいたけど、それでも大学受験は「浪人して私立の四工大を目指す」とか高校3年にあった時に言ってましたよ。

そんなのが現実ですよ。公立信者の言う「文武両道」とか、インチキです。あと、チビはスポーツがとても不利。

公立の進学率トップ高校とか学区内トップ高校は、けっして文武両道の全人格的な人間形成の場なんかじゃないですよ。そういう進学率トップ高校の子、私が見たように高校1年から塾に通ってたりするような子もチラホラいましたよ。

小学時代の同級生だった子で、別の中学に進学した理科少年でよく科学雑誌とか読む子がいたけど、スポーツは別にサボってないけど、学校の体育とかは平均的な結果でしたよ。


私の通ってた時代の地元中学では、たまたま学業と部活を高度に両立できて早慶付属とかに受かったチビの子がいたけど、

そういう子がいた年度だったんで、ほかの生徒も、たまたま部活熱のとても盛んな学年の中学だったけど、

でも考えてみれば、多くの公立中学はそうじゃないんだよなあ。


「中学時代は、ハナっから学業に絞って、部活は内申点が悪くならない程度に。視野を広げる程度に」っていう人が大半でしょ。「運動部の大会は、背の高い生徒に任せる」ってのが大半の学校でしょ。

実際、私の通った公立小学校と私立高校はそんな感じだったし。そういう人が普通に公立進学高校に進学する。

公立高校でも難関大の現役合格は塾に通っているのが現実[編集]

私の地元では、高校時代、地域トップ公立高校の高校偏差値70前後の子は、高校1年から塾に通っていたりしました。けっして「カネが無いから公立」ではないのです。塾に通うカネはある家庭です。単に、その子は「公立高校のほうが進学実績が良い」と思ったから公立に行っているだけです。

私が高校1年の塾の夏期講習に行ったとき(高校合格でいったん塾をやめた)、塾のほかの高校生は、高校偏差値70前後高校の公立の子ばかりでした。通年で塾に通い続けています。けっこう受講料の高い塾です。これが現実です。公立高校だからといって、決して「塾いらずで、現役で難関合格」ではないのです。

公立だからといって文武両道なわけではなく、受験勉強以外の教養があるわけでもなく、そういうのは偏差値50前後とか、よくて偏差値60くらいまでの公立高校の話です。それ以上はもう、放課後はさっさと塾に通ったり、そういう人達なのが現実です。

貧乏人は、同じ人たちだと思ってはいけません。

公立高校の浪人率・年数の高さ[編集]

中学の時の塾講師が公立高校出身の私大の東京理科大卒だったので中学当時に聞いた話だが、公立高校は予想以上に大学浪人率が高い。その人は1浪して理科大だが、ほかの同窓生などは3浪~4浪とかして早慶とか東大・千葉大とか狙ってたという事。

「うちの高校の卒業生、プライド高え」(「プライドが分不相応に高くって、マーチとか日大とかの私大に行きたがらない」という文脈)と、塾講師は言っていた。

さすがに3浪・4浪とかするカネがある家庭なら、経済的には私大に行けるのが現実。(苦学生のフリしてるが、大ウソである。「富豪ではない」というだけ。)

文系でも、高校のときの塾講師が明治大学卒だったが、浪人して明治などマーチにようやく合格できるのが、大多数の公立高校生の現実よ。現実を見よう。

高卒就職の獨協同窓生、ほか[編集]

私の高校時代の2000年ごろはまだ、高卒で就職する子も多くって、獨協とて例外ではない。家がそれほど裕福ではないからこそ、学生ローンとかで奮発して、私大付属校に進学する、中流より少し下の経済力の家庭のお子さんもいるのだよ。

スポーツ推薦で高校に入ってきた子がいて(当時、付属校にスポーツ推薦入学があった)、その子は高卒就職で航空業界の中堅企業に就職で、JALだかANAだかの子会社に就職した。「語学の獨協」とか言われるから、そういう業界に就職が強いのだよ。

公立高校卒の浪人大学合格を、決して「苦学生」とは言わない[編集]

決して、公立高校を卒業して2浪とかしてマーチとか地方国立とか上智とかに受かるのを「苦学生」とは言わないの。そもそも貧しい家庭の子は、浪人できないの。現役合格・現役就職を余儀なくされるの。だから商業高校とか工業高校とか行くわけ。

就職してお金を貯めた後に、ようやく、私大の二部とか専門学校とか考えるわけ。高卒で専門学校なんか、いけません。貧しいので。

「貧しい家庭の子のための公立進学校」とか聞くと、ちょっと腹立つわ。「貧しい家庭の子」ってのは、男子なら工業高校とか、女子なら商業高校に行くのを余儀なくされるんだよ。「高校就職して、家に収入を入れなくちゃ・・・。弟の学費をかせがなくちゃ・・・」とか、そういう家庭なんだよ。21世紀でもそういう子はいるの。親父(生前)の会社で、そういう当時の話、よく聞いたもん。

だから普通科の都立・日比谷高校とか埼玉県立・浦和高校とかそういうのは、貧しい家庭の子はいかないの(高卒就職できないので)。そりゃ、単に公立進学校は、私立ほど大金持ちが多くないだけで、けっして貧しくなんかないんだよ。


東洋大の野球AO推薦[編集]

東京とか首都圏では高校数が多いので、野球部で全国大会に出れなくても首都圏の私立高校ではスポーツ推薦みたいなのをもらえることの情報源は、私の小中学校時代の同級生で私立高校に進学した野球少年が、東洋大の推薦をもらったのが元ネタです。

まあ、たまたま成績が良かったりして指定校推薦とかもらえた可能性もあるが。詳しくは知らない。十数年以上も会ってないので。

東洋大は知らないフリすんなよ? しらばっくれるなよ?

高校入試の英検準2級の私立高校[編集]

高校入試で英検準2級を出す私立高校であり大学付属校の私立高校があるが(あったが)、芝浦工大付属高校という高校の話である。べつに獨協大の付属校の話ではない。

むかし芝浦工大の付属高校の入試問題を読んだとき、明らかに中学でも塾でも習ってない単語があった。つまり、知らない単語ばかり。

当時、今と違って芝浦工大の知名度が高くなく、偏差値は高校偏差値60を少し超える程度だったが、明らかに公立高校用の英単語集では太刀打ちできない出題だった感触。

しかも今と違って、高校受験用の予備校の単語集が普及していなかった時代であるので(あったのかもしれないが、書店では普及してなかった)、それを考慮して考えると、英検準2級の対策をしてないと、かなりの難しさである。

国語や数学と比べて、英語だけ、やたらと難しい出題であった。(要するに、英語だけ、まったく解けなかった。)

早稲田の評判[編集]

思い出した。私が獨協の高校生だった頃からもう、早稲田大の入試改革は表面的って言われてたわ。早稲田に推薦で進学した獨協卒の人からの情報でそうだと、Z会の参考書の査読を頼まれてた英語教師の経由の情報でそう言ってた。

ヤフー掲示板はインチキ回答者を雇用している疑いアリ[編集]

昔さあ、勤務先の製造業の会社で、上司だった産総研の研究員が、Yahoo掲示板で素人のフリして、技術的な質問をしたことあんのよ。そしたらさあ、日本トップクラスの専門家のあいだでも答えの出てない質問で、回答者が「こんなの基礎知識です。こんなのも知らないんですか」みたいなこと言って、俗説を回答したのよ。

その画像を社内の発表会で技術者たち(私も含む)に見せられたんで、よく覚えて得る

ヤフー掲示板って、そういうインチキ野郎のたまり場。

ステマなんだろ? 掲示板の会社が、サクラみたいなのを雇用して、そしてそのサクラがググって得たニワカ知識を披露してるんだろ?

どうせ5ちゃんねるとかも同類だろ。インチキ回答者を雇用してるんだろ。

6月に厚くなると夏物商品が売れる[編集]

NHK高校講座『社会と情報』のデータサイエンスの回で、食品販売で、6月に厚くなる場合と、8月に厚くなる場合とで、6月に厚くなるほうが夏物の食品が売れる、という話『第19回 データサイエンス』

うちの実家の工場でも、エアコン関連部品の売れ行きにこういう傾向があると、生前の親父がもう1990年代から言ってたわ。どこの業界も同じだなあ。

家庭教師の思い出[編集]

あったこと[編集]

わたし、小学2~3年生のころ、家庭教師の教育を受けてたので、一般の子どもとは小学時代の算数に対する思考回路(当時)が微妙に違っています。

特に算数で、水道方式のタイルみたいなのを家庭教師から習った記憶あり。私が掛け算の単元の初めのほうで質問して、家庭教師がいわゆる水道方式タイルみたいな考え方を説明した記憶。なお、家庭教師の学歴は、青山学院大学の学生バイト。


「水道方式」は業界用語だし、広範な意味なので具体的な内容が分かりづらい。

要するに、当時の幼少時の私が質問したことは、

「掛け算の問題で、図形の面積の問題と、個数の数え上げの問題との、共通性の根拠が分からない」的な質問である。

あ、方法は知ってるよ。普通に小学校で習う、例の方法。

知らないのは、その根拠。

そこで家庭教師は、「ぜんぶ、面積に置き換えできる」みたいな返答をした記憶。(これがタイルの内容)

正確な返答は忘れたが、以降の私は基本、面積・体積などの幾何学量で掛け算を考えているので、たぶん返答はタイル的な内容のはず。


家庭教師以外から、そういうの習った記憶ない。塾でも、いちいち説明してなかったような記憶。そういう質問の時間すら、塾には無い。

学校はもちろんヤラナイ(なので水道方式の遠山も、昭和なかばの当時から批判してる)。


家庭教師(小学校の2~3年) → 塾(小学校の3年以降)

というパターン。塾に入ってからは、塾のテキストを使って、家庭教師のもと、算数の指導を受けながら勉強していた記憶。決して塾の講義だけで習得したのではないのだよ。

家庭教師の国語の授業については、思い出せない。そもそも塾の国語の授業が思い出せない。

理科と社会科は、家庭教師は扱ってなかったような記憶。英語については、そもそも当時の小学校で英語教育は無いので、家庭教師は扱ってない。


青山学院大学の学生バイト家庭教師が水道方式を知っていたのは、かなり効果がデカイ。家庭教師の研修でそういうの習うのかな? それとも教育学部卒か何か?

なお、うちの高卒の母ちゃん(テレビっ子の団塊)は、家庭教師があんまり頭良くないのかもしれないと言ってたが、まあテレビっ子の団塊なんてアホである。


なお、分数の掛け算の導入は、例外的にタイル処理できない。「× 1/3 」は3等分で考えるのが自然だろう。小学校でも分数の導入は「○等分」で習う。

なお、水道方式の遠山が提唱してた「内包量」とか「外延量」とかは、どうでもいい。そんなの、その後の計算で使った覚えも無い。

さいきん思った事[編集]

掛け算教育では、要するに、小学校算数には、じつは「定理」のようなものがあるのだ。仮に「準定理」と呼ぼう。タイルはその準定理。その準定理が本当に正しいのか、証明のような検証、説明をすることが、金銭的な余裕があれば理想的には必要なのであろう。

既存の「公準」という用語にならって「定準」と呼ぼうかとも当初は思ったが、一般人にはそもそも「公準」が分かりづらい。だったら準定理のほうが良いだろう。


小学校の授業では、この準定理の検証を行わない。そもそも「定理」のようなものとして認識されていないので、検証の対象にすらならない。

まあ、授業時間に限りがあるので、小学校ではそれが合理的なのだろう。

もっとも、「さくらんぼ計算」の強制とか、なんかピント外れの事をしていると思うが。これも結局、学校が時間を掛けるべき対象を、間違えているのだろう。


塾のほうにも問題があるのかもしれない。塾も、準定理を認識していない。


子供によっては、掛け算教育の導入時は面積ではなく、「3個×5回」(繰り返し方式)みたいな他の考え方のほうが納得しやすいのかもしれないが、しかし、交換法則が使いづらいし、面積などの他の分野に応用しづらい。

交換法則については、たとえば「3回×5個」と「3個×5回」と「5回×3個」と「5個×3回」が数学的には同一だというのが、繰り返し方式だと説明しづらい。自分で4通りも書いてて、書いてる本人ですら解釈が難しいと感じる(私には、いい解釈が思いつきませんでした)。

上記は、背理法のような説明である。タイルに反対する人って、背理法のような考え方ができてないよね。


いっぽう、これが面積方式なら、単位は同一なので、たとえば一辺あたりの長さ単位cmを採用するなら、

「3cm×5cm」と「5cm×3cm」の2通りしかない。これが同一であることは、長方形を90°回転させれば簡単に子供でも検証できる。

しかも繰り返し方式の4通りと違って、タイル(面積)方式なら2通りである。


まあ、おはじきを「3行×5列」または「5行×3列」に並べるのでも良いが。ただしこれだと、「行」と「列」を教える必要があるので、かわりに「たてのならび」と「よこのならび」という風な言い方になるのだろうか。

正方形のマス目のある方眼紙でも使って、「3マス×5マス」と「5マス×3マス」と言うのも良いだろう。

ただしマスだと、3マス×5マスの結果の単位は「マス」か「マス^2」という問題がある。平方マスとか立法マスとか言うわけにもいかない。

すると、cmを教えざるを得ない。

するともう、掛け算にともない、面積とcmおよびcm^2の教育をせざるを得ない。出来ないのは許されない。


とにかく、本来ならこんな感じに、単元のところどころで、「定理」のような準定理の、「証明」のような作業が必要である。けっして自明ではないのだ。


結局、掛け算は原則、面積で教えるしかない。

面積の導入をする前の準備作業で、一時的に「たてのならび」「よこのならび」が出てくるしかない。


「5個×3回」みたいな繰り返し方式だと、どうあがいても、拡張性が悪く、行き詰るのだ。

けっして、「うちの子は 5個×3回 方式のほうが覚えやすいんですぅうう! 個性なんですぅ!」とか言う『個性』(笑)なんて許されない。

あのね、そういう数学のできない馬鹿ガキは、「個性」じゃなくて「障害」っていうの。「できない」のは「個性」じゃなくtr「障害」って言うんだよ。


まあ、クソ教育評論家が、できないガキとその親に「個性」とか言うのが悪い。まあ、ガキの親が虐待とかしないために「個性」とか言わざるを得ないのかもしれないが。つくづく、馬鹿は社会の負担だなあ。


「小中学校で数学が得意だったけど、高校で駄目になった」ガキと言うのは結局、この準定理の検証をサボってたガキ、目先の試験のことしか考えてないガキである。簡単に言うと、人格が腐ってる。

自分でよく理解してないものを、思考の中枢に据えるという感性がメチャクチャ。

「3回×5個」と「3個×5回」と「5回×3個」と「5個×3回」の同一性という、よく分からないものを思考の中枢に据えて疑問に思わない、その感性がメチャクチャである。

どう考えても数学的感性のない単なる馬鹿ガキなのに、そういうガキほど、「3回×5個」みたいな抽象的な方式を、中枢に据えるのである。


まるで、アニメ業界でアニメーター教育者の人が忠告する、「絵のヘタな人ほど、『なにも見ないで書く』という難しい書き方にチャレンジして挫折する」って言ってるアレと同様です。

算数・数学も似ていて、少なくとも小中のレベルでは、数学の得意な人ほど、面積などの幾何学量のような、馬鹿でも見れば分かるモデルに置き換えるのである。少なくともタイルを提唱した遠山啓(とおやま ひらく)はそうすべきだと主張している。なお、遠山はべつに幾何学専攻ではなく、代数学より。それでも小学校はタイルによる幾何学的な方式を主張している。


日本国憲法には「思想信条の自由」と言うのがあるので、馬鹿の自由もあり、「3回×5個」方式で掛け算を覚える自由というもあるが、そんな掛け算は馬鹿の自由でしかない。

しょせん、公教育には限界がある。やはり、私塾が最強である。

補助的に「3回×5個」とかの繰り返し方式を使うのなら、派生的に使うなら可能だろうし、そういう文章題もあるのでその例の教育も必要だが、しかし、けっして繰り返し方式は、理解の中核にはならない。

そもそも小学校算数のあつかう対象は基本、子供が触ったり見たりできるようなものなので、長さ、面積、体積といった幾何学量が基本であるのは、心理学的にも当然である。そもそも、幼稚園の積み木ブロック遊びとか、そういう直感を養うための教育じゃん。

「高大連携」で思いだした事[編集]

2004年くらいだったか、教育評論で「中高一貫」がテレビで議論されてた時代、私はそれより「高大一貫のほうが必要なんじゃねーの」と親父と話してたんだ。「日本の高校教育は質が高いと言われてるし、特に問題ないんだから、それよりも大学教育や大学受験の周辺のほうを見直すべきでしょ」みたいに私が言った記憶。

親父は感心してたが、私のアイデアをどう理解してるのか知らない(どうせ理解してない)。

当時の私のアイデアは、経済学とか高校の「政治経済」科目と大学の経済学の教育内容(微分積分とか使ったりする)が大きく違うんだから、そういうのを高校生に知らせない(むしろワザと勘違いさせてるフシすらあると疑ってる)のは不誠実なんじゃないかという考えだった。

なお、べつに「大学の教育内容のほうが高度」だとか、そんな話はしていないし、思ってもない。


理学部の数学科や物理学科や化学科も、高校と大学の教育内容が大きく違う。工学部に至っては、多くの高校生には想像すらつかない。

工学部や商学部に至っては、さらに「大学の教育内容が実務とズレている」という問題もある。もはや「工学部」は名称変更すべきで、「応用物理学部」とか「産業物理学科」とかに名前を変えろや。あんなん工業の学問じゃねーよ。

工学部は、教育内容が実務とズレているのに進級基準がキツイという状況である。

まあ、もはや今時の工学部教授には実社会についてワケが分からなくなってるだろうね。文科省は有識者として工学者とかに話を聞くんだろうけど、もはやその工学者では手に負えない事態である。


大学の「社会学」と高校の社会科(地歴公民)も、まったく別内容というか、ほぼ関連が無い。

個人的には、社会学は社会科学ではなく思想・哲学の一派みたいなもんでしょう。「社会学派」とか言うべき連中ですよ。「京都学派」みたいにさ。

あるいは朱子学とか陽明学とかの類。そういうのを研究する研究室もあってもいいけど、でも大学に「儒学部 陽明学科」とかあったら、ちょっとアレでしょ。社会学部はそれと同じ。


学部や学科によっては、高校の似た名前の科目と大学の学科の教育内容が大きく違っている学科もある。


英文科なんて、英語学科じゃなくてあくまで英「文学」なんでシェイクスピアとかだもんな。浅羽通明『大学で何を学ぶか』でも英文科の実態は言及されてたが。

外国語学科みたいに、高大の教育内容がそんなに変わらないのは、むしろ珍しいのである。


アメリカの多くの大学みたいに、あまり専攻を細かく決めずに大学進学するんだったら、いちいち大学の科目の予習とかしなくていいだろうけどさ。でも日本みたいに学科を簡単に変えられなくて縦割りでタコツボ的な教育してるのに学科内容の実態を知らせないのは不誠実でしょ。

ま、しょせんは猿真似の日本の教育制度。アメリカの大学がやってないから日本もやらないという文科省。いつものこと。あーヤダヤダ、こんな連中と一緒にされたくない。


そうそう、アニメの『名探偵コナン』を2001~2010年ごろ見てたら、工業大学の卒業生の技術者が容疑者で、大学時代は苦学生だったから近所の機械工場で旋盤とかのバイトとかの設定だったが、平成の時代にそんな大学生いねーよとしか。工学部機械工学科の教育内容、そういう教育内容じゃないんで。言い訳ていどに工作機械の原理も少しは教えるけど。特に学費のやすい国公立なんて、応用物理学みたいな物理の計算練習するばかりするカリキュラムですし、そしてそれを受験みたいに定期テストのときに短時間で多くの計算問題を解けないと落第するんです。

物理学というのは範囲が広すぎるので、物理学科でも全部は習わないのだ。流体力学とか、物理学科ではほとんど習わないのです。物理学科に、なんとか流体力学やら弾性体力学の講座はあっても、研究室が無いというのも多いのです。

小学校卒業式を見守った5年生のときの思い出[編集]

小学校の卒業式でさ、よく泣き出す女子とかいるじゃん?

私、あれ見て馬鹿だと思うんですよね。だってさ、「いやお前さ、同じ学区内の公立中学に進学するんだし、すぐに小学時代の元・同級生に会えるじゃん」って。

まあ、先生との別れとかありうるよ。(転勤でいなくなる先生とかいるんで。)

でもさあ、お前、どうせ幼稚園の保母さんとか覚えてないじゃん。

塾の講師なんて卒業式をしてもらえないし。

同級生のバカ5年生が、泣かない先輩を見て「あの先輩は冷酷だ」とか言ってたけど、いや先輩が冷酷なんじゃなくて、お前がバカなんだよ。馬鹿のくせに、「自分は感性が優れている」とか思ってるんだろうな~って所まで透けて見えて、すごく頭悪そうに見える。


こういう例のように、だいたい、なんか感性が劣悪な人間ほど、「自分の感性が高度」って思ってます。

「愛国心は愚か者の最後のよりどころ」と言いますが、「感性」は愚か者のよりどころです。

駿台とか河合塾とかだと、元・塾生が大学進学後にお礼にあいさつに来ても、「いやキミ、さっさと大学の勉強に戻りなさい。それがキミの仕事でしょ」って講師が追い返すらしいね。立派。教育者の鏡ですわ。


まあ、小学校の話に戻ると、わざと、生徒が泣くように感動的な雰囲気で教師側が誘導する意義は分かるよ。大人になって子供が葬式とかに出るときの訓練にもなるしさ。

高校の卒業式だと、本当にもう二度と会わない人もいるんで、泣き出す子がいるのも分かるんだけどね。

日本の理系大学は高校生未満[編集]

高校生の 日本学生科学賞とかのほうが短時間で効率的に成果を出しててマシ。高校こそが偉大であり、大学はその注釈である。

いやまあ、高校生の自由研究だと実用性に問題とかあんのかもしれないけど、でもそれ大学の論文でも同じじゃん? なんか違うの? 平成の大学発ベンチャーとかで成功した企業、どんだけある? (他人のふんどし)

むしろ高校生のほうが、低い予算でも研究成果を出してるから、投資効率が高いじゃん。


まず、大学は、研究テーマを学生が自由に選べません。教員の用意した研究テーマの選択肢の中から選ばなければいけません。

もうこの時点で高校以下です。

設備などの問題で制限があるならともかく、理論研究などですら、大学の用意した選択肢の中からしか選べません。

高校生の自由研究のほうがマシ。(なお私がwikiで書いてる教科書は、書き始めの当初は、もとは大学時代に論文にしようと思ってたものを再利用してる。)


大学教員の設計技術力とかなんて期待してないんだから(そもそも大学教員はそれができないから企業に就職できないんでしょ)、優秀な高校卒業者の邪魔をすんなよ、日本のバカ大学教員どもが。


だから一刻も早く、理系の大学を閉鎖しなければならない。対案として、高校を5年生にするとか、文系の大学で「文理学部」とかを増やしまくるほうがマシだ。日大の文理学部とか、国際基督教大学の教養学部みたいな。教養学部だと理系なしの文系だけの教養学部だと誤解されるなら、だったら「文理教養学部」とかの名前にすればいい。フンボルト理念だ。


理系の大学では、「研究」とは名ばかりで、いくつかの実験をしただけで、あとは4年のゼミの時間に応用数学の演習みたいなことばかりやってる場合もありましたし。よく見るわ。

いや一応さ、最新の論文の実験結果とかを数式で解釈するとか研究テーマになるけど、でも大学レベルの物理の教科書を見てさ、そういう論文紹介とか見たことあるか?って話よ。なんかそういう物理教科書とか、読んだことあります? あるなら言ってみろ。裳華房も培風館も共立出版も読んだけど、そういう論文の紹介は全然見ないわ。

そもそも1~3年のゼミが基本的には無いのが理系の大学。


「でも理系大卒が企業で活躍してるじゃん」とか言うかもしれないが、でも日本の製造業は不正のオンパレードじゃん。な-にが「物づくりは人づくり」だか。神戸製鋼、タカタ、日産、ダイハツ、東芝、三菱自動車、・・・いろいろと不正のオンパレード。

『繰り返される不正、企業統治はどこまで可能か?』

根本的には、投資家と政治家がバカです。多数決をした場合、偏差値50未満の人間の数のほうが、偏差値60以上の人間の数よりも多いので、なので多数決では馬鹿が選ばれるのです。

考えてみれば、うちの親父みたいな高校数学1Aも分かってない馬鹿と(高校数学は分かってるが)その取引先企業が、理系大学を卒業した人材の就職先な時点で、気づくべきだった。気づかなかった高校時代の私がおろかだった。反省、反省。


ロシアの技術はインチキで、音速を出せない低速の自称「超音速ミサイル・イスカンダル」とかを開発してました。

日本も欧米もインチキ技術の国家です。


決して「企業は駄目だけど、大学の理系学部の基礎研究は立派」オメメ キラキラ とかじゃないんですよ。大学の理工学部もダメです。

偏見だけど、安定性の悪い1~2年で劣化するような自称「新材料」の論文とかよくありそうじゃないですか。大学なんてそんなん。

つうか、どうせナノテク論文とかそうだから、いまだに実用化できないんでしょ。いつになったら実用化すんだよナノテク。


論文と日本経済の実態が乖離してる。まるでプーチンの脳内にあったウクライナ開戦前のロシアの軍事力と、実際のロシアの軍事力は乖離しているように。

まあ、乖離を分かった上でやるならイイんですよ。でもそうじゃないじゃん。

経済学だと、サミュエルソンの論文は数学的だけど実務には使えないって言われてて、どうやらサミュエルソン本人も納得してそうだけど。

工学も本来はそれと同じにすべき。まあ、「企業がバカ」としか言いようが無い。

根本的には共産主義。戦前のバカ貧乏人が世界恐慌時に財閥を敵視して軍人の士官学校卒の青年将校を神聖視したように、戦後のバブル崩壊後は理系大卒を神聖視してるだけだ。


要するに日本人は、なんか難しい試験の学歴を神聖視するんだよね。

まあ、本人が高校数学も勉強してない馬鹿だから(テレビ番組でも理系の話題だけレベルが低いだろ)、やましさを隠すために理系大学の学歴を神聖視するんだろうね。

ヤクザが「義理」とか「誠意」とか他人に要求するのと同じで、本人に無い資質ほど要求するのが愚民で、それに合ってる偶像が戦前は軍人、戦後は理系大卒、ってことだろう。


団塊世代とかが馬鹿で貧苦に苦しむのは自業自得だけど、段階ジュニア~ゆとり世代の私を巻き込んだのが許せん。

2001年くらいにナノテクどうこうとか国が予算つけたけど、2010年以降、ぜんぜん技術進歩してないじゃないですか。だから世界的にナノテク論文がインチキだったのが歴史の結果だ。

10年くらい遅れて遅行して実装が反映されるとすると、つまりもう2001年の研究は企業の空論でダメダメだったのが現実だ。


さて、

法学では、こういうのが教科書のネタになり、(学会論文ではないものの)研究テーマになる。

商業高校の教科書と社会科の教科書を合わせて、学際的な研究テーマになってる。だからミネルヴァ書房から出版されてるわけで。


でも、理系だと、ならないんですよ。だって、たとえば「工業高校の教科書と駿台予備校の物理参考書で分かる、応用物理の基礎」とかの教科書、無いじゃないですか。(私の当wikiでの物理教科書などの元ネタですわ。)

日本の理系大学はゴミです。大学教員がゴミです。クビ切られるべき人間が大学教員をしていたり、その弟子が教員をしています。


理系大学は、名ばかり大学。あれ、実態は専門学校ですよ。入試の難しくて定期試験のあるだけの専門学校。高等専門学校みたいなもん。18歳から入学できる高専みたいなもん。防衛大学校とか航空大学校とか、ああいうのと同様かと。

今の医大のいくつかは戦前は医専だったけど、理系大学は専門学校でしょ。

工学部は大学じゃねえんだよ。その証拠に、工学部卒では普通科高校の教員になれない。


経済評論家の池田信夫が国立大の農学部について

農学部は「どこでもいいから国立大の肩書がほしい」という品性いやしいフラグ。

午後7:53 · 2022年9月13日

と言っている。[1]

私から言えば、いまどき(私立も国立も)工学部も大卒の肩書が欲しいだけの品性いやしいフラグ。


夏目漱石は『三四郎』で、日露戦争以降の日本人は卑怯になったことを描いて「滅びるね」と登場人物に言わせたが、まさに21世紀の国立大学ブーム時代の工学部は品性いやしい卑怯者だろう。


だいたい明治時代の日本は、理系の大学で三角関数を教えてたんですよ。90年代のテレビ討論番組『ここがヘンだよ日本人』のレギュラー出演外人のケビンの著作本に明治時代の大学数学の三角関数の話が書いてあった。

それでも日露戦争に勝てる。

だから今の大学の数学教育は、本来は必要ない数学の抱き合わせ商法だ。悪徳商人かよ大学教員は。

冷戦中のポーランドなんて、ソ連に鎮圧されてんじゃねーかよ。

そもそもアフガニスタンがソ連に勝利してるしな。

「教育学」は教育の学問ではない[編集]

ジョン・デューイが言うには「教育とは経験の再構築である」とのこと[1]

しかし私が思うに、当の教育学自体が再構築されていない、と思う。


ミネルヴァ書房の教科書に色々とケチつけてるけど、でも、かなりマシなんですよ、ミネルヴァ書房の本は。他にも探したけど、教科書としてまとまったロクな本が無い。

教育学のおかしい点は、そもそも歴史から教えることである。たとえば、ルソーがどうしたとかさ。少なくとも私の読んだ本はそういう歴史の話ばかりだった。小学校の授業は歴史からは入らないだろう。平仮名やカタカナを読み書きできるようにとか、地元の地名を覚える事を通して地図の読み方を覚えるとか、そういう所から小学校の教育は始まったりするはずだ。教育学も本来、そういう教育現場の話から始めないといけないはずだ。知ってる事と教える事の違いとか。単に知ってるだけなら、それをもとにテストを採点するだけなら、それは教師ではなく試験の採点官である。

子供に言葉を教える両親は、べつにルソーとか知ってるわけではない。そんなの知らなくても言葉を教えられるのが現実だ。

そもそも、「教育学」と言われているものは「学校教師学」ではないか。本来、教育は学校の専売特許ではない。親は子を教育してないわけではないだろう。学校教師学なのだから、実際に学校教師がやってる仕事内容を紹介するのが先だろう。

生徒が帰宅しても教師はテストの採点とか、明日の授業の準備とかで忙しいですよーとか、そういう実務の話をするのを本来なら優先すべきだろう。部活の顧問とかの仕事もありますよーとかさ。進路指導もしないとアカン。ああ、メンドくさそう。こりゃ教職が過労になるわ。

国語教師になるにしても数学教師になるにしても、そういう生徒帰宅後とかの仕事内容は共通してるわけで、そういうのが本来の学校教師むけの「教育学」であるべきだろう。

法学の場合、過去の法律などの話は「法制史」となり、一分野でしかない。法学教育は基本、現行法の教育を優先する。にもかかわらず、教育学は事実上は公立教師は地方公務員なのに、法学とは違って現行法の学習は後回し。

まあ、英語の education studies がそういうルソーとかの内容なんだろう。


塾や私学こそ、本来の教育学の実践の場であろう。ここでいう私学とは別に進学校だけじゃなく、低偏差値の私学も含めての「私学」である。

経済学が基本、資本主義の分析で発見された分析手法で非・資本主義社会も分析するように、教育学の科学化をしたいなら塾のような教育産業というか受験産業などの資本主義を分析するしかないだろう。

しかし教育学の教科書を読んでも、塾などはロクに分析されてない。こりゃダメだわ。孫氏の兵法で「敵を知り己を知れば百戦危うからず」と言うが、ある種の境域学者は塾を敵視してるくせに、なんの分析もしてないので、敗北が必須。


教育学は、教育理論の証明も浅いように見える。なんつうか、ふつう、経済学とか物理学とかで「証明」というか「検証」みたいな事をする場合、幾つもの観点から検証する。

たとえば、本来なら、最低でも4個くらいの観点から、それぞれ統計などで証明すべきだろう。比喩だが、小学校の算数の文章題だって、解法が3つくらいあったりするわけだし。しかし、なんか教育学の教科書を読んでると、根拠が1つか2つしかないような感じの学説も多い。こんなんでよく学説になるなーと、工学系の私はあきれるのである。なんつうか、教育学は、学説の検証の濃度が「足りない」と感じる。


ほか

読売新聞 『東京都、高校授業料を私立校含めて実質無償化へ…世帯年収910万円未満の制限を撤廃』12/5(火) 7:00配信

↑これは都立の学校を潰しますよーって言う意味もある。採算性の高い私立を残して、都立を潰しますって意味もある。私立が無料になれば、都立に進学する人は減るか、少なくとも都立の偏差値は下がるので。

まあ、いつもの「肉屋を支持する豚」の案件。小中学生は受験勉強、頑張ってね。


上岡龍太郎パペポの保管庫[編集]

上岡語録

(学生なんて…)――「本来、中学を出たら世の中の役に立たなイカンわけや。もう義務教育終えてんにゃから。 ところがそこで役に立たんヤツが多いねん。しゃあないから、高校行けと。 高校三年間経ったらもう役に立たなイカンのに、まだ役に立たん。しゃあないから、大学行くわ。 大学行ってもまだ世の中の役に立たんヤツが大学院に行くわけや。 これは入院患者と一緒で、中学のほうは早期退院してるわけや。高校行ったやつはそれだけ病状が長引いてる。大学行ったやつってのはこれもう死ぬ寸前やね」

[2]

上岡龍太郎が2023年に亡くなったから、ネット検索しても埋もれて、なかなか出ない。なので、このページでも保管。


教育改革論[編集]

なんとなく思っている改革論を、とりあえず開陳。

「文理学科」高校を大阪以外でも作るべし[編集]

いわゆる進学校は「文理科」に改名すべきだろう。

学習障害者むけのエンカレッジスクールみたいな補習校ですら「普通科」だったりするし。制度的にも区別が必要だ。

「普通科」は、かなり幅が広い。たとえば商業高校っぽい科目が10~15単位あっても、法律上は「普通科」である。

いっぽうで、進学校も「普通科」である。エンカレッジスクールも普通科である。

このように幅広いまったく別々の教育内容を「普通科」とひとくくりにするのは、高校受験生にとってはトラブルの原因であり、罠になる。

高校新入生の偏差値の学力以前に、そもそも入学後の教育方針が大きくズレているのである。そりゃ、進学実績にも差が出るのは当然。

補習校と進学校が同じ「普通科」というのは、混乱の原因です。

商業高校は大幅に廃止・改組すべき[編集]

法律上、商業高校などの専門高校は、専門科目で25単位以上をとらなければいけない。しかし商業高校卒に関するかぎり、企業はそこまで専門知識を求めていない。(工業は別)

そもそも、商業科目では、大して演習とか必要でない科目も多い。そういう科目に、単位数を当てすぎである。

簿記とかを練習してれば充分なのであって、あとは普通科文系と同じくらいでいい。


せいぜい15単位くらいの線も科目で良いと思うが、まあ今から「商業科」の単位数を変えるわけにもいかないので、新学科をつくるべきだろう。

データサイエンス・ブームに乗って、「ビジネス・サイエンス」とか「エコノミック・サイエンス」とか新学科をでっち上げて、そこで商業科目を10単位くらいにすればヨロシと思ってる。

専門高校は、混乱の原因である。[編集]

商業高校の件もだが、法律上の「25単位」規制が、普通科の人の感覚に反する。

たとえば「音楽高校」といわれる音楽科の世間のイメージは、なんかお嬢様っぽくて頭良さそうなイメージだが、しかし実際は25単位の規制があるので、単に5教科の勉強が出来なくて音楽だけ練習してる高校である。

公立の音楽高校は、体育学科とかああいうのと同じの音楽バージョンでしかない。


工業高校みたいに設備の必要な理系の学科でないかぎり、もっと別の形態の学科の制度が必要である。

12単位も専門科目が確保されれば十分であろう。

改革案だが、「準(じゅん)学科」とか「副専攻」とか、なんかそういう新制度で、10~12単位ていどの専門科目の確保を主張するようなのが望ましい。


「主専攻=教養学科。副専攻=音楽科」みたいな、なんかカッコよさそうじゃん。つまり、高校に「主専攻」と「副専攻」のシステムを作るべし。

なお「教養学科」というのは造語で、大学の教養課程にならった造語。

いわゆる一般的な普通科高校の、文理共通の科目の内容を制度化したものを「教養学科」と呼ぼう的なアイデア。


ええと、つまり、いちいちカリキュラム表を見るのが面倒なんだ私は。

「普通科」が幅広過ぎるせいで、学科名を見てもカリキュラムの内情が分からない。

また「この何でも普通科」現象は、受験勉強ばかりしている超進学校が、家庭科とか美術・音楽とかをサボっている内情を隠す、隠れ蓑にもなっている。いやまあ、別に受験5教科に専念する高校があってもいいんだけど、でもそういう高校が「文武両道」みたいなことをパンフレットで言ってるのがウザイので、なんとか制度的に淘汰したい。

私立高校の進学実績は先取り学習のたまもの[編集]

少なくない私立高校は、高校入試でもう高校1年の内容を出す。また、付属中学は、中学入試でもう公立中学の内容である。

たとえ公立高校のトップ高校がどんなに入試を難問にしようが、それは公立中学の範囲での難問でしかないので、私立の進度には及ばないのである。

というか、むしろ余計な難問が逆効果になりかねず、公立受験組が中学範囲の難問に時間を掛けている間に、私立受験組は高校範囲の先取り学習を開始しかねない。

そもそも私立中高一貫校では、もう中学3年で、高校1年の1学期の内容に入っている。結局、そもそも公立の小中の授業が遅すぎるのである。

もう公立中学でも、今の高校1年の「総合地理」とか「公共」とか「現代の国語」に入るペースで良い。


公立高校の偏差値がどんなに高かろうが、それは進度の遅い高校のなかでの偏差値である。

なんつうか、大学受験で理系の学部よりも文系の学部のほうが偏差値が高くでるのと似た現象。

高校では5教科の全科目をやる制度改革[編集]

高校によって数学3が無かったり(山間部など)、「政治経済」が無かったり(普通科以外の学科など)、混乱の原因である。、

また、大学側も、いちいち色々な経歴の学生に対応するのが面倒である。

なので、高校を4年制に伸ばして、受験5教科の全科目をやってしまうのが良い(ただし「国語表現」みたいな入試に出ない科目は除外)。この際、「倫理」みたいなクソ科目もやることになるが、まあ仕方ない。それでも市販の宗教家のざれ言の本よりかはマシである。

つまり、文系コース/理系コースの内容を変える。

3年生で文系科目を中心に学び、4年生で理系科目を学ぶのが「文系コース」とする。

いっぽう、3年生で理系科目を中心に学び、4年生で文系科目を学ぶのが「理系コース」とする。

要するに、文系コースでも理系コースでも、みな数学IIIとか勉強してもらう。

単に順序が違うだけ。卒業までに履修する科目内容は、ほぼ同じにすればいい。

どうせ大学進学したら経済学部などで数学を勉強するんだし、だったら高校で勉強すればいい。積分は無理でも、微分ならできるだろ。

ただし、校舎の教室数が足りないので、実現は困難である(3年制を前提にした校舎になってるので)。廃校になった校舎でも借りればよい。

公立高校の学費を上げろ[編集]

教師の労働問題などの根本原因はこれである。

教育費の無償化や低減化って、これは麻薬みたいなもんで、よくて麻酔みたいなもん。

結局、教育には本来、カネが掛かるのよ。なのにカネを掛けようとしないから、色々と、教師の残業とかの問題が起きる。

公立の学費は、私立よりも少し安いくらいでいい。

もっと言うと、現代の公立高校は、民業圧迫である。市場を曲げている。

公営サービスはボッタクリをしなければいいのであって、必ずしも安い必要は無い。むしろ場合にとっては、保証などの厚さから、民営よりも公営のほうが高くてもいいくらいである。

私立高校の学費が年間100万円ちかいが、公立高校でも80万円くらいはとるべきである。

なのにそれを、「公立高校の1年間の学費総額は457,380円」[3]とか「51万円」[4]にしようとするから、しわ寄せがくる。

どうしても学費を下げるなら、工業高校とか水産高校とかだけでいい。

私立が何か特別に贅沢なことをしているわけではなく、単に公立高校がダンピングをして、その結果、自分の首をしめているだけである。

なお、国立大学の学費は、私立よりも大幅に増やすべきである。なぜならST比で、生徒一人あたりの教員数が国立のほうが多いからである。国立大学なら年間130万円くらい学費をとっても良いだろう。

60万円から130万にアップしても、それでも「大学生1人あたり100万円」の補助金があるので、差し引き30万円である。私立大学生は10万円なので、私立の3倍もの補助金である。これで成果を出せない大学生は、大卒をヤメロ。才能ない。

出典・脚注[編集]

  1. ^ 田中耕治 編『よくわかる教育課程 第2版』、ミネルヴァ書房、2018年2月28日 第2版 第1刷 発行、P.182
  2. ^ 『鶴瓶・上岡パペポTVファンサイトPAPEPO FOREVER』1988/11/04 放送分?、 2017 T.Hisakawa
  3. ^ 大野 翠 著『公立高校でかかる学費はいくら?受験から卒業までに必要な費用と資金の準備方法を解説』
  4. ^ 山崎 俊輔 著『私立高校・公立高校の学費、入学費用はいくら必要?お金のプロが解説』更新日:2024年2月5日