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目次

大学よりも高校のほうが、研究機関として優秀なんですよ[編集]

東京書籍の高校物理の検定教科書で、「副実像の公式」というのがある。

この公式は、近年の日本の高校生が発見した公式であり、ニュースにもなっている。

熊本県立の宇土高等学校の科学部の発見した公式だ。


他にも、高校生・高専生の発見した理論は、いくつもある。例えば国立米子工業高等専門学校の物質科学の学生が、卵の卵膜か何かで、燃料電池の実験ができる事を発見している。


アメリカでも、高校生が、製薬の発見をしてる。アメリカで、製薬会社チューリング社による特許で高価なHIV薬を、アメリカの高校生が特許を使わない形で製造する方法を発見し、オープンソース化した。


でも日本の大学では、このような実験は、出来ないんですよ。

なぜなら、大学では、カリキュラムが過密で、そのカリキュラムを消化しないといけないから、研究をしてる時間が、ほとんど無い。

私も理系の大学に通ってたが、研究をできた時間は、大学4年生のときの最後の一年だけだったし、その研究時間も、就職活動などで、ほとんど使えない。私が4年生で研究の時間を取れたのも、電機大に進学する以前に、法政大で単位を取ってたら、単位に余裕があって、卒業年次には研究以外の科目を履修する必要が無かったから、という幸運もある。


卒業研究とは別に、1年のころの実習などで研究的な事もあったが、あまり研究時間が取れなかった。また、しょせん実習科目である。


私は高校生の頃、「大学に進学したら、いろいろと研究をさせてもらえる」のだろうと思ってたが、結局、日本の大学では、ほとんど研究をさせてもらえなかった。

日本の大学で習ったのは、なにかの科目の試験問題の解き方である。


さて、高校生の発見した副実像の公式で使う数学は、行列計算(数学Cに相当)である。2次正方行列である。今では数学Cが廃止されたため大学の範囲だが、昔は高校で習ってたレベルである。

でも、大学で覚えさせられる数学は、これよりもずっと難しいですよ。3次以上の行列の対角化とか固有値とかの計算を、短時間で計算する練習とかをするんですよ。少なくとも工学部ではそうだ。

で、それをしないと単位が入らないし、進級できない。そして、行列の計算でそういう練習をしても、たったの4単位が入るだけである。(卒業までの約120のうちの、4単位。)


それでも、大学の数学の授業はまだマシで、ヒドイのは工学や物理などの専門科目である。物理や工学では、いくつもある実験の、解き方の分かった特定の条件の問題を、数式で表して短時間で解析的に解く練習をするんだ。でも、実務では不要なんだよな。

まず、実験をすれば、いちいち計算をしないでも、答えが求まる。そもそも、物理学者は、まず実験により答えを求めている。

また、たとえ理論を数式で表すにしても、物理学者は、その理論を短時間で計算する方法を覚えて、筆記で計算する練習などは、してない。

そして、せっかく努力して、それら工学・物理の公式を覚えて、その計算問題を解けるようになっても、「単に暗記科目を勉強しただけ」と数学者・物理学者にような連中に侮られる(あなどられる)。(私は法政の通ってた一時期、法政を進級できなかったので、他大の数学科に移ろうとした。父親が立教大の数学者に相談したところ(私の兄が立教の法学部卒なので、立教に相談のツテがあった)、「数学科は工学部のような暗記科目ではない」と言われたという。)

工学の授業を暗記だと侮るなら、そもそも、なんで工業大学で工学計算を必修にするんだ? 日本の大学教員どもは、ふざけるんじゃない。


数学や物理を学ぶことによる論理性の習得などが目的なら、もはや高校の数学で、ほとんど、その目的は達している。なんのために、大学の数学や物理の授業があるんだ?

工学の計算は、工業高校で習う程度で、実用上は充分である。しかも、高校だから定期試験は、100点満点中、30点以上をとれば済むんだよな。高校でたとえ赤点で追試になっても、追試問題には、本試験とほとんど同じ問題が出る。いっぽう大学の場合は、高校よりも遥かに難しい試験問題で、60点以上で、追試無しだったりするんだ(実際、私が体験した)。


大学進学直前に父親から聞いた話では、「工業大学の低学年では、工業高校で習うような計算をする」と聞いていた。

しかし、法政大に進学したら、そんな授業は無かった。大学高学年むけの教科書をつかって、試験問題を解くという授業だった。

で、私は法政を進級できなかったので電機大に移ったわけだが、その電機大ですら、似たような授業である。


昔の大学では、大学の低学年では工業高校で習うような計算をしてたのかもしれないが、2000年以降、そんなのは無いのだろう。


そんな大学工学の計算能力、不要なんだ。計算方法なんて、必要になったら調べればいいだけの事。そして、そもそも「短時間で」計算する必要なんて、仕事では存在しない。

そもそも工学の便覧とか工学公式集とかは、技術者が大量にある雑多な公式をいちいち暗記しなくても済むように、そもそも便覧とか公式集とかが市販されているのである。

そして、理科で使う数式ですら、基本的に高校レベルで、ほとんど代用ができる。


そもそも計算は、研究開発の出だしではないんだ。計算は、まず先に仮説を出したあとの検証方法でしかない。仮説を出す前に、まず先に、何かを試作するなどの実験が必要なんだ。


だからまず、研究のための、いろんな実験をしないといけない。


でも、日本の大学の授業は、そうなってないんだ。

実験をさせない、試作をさせないのが、日本の大学だ。もしくは、既に結果が分かった実験を、すでに知られている実験方法で実験するだけの、実習科目なのが、日本の大学での「実験」だ。


もはや日本では、大学よりも、高校の科学部みたいな場所のほうが、研究所としては優秀なんだ。


告発: 電気工学科はカリキュラムがメチャクチャ[編集]

私が法政大の電気工学科に在学していた頃の実体験である。

1年生で、電験1種の電磁気の過去問を演習する。電気学会の山田直平著の『電磁気学』の章末問題を解かせられる。

しかも、それを、短時間で解く練習をする。

2002年の電磁気の試験では、この教員が、試験の直前に、試験時間を短縮した。解答用紙には90分と書いてあったが、いきなり「試験時間を50分にする」と宣言した。

なお、のちにその教員は、異動になった。おそらく、教授会などで試験時間が決められてたのに独断で勝手に試験時間を変えたんだろう。

なお、電鍵1種の試験問題は、1問あたり30分として作られている。そのときの試験問題は5問だった。


そもそも、そういう国家試験問題を、1年生に出題する必要性がさっぱり分からないんだが? (なお電機大では、電子情報学科の3年次の選択科目で、同じ教科書を使っている。)


法政大の大学2年では、統計力学の授業があった。物理学者の加藤正昭が教員だった。当時の法政大の電気工学科に、熱力学の授業は無い。 カルノーサイクルも知らない学生に、フェルミ分布とか教えてるわけだ。

法政大には、そういう科目しかない。

しかし加藤さんは、一年の力学の授業も担当していて、こっちのほうは、普通の力学の授業だった。

おそらく、教授会か何かで、どっかの馬鹿教授が、熱力学もやらずに「統計力学を教えなさい」とか加藤さんに命令したんだろう。


2年のフーリエ解析の授業では、HPスウの教科書(森北出版)を使う。あの教科書に書いてある、いろんな工学応用問題が解けて、やっとフーリエ解析の単位(2単位)が入る。ラプラス変換の授業では、ラプラス変換を使った制御工学の公式を覚えて計算できるようにして、やっと単位(2単位)が入る(制御工学の公式なので、普通の解析学の教科書には書いてない公式である)。

定番教科書である裳華房の故・矢野健太郎(東工大名誉教授)の教科書に書いてあるような事を覚えても、フーリエ解析の試験問題は解けず、単位は入らない。

なので私は、法政大では、フーリエ解析・ラプラス変換の単位を取れなかった。

なお、いわゆる「電気数学」の授業は、当時の法政大には無い。とゆうか、「電気数学」の科目名で、HPスウの教科書(森北出版)を使う、フーリエ解析の応用問題の授業を、私はやられたんだが。


私は、こういう電気工学教育に嫌気が指したんで、他大の機械工学に移ったんですよ。法政大に嫌気がさしたんじゃなくて、「日本の電気工学自体に欠陥がある」と判断したんですね。実際その後、家電メーカーも半導体メーカーもボロボロになったし。


工業大学のカリキュラムはいろいろと腐ってる[編集]

いろいろと理系大学のカリキュラムを調べてみたが、どうも、まず偏差値トップクラスの高偏差値の工業大学のカリキュラムが腐ってるようだ。

で、この腐ったカリキュラムを、マーチだの理科大や芝浦工大などが真似してるので、日本中の理系大学がオカシイようだ。


まず、かつて故 矢野健太郎(東工大の名誉教授)などが数学教科書を書いてたような時代とは、もう、カリキュラムが違う。

たとえば、ある難関大学の2年のフーリエ解析のシラバスを見てみると、離散フーリエ変換とか、そういう雑多なことを教えてるんだ。

離散フーリエ変換とか、重要か?

離散フーリエ変換なんて、信号処理などの一部の分野でしか使わないぞ。(そもそも「信号」処理と言いながら、内容が、なんの情報処理にもなっていないが)

そしてその信号処理の理論自体、結局、あまり実務で使われてないぞ? 通常のフーリエ変換には、まだ使い道がある。物理の微分方程式を解く等の使い道だ。

しかし、そのフーリエ変換をまねて離散フーリエ変換だのの理論を構築しても、結局、なんの方程式も解けないのである。(離散フーリエは、けっして微分方程式の理論ではない。)

方形波などのデジタル波形であっても、そのデジタル波形をRLC線形電気回路に印加した場合電圧やら電流を解析的に厳密に求めたい場合には、離散フーリエではなく通常フーリエ変換を使う。


そもそも、デジタル波形をデジタル的に解析したい場合、デジタル電子回路の理論で、事足りる。要するに信号処理の理論は、淘汰されるべき破綻した理論だ。


「電気回路では複素数をよく使うし、RLC回路の解析でラプラス変換やフーリエ変換をよく使うから、デジタル回路でも類似の変換を考えたら役立つだろう」という仮説にもとづいて、世界各国の工学者が、離散フーリエ変換やらゼット変換とかを考えてみたわけだが、結局、役立ってない。

つまり、必要性があって作られたラプラス変換やフーリエ変換とは違い(「微分方程式を解く」という必要性があって、工学でのラプラス変換とフーリエ変換の理論は作られた)、必要性もなく離散フーリエ変換やらゼット変換やらは考えられた。


いちおう、離散フーリエやそれに類似する変換(ゼット変換など)で、差分方程式を解く事はできるのかもしれないが、そもそも高校数学の数列の解法で、実用上は充分だし、だいたい、離散なんとか変換の理論は単に、数列の理論を言い換えただけだったりする。

そして、数列の解法を暗記しないと試験時間内に解けないのと同じように、結局、離散なんとか変換の公式を暗記しないと解けないので、わざわざ離散なんとか変換を覚えても役立たない。


そもそもフーリエ変換ってのは、熱伝導のフーリエによる解析のように、不連続な微分方程式を連続的に解析手法である。矢野健太郎なども、そういうふうに教科書を書いてるわけだ。) フーリエさんは信号処理(デジタル波形の複素数列への変形)なんかしてねえよ、馬鹿教授。

数学の分からない馬鹿な工学者が、勝手にカリキュラムを変えて、どんどんと分かりづらいカリキュラムになってる。

本来なら、離散フーリエ変換をもちいたシステム解析などは、「信号処理」などの科目名で分けて教えるべきであるし、少なくとも矢野健太郎の時代はそうだったんだろう。


どうも、いくつかの工業大学では「フーリエ解析」の名前で、数学的なフーリエ解析の理論と計算ではなく、信号処理の理論を教えてるようだ。

特に電気系の学科で、その傾向が高い。

あるいは、ある大学では、そもそも「フーリエ解析」の科目自体がなく、「信号処理」という科目名で信号処理の数学理論をそのまま2年生か3年生で教えてるようだ。

ああ、頭が痛い。こんな馬鹿学者どもが、日本の電子工学の教育をしてるのか。

あのですね、馬鹿の電子工学者ども。デジタル信号処理以外でも、工学でフーリエ解析はたくさん使うんですよ。機械振動の解析とか、土木工学でも地震の影響の解析とか、そういう応用物理でも、フーリエ級数とかを使うんですよ。

だからね、信号処理の雑多な理論を教える前にまず、フーリエ解析の標準的な計算練習をする必要があるんですよ。それだけで2単位くらい、本来なら必要なんですよ。

矢野健太郎は、そういう物理計算を知ってるから、矢野のフーリエ解析の教科書では、信号処理ではなく微分方程式への応用を中心にフーリエ解析の教育をしたわけ。

なのに、そんなことも分からない馬鹿が、理系大学の電気電子工学のカリキュラムを作ってる。それも難関大学のな。


日本の馬鹿工業大学は、なんで普通に教育できないんだ? なんで、矢野健太郎あたりの書いたフーリエ解析の入門的な数学理論を教育できないのだろう? なんでカリキュラムを矢野健太郎の時代から劣化させるんだ?

フーリエ解析の定期試験なんてね、本来ならね、「次の関数をフーリエ変換せよ。ただしフーリエ変換の公式を○○(←あの公式)とする。」とか試験問題に書いて、実際に公式を使えるかどうかを確認するくらいで良いんですよ。


そんなのでも、実務では充分だ。


また、物理公式などの偏微分方程式の解き方としてフーリエ変換を使うときは、そもそも物理の教科書にその計算法が書いてあるので、フーリエ変換の公式は覚える必要が無い。


少なくとも、大学2年生に、(特定の分野でしか使わない)離散フーリエ変換の使い道を覚えさせるのは馬鹿げてる。


他にも、あたまの痛い事例がある。

ほかのある大学では、「制御工学」という科目名で、2年生あたりでラプラス変換をもちいた制御工学の応用を教える大学もある。どうも、その大学では、通常のラプラス変換は教えてない。

あのねえ、常微分方程式(定数係数)の解法としてラプラス変換を使うこともあるから、制御工学とは別の授業で、ラプラス変換の公式を別に教えてもらわないと、困るんですよね・・・。

普通の応用数学の教科書でラプラス変換を読めば、普通に最初のほうに微分方程式の応用が書いてあるのに、なんでわざわざ、一部の分野でしか使わない制御工学を前面に出したカリキュラム改悪をするのか?


私は仕事で論文を読んで、東工大や東大の機械工学の論文を読んでたら、常微分方程式をラプラス変換で解いてたぞ。ラプラス変換は普通、こういうふうに使うのが標準だよな? 歴史的にも、そういうふうに普及してきたんだし。電気回路の過渡現象の常微分方程式を、ラプラス変換で解くというのも、電気工学者ヘビサイドなどの発見した歴史がある公式で、有名な公式だし。

だからまず、大学のラプラス変換の授業では、普通に微分方程式への応用をやれよ。


どうも日本の学者には無能者がいて、制御工学やら信号処理やらの分野の学者には、無能が多いようだ。

実務を知らない馬鹿教授が、実務からズレた内容を教えてる。かつての高学年(3〜4年)のマイナーな専門科目を、低学年の2年生あたりに下ろして、多大な迷惑を与えている。

制御工学の公式では、機械は制御できないんですよ。制御の実務は、それぞれの現場の経験則(現場の実験で確認した実験式など)を使うんですよ。だから大学での、制御工学の難解な数式や計算練習は、役立たずだし、それどころか、役立たずな理論に権威を与えていまうから、もはや有害なんですよ。大学の制御工学や信号処理の授業は、有害なんですよ。


結局、電気工学での応用数学の教育で最善な方法は、普通に電気数学の教科書で、電気数学の教育をするのがベストなんですよ。なのに馬鹿な工学者が、それを変えようとして、信号処理だの制御理論だの特定分野を混ぜてカリキュラムに混乱を起こしている。いわゆる「無能な働き者」だ、彼らカリキュラムをいじくる工学者は。

工学部のフーリエ解析の教科書だけに書いてある離散フーリエ変換やらパワースペクトルがどうこうとかの信号処理の理論は、本来なら3~4年生の「信号処理」とかの授業で教えるべきなんであって、なのにそれを2年の電気数学とか教えようとするから、混乱が起きる。

そもそも、そんな信号処理やら制御工学の細かい公式なんて、在学中に習得する必要すら、無い。

まず、パルス1個分やノコギリ波1個分の電力スペクトルなんて覚えずとも、そもそも、たった1個のパルスの電力なんて、実用では問題にならないので、実務でフーリエ変換による電力解析は不要である。いっぽう、大量のパルス波形が繰り返し発生する場合の電力計算で必要な数学は、フーリエ「級数」であり、フーリエ変換ではないし、まして離散フーリエ変換ではない。

そして、その大量のパルス波形が発生する場合の電力の求め方ですら、実用上はフーリエ級数を無限項まで展開しなくても、せいぜい3項〜5項あたりまで近似展開すれば充分である。(工業高校なんかだと、こういうふうに近似するよな。)

そしてさらに、そのフーリエ級数の有限近似展開すらしなくても、測定器として電流計や電圧計や電力量計などを用いれば、実験的に電力が求まってしまうし、しかも、実験的に求められた値こそが、物理的に真実の正確な値である。


フーリエ級数ですら実務では、無限項の一般項を求める必要性は少ないのに、ましてや離散フーリエ変換などは使い道がないのである。


政治報道では、政治選挙の当選後3ヵ月は、マスコミは与党の当選政治家を褒めるらしく、ハネムーン(新婚期間)という。

離散フーリエ変換などの提唱当時の新理論なんて、せいぜい提唱後15年くらいまでをハネムーンとして、実務での使い道がなくても、大学院とかの選択科目とかで、希望者だけに離散フーリエ変換などを教えるべきだった。

なのに、役立たないままの理論が、理系大学では淘汰されず、「10数年前から教えてるから」とかの理由で定着してしまうのが、理系大学の教育カリキュラムのおかしさ、杜撰さ、稚拙さ、である。


そもそも、数学や物理学あたりに、このような役立たずの理論が多い。シュレーディンガー方程式は結局、役立たずの理論である。

当初、シュレーディンガーの理論などで、化学反応などを理論的に予測できるようになるかと思われてたのだろうが、結局、21世紀の現在でも、そうではない。(だからこそ、高校で習うような、シュレーディンガー方程式によらない一般化学の理論がある。)

研究ですら、産業などで実用化されている化学の、実際の研究手法は今だに、理科実験室みたいな場所で、試験管などで実際に化学反応を起こしてみる事である。けっして、シュレーディンガー方程式を解くことではない。

でも、シュレーディンガー方程式はノーベル賞を受賞している。

要するに昔のノーベル賞なんて、その程度の、ハネムーン的な賞なのだ。

湯川の中間子理論だって、結局、陽子と中性子のあいだに素粒子なんて、21世紀のいまでも見つかっていない。だけど湯川は、クラインゴルドン方程式の研究成果として中間子を提唱し、ノーベル賞を受賞した。これだって、ハネムーン的な賞でしかない。


本来なら、10〜20年ほどの(新理論における)ハネムーン期間が終わったあと、淘汰を激烈に行うべきであり、実用性が乏しかったり、実験結果と一致しない部分は、たとえノーベル賞の受賞理論だろうが、教育から追放・廃絶させるべきなのである。


さて、離散フーリエ変換やら信号処理なども、提唱直後はハネムーンでしかない。

理系大学のダメな処として、「ハネムーン」という発想がなく、実用性の確認できない理論を淘汰せず、そのため、教育内容がどんどん肥大化していき、カリキュラムが過密になっていく。そのせいで、1科目あたりの予習復習が時間不足になるのである。


数学科卒や物理学科卒の技術者は、信号処理論のこまかい用語も理論も、在学中には知らないぞ。

というか、「実務でつかうかもしれない」と思われようが、細かい事は、就職後に現場の研修で習えばいい。文科系の大学がそういう発想なので、大学では、本当に普遍性の高い事だけを精選して、学生に教え、雑多なことや普遍性の低い事はあまり教えない、というスタンスである。

しかし困った事に、どうも理系の大学には、そういう発想が無い。

それどころか、理系大学は、実務で使ってないことを、実務知らずの大学教員が「実務でも使うぞ!!」とウソを学生に教えて、不安をあおって、勉強させる。もはや霊感商法などのサギ師のような行動パターンである。


機械工学や電気工学の学生が、在学中に計算法を習得する必要のある理論なんて、数学と物理だけであり、あとは、公式集を必要なときに読めばいい。

常微分方程式などの数学と、物理の、力学の慣性モーメント計算や、それと同レベルの電磁気の初歩的な計算くらいだ。

それ以外の物理計算なんて、公式集を必要なときに読めばいい。機械工学や電気工学の個別の公式なんて、公式集を必要なときに読めばいい。

あとの科目は、せいぜい「知らないよりかは、少しは知ってたほうがイイ」だけだ。


考えてみれば、法学部なら、法律の個別の条文は覚えずに、小六法を必要なときに読んで参照するだけである。法学部で覚えるべきなのは、(おそらく)法学的な考えかたであり、個別の条文でもない。

しかし理工系の大学では、そういう「参照する」という発想がなく、工学の公式や専門的な物理の公式を暗記させようとする(そして定期試験では、短時間で計算させようとする)。


法学部や経済学部の、社会科学系の実学系のカリキュラムなどと比較すると、工学部のカリキュラムの欠陥が、上記のように分かる。


法学部では、道路交通法や軽犯罪法ですら、ろくに教えない。なぜなら、法学的な考え方を養成するのに役立たないから。そういう個別の法律は、就職後に実務で必要になった時に、勉強すれば良く、大学では、「その就職後の勉強のための基礎学力を養成する」という発想なので、刑法や商法などの基本的な法律しか、大学の学部では教えないのである。


なのに工学部では、そういう発想がなく、学部の時点で、衝撃波の流体力学の具体的な計算法やら、高電圧の具体的な計算法やら、そういう個別の事を、3年生あたり教えようとする。

書店を思い起こせば、大学教科書を販売している書店に行っても、法学書なら、有斐閣などの教科書出版社ですら大学卒業後の人のために実務書を何冊か出版してあるのに、いっぽう、工学書では、ほとんど、そういう本が無い。


そもそも、電気工事の知識すらない大学3〜4年生に高電圧工学やら発電工学の詳細を理解させるなんて無理でして、本来なら、そういう工学の詳細なんて、卒業後に専門書で教えれば良いだけである。大学では、感電事故などを卒業後に起こさないように、最低限の安全対策などを教えておけば、それでいいのである。

要するに大学教授が実務を分かってない馬鹿なのだが、こいつら馬鹿のくせに「自分は頭がいい」とか思ってるだろうな。


電気工学の授業なんて、電気工事的な作業の安全対策のための知識の定着をさせる事と、あとは学力養成として単に数学教育と物理教育の切り口が、電気方面なだけで良い。

機械工学も同様だ。機械加工などの安全対策のための知識の定着をさせる事と、あとは学力養成として単に数学教育と物理教育の切り口が、機械方面なだけで良い

結局、理工系の大学で理路整然と教えることのできる知識なんて、安全対策の知識と、数学と物理学だけだ。


その物理教育ですら、1年生では、時間の都合で、力学くらいしか計算練習できないんだよ(実際、カリキュラムを調べてみた)。

そもそも高校の物理では微分積分を使わないから、本来なら、微分で解析的に物理を理解しなおすだけで、時間が掛かる。

高校物理の微分化に必要な数学は、微分方程式であり、大学2年レベル終了後である。どう考えても、大学1年生には習得できない。

1年生や2年生は、せいぜい、物理数学の真似事をするだけである。

たぶん、3年生や4年生ですら、高校レベルの物理の公式を微分的に理解できてる人は少なくて、単に授業で習ったとおりの計算法をしてるだけだろう。そうしないと、進級できないし卒業できないから。


結局、アメリカみたいに、大学低学年の物理なんて、日本の高校物理レベルってのが、いちばん合理的である。

裏を返せば、おそらく日本の理系大学生は、ろくに物理を理解できてない。教師が黒板に書いた数式を覚えてるだけだろう。そういう連中が、やれ東大だの東工大だの早稲田や慶応だの理科大だのに、たくさん居るんだろう。


ハッキリいうと、もはや、角運動量や慣性モーメントなんて、大学1年には、理解できないんだ。

それよりも前に、まず、高校2年間で習った物理を、まず微分で理解しなおす必要がある。もちろん現在の大学には、そんな時間は無いか、ほとんど時間が与えられていない。

つうか、そもそも教養課程の物理教科書には、そういう微分公式が書いてあるハズなんだが・・・。しかし現在の理系大学では、そういうのを教えないんだな。少なくとも工学部では。


高校の熱力学なんて、もし微分で理解しなおそうとしたら、偏微分になってしまうからな。(実際、物理学科の熱力学の授業で、そういう偏微分の熱力学公式をたくさん習い、それだけで2単位くらいになる。)


結局、大学1年レベルの高等物理の入門は、駿台文庫の山本義隆の参考書のように、高校レベルの物理でいいから、その物理法則を微分積分で置き換えることに専念するのが、一番合理的である。そして本来なら、それだけで1年以上の年月は掛かる。

もし力学だけに限定して、高校物理を微分で表そうとしても、位置エネルギーとかで、ベクトルの線積分とか必要になるしな。


工学部の馬鹿教員どもは、そういう微分理解が「大学入学後の半年くらいで習得できる」と勘違いしてるが、それはもちろん勘違いであり、大学3年くらいまでに、微分方程式の計算練習やベクトル解析の計算練習などをたくさんして、ようやく、微分的な理解は身についてくる感覚である。

電気工学科とかで1年で教えてる電磁気学なんて、ろくに学生は理解しちゃあ、いないだろ。


私の場合、電磁気学の理解は、自分で書店に行って、矢野健太郎などのベクトル解析の教科書を何冊か書店で買って、計算練習して、それでようやく、「電磁気学で使う数学が、いくつか分かってきた」という感覚になった。

個人的な意見を言えば、電気工学科の低学年のカリキュラムなんて、「教養課程の物理の電磁気学を必修にする」くらいでいいんですよ。というか、高校がそういう場所だ。

高校の物理教育なんて、単に『物理』という1冊の教科書を丹念に読み解いたり、計算練習もするだけだ。

教養課程を低レベルだと思う意見も多そうだが、それは単に大学教養課程での採点基準が甘いだけだ。市販の「教養の物理」などのタイトルの大学教科書の内容は、そんなに簡単じゃないですよ。


日本の大学はね、科目数が多すぎなんですよ。もっと科目数を減らすべきですよ。各科目で計算練習の時間とかも、2~4単位ほど、とるべきなんですよ。「微分積分」4単位のほかに、「微分積分演習」4単位みたいにさ。その演習の時間で、例題とか基礎問題とかの練習をしてればいいんだよ。

微分積分や線形代数の単位(通年)が、たったの4単位なんて間違っていて、本来なら、線形代数だけで8~12単位くらい与えるべきなんですよ。

計算練習とかで、そんくらい大量の時間が、必要なんでずよ。

だいたい、高校で数学Cや複素数やらが、たびたび高校カリキュラムから外れるのに、大学1年生で、オイラーの公式やら、線形代数の固有値やら何やらを、そんなスグには理解できませんよ。

結局、単位基準の「授業時間の2倍の予習復習を、単位の基準にする」というのが、そもそも間違っているんですよ。


ひとむかし前のテレビ番組で、アメリカの大学の授業の理系科目を見ても、どう見ても、授業時間の2倍の予習復習なんて、してるようなレベルではなく、日本でいう高校レベルの内容だった。


そもそも予習復習の時間なんて、理系大学生は、ほとんど取れないんですよ。そもそも「復習」には、かなりの時間が掛かるんだよ。受験の浪人生なんて、高校レベルの復習にすら、数年の年月を掛けるんであって。

私なんて30歳すぎの大人になってすら、高校レベルの化学や生物など暗記科目の教科書を読み返して、いまだに新発見があるんだぜ(まあ、高校教科書も内容がどんどんと新しくなってるって事情もあるが)。

また、高校の教科書がどんどん新しくなってるって事もあるように、高校教科書の復習ですら、そんなに低レベルではない。いまや高校教科書でも、量子力学の初歩の不確定原理とかを教えてるし。


「復習に時間が掛からない」と勘違いしてる人は、たいした勉強をできていない人である。工業大学のカリキュラムを作ってる馬鹿教授は、こういう勘違いをした、たいした勉強のできてない人である。


そもそも1冊の教科書では、学力は身につかない。高校の数学Cだって、高校教科書 + 参考書による問題練習 + 入試対策問題集 という3段構えで、やっと習得している。


なのに理系大学の線形代数の教科書が1冊の教科書と授業週1~2コマの授業時間だけで、身につくわけがない。

医学部なら国家試験のための対策授業があるかもしれないが、理工学部にそんなの無いしなあ。


要するに、もはや日本の理工系大学では、基礎学力は身につかない。理工系の場合、日本の学校教育によって学力が身につくのは、高校まで、ですよ。高校カリキュラムをつくってる文部省が、そんだけ優秀って事だ。裏を返せば、理工系の大学のカリキュラムを作ってる理系の学者どもが、すさまじく無能で愚かだということ。

理系大学の混乱の原因のひとつは、文系学部ならある総論的な入門科目が存在していない事[編集]

文科系では、専門科目でも大学1年むけの、初等的な科目がある。

法学部ですら、1年生むけに、初等的な教科書をつかって、その科目の総論的な講義をする。

たとえば有斐閣から出ている有斐閣アルマシリーズの、民法や刑法や会社法などの、ハンディサイズの教科書だ。

いきなり物権法とか債権法とかの詳細に立ち居らず、まず民法の総則とかを、1年や2年生むけに、初等的に講義するワケだよな。

別にアルマシリーズでなくてもいいが、法学部ですら低学年の授業では、教科書は低学年むけに、簡略化された教科書を使っているわけだ。


さらに詳細な民法や刑法や会社法などを習いたい人は、高学年になって、より詳細な民法や刑法や会社法などの、それぞれの科目を習いってワケ。

ある難関大学では、2年で民法を習うけど、3年でより詳細な民法を習う、などの時間割になってたりするワケだ。


商学部でも、簿記なら、低学年むけの初等的かつ総論的な簿記があって、それとは別科目で、高学年むけの専門的な簿記の授業もあるワケだ。


経済学部でも、いきなりミクロ経済学とか各論を教えるのではなく、まず「経済学入門」とかの科目名で、総論を1年生に教えるわけだ。


しかし日本の理系の大学では、低学年むけの初等的な総論科目の設置を、ぜんぜん行っていないのである。

理系の専門科目では、低学年の最初から、高学年でも、そのまま通用する各論の理論と計算法を、低学年で教えるのである。

たとえば機械工学科あたりの2年生あたりの材料力学の最初の授業では、けっして、材料力学の概論や入門を習うわけでなく、2年でいきなり、卒業後もそのまま使える材料力学の計算法を習う。

機械工学科だけでなく、電気工学科とか土木工学科とか、工学部のほとんどの学科の専門科目が、同様である。電磁気学でも土木構造力学も、いきなり、そのまま仕事でも使えるような計算法の各論を、習うのである。

数学科や物理学科なども、同様である。低学年むけに簡易な話題だけを集めた教科書というのが、そもそも理系のほとんどの科目に、ろくに存在していないのである。


例えば理系の大学1年の『微分積分』の教科書は、あれは別に、けっして、1年生むけに精選して解析学の総論の話題を選んでいるわけではない。けっして、民法や簿記の科目のように、1年むけの微分積分とは別の、2年以上むけの詳細な微分積分とかが、あるワケではない。

微分積分なんて膨大な分野だから、本来なら、たった1年の授業で終わるハズないのだが、しかし日本では、たった1年の授業で微分積分を終わらせるのである。


1年の微分積分の教科書では、高学年でもそのまま使える微分積分の各論の計算方の話題を、そのまま1冊の教科書にぶち込んでいるワケである。

線形代数の教科書も同様である。


とにかく日本の理系の大学では、低学年むけの簡略的な科目の設置を行っていないため、文科系の学部や諸外国と比べて、専門科目の時間割が、最低でも1年間ぶん、前倒しになっているのである(ヘタしたら科目によっては2年ほど、前倒しになっている)。

これが、日本の大学で理系が、忙しい原因である。要するに、カリキュラムをつくっている大学教授たちが、本来なら作るべき教科書、初等的・入門的だが総論的な教科書をつくらずに、教員が手抜きをして、専門科目をそのまま低学年に教えているわけである。

理系の大学では、そもそも教員たちの大学教育に関する常識が間違っており、そのため、文科系の教育では作られている、低学年むけの総論科目の教科書が、理系大学では、まったく制作されていない。

そして、総論的な低学年科目が理系学部には存在していないため、バランスの取れた学力が養成しづらくなっている。


それでも数学科目や物理科目などは、教養科目があるので、まだマシである。

ヒドイのは、工学の専門科目である。

例えば機械工学科では流体力学で、3年生で、気体など圧縮性流体の衝撃波の方程式などを習う。でも、よくよく考えれば、3年生じゃ無理な内容である。

なぜなら機械工学科では3年生あたりは、実験実習などで、とても忙しいのである。

なのに、2年生で習う、液体などの非圧縮性流体ですら、まだ全てを習いきってない状態なのに(流体力学は膨大なので、1年間の授業では、扱いきれない)、さらに、気体圧縮性流体の衝撃波の方程式などを習うワケである。

うん、無理だ。


本来なら、こういう難解な分野をあつかう科目は、まず「気体流体工学 入門」などの科目名で、エアコンなど空調機器の話題とか、または自動車や飛行機などの空気力学がらみの設計ノウハウの話題とかも混ぜて、総論的に入門的な話題を扱えば充分なのである。


というか本来、工学部の大学3年生の授業なんて、「◯◯(各論の分野名)工学 入門」みたいなもんで、充分なのであろう。

たとえば電気工学科の3年なら、けっして「電気機器」の詳細をいきなり教えるのではなく、「電気機器 入門」などの科目名で、まず、電機機器工学に、発変電工学など(2年生までは習ってないだろう)強電系の話題もまとめて、入門的かつ総論的な内容を、大学レベルとして微分積分などを使って講義すれば充分なのであろう。


ああ、こういう教科書、まったく読んだことがない。そういう総論的な教科書は、理系大学には存在していないのである。

というか、工業高校の「電気基礎」「電気機器」やら市販の電気工事士の教本の何やらが、そういう教育をしているのだが、しかし大学では、こういう教材を使わないしなあ。

結局、工学で、たかだ週1コマ(90分)の半年の授業で習得できる事なんて、せいぜい工業高校レベルに毛の生えた程度まで、なんですよ。せいぜい、微分積分をつかって、工業高校の公式を理解しなおせれば、もう学生レベルとしては十分なのよ。

なぜなら、それ以上の各論への深入りは、勉強時間が不足するんですよ。実験や実習もあるし、数学や物理などの他科目もあるから、工業高校レベルを大幅に越えた工学の各論の詳細なんて、勉強時間が無いんですよ。

そっから先の詳細は、本来なら、卒業後に勉強する事になるのよ。


声明: 日本企業は戦後、就活で高度経済成長期に私大卒を差別をしたのではないか?[編集]

戦前、私大には入試がなかったんだ。

だから、今でいう、専門学校卒みたいな扱いだった。

まあ、それでも、司法試験みたいなのは受験できたから、勉強法を教わろうとして、私大に行く人が多かったんだ。

でも、企業にとっては、入試を受けてないって事で、あまり、大企業には入りづらかったらしい。

ここまでは、まあ分かる。(これはこれで問題かもしれないが、本件では、扱わない。)


問題は戦後だ。

戦後、学制が新制になって、大学進学者も増えて、私大も入試をするようになったんだ。

ところが、私が理工書を読んでると、その理工書の著者が元 大手電機メーカーの企業の技術者 である場合、学歴が国立大学卒ばかりなんだ。東芝、日立、三菱電機、日本電気、・・・出身の技術者の学歴が、国立卒ばかりなんだ。たまたま私が読んだ本がそうだったのかもしれないが、早慶卒すら、見当たらなかった。東大京大の人のほかには、茨城大(日立の地元が茨城県)とか岡山大とか東工大とか、そういう学歴だったりするんだ。

ここで私は疑念を感じた。

日本企業は、戦後になっても、高度経済成長期の頃から、私大が入試を行うようになったにもかかわらず私大卒の就活生を就活で差別したんではないかと?


なお、昔の入試は、国立大学も私大も、理系は三教科だったりする(と伝聞で聞いている)。

入試で5教科受験とかをやりはじめたのは、共通一次が開始されてからである。


また、昔は、地方国立よりも、関東圏の私大のほうが、受験倍率が高かった時代もあったんだ。東京の大学は、全国から人が集まるんで、それだけ競走倍率が高かった。

入試科目が国立も私立も同じ三教科なら、どう考えても、茨城大や岡山大よりも、早慶のほうが難関だったんだよ、昔は。下手したら、マーチのほうが、茨城大よりも難関だったかもしれないよ。

なお、東工大は、今でこそ5教科型の受験をするし、文系科目も得意な5教科受験型の学生が集まるかもしれないが、しかし共通一時以前の高度経済成長期の東工大の入試は、おそらく違うだろう。だいたい、東工大の前進は、官立の工業系の専門学校である。高度経済成長期(および、それ以前)の東工大に、5教科受験型の文科系の得意な学生が集まる理由もない。

つまり、ある時期までの東工大の入試は、現在の理科大と同じような入試だろう。にもかかわらず、理科大卒の技術者の理工書が、見あたらず、東工大卒の(元大手電機メーカー勤務の)技術者の理工書が見当る。(そもそも理科大卒の学生が戦前から、就活で差別されてたのでは・・・?という疑惑すら感じているが、本件では深入りしないとしよう。)

とすると戦後の一時期、私大生が、入学時も卒業時も、国公立と同じ学力なのに、就活で差別されたのでは・・・?という疑念を感じている。

要するに、日本企業は、ろくでもない。


※ 調査中: FPGAについて[編集]

FPGAのスイッチの原理

FPGAで、必要なスイッチ数は、少なくとも交点の数だけ、スイッチ数は必要である。

たまに技術書などで、縦20×横30 に交点が並んでたら、あたかも50個(20+30個)の半導体スイッチだけで制御できるかのような図があるが、あの図はマチガイである。

少なくとも、20×30=600個の半導体スイッチが必要だ。


おそらく、20+30個のスイッチだけでどうにかなる作業は、この600個のスイッチに信号を振り分けるために、さらに20+30個ほどの(走査技術を応用した)スイッチが必要になるのであろう。この事を、FPGA入門書は混同しているのであろう。

20+30個のスイッチだけでどうにかなる作業は、走査の場合だけである。

また、回路動作中の動作確認には、600個のスイッチの確認をしなくても、50個のスイッチの確認だけで十分かもしれない。(品質検査で、抜き取り検査をするときに、わざわざ全数を検査する必要がないのと同様の理屈)


縦20×横30に並んでる格子点どうしを回路動線で結ぶ場合、どう考えても、20×30=600個のスイッチが必要になる。

さらに、その個々の格子点で機能させるデジタル回路素子として少なくともAND回路、NOT回路、OR回路の三パターンがあるから、少なくとも、600×3=1800個のスイッチが必要になる。

だから、FPGAの入門書とかに書いてある、20+30個の(縦格子数と横格子数の合計数の)スイッチだけで回路が制御できるかのように書いてある図は、ウソの図である。あんなの、初心者むけのゴマカシ図だ。

論理セルの単純化したブロック図


さらに、全加算器や半加算器やフリップフロップやルックアップテーブルなどもスイッチで対応させるのが、実際のFPGAのようである。

すると、AND、OR、NOTの3つに、これらの分4つを加えて、7パターンになり、600×7=4200のスイッチが必要になる。

どう考えても、50個(20+30個)だけでは、制御できない。

だから、入門書とかに書いてある、あの数十個の縦横のスイッチだけで制御されてるかのような図は、マチガイである。


まして、回路記述のプログラム言語のVHDLは、別にFPGA専用の言語でも何でもない。

早い話、ほかのプログラム言語を発明しても、構わないのである。(例えるならC言語のほかにも、コボルやフォートランなど、いくつものプログラム言語があるように。)

単に、回路記述のプログラム言語の分野では、VHDLやHDL以外には、ほかの言語を開発しようとする人が、いなかっただけの事である。

また、VHDLなどは、FPGA以外にも、回路図作図のCADなどにも応用してもいいのである。


FPGAの入門書によっては、あかたもVHDLがFPGA技術の根幹技術のように表現されていたりするが、ピント外れである。VHDLなどの回路プログラム言語はFPGAに必要な技術であるが、しかしFPGAの根幹技術ではない。


自動車の一部品をCATIA(キャティア)などの三次元CADで作図してるからといって、けっしてCATIAは自動車の根幹技術ではない。

FPGAの根幹技術は、あくまでも、格子点の数の数十倍にも及ぶだろう、スイッチ素子の制御を、どうやって半導体で実際に構築するか、・・・という半導体回路の技術こそが、根幹技術である。

仮説: 携帯電話の電波について[編集]

(※ そのうち、通信工学とかの教科書を書こう。)

携帯電話の電波の仕組みは、おそらく、実はローカルテレビ放送の仕組みと同じで、その地域一帯に通話内容の電波が飛びかっている。

言わば「通話放送」とでも言うような仕組みだろう。通話相手以外の電話機にも、通話内容の乗った電波そのものは届いている。

よって、原理的には盗聴が可能である。現在の携帯電話で他人の会話を盗聴できないのは、単に、携帯ハードメーカが良心的だから、そういう盗聴が不可能なOSにしている、すぎない。

また、暗号化などもしてあるだろうから、個人では解読できない。


事実、1990年頃の昔のアナログ無線では、コードレス電話などの通信が傍受できた(マンガなどで、そういうシーンを見ている)。

いまの携帯電話の原理も、デジタルとアナログの違いを除けば、あのアナログ無線と同じなんだろう。


NTTのサイトなどで、携帯電話の通話の仕組みをみると、あたかも通話相手にだけ電波が届いてるように絵が書かれているが、あの絵はウソだ。

また、通話が歩いて移動しても通話が途切れないことから、けっこう広い範囲(少なくとも数キロメートル以上の範囲)に、通話内容の乗った電波が飛びかっているのだろう。


昔のコードレス電話の想像から、なんとなく、「せいぜい数百メートルの範囲」の電波を想像してしまいがちだが、それだと、電車などに乗っていて座席で通話してても、なかなか通話がきれないのが説明がつかない。

だから、けっこう広い数十キローメートル以上の範囲で、通話内容の電波が乗った「通話放送」の電波が飛びかっている。


もともと、携帯電話の電波の仕組みは、ワンセグ放送みたいな原理なんだろう。

ワンセグは単に、「テレビ放送電波みたいに地域一帯に電波を発信してるんだったら、だったら、余った電波で、テレビ放送すればイイジャンか」という先祖返りなんだろう。


仮説メモ: 熱伝導の本質は量子ゆらぎ[編集]

分子間力は、熱伝導の原因である。

気体の分子間力と、熱伝導に、共通点がある。 分子間力、熱伝導とも、付近のものにしか、作用しない。

量子ゆらぎによる分極が、その原因である。

そして、分極をしやすくするためには、電子は陽子と結合したほうが良い。これが、この世界で、化学結合の起きる理由である。つまり、分極できない状態は、この宇宙では、不安定なのだ。単独の電子は、分極できない。もしくは、仮に電子が分極可能だとしても、その分極の効果はおそらく、測定不可能などほどに小さい。

同様に、単独の陽子は、分極できないか、分極の効果はおそらく測定不可能などほどに小さい。


この宇宙の根源は、粒子でもなく波ではなく、ゆらぎによる分極が、宇宙の根源である。

フーリエの熱伝導の公式で、フーリエ級数展開による三角関数が出てくるが、それは、ゆらぎの合成によって熱伝導が起きる事を表している。

素粒子レベルの大きさのスケールで、熱伝導のフーリエ展開公式のような現象が起きている。

気体を圧縮すると温度上昇する事が多いのも、分子間力と量子ゆらぎ分極が原因。


放射性壊変のベータ崩壊で、中性子が陽子と電子に変化することも、分極だ。

「β崩壊は、親原子核の中性子が陽子と電子に変化することで、電子が放射される現象である。 このとき、反ニュートリノとよばれる微小な粒子も同時に放出される。 なお、この電子はβ粒子とよばれる。 β崩壊後、親原子核の質量数は変化しないが、原子番号は1増加する。」
『高等学校物理/物理II/原子と原子核』


断熱変化でも、圧縮によって温度が上昇したりする理由は、古典物理では説明不可能。(大学物理の「熱力学」の教科書では、これを誤魔化している。)


ゆらぎ分極によって、静電気的にときどき反発するので、気体は反発しあおうとするが、しかし圧縮された気体では、反発しようにも逃げ場がない。なので、かわりに熱エネルギーになる。

ゆらぎによって静電ポテンシャルがときどき上昇するが、それは通常の大気では、すぐに反発してしまう。流動などによって、拡散してしまう。

しかし、圧縮気体では、流動性が低く、それが成り立たないので、静電ポテンシャルの上昇が温度の上昇に転化される。

つまり、温度の本質は、静電ポテンシャルの変化形。

温度による原子の振動方向が不規則なのも、もともと量子ゆらぎが原因なので、本質的に熱振動は不規則なのである。


原子スケールでは、振動と波動の区別は無意味。これが「量子力学では、粒子と波動の区別が無意味」という原理の帰結。

つまり、材料力学における梁の振動のように、軸方向の振動と、軸に垂直な方向の波動が、混ざっている。

そもそもシュレーディンガー方程式そのものが、梁の振動方程式との類似を指摘されている。(物理学書では、例えば裳華房などの弾性体力学の書籍に、シュレーディンガー方程式と弾性体との類似性が書かれている。)

原子スケールの波動・振動において、電子などのエネルギーを記述するのは、バネでも弦でもなく、その混合の、言わば「バネ弦」である。

「量子バネ弦」とでも仮に命名しよう。

原子において、電子軌道上の電子は振動していると同時に、波動をしており、これを電磁放射を起こさせないように合理的に成り立たせるために、波動関数の確率解釈が必要とされる。振動や波動といっても、その方向に移動するのではなく、ワープ的に適切な位置に出現しなおすのである。そもそも移動しておらずワープしてるので、なにも放射が起きない。

つまり、原子スケールでは、電子はワープする。このため、半導体の「トンネル効果」も正当化される。


そして、電子が確率的に出現したり消えたりするわけだから、相対論的な E=MC^2 の質量エネルギーが不規則に、発生したり消滅したりする。

つまり、質量エネルギーが、(まるで中間子かのように)「電子の波動」の媒介をする。つまり、「量子バネ弦」における張力的な何かとして、質量エネルギーがあり、それによって電子の波動が媒介される。なお、「量子バネ弦」は固定端でもなく自由端でもない。

「固定端」とか「自由端」という発想がそもそも古典力学的であるので、原子スケールを記述できない。

また、正確にいうと、「電子の波動」ではなく、原子核と電子のつくる双極子の「量子ゆらぎ」を、質量エネルギーが(まるで中間子のように)媒介する。

そして、双極子の「量子ゆらぎ」も、振動でもなく波動でもなく、その混合である。「量子バネ弦」の振動が、分子間力などでは双極子的な量子ゆらぎを引き起す。


難しそうに思いつきを言ったが、単に、既存の量子力学の定説を、より現代風な言い方に言い直しただけである。

つまり、市販の、大学レベルの量子力学の教科書にある説明は、歴史的な言い回しが多く、やや時代遅れな説明口調である。

「振動と波動の混合」という表現も、単に既存の「粒子でもなく波でもない」という定説を現代的に言い直しただけである。

「原子スケールでは、電子はワープ」というのも、「確率解釈」や「トンネル効果」を現代風に言い直しただけである。


私の著作権の放棄の宣言[編集]

私が今までウィキブックスおよびウィキペディアおよびウィキペディア姉妹サイト(ウィキバーシティやウィキニュースなど)で著作したコンテンツを、すべて、著作権および著作者人格権、著作隣接権など(以下、「著作権など」と略記)を法律的に可能なかぎり放棄します。また、私の今後の投稿でも同様に、私の投稿は法律的に可能なかぎり、著作権などを放棄します。

利用者ページだけでなく、一般の教科書の記事でも、私の著作した部分は、すべて、著作権などを放棄します。

より具体的に言うと、私のウィキブックスおよびウィキペディアなどでの著作物に限り、法律での著作権の保護期間50年を待たず、私の著作物は保護期間を0年として良い、という事です。

また、私の著作物をどんなに侮辱しようが、その侮辱が刑法の侮辱罪など著作権法以外の法律違反に相当しないかぎり、私への敬意は不要です。つまり、私のウィキブックスでの著作物を利用する場合、私への敬意は不要です。このような意味で、私は、ウィキブックスおよびウィキペディアなどでの著作者人格権も放棄します、という事でもあります。


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いったん CC BY-SA 3.0 ライセンス などで公開した著作物を、あとから、著作者自身が、さらに著作権をなるべく放棄してパブリックドメイン的な自由利用が可能なライセンスを宣言することは合法であろう、と私は考えます。なぜなら、私の著作物の著作者人格権は、私に所属しているからです。そして、著作者人格権は、日本の法律的では放棄できません。 CC BY-SA 3.0 ライセンス などは、頒布権など、著作隣接権に配布に関する規定でしかない、と私は考えます。

また、画像などは、その画像を制作した著作者による著作物であり、私の制作した画像でないかぎり、その画像は私の著作物ではありませんので、ご注意ください。

告発[編集]

日本企業は研究を許さない[編集]

私はwikipedia日本語版の『不確かさ』の記事を書きました。この記事内容は、私の以前の職場で受けた新人研修の頃の知識がもとになっています。産総研に部品を納入している企業に勤務していました。

この記事内容にある私の考察は、そのときの前の職場で、否定された内容が含まれています。

なぜなら、私の独自の切り口・知見があるからです。つまり、日本の研究業界は、先人の言い伝えにしたがうだけの伝統工芸です。

そもそも研究とは、先人の知見をもとに、新規に自分の知見を提案して、それを世に問って検証してもらう事だと思います。しかし、日本社会は、それを許さないのです。

なお、上司の彼らは、そもそも新人の学説を否定しているという自覚はありません。かわりに「新人を教育してあげている」という自覚があるようです。

だから、私は、研修期間の終了とともに『不確かさ』の研究を中断させられました。おそらく、「彼は『不確かさ』の研究には向いていない」と判断されたのでしょう。

日本企業が「研究」だと思っているものは、研究ではありません。

また、少しでも「今までの学説に、やや不十分な事があるのでは?」というと、その証明の負担をすべて、自分1人に押し付けられます。会社は、協力してくれません。

日本では、理論研究をするには、東大卒や京大卒などの特定の出身大学の学閥でに属してないと、理論研究をさせてもらえないようです。


コネ採用の産総研[編集]

産総研などは、一見すると、公募で研究員を募集しているかのように振る舞います。ですが、実態は違うようです。

どうやら、研究者が、東大や東工大などの特定の大学に天下り、そこの研究室の卒業生を優先的に採用するようです。

研究室の学生が、研究テーマを続けたいので、産総研などを受ける。いっぽう、産総研側は、仲間内の弟子なので、採用してあげる・・・という仕組みのようです。

科学マスコミなどでは、そういう人事の系統を、まるで師弟愛か何かのように報道されたりしますが、要するに単なるコネ採用です。

他の大学が参入しようにも、産総研の持っているノウハウのいくつかが、まだ公開されていなかったりして、自由な参入のしようがありません。さきほど私が上述した『不確かさ』の記事内容も、産総研が非公開にしていた内容です。

いっぽう、JAXAは、税金で研究をしている事もあるので、なるべく情報公開を心がけるようにしているらしく、たとえばブルーバックスで惑星探査機『はやぶさ』についての巻を見ると、JAXAやその取引先企業の研究員が、かなり細かい技術情報を公開しています。

しかし、いっぽうで産総研は、税金で研究をしているにもかかわらず、JAXAほどの情報公開をしていません。

私がWikipediaやWikibooksに書いた技術情報のいくつかは、産総研の知る技術情報であるにもかかわらず、彼らが公開していなかった情報であったり、あるいは有料の雑誌媒体などでしか公開していなかった情報を、かわりに私が無料公開したものです。


情報公開を怠る半導体産業[編集]

前の会社が、産総研関連の高度部品を生産していた事もあり、半導体製造装置などに必要な高度部品も生産していました。

産総研が情報公開をしないのと同様に、半導体企業も、情報公開をしていません。

日本の競争相手国である韓国企業や中国企業などがすでに獲得している情報であるにもかかわらず、日本の半導体産業は、情報を公開していない事が、たくさんあります。

たとえば、半導体製造装置の部品のひとつとして、マスフローコントローラという測定機器があります。wikipediaの『マスフローコントローラ』の記事は、私が書きました。私よりもよっぽど専門知識がある技術者がいるにもかかわらず、彼らはそういう情報を公開していなかったのです。

私が、機械工学などの技術情報を物理学などと絡めて書いているのも、半導体産業の実務でも機械工学の知識を使用するからです。たとえば、半導体製造装置でも、鉄鋼材料(SUS316など)は当然のごとく使用されます。ごく一部の特殊な生産装置を除けば、いちいちシリコンSiなどでは、半導体の製造装置をつくったりはしません。

そして、日本企業は、上記のような必要な情報公開を怠っているにもかかわらず、「技術者が不足している!!」などと主張しています。

不足しているのは、日本企業の人間性のほうでしょう。

また、電子回路の研究開発をするにも、その電子回路で制御しようとする対象の機械装置の知識が必要です。空圧機器を制御するための電子回路を、見させてもらったことがあります。

半導体製造装置では、油圧は汚損の原因になり厳禁なので、かわりに空圧機器を用いるようです。あらためて考えてみれば、当然ですね。もちろん大学の電気電子工学の教育では、空圧なんて習いません。

もちろん、こんなノウハウは国家秘密でもなんでもなく、韓国や中国が、とっくの昔に把握している情報です。しかし、その程度の情報ですら、日本企業は国民に対して情報公開せず、また、日本の大学教育は学生に教育をしてこなかったのです。


経歴[編集]

  • 国籍  :日本人
  • 母国語  :日本語
  • 得意分野 :主に理工学系。機械工学を中心に、物理学や応用数学などを少し学んだ。
  • 年齢  :大人

Self-introduction[編集]

My handle-name's pronunciation is "Su Ji Ni Ku - Si Tyuu"

  • Nationality  : Japan.
  • Mother tongue: Japanese.
  • A specialty  : Science and engineering .Mainly specialty is mechanical engineering, and on the other , engineering mathematics and physics just a little .
  • Age      : Adult

私の話す言語について[編集]

私は、日本語を話せます。
少しだけ、英語が話せます。
他の言葉は話せませんので、その場合は機械翻訳に頼ることになります。

For language that I speaking[編集]

I can speak Japanese.
Just a little bit, I can speak poor English.
Since I can not speak other languages​​, I will be talking in that case rely on machine translation.

「すじにくシチュー」の元の言葉の意味[編集]

牛肉のアキレス腱の部分とか横隔膜とかの部分らしいです。細かいことは知りません。

Meaning of "Sujiniku-Sityuu"[編集]

"Sujiniku" is beef sinew; fibrous beef; beef tendon. "niku" is meat. "Sityuu" is Stew.

他の活動場所[編集]

ウィキペディアでの利用者ページへのリンク、こちら。( The link of My User page in Wikipedia is next one. )

w:利用者:すじにくシチュー

作業用[編集]

教科書の執筆で使いそうな表などを、この節に置くことにした。

おもな税金
  直接税 間接税
国税  所得税
 法人税
 相続税
 消費税
 酒税
 関税
 たばこ税
地方税  住民税
固定資産税
 たばこ税  


学校生活ガイド[編集]

余計な友人・知人をつくってはいけない[編集]

教師の言う生徒みんなで仲良くしましょう」は信用してはならない[編集]

学校の教師は、生徒すべてに平等に接しなくてはならないので、「生徒みんなで仲良くしましょう」などと指導する。

しかし、不良生徒の中には、こういう風習を悪用して、悪事を行って他の生徒に嫌がらせをしても、ときどき、いじめた相手と一緒に遊んだりして、いじめをやむやにする連中も多い。

大人になるにつれて、そういう不良連中とは縁を絶っていくことになるのだが、小中学校の時点だと、学校でも集団行動をさせられる事が多いので、縁を立つのは難しい。

そもそも外見だけでは、不良だと判別がつかない場合もある。金髪や茶髪に染めてなかったりすれば、不良かどうかなんて、外見では判別不能である。


不良が、いたずらと犯罪の区別がついてない未熟な人物かのように装う場合もあります。しかし、おそらく、実際は、いたずらと犯罪の区別がついており、意図的に、未熟な人物を装っています。

また、そもそも不良本人が、自分自身が不良だと気づいてない場合もある。「髪を染めてないし、タバコをすってないし、大学進学を目指して、学校のテスト前にはテスト勉強をするので、だから自分はまじめな一般の生徒」などと、不良本人が勘違いしている場合もある。

だから、一般の生徒としては、そもそも他の生徒児童とは、最初から仲良くしないようがいい。

だから、教師の「みんなと仲良くしましょう」という指導は、そもそも間違っているのである。


なお、このような不良が小中高の学校には居るので、あまり学校に貴重な物を持って行かないのがベストである。お気に入りの○○とか、ついつい普段から持ち歩きたくなりますが、しかし、学校には持ち込まないのがベストです。あまり、大切なものは、家の外に出さないのがベストです。

大切な品物は、家庭内で使用しましょう。

お金も、運賃や食費などで必要がないかぎり、学校に持って行かないのがベストです。

高校の通学や昼食の食費などで金銭が必要な場合でも、盗まれる場合も想定して、学校には必要最小限より少し多い程度の小銭を持ちこみましょう。

そこそこ偏差値の高い高校でも、万引き事件は、よく起きます。

こういう理由もあって公立の小中学校では、普段はお金やサイフを学校に持って行かないように教師が生徒に指導するのも、当然です。

カネを盗む生徒がいるんですよ、残念ながら。


不良とは別の、困った生徒[編集]

不良とは別ですが、すぐに怒ったり、あるいは、不愉快なことがあると、相手を殴ったり、爪で引っ掻いてきたり、平手で叩いてきたりする生徒もいます。 被害者が女子の場合は、加害者が女子の髪を引っ張ってきたり、・・・などです。

小中高では、こういう未熟な生徒でも、そこそこ成績が良かったりして、優等生だったりします。


他人を殴ったりする生徒は、かならずしも体格が大きいとは限らず、逆に体格が小さい子供でも「自分は小さいから、相手が殴り返した場合のヤリすぎを恐れて、仕返しをしてこない」だろうと考えて、気軽に殴ってくる場合もあります。

一見すると、誰がこういう未熟な生徒だか、すぐには分からないので、いっそのこと、最初から、あまり同級生の相手をしないのがベストです。

また、こういうことをやられた場合、けっして生徒どうしで解決しようとせず、さっさと自分の親に相談し、そして、親から教師や相手の親に交渉させましょう。

一見、軽度のいじめは、生徒どうしで解決したほうが早そうですが、実態は違います。

なぜなら、他の一般の生徒は、トラブルに巻き込まれたくないので、大人の介入のないかぎり、放置します。

なので、さっさと親に相談しましょう。


教師はことを荒立てたがらずに不良を罰しないので、最悪、弁護士に相談を[編集]

もし不良や暴力的な生徒に、とてつもない嫌がらせをされた場合、教師に相談するのではなく、自分の親に相談しましょう。被害が思すぎる場合は、親を通して、場合によっては弁護士に相談してもらいましょう。そして弁護士を通して警察に刑事事件として持ち込ませると、圧力を掛けるのが良い。

もちろん、これは最終手段です。

ですが、弁護士や警察に持ち込むほどではなくても、さっさと親に相談して、警察などへの持ち込みの圧力をかけつつ、保護者どうしで解決させるのが、ベストです。

不良たちは「親や教師に相談するなんて、卑怯だ」などと意味不明な理屈を主張したりしますが、卑怯なのはどう考えても、不良や暴力生徒です。

また、不良からの仕返しや報復を恐れる必要はありません。親に相談するのが、もっとも仕返しの少ない方法です。仮に仕返しをされても、ほぼ確実に、親が警察や弁護士などに相談し、確実に刑事事件化して、加害者が刑罰を受けるので、安心してください。

ある程度以上、不良からの嫌がらせが酷い場合は、それを相談せずに当事者どうしで解決しようとする事こそ、もっとも危険です。


親は生徒どうしの事情を知らないので、他の生徒の協力が必要な場合もありますが、その場合も、やはり、けっして生徒どうしで解決しようとするのではなく、親を通すの確実です。

(前の節でも述べたように)、他の一般生徒は、トラブルに巻き込まれたくないので、大人の介入のないかぎり、生徒間のいじめ・暴力などの問題を放置します。

そもそも、他の一般生徒は警察はないので、そのような生徒間の問題を解決する義理もありません。

なので、まわりの一般生徒の介入を待つのではなく、さっさと親に相談してください。


また、不良には、学業をサボったりするので時間が豊富にある一方で、被害者側のマジメな一般生徒は学業などで忙しく、不良との対応を考える時間などは時間がない。


私も、大人になった今から思えば、不良などの相手で困った場合、親に相談した場合が、もっとも解決が早かった。


ちなみに弁護士の相談料は、1時間あたり数万円である。相談するだけなら、あまり高くない。 また、地元の弁護士を探すには、市役所などに行けば、役所の職員から付近の弁護士事務所の場所を教えてもらえる。 もっとも、弁護士への相談は、最終手段である。

まず、親に相談すべきである。

なお、親の中にも、頭のわるくて「不良とも、生徒みんなで仲良くしましょう」とか思ってるバカな大人がいるので、その場合は、その親がバカだということを自覚させるために、たとえば、私のこの文章を読ませましょう。


塾でも、困った不良はいる[編集]

塾とかにも、そういう困った不良じみた塾生がいる場合があります。ほかの塾生を重いっきり痛くツネッたり(「殴らなければ、問題にならない」とか考えてるようだ)、侮辱してきたりする人も、塾生に居る場合があります。(私の実体験です。)

これまた、塾講師に相談しても、無駄な場合がある。加害者の塾生も被害者の塾生も、両者とも塾生だから、塾講師は、ことを荒立てたがらず「二人とも仲良くしなさい」などと言ったりする場合もある。

塾講師がこういう「二人とも仲良くしなさい」などという場合、親に相談して、自分が、その塾をやめましょう。(私は親に、こういう困った塾生に嫌がらせをされてる、・・・と相談したら、その塾をやめさせて貰えた。) かわりの別の塾なんて、いくらでも、あります。


学校のクラスメイトなどに万引きの見張りをさせる不良[編集]

不良が仲間を増やす手口として、「万引きの見張りをさせる」というのがある。

万引きとは別の理由で遊びに誘って、そして「買い物をしよう」などと店に入って、その遊びの先でいきなり万引きを初めて、その見張りをさせるわけだ。(なお私は、中学時代、同級生にコレをやられた。)

一般人は同級生から「放課後に遊びに行こう」と誘われたら、「むやみに断るわけにはいかない。」と思うし、遊びの外出先で、いきなり目前で万引きを始めたら、「ことを荒立てなくない」と思うのが一般的な子供の発想だから、見張りに加担してしまう、・・・というワケだ。

・・・で、こういう不良連中でも、そこそこの偏差値の高校に合格できてしまうワケですよ。

・・・で、こういう不良連中でも、部活動とかに熱心だったりするわけですよ。結局、部活動では、人間性なんて治らないんです。


江戸時代の「鎖国」についての私の意見[編集]

次期学習指導要領から『鎖国』の表記が消えるらしい。

まあ、指導要領から消えても、教科書から消えるとは限らない。だが、あまりにもネットの世間の意見が低レベルだと感じるので、いろいろと自分の思う意見を書いておこう。


  • 「貿易をしてたから『鎖国』ではない」という意見。

→ 昔から誰も「江戸時代の日本は、いっさい貿易してない」なんて言ってない。昭和の昔からの学校教育ですでに、江戸時代の日本はオランダや中国とも貿易をしていた事を教わっている。だいたい、北朝鮮ですら貿易をしてるが、どうみても北朝鮮を『開国的』とは言えないだろう。

学力のひくいバカなヤツが、勝手に『鎖国』という言葉を「日本はどこの国とも貿易してない」(×)と誤解して、「その誤解を解くために用語を変えろ」と言ってる。変えるべきは用語ではない。用語の意味を誤解をしている人に、「あなた、用語の意味を間違って覚えてますよ」と指摘する事のほうが必要だろう。

また、「一部の国と貿易してたという例外があるから『鎖国』『閉国』ではない」なんて言い出したら、法学の概念や法律なんて、例外があるから、法学用語が全滅するんだが。

史学会の日本史部門は、いろいろと頭が悪そうである。なるほど、歴史学ではなく法学が、日本では文科系のエリート学問なわけだ。

そもそも、『鎖国』という表記は『貿易』だけを指すのではない。日本からの漂流民が海外に流れ着いても、日本に帰国したら帰国民が処罰されたり、そういう実態もふくめて、『鎖国』などと呼んでいるのである。ジョン万次郎とかを、どう教えるつもりか。


  • 江戸幕府の公式な制度としての『鎖国』はない、という意見。

→ 北朝鮮だって公式には「民主主義」だし(朝鮮「民主主義」人民共和国)、中国の「人民解放軍」はチベット・ウイグルへの侵略軍ではなくなるし、中国の「自治区」では自治を許されてる事になる。どうやら日本の史学会と文部省の歴史教育の担当部署は、思考回路が中国・北朝鮮レベルらしい。


  • 江戸時代の当時、『鎖国』という用語は使ってなかったので、教科書から消すべきという意見。

→ 「藩」という用語は廃藩置県のときに出来た、と言われてるんですが? 『江戸幕府』という用語自体、滅んだ鎌倉幕府や室町幕府を連想させるため、江戸幕府は自分たちの政権を呼ぶのに『幕府』という用語を使わせなかった、と言われてるんだが? そもそも『日本』という用語自体、縄文時代には存在しなかったと思われる。

社会科にかぎらず、他の教科でも、たとえば英語教育でも、「主語」syugo という英単語はないし、「動詞」dousi という英単語もないが、しかし「主語」や「動詞」という用語を英語の授業でも教えてるだろう。

  • 『鎖国』という用語が「開国すべき」という幕末ごろからの幕府への批判的な価値判断を含むから良くない、という意見。 

→ 宇宙論の『ビッグバン』という用語は、当初は批判的な意味で用いられたんだが? 由来が批判的な用法だろうが、実態を反映していると思えば後世の研究者はその用語を使えばいいし、反映してないと思えば使わなければいよいだけだ。いろいろと教養の足りなさそうな意見である。

結局、『開国』という表記は残すらしい。では、それまでの日本は『閉国』だったわけで、やはり『鎖国』という表現が的を得ている事になるではないか。

勉強時間を増やしただけの受験勝者なだけの教育インチキ評論家たち[編集]

世間の教育インチキ評論家の中には、単に受験競争で、名門の大学に合格して進学しただけの受験競争の「勝者」なだけなのに、受験ノウハウに詳しいと勘違いしている人も多いし、教育情報に詳しいと勘違いしてる人も多い。

スポーツの名選手と名監督が別々の才能なように、他人に教わった受験ノウハウを実践できる事と、受験ノウハウに詳しい事とは、別々である。

極端な例をあげれば、毎日朝から晩まで受験勉強だけをしていて受験以外の勉強をしてない人は、受験の成績は良いだろが、べつに受験ノウハウには詳しくない。(べつに道徳的に「受験勉強しかしてないのはケシカラン」と言ってるわけではない。そうでなくて、そもそも、受験ノウハウを知ってるのは、その受験生を指導している親や教師や塾講師といった大人たちであり、子ども本人は、受験ノウハウに詳しくない、・・・と言いたいワケである。)

そもそも、「受験や教育にくわしい人」というのは、どういう人であるのかというと、本来は、少ない指導時間でも、生徒を志望校に合格させられるなどのような、短時間で大きな教育効果を出せる人の事である。つまり、時間あたりの教育効果の大きな指導者の事であり、けっして、多めの指導時間により平均的な指導効果の出せる人のことではない。

部活動や委員会活動をしていれば、そのぶん、受験勉強の時間は減ってしまう。音楽や美術などの練習をしていても、受験勉強の5教科の勉強時間は減ってしまう。なので、少ない指導時間で、大きな教育効果を出せる指導者こそが、必要なのである。

しかし、困った事に、世間のバカな一般大衆たちは、受験勝者と受験ノウハウ指導者を、混同しているのである。

なので、世間の連中は、受験ノウハウの勉強のさいに、やれ「弁護士」だとか、やれ「医師」だとかの主張する、つまり、(世間の馬鹿でも資格名を知っている)難関資格合格者の主張する勉強をありがたがる。べつに受験指導を商売にしている人でない人達の勉強法を、世間の連中は、ありがたがるのである。

このような「勉強時間を増やしただけの受験勝者なだけの教育インチキ評論家」は、少なくとも教育評論の分野においては、「インチキ評論家」「デタラメ評論家」である。

そもそも弁護士も医師も、あまり数学や物理といった基礎科学には詳しくない。語学だって、べつに通訳でもなければ翻訳家でもない。


さて、このような「勉強時間を増やしただけの受験勝者なだけの教育インチキ評論家」は、受験の成績と、学校での成績が別物だという事を、知らなかったりする。

まず、小中高の学校での成績と、受験での成績は違う場合が多い。なぜなら、定期テストと受験では出題範囲が違うし、また、学校で使ってる検定教科書が学校ごとに違う。なので、学校の定期試験では、数学ですら問題ごと丸暗記をしたりする人が、高得点を取ってしまたりする事態も発生する。(もちろん、入試では、そのような数学の問題丸暗記は破綻する。)


さて、もし、テスト勉強以外の事を勉強してなければ、中学2年生おわりまで、あるいは高校2年生のおわりまで、学校のテスト勉強ばかりをしていても、高校3年からの受験勉強で、学校テスト対策と受験を、そこそこ両立できてしまうからだ。だから進学校などでは、受験以外の生徒会とか学級委員とかのメンドウな仕事を、他の生徒に押し付けあうという事態すら、発生する。

もしくは、たとえ現役では受験不合格でも、浪人すれば、そこそこの学校に合格できてしまう。

また、受験勝者なだけで教育には詳しくない評論家の特徴として、小中高の教育内容を鵜呑みにする。

実際には、小学校だと、理系教科が専門でない教員が、算数や理科を教えてたりする。なので、小学校教員の指導内容を鵜呑みにしてるようだと、ハッキリいって才能がないのだが、しかし、そんな無才能の生徒でも、小学校テストでは高得点をとれる。というか、そもそも採点してる教員たちが無才能なので、教員と同様に無才能な生徒のほうが、高得点を取りやすい。

そもそも、検定教科書作成の時点で、教育学者などの意見が強く反映されている。問題なのは、この教育学の理論の、信憑性だ。

今は批判されてる「ゆとり教育」ですら、かつては教育学では、称賛されてたのである。

また、現在の小学校の算数の授業では、「かけ算の順序」というのがあって、多くの数学者が反対してるにもかかわらず、そのような授業が行われている。


そして困った事に、現在の小中学校では、テストの成績だけでなく、教師の主観的な評価が、成績評価の基準のひとつにもなっている。つまり、ある生徒が、どんなに定期試験の成績が良くても、もしその生徒が教師からのウケが悪ければ、そのぶん成績を低くされる可能性もある。

しかし、「勉強時間を増やしただけの受験勝者なだけの教育インチキ評論家」というのは、学生時代は、教員の言う通りの勉強だけをしていたりするので(そして、学校で習わない事は、ろくに勉強しない)、教師からのウケは良いのである。

逆に私の場合、学習塾などで学校で習わない事も習ってたり、高校からは自分でいろいろと勉強してたから、そうすると、教師からのウケは悪いのである。

2017年の今でこそ、世間の教師たちは、「学校の成績がわるくても、受験の成績がいい生徒もいる」というのを、さすがに把握してるが、しかし、90年代までは、彼ら教師たちは、そういうのを全く把握してなかったのである。「中学高校の授業での指導範囲が、入試とズレてる」というのを、そもそも教師たちが把握してなかった時代があった。

そしてさらに困った事に、中学では「内申点」というのが存在していて、学校での成績がわるいと公立高校入試に不利になり、さらに、その成績には教師からのウケが含まれていたりする。

また、さらに、入試では要求されないような細かい知識が定期テストに出たりする。最近、調べていて分かったのだが、どうも、近年の入試は、あまり暗記を問わないらしい。

それでも、「入試では要求されないような細かい知識が定期テストに出たりする」は、今ではマシになった。昔は、もっと酷かったのである。

2017年の今でこそ、理科や社会科の教育内容が、だいぶ理屈っぽくなったので、マシになった。2010年以降、教育では暗記の比重が減ってきている。しかし、90年代の中学高校は違ったのである。90年代、中学高校の社会科などでは、年号の順序を暗記させられたのである。高校の公民科目だと、法律の内容よりも、法律の名前を漢字で書くことを暗記させられたのである。公民ならまだマシで、地理だと、たとえば中国語の細かい地理用語を、漢字でかくことを要求させられた。たとえば「黒孩子」(ヘイハイズ)とかの暗記を。社会科では、今の検定教科書では、出てこない単語を、いろいろと暗記させられた。

理科でも、いろんな単語を暗記させられた記憶がある。そこそこ生物の成績のよいクラスメイトでも、授業で教師にさされて、ちょっとでも理屈っぽい問題を答えるように聞かれると、答えられない。

どうやら、「生物」ってのを、その(理屈っぽい問題を答えられなかった)生徒は、暗記する科目だと思ってるらしい。事実、当時の「生物」は、今とは違うのだ。同様の現象は、「化学」でもある。


べつに、当時の中学高校の教員を恨むつもりはない。その時代は、子どもの数が多く、受験競争がきびしく、そのため大学入試がクソな内容だったのである。

もちろん90年代でも、理屈っぽい出題だって定期テストでは出されたが、しかし、そもそもの教科書じたいが理屈にあまり深入りしてないので、大した深い理屈は出題できず、なのでテストに出題しても、あまり点差があまり付かない。必然的に、定期テストでは、暗記の比重が増える。

で、「勉強時間を増やしただけの受験勝者の教育インチキ評論家」ってのは、こういうのを、知らないんですよ。なぜなら、そもそも彼らは、昔の時代の、暗記力ばかりを問うテストで高得点をとってきた人たちだから。

公民科目なら、今の中学公民の経済分野の内容のいくつかは、むかしは、高校の政治経済の内容でした。たとえば銀行がそもそも何を商売にしてるかといった、銀行の仕組みなんて、今でこそ中学でも教えてるが、昔は中学では習ってません。

その実例として、私は高校時代、学習塾のやや英語の成績のよいクラスに通ってましたが、その塾でのクラスメイトの高校生は、塾講師から、ひょんな話題で銀行の仕組みを聞かれたとき「習ってない」と塾生は答えました。私自身も、中学校では、銀行について、それほど習った記憶がありません。


小中高の学校での成績なんて、信用に値しない。信用に値するのは、入試の成績である。

それも、理系の私立大学の入試のような、進学後の勉強に直結する入試科目を出している、一部の大学での、入試の成績である。

いっぽう、たとえば経済学部なのに入試に「政治経済」も「数学2B」も出してない大学の入試なんて、信用に値しないのである。


また、センター試験の文系科目は、進学後に必要な最低限の学力とは大きくズレている。理系受験生にとっては、センター文系科目は、過大な負担である。90年代当時、私の同級生で、英検2級とか準1級とかを持ってる受験生ですら、自己採点で惨憺たる成績だったと、私は聞いた。私のセンター受験の記憶の場合、とにかく試験時間が足りないと感じた。センターの数学・英語は、とにかく短時間に大量の問題を解かせるので、時間がたりない。はたしてこれで、英文の読解力を測れてるのだろうか。

現状の教育制度では、「学力」として信用できる成績とは、一部の学校の入試の成績だけであり、しかも基礎学力を測れる成績として信用できるのは、高校入試の成績と、理系大学の入試だけが信用できるのである。また、特定の学科を志望するものに必要な専門知識として信頼できる入試は、現状では、国立大学の二次試験の成績と、あとはマーチニッコマあたりの平均的な私大の入試の成績だけが信用に値するのであろう。(早稲田の入試は、もはや難問コンテストのクイズ芸人養成所なので、論外。)

ところが、国立大学は、そもそもセンター試験で足切りされてしまう。なので、多くの受験生は、その試験を受験できないし、試験の難度も、専門外の学生には合ってない。

そして、せっかくマーチニッコマに一般入試で合格しても、推薦入試とかで入ってきた学生にあわせた授業をされるのである。たとえ平均レベルの偏差値の大学でも、そこに一般入試で合格しようと思ったら、けっこうムズカシイ。

そもそも、たとえ、ある大学の入試偏差値が低くても、かならずしも、その大学への「合格のしやすさ」を意味しない。

なぜなら、偏差値の高さと、要求あれる学力水準の高さとは、違うのである。たとえば入試必須科目が増えると、受験生が敬遠して倍率が低くなるので、偏差値も低くなる場合も多い。また、模試の種類によっては、理系の私立大学だと、文系大学と較べて、倍率が低い場合もある。例えば四工大は、あまり偏差値が高くないような記憶がある。

しかし、困ったことに、世間の教育インチキ評論家と、そのインチキ評論家の支持者は、その事実を知らない、「偏差値の高さと、学力水準の高さ、違う」という事を知らない。


困ったことに、小学校に入学してから高校入試までの9年間、ずっと成績が信用に値しない教育が、行われ続ける。その高校入試ですら、バカ政治家の考えた「内申点」という制度で、信用に値しない学内成績で、入試が不利になってしまう。


また、90年代の昔は、受験生サイドが自発的に受験教科を増やそうとして高校で科目を多く履修しようとも、高校側が対応してくれない時代があった。 私は、生物IIを履修できなかった。高校側の規則で、物理IIと化学IIを履修するものは、生物IIを履修できないのである。独学しようにも、現代とは違って、適した参考書が少ない。

生物IIの検定教科書の注文なんて、当時高校生だった私には分からないし、仮に教科書を注文で買ったところで、どういうペースで勉強してもいいかも分からない。つまり、wikibooksで教科書を書いた、私の生物IIの知識は、すべて独学である。

べつに90年代当時の高校の教員を恨むつもりはない。その時代は、大学側が、そういうふうに受験生に勉強させてたのである。

当時、塾に相談したが、無駄だった。「学校側が、私の受験以外の数学・物理・化学以外を、ほとんど教育してくれない制度なので、塾で国語や社会科も教わりたい」と塾に相談したら、私は塾講師から批判された。

で、2017年現在の「高学歴」といわれてる教育評論家ってのはね、こういうクソな教育を受けてきた中での、当時のクソな教育を鵜呑みにしてきた連中という意味での「高学歴」(笑)な連中なんでしょうよ。

団塊ジュニア世代ってのは、こういう連中だ。「就職氷河期世代」などと被害者ヅラして、大学を卒業したけど就職できない、などと被害者ヅラしてるけど、・・・ウソつき。 私は知ってるぞ、お前ら大卒ヅラする団塊ジュニア世代の大卒は、高校時代、高校2年で数学や理科を放棄したりして、ろくに勉強してなかった事を。私の出身高校では、学年で物理IIを履修したのは10人ほどで、そのうち半分はヤンキーみたいな連中で、残りの5人ほどだけが理系の物理受験志望だった。それも、高校生が多かった時代での話でだ。1クラス40人ちかい学級が8クラスぐらいあった時代でのハナシでだ。

文系受験生の文系科目の履修や勉強ですら、たとえば経済学部志望ですら政治経済もろくに勉強せずに(当時は経済学に数学が必要だということが、まだ高校生ん周知されてなかった)、日本史1教科受験だとか世界史1教科受験だとか、そういうので受験しようとしてた連中も当時は多かったことを。(※ 私は文系受験はしてないので以下は想像だが、政治経済は普通は3年で習うので、2年の段階で入試科目を限定しようとすると、地理や日本史とか世界史に限定することになるのか?)

証明丸暗記の物理学者・数学者は無能である[編集]

数学者や物理学者・化学者の中には、証明を丸暗記してるだけのバカも多い。

「大学に入ると公式暗記だけでは通用しないぞ!」などと、この手のバカ学者は忠告(笑)するが、実態は、この手のバカ学者どもは暗記対象が「公式」から「証明」に変わっただけである。

イプシロンデルタ論法を論理構成を鵜呑みにして丸暗記してるだけのバカなのに「解析学を理解している!!」と思ってるバカも多い。

物理学者も同様で、たとえば熱力学などでは「第一法則」や「第二法則」などにもとづく論法を暗記しただけのバカなのに「古典熱力学を理解している!」と思ってるバカも多い。

困ったことに日本では既に、この手の証明丸暗記バカの学者どもが、大学教授などになっている。そのせいで、中学高校の教育が影響を受けてしまう。

さらに困ったことに日本では、この手の証明丸暗記バカどもの学会(日本数学会、物理学会)どもの修める科目が、高校の普通科の理科や数学に大きな影響を与える。

ニュートンが微分積分や物理を研究してた時代は、そもそも「微分積分という手法なんぞ、証明ではない!証明に値しない!!」と知識人どもからは思われてたのである。

カルノーサイクルで有名なカルノーが熱力学を研究していた当時、そもそも熱力学は物理科目だと見なされてなかったのである。

つまり、真の理学は、そもそも科目そのものを産み出すのである。だから21世紀の現在、「微分積分」や「熱力学」などの科目がある。しかし日本の教育制度では、既存の科目を絶対視し、既存科目への批判を許さない教育制度である。

だから現代日本の理学者は、偽物だ。

数学や物理学と比べれば、生物学や化学などの応用的だろう。生物学や化学などの応用的な学問の前提になる数学・物理を検証したり、必要に応じて数学・物理の科目構成を修正するのも、数学・物理学のすべき研究であろう。

しかし日本では、数学教育や物理学教育を修正してはならないのである。まるで憲法のような扱いだ。

さて、北朝鮮は「民主主義」「人民」「共和国」という名の下に、民主的でない独裁政治を行っている。

日本の大学の理学も、「理学」という名の下に、教育産業のイデオロギーと既得権益を守る教育をしているだけである。

よく、憲法学会が、イデオロギー集団などと反対派から批判されるが、日本の理学も同じである。


昔の人は、そういう教育制度そのものの矛盾が分かっていたから、旧司法試験のように試験にさえ受かればエリートになれる門戸を開いてたのであろう。

大学教育の、今はなき教養部も、専門科目を絶対視せず検証する視点を養うための教育制度だったのだろう。

アメリカとかが、大学院ロースクールや大学院メディカル・スクールのように、学部では教養科目を重視していて、大学院に入ってから専門教育をしだすのも、同様の理由だろう。


アメリカの教育は、教科書が分厚いだけでレベルが低い。だが日本の教育も、レベルの低さの方向性が違うだけであり、日本もレベルが低い。

しかも、アメリカも日本も両者とも、「自分たちの教育はレベルが高い!!」と思ってやがるバカである。

アメ公は、「こんなに分厚い教科書を読める僕たち、すごいもん!!」とか勘違いしてるバカどもだ。

ジャップ公は、大学受験の時点なら「こんなに難しい試験問題を解ける僕たち、すごいもん!!」とか勘違いしてるバカだし、大学入学後の教育でも「こんなに難しい証明問題を解ける僕たち、すごいもん!!」とか勘違いしてるバカどもだ。

日本の大学教育は、試験問題の種類が大学入学後に証明問題などに変わっただけで、結局、試験の解法だけを鵜呑み・丸暗記してるだけの低レベルな教育なのだろう。

西暦2006年の上場企業の採用試験の英語問題についての体験報告[編集]

私は西暦2006年、就職活動をした。

その時、いくつかの上場企業(製造業、電機系メーカー)の1次試験あたりで採用試験のひとつとして、英語の筆記試験があったのだが、これが全く難しく、私には解けなかった。

さて、ここまでなら、「私が単に英語が苦手なだけ」となる。しかし、いちいちwikibooksのこのページを読んでる読者なら分かるように、私はいちおう、wikibooksで中学英語の教科書を書けるくらいには英語力がある。大学入試でも、いちおう、現役高校生のときに、芝浦工大(たしか電気工学科を受験)に補欠合格し、法政大(工学部の電気電子工学科)に合格し、東京電機大学(たしか当時は工学部の電気工学科を受験したか)に合格できるくらいの、英語力はある。

さらに、出身高校ですら、獨協大学の附属高校である。

すると、大企業の採用試験の英語について、ひとつの推測が上がってくる。

「そもそも、これらの大企業は、採用試験で、志望生に解かせる気のない英語問題を出題してるのではないか? 高校必修英語や大学入試の英語からは、大幅にズレた内容の英語を出題してるのでは?」という推測である。

仮にそうだとして、それが良いか悪いかは、ここwikibooks利用者ページでは問わないとしよう。しかし、このような大企業の採用試験の英語科目が、日本全国の中学高校での英語教育に影響を与えては困るので、ここwikibooks利用者ページにて報告しておくとする。


日本の大学は職業訓練校である。研究者育成の機関ではない。[編集]

日本の大学は、実質的には、偏差値が高いだけの職業訓練校・専門学校である。研究者を育成する機関としては、大学は非効率である。大学に既にいる研究者は、おそらく大学が研究者として育てたのではなく、本人の実力で研究者になったのであろう。

大学には設備があるので「研究機関」かもしれないが、しかし「研究者育成の機関」ではない。

理系も文系も、大学は実質的に、専門学校である。専門学校のカリキュラムに、専門科目の理論の座学と、「教養科目」という名称の数学・理科・社会・英語を追加しただけである。

大学は、研究をするには、現行の大学制度では、無駄・邪魔・不都合な作業が多い。

例えば大学の定期試験においては、やたらと小難しい難問・奇門の出題をされるが、最たる例である。

その業界のプロでも、問題を解くのに手間が掛かったりする難問を、出題する大学が多い。 少なくとも工学部ではそうだ。おそらく、商学部や法学部などでも同様だろう。


そもそも技術や理論とは、小難しかったり手間の掛かる作業を単純化するための工夫の事である。なので、やたらと難しすぎる知識体系は、そもそもレベルが低い体系なのである。

医学とかで例えれば分かるだろう。たとえば仮に、外科医が外科手術でメスをふるうさいに、患者を10cm切る際に毎回、微分方程式をとく必要のある外科医がいたら、そいつは単なる無能である。

つまり実務において、実務で使用しない余計な技能・知識などは、排除・淘汰する必要がある。

しかし、大学教員は、実務からのズレを反省するどころか、無能教員じしんは、「学生を鍛えてあげてる。論理的思考を身につけさせてやってる。使い物になるように、甘やかさずに鍛えてやってる」とか勘違いしているので、タチが悪い。


しかも困った事に一般大衆の多くは、発想が小中学校のカリキュラムで止まってるので、「学校の教員=学生よりも物知り」、「多くの知識があり、特技が多い生徒 = 優秀」「難しい知識体系 = 高度な理論」と思ってる馬鹿が多いのである。

しかも大学は、その「やたらと小難しい難問」を出すために、定期試験のその科目の試験範囲を狭める。

たとえば機械工学なら、理想的には高校の教科書とかを使って、さっさと1年間くらいで、高校みたいに簡単な内容を選んで「機械要素」も「材料力学」も「流れ学」も「機械要素」も教えればいいのに、しかし大学はそういう事をしない。

大学の「機械要素」の科目では、機械要素の解説だけしか書いてない教科書を使って、しかし高校では習わない、やたらと難しい事を教えたりする。

同様に、大学の「材料力学」の教科書なら、材料力学の解説だけしか書いてない教科書を使って、高校では習わない、やたらと難しい事を教えたりする。

このように、大学の授業は、縦割りである。おそらく大学教員たちにとっては、このように縦割りにしたほうが、業績の自己アピールをしやすいのだろう。

こういう縦割りでマニアックな重箱の隅をつつくような知識を出題するだけの大学のくせに、しかし大学教員は反省するどころか、「我々、大学教員は、学生の分析力を鍛えてあげてる」とか勘違いしているので、タチが悪い。


しかも、やたらと難しい問題が出るわりには、証明は不正確であったりする。そもそも数学者などは、機械工学のさまざまな「定理」を、数学的な定理だとは認めていない(電気工学も、ほど同様)。しかし、そのような「定理」が、数学的には価値の保証されてない「定理」が、大学の機械工学科の定期試験には出題されるのである。

要するに大学は、大学の既得権益を守るために、縦割りの世界に篭もり、世界を閉ざしているのだ。


電気工学も同様である。

大学の「電気回路」科目は、電気回路の事しか教えない。大学の「電磁気学」は、電磁気学の事しか教えない。また、化学のイオン傾向とかの話題は、とうぜん「電気回路」や「電磁気学」では教えない。電気回路と電磁気学と電気化学がどう結びつくかは、大学では教えられないのである。

工業高校ですら、「電機基礎」科目で、電気回路と電機磁気学と電気化学をまとめて教えてるのにさ。

しかも、それぞれの科目で、やたらと小難しい事を教える。もちろん、プロの電気技術者が仕事では使わない問題の解法の知識を、やたらと大学では教えて、それをテストで出題するのである。たとえば「テブナンの定理」とか、電磁気学のさまざまな微分方程式とか、仕事では、まず使わない。しかし、そういう仕事で使わない分野ばかり、定期試験では出題されるのであり、それらの問題を短時間で大量に解くような出題をされるのである。


教養課程の数学や物理も、似たようなもんである。

たとえば数学なら、線形代数なら、固有値や固有ベクトルの話題を扱う単元なら、高校みたいに2次元の範囲に限定して、さっさと固有値や固有ベクトルなどを教えればよいものの、大学はそういう事をせず、まず一般のn次元の行列における固有ベクトルを教えたりするだろう。

微分積分でも、大学は、めったに使わない単元を教えるために、微分方程式などを後回しにしたりするわけだ。高校の参考書ですら常微分方程式をあつかっているのにさ。(まあ、「物理数学」などの科目で、微分方程式を入学当初の早めに教える場合もあるが。)

文系の学部でも、専門科目は同様だろう。たとえば法学部で民事法を教え始める時は、民法総則ばかりをやたらと教えたりしてるんだろう。しかも、民法総則の細かい知識ばかりを教えてると予想。

商業高校の「経済活動と法」科目ですら、民法と商法と会社法と民事執行法とを1科目で教えてるというのにさ。


こういう実態こそが、大学が研究機関ではなく、職業訓練校・専門学校である事の、最たる例である。

「縦割り」というのは、研究ではないし、そもそも「理解」ですらない。そもそも「理解」とは一般に、知識を脳内で「横割り」にする事である。たとえば、高校の世界史を学ぶと、中学では別々に覚えていた西洋史の知識と、東洋史の知識が、結びついたりするだろう。

こういう、知識と知識の、横どうしの結びつきこそが、理解である。

そもそも縦割りの知識を覚えるだけなら、コンピューターでも出来る。情報を複製するだけなら、コピー機のほうが優秀である。


また、知識は現実と照らしあわせることで、初めて応用力を持つ。そして現実と照らしあわせるには、横割りの知識体系である必要がある。なぜなら現実は、いちいち縦割りに知識を紹介してくれない。

たとえば現実で詐欺などに巻きまれそうなとき、詐欺は民法と刑法で規定されてるが、現実でいちいち親切な誰かが「あなたは民法は知ってても、刑法が苦手だから、わたしがあなたのかわりに刑法部分の対策を考えてあげますよ」とかなんて、無料では誰も協力してくれない。

このように、現実社会では、縦割りの知識に、合わせてくれない。

だから、初学者はまず、全体像を、学ぶ必要がある。

しかし大学では、全体像をなかなか教えないのである。大学の1年生の科目で「機械工学入門」とか「電気工学入門」とかの科目が、2単位(半年の授業1コマ)で、ある場合もあるが、内容はぜんぜん、全体像を教えていない。


工学部の場合、いちおう大学に4年生(または院・修士課程まで含めて6年間)まで通えば、ひととおり、その学科(機械工学科、電気工学科など)の全体像を教わる。だが、工業高校や職業高校では、全体像を、高校卒業までの18歳までに、とっくに教えてるのである。

要するに、大学教育は「抱き合わせ商法」を教育産業で行ってるのである。さっさと全体像を教わりたい(マトモな)学生に対し、大学側は、一部の研究者しか使わない専門知識を抱き合わせて販売してるのだ。悪質商法である。

80年台のファミコン業界のドラクエ3のブームのころ、ちまたのゲームショップが、売れ残り品のゲームと、ドラクエ3を抱き合わせて販売してたっていう出来事がニュースで報道されてたのだが、大学も同様である。学者どもの売れ残りの知識を、抱き合わせて販売してるのだ。


そもそも「機械工学入門」とか「電気工学入門」とかの科目のオカシイのは、ある学問の全体像を、半年の授業1コマだけで教えようという(大学の)発想が、もう既にオカシイ。

ある科目の全体像を教えるとは、さきほどの高校世界史のように、年月を掛けて(中学でも世界史を教えていて、高校2年で世界史を教えて、さらに高校3年の受験科目で世界史を学んだり、浪人中に世界史を学んだり・・・)、全体像を教える必要がある。

また、「100点満点中、60点以上を取れ」という大学の要求が、もうオカシイ。まず、高校では進級基準は普通は「30点(または40点)以上」であるのが一般的である。

高校の場合、小学校とは違って、すべての科目で高得点を取るのはむずかしい。高校は、小学校とは違って専門的な話題も多いし、入試対策のために難問もいくつか出すし、学習内容も多いし、なので、「30点以上を取れれば進級オーケー」としてるわけだ。

もちろん、あくまで進級だけなら「30点以上でオーケー」に過ぎず、進学したい場合は、入試までに高得点を取れるようにする必要がある。しかし、それは入試までに高得点を取れるようにすれば充分なのであり、べつに授業で習った1か月後とかに高得点を取れるようにする必要はない。

しかし、大学では、高校よりも、より専門的な話題(大学では、そもそも科目自体が「専門科目」)、より学習内容が多い、より難問を出すにもかかわらず,「30点以上オーケー」ではなく「60点以上オーケー」である。しかも、授業で習った1か月後くらいに、高得点を取れるように、要求されるのである。

しかし、本来、たったの1か月では、理論なんて、理解なんて出来ないのである。高校世界史を思いだせば分かるだろう。世界史教育のように、小中高と何年も年月をかけて教えて、やっと知識と知識が結びつくのである。

しかし大学では、たった1か月で、いろいろと難問を解かされるわけであり、明らかに大学は学生に理解なんてさせていない。()入学後、さいしょの中間試験まで、たった1か月ていどである。)(そもそも数日で理解できる知識なら、そもそも大学で学ぶ必要がない。あるいは、高校で教えればいい。)

しかも高校の教科書では、他教科の内容も紹介してたりするが(高校世界史でも日本史の話題も紹介したりとか)、大学は違う。

大学の教科書は、タテ割りの知識体系なので、ろくに他教科の知識を紹介しない。

高校の教科書は、一見するとタテ割りに見えるが、違うのである。実は、高校のほうがヨコ割りなのである。


要するに、大学教授の多くが、教育力の乏しい無能である。しかし、日本企業も無能なので、新卒採用は入試偏差値順に採用するだけなので、大学の教育力の乏しさが見過ごされているのであろう。


大学にかぎらず、小中高大で、無能な教育者は、自分の流儀どおりの勉強法を、学生に押し付けるのである。無能だから、自分の流儀以外の勉強方法・研究方法がある事すら知らないのである。

小学校なら、たとえ学生の答案の答えが正しくても、解法が教員の期待どおりの解き方でないと減点したり、そういう馬鹿教員もいるかもしれない。

なお、高校の場合は、大学入試があるので、こういう迷惑な教員は淘汰される。

しかし大学では、実務でつかわない難問・奇門を出題して、実務能力がある人を減点するようなカリキュラムが、野放しにされている。

そういう迷惑なカリキュラムをつくる大学教員が、淘汰されずに野放しだったりするのである。

そして、こういう迷惑な大学教員たちが、自分の流儀どおりの独善的な自己正当化のカリキュラムをつくるのである。(実務能力の高いマトモな人ほど、大学に失望し、大学教育からは離れていく。) そのダメな大学の卒業生の一部が、そのダメな大学に教員として就職したりして、彼らの流儀どおりの、どんどん独善的な自己正当化のカリキュラムが再生産されていく。その結果、大学のカリキュラムがどんどん、実務からはズレていく。

もし企業だったら、こういった独善的な自己正当化をしているだけの労働者は淘汰されるが、しかし大学は企業ではないので、独善で自己正当化の研究者(自称)が淘汰されない。

「自分の流儀通りしか認めない!」という発想の証拠が、入学後から1か月後の定期試験で難問奇門を出し、しかも高得点(60点以上)要求である。

もし高校なら、進学校ですら、大学受験に合格さえすれば、勉強法なんて、法律の範囲内で、どんな方法で勉強してもいいわけだ。早い話、高校の定期試験の成績がわるくても、大学入試に合格しさえすればいいわけだ。なので、もし高校のバカ教員が、あまり入試範囲からズレた出題をしてると、定期試験の成績が悪い生徒が難関大学に合格したりして、そのバカ教員のメンツが潰れる。

しかし大学は違う。その大学の、その大学教員のさだめた科目の定期試験で、学生は高得点を取らないといけないのである。高校と違い、たとえ大学が実務や研究最先端からズレたことを教育していても、それを止める外部勢力が、ほとんど無い。だから大学では、バカ教員のメンツが、なかなか潰れない。

これこそ、大学が独善的な証拠である。大学教育の人間性は、高校未満の人間性である。

不要な理論を淘汰する事こそ、理論研究である[編集]

線形システム論は不要である[編集]

「線形システム論」は、数学的には無意味である。まず、線形システム論では微分方程式の解法にラプラス変換を用いるが、微分方程式の解法なんて、数学的には幾つもあり、どれかひとつの解法を特別視するのは数学的に無意味だからである。事実、数学科や物理学科などでは「線形システム論」を習わないし、数学者や物理学者は、「線形システム論」の細かい知識を知らない。

しかし、日本の大学工学部では、線形システム論は残っている。場合によっては必修化をされていたりする場合もある。

おそらく、文系大学に置いて、社会学のような、存在価値の疑わしい学問が残っているのと同じような現象だろう。

クレロー方程式、リッカチ方程式は、微分方程式の必修から外すべきである[編集]

その大学数学の授業の、微分方程式の理論ですら、クレローの方程式やリッカチの方程式のような変数係数の微分方程式は、大学でよく習うが、少なくとも工業の実務では用いない。物理学の学習・研究では変数係数の微分方程式は必要になる可能性はあるが、しかし工業では用いない。

仮に必要になったとしても、解法を暗記する必要がない。というか、そもそも変数係数微分方程式には何パターンもあり、そのほとんどは一般解が存在せず、たまたま一般解が存在するのがクレロー方程式などの場合だけである。

なので、せっかく変数係数微分方程式のモデルを立式しても、一般解が存在しない事例が多く、工業の実務では不便なのである。むしろ、高校物理の振動の微分方程式のように、変数係数微分方程式を定数係数微分方程式に近似する手法こそ、工業の実務では必要なのである。そして、そのような近似手法は、高校でも習う。

変数係数微分方程式を暗記するのは、実用的には、ほぼ無意味である。少なくとも、工学ではない。

工業で用いる可能性の高いのは、定数係数微分方程式である。実際、高校物理で習う微分方程式の多くは定数係数微分方程式である。

というか、そもそも微分方程式じたい、滅多に工業で用いない。

設計をする際にも、微分方程式は用いない。そもそも、方程式で予想したものは、単なる仮説にすぎない。工業の実務では、仮説だけでなく、試作品をつくり実証実験などで検証する必要がある。そして工業製品は構成要素が多すぎて、人間が手業で解ける微分方程式にするのは無理である。スーパーコンピューターなどを用いて、なんとか工業製品の特性を予想ができるかもしれない、・・・というのが、現在の科学技術の限界である。もちろん実務的には、スパコン計算よりも、実際に試作品を制作したほうが安上がりの場合が多い。

工業実務における微分方程式は、過去の知識を整理するための手段にすぎない。経済学における数式の活用方法も、似たようなものだろう。

その他[編集]

  • フーリエ変換は、電気工業では用いないのが現実である。

物理学的には、単一パルス波などのRLC線形回路方程式の応答解析にフーリエ変換を活用できるのであるが、しかし計算量が多く、その割に、電気工業の実務では単一パルス波の応答解析が必要な場面が、そもそも無いないようだ。電気工業で、フーリエ変換を活用した事例を、私は寡聞にして聞かない。

電気実務では、工業高校の教科書にフーリエ級数が紹介されてるように、フーリエ級数からの類推でも対応できる。むしろ、フーリエ級数からの類推ができないと、電気工業の実務では不便なのだろう。

ただし、jpeg画像圧縮の離散コサイン変換のように、情報処理などで、フーリエ変換から派生したような理論を用いる場合はある。

  • 中学・高校教育では、使用頻度の少ない理論は淘汰される

タイトルの通り、中学・高校教育では、使用頻度の少ない理論は指導要領などにより高校教育から外されて淘汰されるので、実は中学高校で習う事のほうが大学教育よりも使用頻度は高い。なので、中学高校や工業高校などで習う理論こそ、理論の本質なのである。

大学で習う事は、本質ではなく、未来の中学教育・高校教育をつくるための手段である。

実際、現在、高校でならう三角関数は、明治時代は大学教育の範囲だった。 最近では、普通科「情報」科目で習うことが、昭和の昔は大学教育の範囲だった。

もし工業製品を買った時、「この製品は未完成なので、微分方程式を解いて設計してください」とか説明書に書いてある製品だったら、購入者は「ふざけんな! カネを返せ! 詐欺だ!!」と思うだろう。

そして残念な事に、日本の工業大学の多くが、このような未完成のボッタクリ教育サービスである。

  • 量子力学のシュレーディンガー方程式ですら、現在の高校化学に、使用頻度と具体性の劣る理論である。

「大学で習う事は、本質ではなく、未来の中学教育・高校教育をつくるための手段である。」と上述した。

なので、過去の大学者の理論は、現在の中学高校の教育内容にすら劣る。具体的に言うと、シュレーディンガー方程式ですら、現在の高校化学に実用性の劣る理論である。高校化学にある、ベンゼン環などの共鳴と比べると、量子力学のハイゼンベルクの「不確定性原理」などは使用頻度が劣るし、具体性も劣る。

工業では、量子力学は今や、歴史としてしか実用性がない。

もちろん「賢者は歴史に学び、愚者は経験に学ぶ」。歴史教育は必要である。しかし、だからといって、歴史学の知識を、「これは経済学です」「これは法学です」などとウソを騙って宣伝してはいけないのと同様に、「量子力学は化学の実務に必要です」などとウソを宣伝してはならない。もちろん、化学の理論研究では、理論の整理のために量子力学を使う可能性がある。また、スパコンの化学シミュレーションの精度を上げるので間接的に産業に役立つ可能性はある。だが、化学の知識を用いる多くの職場では、量子力学の直接的な実用性は乏しいだろう。

なお、溶鉱炉の温度の測定方法は、べつに量子力学が発見したのではない。科学史では、先に、溶鉱炉の温度をボロメータなどで計測する手法が確立してから(物理学者ウィーンなどの研究成果)、あとから、その測定結果にもとづいてプランクが理論的に解釈を発見することで量子力学の理論が誕生したのである。なので、溶鉱炉の温度の測定方法は、べつに量子力学が発見したのではない。


ハイゼンベルクやシュレーディンガーの研究成果は、一見すると無関係に見える、化学と物理学の法則を、共通する法則性があるとして、理論を整理して、暗記の負担を減らすための手法である。そもそも物理学とは、そういう「一見すると無関係に見える幾つもの自然現象から、共通する法則性を抜き出す」学問である。