このページでは、日本の歴史について、安土桃山時代までを学びましょう。江戸時代以降についての下巻はこちらです。
また、人物についてくわしく学ぶ「人物事典」はこちらです。政治や日本の世界へのかかわりについて学ぶ「政治・国際編」はこちらです。
- 時代
- 歴史学習で使う時代の表し方には、まず「時代」があります。これは、「奈良時代」「江戸時代」などと、大きなことがら(政治の拠点が移る,天皇が変わるなど)ごとに時代を変えていく表し方です。なお、室町時代のうち1392年までを「南北朝時代」、1467年以降を「戦国時代」ということもあります。
- 西暦
- 西暦は、イエス・キリストが生まれたとされる年を西暦1年として年を表す表し方です。現在は西暦2024年です。
- 世紀
- 世紀とは、100年ごとに区切って年を数える単位です。西暦1年から西暦100年までが1世紀です。西暦101年から西暦200年までが2世紀です。西暦2001年から西暦2100年までを21世紀といいます。たとえば、105年は2世紀、1853年は19世紀です。
- 大昔の暮らし
いまから1万5000年ほど前になると、氷河期が終わり、地球の気候があたたかくなりました。
そして、いまから1万2000年ほど前のころ、日本列島に住んでいる人たちは、海や川の近くに住んで、石や骨でつくった刃物や槍や矢をつかって、シカやイノシシなどの動物を、とらえて食料にしていました。
同じころ、日本列島に住んでいた人たちは、土器をつくるようになりました。その土器に縄の模様がついているので、この時代に作られた土器を 縄文土器 といいます。
この土器は、食べ物を煮炊きしたりするための、今でいう なべ のような物です。
今から約1万2000年前から約3,000年前までの時代のことを、 縄文時代 といいます。
縄文時代の人の家の建物は、竪穴建物 といい地面に穴をほりさげたあとに、柱を立て、草ぶきの屋根をかけただけの住居にすんでいました。
縄文時代の人の集落があったと思われる場所からは、多くの貝がらが発掘されています。
この貝がらが多く発掘された、集落だったと思われる場所を 貝塚 といいます。貝塚からは、貝がら以外にも、動物の骨や、魚の骨などが出土することもよくあります。
なお、貝塚には、たとえば東京都の大森貝塚や、福井県の鳥浜貝塚や、千葉県の加曽利貝塚などがあります。
なお、貝塚や石器などに限らず古い時代の物が見つかる場所のことを、 遺跡 といいます。
遺跡などから出土する物によって、その時代の暮らしもわかります。
魚釣りに必要な、「釣り針」と「もり」が、縄文時代の遺跡から出土することも多く、漁もしていたことがわかります。
なお、動物の骨は、とがらせて使うことが多く、とがらせたものを 骨角器 といいます。骨角器のようなとがった骨も出土することがあります。狩りなどで、槍の先の武器として使ったりすることが多かったものと思われます。
縄文の遺跡から、土偶 という、土を焼き固めた、女性のような形の人形が見つかる場合があります。
土偶は、食料が増えることや女性の安産をいのったものだと考えられています。
青森県の 三内丸山遺跡 は、約5500年前から約1500年前の間の集落だったということがわかっています。
この三内丸山遺跡から、木を栽培した形跡が見つかっています。
つまり、すでにこの時代から農業をしていたことがわかります。
また、多くの土器や石器のあとも見つかっています。
大型の、掘立て柱も、見つかっています。掘立て柱の用途はまだ分かっていません。
ヒスイの玉や、黒曜石でできた刃物のようなものも見つかっています。
ヒスイは、この地ではとれず、新潟県の糸魚川などの他の土地でとれるので、他の地域と交易があったのだろう、と考えられています。
この三内丸山遺跡は、縄文時代を知る遺跡として代表的な遺跡です。
縄文時代の次の時代は、弥生時代です。
- 弥生時代
~米づくりがはじまる~
いまから2400年ぐらい前のころ、ユーラシア大陸や朝鮮半島あたりの人々から、米による稲作が、日本に伝わりました。
米作りは、まず西日本につたわり、西日本から東日本へと、米作りが広がっていき、東北地方にまで広がりました。
この時代の農具の多くは、まだ木製です。ただし、米作りとともに鉄器の技術も日本に伝わっているので、一部では鉄を用いた農具も見つかっています。
穂から米をとるときに、 石包丁 が、使われました。
- 弥生土器
- また、このころ、土器は、縄文土器よりも うすくて かたい 弥生土器 をつくるようになりました。「弥生」とは、学者が発見した場所が、東京の弥生町(現在の文京区)だったので、弥生の土器という意味で、「弥生土器」とよばれています。
- 縄文土器と弥生土器の形のちがいについては、弥生時代のころには、土器をつくる技術が進歩したので、土器の形が かわったのだろう、と考えられています。
- 高床倉庫
- 米は、 高床倉庫 で保管されていました。
高床倉庫が高いのは、ねずみ などの動物が入りづらくするためです。なお、風通しをよくするため、という理由も考えられます。ねずみの害を防ぐという理由の有力な根拠として、地面から床までの柱の、柱のてっぺんに、「かえし」がついていて、動物などが登れないように工夫した高床倉庫が見つかっています。
弥生時代の多くの住まいは、竪穴建物です。
大陸や朝鮮半島から米作りがつたわるとともに、青銅器や鉄器などの金属器が、伝わります。そして、日本でも、弥生時代中に、金属器がつくられるようになりました。
青銅とは、銅 と すず(金属の1つ)を、とかしてまぜあわせた金属でつくられた、合金です。
青銅器には、銅剣や、銅矛、銅鐸、銅鏡などが、あります。
青銅器は、おもに祭りに使われるようになります。
いっぽう、鉄器は、農具や武器などの実用品につかわれるようになります。
静岡県にある、登呂遺跡からは、竪穴建物に似た平地建物と、高床倉庫が見つかっています。水田のあともあります。
佐賀県にあります。
まわりを濠でかこまれた 環壕集落 です。
矢がささった人骨も見つかっています。これらのことから、人々のあいだで争いがあったことが予想できます。
濠の内側からは、多くの高床倉庫が見つかっています。
おそらくは、米作りによって、食料生産が増えたので人口が多くなって、
- それぞれの集落で、多くの人口を養うために米の生産量を増やす必要が生じて、
- そのため、土地や水が必要になり、
- 集落どうしで、土地や水をめぐっての争いが起きたのだろうと思われています。
このような争いが、身分の差を作っていった理由の一つだとも、思われています。
この吉野ケ里遺跡は、弥生時代を知る遺跡として、代表的な遺跡です。
- 日本の統一へ
中国大陸の3世紀ごろの歴史書では、日本の3世紀ごろは、国の数が30あまりになっていることが分かりました。
そして、日本にはこれら30あまりの国をしたがえた 邪馬台国 がありました。邪馬台国で、代表的な地位にあった人物は、卑弥呼 という女性です。彼女の政治は、まじないやうらないによるものだったようです。
邪馬台国の場所は、わかっていません。
邪馬台国は、魏 に、外交の使いを送りました。
57年、日本は、魏の皇帝から、金印などを受け取りました。
- 古墳時代
3世紀から4世紀ごろになると、王や豪族をほうむる大きな墓がつくられはじめました。
このような、大きな王などをほうむった大きな墓を 古墳といいます。
古墳は,特に近畿地方から瀬戸内海沿岸の地域に見られます。
この、3世紀ごろから7世紀ごろの時代を 古墳時代 といいます。
古墳時代の文化のことを 古墳文化 といいます。
古墳には、いろいろな形のものがあります。円形に盛り上がった古墳を円墳といいます。四角く盛り上がった古墳を方墳 といいます。円墳と方墳があわさったような、かぎ穴のような形の古墳を 前方後円墳 といいます。
大阪府堺市にある 大仙(大山)古墳 は、日本で最大の面積の古墳です。
大仙古墳は、まわりが3重の濠で、かこまれています。
古墳からは、鏡や玉、剣などの副葬品が発見されている。ほかにも、はにわ という、土を焼いて作られた人型や馬型などの置き物が発見されています。
奈良県の大和地方には、大きな古墳が多く発見されています。このことからこの地方に、有力な勢力があったと考えられている。この地方の有力な豪族たちの政治勢力を 大和政権 といいます。
この大和政権の政府を 大和朝廷 と言い、その最高権力者を 大王 といいます。
埼玉県の稲荷山古墳から見つかった鉄剣には、「ワカタケル大王」という名が刻まれた文が発見されました。この文から、この地方の王は、ワカタケル大王に使えていたことがわかります。
熊本県の 江田船山古墳 にも、一部が読めなくなっていましたが、「ワ□□□ル大王」という同じ名の刻まれた鉄刀があり、ワカタケル大王の支配する領域が、関東地方から九州までの広い範囲におよんでいたことがわかります。
ヤマトタケルの物語
皇子であるヤマトタケルノミコトは、武勇にすぐれていました。かれは父の命令で九州に行き、朝廷にしたがわない豪族である クマソ をたおしました。
それから関東に行き、広い野原で焼きうちにあってしまいましたが、きりぬけて、関東を征服しました。
しかし、タケルは帰る途中で、病気で なくなりました。そして、タケルは大きな白い鳥になって、大和のほうへ飛んでいきました。
また、仏教も、外国から伝わりました。538年に、朝鮮半島の百済という国の王から、仏像や経典が、日本の天皇に送られました。
~聖徳太子の登場~
聖徳太子
年 |
年齢 |
行ったこと |
社会のできごと
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6世紀
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豪族どうしが争う
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574 |
1才 |
聖徳太子が生まれる |
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蘇我氏が権力をにぎる
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589 |
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隋が中国を統一する
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593 |
20才 |
聖徳太子が摂政になる |
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7世紀
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603 |
30才 |
冠位十二階を定める |
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604 |
31才 |
十七条の憲法を定める |
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607 |
34才 |
小野妹子を遣隋使として送る |
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618 |
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隋がほろんで唐になる
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622 |
49才 |
聖徳太子がなくなる |
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645 |
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大化の改新
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日本では、6世紀ごろから、豪族の影響力が強まりました。豪族の反乱や、豪族どうしの争いも起こり始めました。
この、豪族どうしの争いで、最終的に587年ごろ、蘇我馬子が勝ちました。
そして、女性である 推古天皇 による政治が行われましたが、蘇我氏の影響下にありました。
聖徳太子(厩戸王)は、おばの推古天皇の政治を補助する 摂政という仕事につきました。
- ※ なお当時、「摂政」という用語は無い。のちの時代に、幼少の天皇や女性天皇などを助ける仕事のことを「摂政」と呼ぶようになった。
聖徳太子は蘇我馬子と協力し、これらの改革をすすめました。
聖徳太子らによる改革のひとつに、十七条の憲法の制定があります。
役人の心がまえを記したものです。豪族などに対して、役人としての心がまえを述べたものでしょう。
十七条の憲法(要約)
1条 争いをやめ、なかよくしなさい。
2条 仏教を厚く保護しなさい。
3条 天皇の命令には従いなさい。
5条 裁判は、公正に行いなさい。
12条 農民などの民から、勝手に税やみつぎ物をとってはいけません。
17条 重要なことを決めるときには、話し合いで決めなさい。
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聖徳太子らの行った重要な政策には、外交政策もあります。ユーラシア大陸の一部を支配していた 隋 という国との外交です。
607年に、外交の使者として 小野妹子 たちを 隋に送ります。この使者を 遣隋使 といいます。
なお、小野妹子は男だと考えられています。
外交の結果、日本は隋と国交を結びました。また、隋の文化や制度は日本よりも進んでいたので、日本は多くの文化や制度を取り入れました。
聖徳太子らによる改革には、冠位十二階の制というものもあります。これは、家がらに関係なく有能な役人を採用するための制度です。能力や手がらによって、役人に位が与えられます。位は、一代かぎりです。
役人の位を12段階に分けたので、このような名前で呼ばれます。
聖徳太子は、607年に, 現在の奈良県に法隆寺を建てさせました。法隆寺は、現存する木造建築としては世界最古です。法隆寺は、1993年に世界文化遺産に登録されました。
- さまざまな改革
622年に、聖徳太子が亡くなりました。聖徳太子の死後には、蘇我氏の権力が強まりました。
蘇我馬子も、626年に、なくなりました。
まず、蘇我馬子の子である蘇我蝦夷の権力が強まりました。さらに、馬子の孫であり、蝦夷の子である 蘇我入鹿 の権力が強まりました。
645年に皇族の中大兄皇子と、豪族の 中臣鎌足 との協力により、蘇我入鹿は殺害されました。蝦夷は、この事件を知り、自殺しました。
このあと、中大兄皇子らが権力を取り、さまざまな政治改革を行いました。この改革を 大化の改新 といいます。645年に元号を「大化」と定めたので、この一連の改革は大化の改新と呼ばれています。
「大化」という元号により、日本では、はじめて元号が定められました。これは、中国を手本としたものでした。
これまでは豪族や皇族たちが持っていた土地は、すべて朝廷のもの(朝廷が管理する)になりました。これを 公地公民 といいます。
人民の 戸籍 を作り、それにもとづいて国が人々に土地を与え、仕事をさせました。
この当時の戸籍は、人民を1人ずつ、公文書に登録することで、住所や家族の名や年齢、家の世帯主などを把握するためのものでした。
一般の人々の負担
種類 |
内容
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税
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租
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収穫の約3~10%の稲を納める。
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調
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地方の特産物(糸、絹、わた、塩、 魚、海そう、鉄など)を納める。
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庸
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都で年10日ほど働くか、布を納める。
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兵役
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防人
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九州北部で兵士を3年行う。
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税の種類です。
- 租とは、田の収穫量の、約3~10%を、国に納める税です。
- 調とは、地方の特産物を、国に納める税です。
- 庸とは、都に出てきて年10日ほど働くか、布を納める税です
このほかに、防人という、九州で兵士として警備を行う、兵役の仕事がありました。
この防人のつらさを歌った歌として、つぎのような歌が残っています。
さきもりの歌 (『万葉集』より )
- 唐衣裾に取りつき泣く子らを置きてそ来ぬや母なしにして
- (現代語訳)唐衣のにすがって泣きつく子どもたちを、(防人に出るため)置いてきてしまったなあ。あの子たちには母もいないのに。
701年に、 大宝律令 という、税金や都についての法律が完成しました。
- 奈良時代
710年に、都が奈良の 平城京 へと移りました。
この都が平城京にあった時代を 奈良時代 といいます。
平城京は、碁盤の目のように、区画が整理されています。
712年に『古事記』という天皇家や貴族などに伝わる、神話の時代をまとめた書がつくられました。
古事記には、神話の時代から推古天皇にいたるまでの出来事が書かれています。
また、日本の歴史書である『日本書紀』が720年に完成しました。神話の時代の伝説から、7世紀末ごろの持統天皇に至るまでの国家と天皇の歴史について書いた書です。
8世紀のなかごろ、都では病気が流行し、多くの死者が出たり、さらに、貴族の反乱が起きたりしたため、世の中が混乱しました。
仏教を信じた聖武天皇は、仏教の力を借りて人々の不安をしずめ、社会を安定させようとしました。
まず741年に国(今でいう都道府県)ごとに 国分寺 を建てさせました。
都には 東大寺を建てさせ、そのなかに大仏を作らせました。
このころ、行基という僧がいました。かれは、渡来人の子孫で、民衆のために用水の池や橋を造りながら、諸国をまわって教えを説いていたので、多くの人々にしたわれていました。
しかし、朝廷は、はじめは、行基の行動をとりしまりました。当時は、民衆への仏教の布教は禁止されていました。
朝廷からは、行基は危険な人物だろうと思われていたのです。
大仏を作るのは、とても多くの労働力を必要とするので、朝廷には、人々の支持が必要でした。このため、民衆にしたわれていた僧の行基の活動を認めました。
中国の帝国が唐に変わっても、かつての遣隋使と同様に、日本から中国の唐に、外交の使者の 遣唐使 を送りました。
遣唐使として有名な人物には、阿倍仲麻呂 や、吉備真備 などがいます。
阿倍仲麻呂は、日本に帰国するために乗った船が難破したため日本に帰国できず、最終的に唐の皇帝に仕えることになりました。
吉備真備は日本に帰れました。吉備真備は2回唐にわたり、2回とも日本に帰国できました。
日本の朝廷らは、唐の有名な僧の 鑑真 に、日本でも仏教をひろめてほしいと、鑑真を日本へ招きました。これを受け、鑑真は日本へわたりましたが、5回も失敗し、6回目にようやく日本に着きました。6回目に日本についたころには、失明しました。
鑑真は、奈良に 唐招提寺 を開き,そして多くの日本人の僧を育てました。
東大寺にある 正倉院 には、奈良時代の美術品や、聖武天皇が愛用した道具などが収められています。
※「螺鈿紫檀五絃琵」(図参照)や「瑠璃杯」などの宝物も保存されているのですが、画像を用意できません。外部サイトや参考書などで、画像を探してください。
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赤漆文欟木御厨子
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平螺鈿背八角鏡
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金銀山水八卦背八角鏡
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鳥毛立女屏風第4(部分)
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羊木臈纈屏風
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銀薫炉
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蘇芳地金銀絵箱蓋
(これらはあくまで参考です。)
和歌をまとめた 万葉集 が759年ごろから編纂されました。
貴族だけでなく、農民や防人など様々な身分の者が作ったと思われる和歌も収録されています。
合計で4500首の歌が収録されています。
~貴族がさかえた時代~
- 桓武天皇は794年に都を京都の 平安京 にうつしました。
奈良から平安京への寺院の移転は禁止されました。
他にも、社会の変化で、もはや、公地公民による昔の政治がうまくいかなくなり、政治のしかたを改める必要もあったのだと思われます。
政治の中心地が平安京であった、約400年間の時代を 平安時代 といいます。
9世紀の中ごろになると藤原鎌足(中臣鎌足)の子孫の一族である 藤原氏 が、権力を強めました。
藤原氏の一族は、代々、娘を天皇の きさき(妻)にしています。
すると、藤原氏は天皇の母方の親せきということになるので、藤原一族の権力が強まる、という仕組みで、さらに権力を強めました。
藤原氏は、天皇が幼いときは、藤原氏の者が摂政となり政治の実権をにぎり、天皇が成人しても藤原氏は関白という地位になり実権をにぎり、政治を行いつづける、という手法で権力を強めました。
道長は、次の歌をよみました。
「この世をば わが世とぞ思ふ 望月の 欠けたることも なしと思へば」
(この世は、望月(満月)のように欠けているものがなく、まるで私(道長)の物のようだ。)
道長の子である 藤原頼通 は、京都に 平等院鳳凰堂 を建てさせました。現在の10円玉の表面にもえがかれています。
- 平安時代の文化
菅原道真の進言により、894年に遣唐使が中止されました。
遣唐使の廃止の理由は、すでに唐から多くのことを学んであること、ユーラシア大陸で内乱が多く唐が弱っていること、船の遭難など死の危険が多く有能な人材の命を損ないかねないこと、経済的な負担が大きい、などです。
この遣唐使の廃止により、日本の貴族文化では、だんだんユーラシア大陸の文化の影響がうすれたかわりに、国風文化と呼ばれる日本独自の貴族文化が発展しました。
ひらがな や カタカナ などの かな文字 が、平安時代に発明されました。
ひらがなは、漢字の形をくずして発明されました。カタカナは漢字の へん や つくり などの一部をもとに発明されました。
ほかにも、歌集である古今和歌集 や 竹取物語 は、かな文字を用いた作品です。
平安時代には、貴族の衣服(正装)が変わります。
男の貴族の服は 束帯 になり、女の貴族の服は 十二単 となりました。
貴族の住居の形が 寝殿造 になりました。
文学の物語では『源氏物語』という創作の物語が、貴族である紫式部によって書かれました。貴族の「光源氏」という人物を主人公にして貴族の恋愛などを書いています。
「源氏物語絵巻」も描かれました。
随筆では、貴族である清少納言が『枕草子』を記しました。清少納言が、日常生活や自然を観察して、感想をつづったものです。
絵画には、日本の風景などを書いた 大和絵 が現れ、寝殿造の屋敷の屏風や ふすま などに描かれました。さきほど紹介した源氏物語絵巻も、大和絵です。
- 平安時代の武士たち
平安時代には、地方の豪族たちが私有地を広げていきました。
9世紀の中ごろから、豪族や有力な農民たちは、自分たちの土地や財産をまもるためには、兵力をたくわえました。一族の者や、手下の農民たちに武装させるようになりました。
このようにして、武士ができていきました。武士たちは、一族の かしら をリーダーとして、それぞれの一族ごとに 武士団 を結成しました。
この時代に、天皇の座をめぐって皇族どうしで権力争いが起きると、武士たちは、これらの戦いに加わりました。
その結果、 平清盛の加わっていた 平氏 の側が勝利したので、清盛が権力をにぎっていきました。
そして1167年には、平清盛は、武士としては初めて 太政大臣 の位につきました。
平清盛は、清盛のむすめを、天皇の后(妻)にさせました。
このようにして、平氏の一族が、朝廷での重要な役職を得ていき、権力を強めました。
清盛は 海の神をまつっている 厳島神社 を敬いました。厳島神社は、今でいう広島県の瀬戸内海の側にあります。
そして厳島神社の神を、平氏一族がまつるべき氏神としました。
しかし、平氏の独裁的な政治に、ほかの貴族やほかの武士などからの不満が高まっていきました。
それらがのちに、平氏をたおすことへとつながりました。
ついに1180年、皇族は、平氏をほろぼすように命令を下しました。
源氏と平氏の戦い
年 |
おもなできごと
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1180 |
源頼朝が伊豆(現在の静岡県)で挙兵するが、石橋山の戦い で平氏にやぶれる 源頼朝が富士川の戦いで平氏をやぶる
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1181 |
平清盛がなくなる
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1183 |
源義仲が、倶利伽羅峠の戦いで平氏をやぶる
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1184 |
源義経が 一ノ谷の戦い で平氏をやぶる
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1185 |
源義経が八島の戦いで平氏をやぶる 源義経が壇ノ浦の戦いで平氏をやぶる 平氏がほろびる
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源頼朝 は、関東で兵をあげました。富士川の戦いで平氏をやぶったあと、頼朝は関東の鎌倉に、とどまって、勢力の基盤をかためました。
そして頼朝は、平氏に不満をもっている武士の北条氏など関東の武士とも協力して、勢力をのばしていきました。
頼朝は、自らは鎌倉にとどまり、代わりに弟の 源義経 の兵を借りて、平氏を西へと追いつめていきました。
1185年、源義経らはついに本州の西の端である今の山口県の下関で起こった 壇ノ浦の戦いで、ついに平氏をほろぼしました。
これらの源氏と平氏との一連の戦いを「源平の戦い」あるいは「源平合戦」といいます。
- 鎌倉時代
平氏の滅亡後、頼朝が朝廷に要求したことより、新しい制度として、国ごとに守護が1人ずつ置かれ、荘園や公領には 地頭 が置かれました。
守護の役割は、その国の軍や警察の管理者でした。地頭の役割は、荘園および公領の管理や、税である年貢の取り立てでした。
頼朝は1185(1192)年に朝廷から 征夷大将軍 に任命されました。
頼朝は鎌倉(現在の神奈川県)に、武家による政治の拠点である 鎌倉幕府を開きました。鎌倉に幕府があった時代を 鎌倉時代 といいます。
この鎌倉時代から、政治の権力が朝廷から幕府へと移っていき、武家政治の時代となっていきました。
幕府の行政の仕組みは、朝廷による制度とは 異なります。
将軍の家来の武士のことを 御家人 といいます。
将軍は、「ご恩」と呼ばれる、御家人たちの土地の権利を保証する政策をとるかわりに、奉公と呼ばれる、御家人たちは将軍のために警備を行ったり、戦争の時には戦ったりするという主従関係を、 ご恩と奉公 といいます。
「いざ鎌倉」といって、御家人は戦いが起きれば、すぐに鎌倉へと行って将軍に指示を聞き、将軍のために戦うべき、とされていました。
この主従関係は、土地を仲立ちとしています。
御家人たちの屋敷は、武家造という作りで、屋敷のまわりに堀があったり、塀で囲まれていたりと、戦いにそなえたつくりになっています。
「一所懸命」という言葉がありますが、これは、御家人たちが自分たちの領地を守るために命がけで戦う様子からできた言葉です。なお、これが転じて「一生懸命」となりました。
頼朝の死後は、頼朝の長男である頼家が次の将軍となり、さらに次の将軍は頼朝の次男である実朝となりましたが、幕府の実権は、有力な御家人である北条氏の一族がにぎっていました。頼朝の妻は 北条政子 で、その父である 北条時政 が 執権 という役職につき、北条時政らが幕府の実権をにぎりました。
北条氏のように、執権として政治の実権をにぎる政治の方法を 執権政治 といいます。
頼朝の死後、1221年に朝廷は、政治の実権を武士から取りかえそうとして、幕府をたおせという命令を出しました。
このとき、北条政子は、武士たちに、「あなたたちに頼朝があたえたご恩は、山よりも高く、海よりも深いものです。その恩にむくいようとするものは、力を合わせて敵軍をうちとり、幕府をまもるでしょう。」と、武士たちによびかけ、武士たちをまとめた。
この結果、北条氏の幕府軍と、朝廷の軍との戦争になり、北条氏の側が勝利しました。
そして、幕府の権力は、朝廷をしのぐほどになりました。
また、幕府は、武士のための法律をととのえました。
武士は、日ごろから やぶさめ などの武芸にはげんでいました。「やぶさめ」とは、馬にのって走りながら、いくつもある板の的をつぎつぎに射る武芸のことです。
- モンゴルとの戦い
- モンゴル帝国の元
13世紀、中国をふくむユーラシア大陸の広い地域では モンゴル民族が モンゴル帝国を築いていました。
モンゴル帝国はユーラシア大陸を制圧すると、モンゴルの国号(国名)を 元 に変えました。
モンゴルは、まず朝鮮をしたがえました。つづいて、日本にも、モンゴルに従えと、元は使者を日本によこしました。
しかし、ときの執権であった北条時宗は、これを断りました。
そして、元は、1274年と1281年の2度にわたって、軍隊とともに日本にせめこみました。
最終的には暴風雨のえいきょうにより元軍が引き上げたので日本が勝利しましたが、元との戦いでは元軍の火薬を用いた新兵器(日本では「てつはう」と呼ばれた)、毒矢、元軍の集団戦に苦戦しました。
右の合戦の絵は、蒙古襲来絵詞という絵巻物の一部の絵です。
「蒙古」とはモンゴルのことです。
1度目の戦いのあと、幕府は次のモンゴル軍がせめこんでくるのに備え、今の福岡県にある博多湾の沿岸に こうげきを防ぐための石垣である石塁を築かせました。
1281年に、元の軍勢は、14万人もの大軍を率いてふたたび日本に おそいかかりましたが、日本が勝利しました。
この2度の元軍の襲来を あわせて 元寇 といいます。
御家人は元寇で多くの費用を使いましたが、幕府は ご恩としてのほうびの土地を、十分に用意できなかったので、御家人は幕府に不満を持つようになりました。
鎌倉時代には、彫刻で 金剛力士像がつくられました。
※金剛力士像の画像が用意できないので、ここには画像をのせません。
金剛力士像は、奈良県の東大寺の南大門にあります。
1336年、今の京都の室町に室町幕府ができました。
1394年、室町幕府の3代将軍である足利義満は、京都の北山に 金閣 を建てました。金閣には、金ぱくがはられています。
1482年、室町幕府の8代将軍である足利義政は、京都の東山に 銀閣 を建てました。銀閣には、銀ぱくは はられていません。
色々な村で、用水路や共用地の管理など村の運営のしかたについて、寺社などに集まって自主的に相談しあって決めるようにするなど、農民どうしの集まりが開かれるようになりました。
室町時代には、農民は、厳しい領主に対しては、集団で対立するようになりました。
年貢が重い場合は、集団で領主におしかけてうったえでたり、全員が村から逃亡したりして対抗しました。
書院造という、和室の様式が出てきました。
特ちょうは、
- 違い棚という、段差になった棚がある
- 障子やふすまがある
- 畳の床がある
などです。
これが、今の和室の様式につながっています。
鎌倉時代に、中国から 水墨画 の技法が日本に伝わりました。
はじめ日本では、水墨画は、仏教の世界をえがくためにえがかれました。
しかし、室町時代になり、雪舟は、水墨画と仏教を分けて考え、仏教にとらわれずに、自然の風景などの水墨画をえがきました。
雪舟
雪舟は、幼いとき、今の岡山県の興福寺に預けられていました。しかし雪舟はそこで修行をせず絵ばかりかいていました。そこでおこった和尚は雪舟を柱にしばりつけました。しばらくして和尚が様子を見に行くと、雪舟の足元にねずみがいたので、追いはらおうとしましたが、ねずみは動きません。雪舟が、なみだでかいたねずみだったのです。和尚は、それ以降、絵をかくのを認めました。
書院造の部屋で、おちついた作法にしたがって茶を飲む、茶の湯が始まりました。茶の湯は、今でも茶道として、受けつがれています。
観阿弥と世阿弥の親子が、芸能のひとつである 能 を形成しました。
1543年に,現在の鹿児島県の島である種子島に,ポルトガル人を乗せた船が流れ着きました。
このとき, ポルトガル人から鉄砲が日本に伝わりました。それまでの日本では鉄砲は知られておらず, 日本にとっては鉄砲は新しい兵器でした。
やがて日本の各地に鉄砲の情報が広がり、大量に鉄砲が作られるようになりました。
鉄砲が日本に伝わってから少しあとのころ,キリスト教が日本に伝わりました。
1549年にはスペイン人の宣教師であるザビエルが日本の鹿児島に来て,キリスト教を伝えました。
そのあと,他の宣教師も,次々と日本にやってきました。
宣教師は,日本とヨーロッパとのあいだの貿易の世話もしたので,大名たち(特に西日本)の中にはキリスト教を保護する者もいました。
このようなことをきっかけに,日本は,ポルトガルやスペインとの貿易を始めました。ポルトガル人・スペイン人の商船が,九州の長崎や平戸や,大阪の堺の港などを訪れて貿易をするようになりました。
- 天下統一へ
~織田信長・豊臣秀吉・徳川家康~
戦国時代には各地に大名がおり,多くの大名どうしが争っていた。1560年以降から,まず,尾張(現在の愛知県の西部)の大名であった 織田信長が勢力を拡大し始めました。
1560年に,愛知県にいる織田の領地に,となりの静岡県の今川義元がせめこみ、桶狭間の戦い が起こりました。
この戦いで,今川義元を織田らの軍が討ち取り,今川義元は亡くなりました。このため,今川軍は命令の系統がくずれてしまい,敗北しました。
桶狭間の戦い以降,信長は西へと勢力を拡大しました。1568年には,室町幕府の足利氏の一族である足利義昭を支援して京都に入りました。義昭はのちに,室町幕府の15代将軍となりました。
1569年,信長は,キリスト教の宣教師と初めて出会い,かれにキリスト教の布教を許可しました。信長本人はキリスト教の信者ではなく,信長のねらいは宣教師のもたらす情報などがねらい,あるいは当時に信長と敵対していた仏教勢力への対策などと,いっぱんに言われています。
1571年には, 仏教勢力である延暦寺が織田を裏切ったことから、織田信長は,比叡山延暦寺 を焼き討ちにしました。
そして,1573年ごろ,室町幕府は ほろびました。
1575年に三河(現在の愛知県の東部)で、織田・徳川の同盟と,甲斐の大名の武田勝頼らの戦争である 長篠の戦いが起きました。この戦いでは,織田・徳川の同盟が勝利し,武田は敗北しました。
1576年,織田信長は近江(現在の滋賀県)にある小高い山の上に 安土城 を築かせました。
安土城の城下町では,自由に商売をできるようにしたので,とてももうかりました。
また,安土の城下町には,キリスト教の学校や教会も建てられました。
安土城の城下町付近では、商業をさかんにするため,関所で通行税をとることを廃止しました。
なお、このような政策を 楽市楽座といいます。
織田信長を、家臣の 明智光秀が裏切り,明智の軍が信長におそいかかり,この本能寺で信長は死亡しました。
なお、この一連の事件を 本能寺の変 といいます。
信長は,天下統一をなしとげられませんでした。
信長は,天下統一をしていません。
天下統一ならず,信長は死亡します。
- 豊臣秀吉の台頭
信長の死を聞いた豊臣秀吉は,ただちに毛利との停戦をし,そして京都・大阪に向かい,明智光秀をたおしました。
その後も,秀吉にさからう大名をつぎつぎとたおし,支配をかためていきました。
このようにして,しだいに秀吉の地位は高まっていき,信長の領地を受けついでいきました。
1583年に秀吉は,大阪城を築かせ,そこを本拠地にしました。
そのあと,秀吉は各地の大名たちを平定して従えていきました。
そして1590年には,秀吉に従わなかった北条氏の治める関東の小田原をせめ,北条氏政をほろぼしました。
1590年,秀吉に従っていなかった東北の伊達氏など東北の大名も,秀吉に従いました。こうして、秀吉が天下統一をなしとげました。
- 秀吉の政策
農民からねんぐを取るための土地の調査を検地といいます。
検地は信長の時代からも行われていたが,秀吉は各地でちがっていた長さや面積などの単位を全国で統一させました。
そして記録によって,田畑の面積や,田の収穫高である石高,その田畑を耕す農民の名前などが記録される 検地帳 が作られました。
検地帳によって耕作者がはっきりしたので,農民は田畑を持つ権利を認められましたが,同時にねんぐを納める義務を負うことになり,土地を勝手に はなれることができなくなりました。また,かつての荘園のように土地の権利がはっきりしない土地がなくなりました。
1588年に、豊臣秀吉は刀狩令という、農民から刀や鉄砲などの武器を没収する命令を出しました。
表向きの理由は,京都の方広寺に大仏を作るので材料の鉄が必要であるためですが、秀吉の実際のねらいは,一揆を防ぐためといわれています。
- 刀狩令
- 百姓が刀・やり・鉄砲などの武器をもつことを禁止する。ねんぐを出ししぶり,一揆をおこすものは,厳しくばっする。
- とりあげた刀は,大仏をつくるためのくぎなどにするから,百姓は仏のめぐみで,この世だけでなく,あの世でも救われるだろう。
- 朝鮮出兵
日本を統一した秀吉は,つぎに,外国を征服しようとしました。そのため,中国を征服しようとしました。このための足がかりとして,まず朝鮮に通行の許可や協力などをもとめたが,朝鮮に断られたため,朝鮮との戦争になり,2度にわたって朝鮮に兵を送って戦争をしました。
この戦争を,朝鮮出兵 とか 朝鮮侵略といいます。
秀吉の朝鮮出兵は2度あります。
最終的に日本は朝鮮・明の連合軍に敗北しました。
1598年に日本国内で秀吉が病死し,日本軍は日本にひきあげ,朝鮮出兵は終わりました。
朝鮮出兵の結果
朝鮮出兵の結果として、
- 日本の諸大名などからの豊臣氏への信用が弱まり,のちに,豊臣氏がほろしていくきっかけの一つになる。
- 朝鮮に大きな被害をあたえた。
- 戦争でほろんだ明の力も弱まる。
などのことが起こりました。
- 徳川家康
1590年,秀吉の命令によって,家康の領地が関東に移され,江戸城が家康の拠点となりました。家康が江戸に移る前は,三河(今でいう愛知県の東部)の大名でした。
豊臣秀吉が亡くなると,徳川家康の勢力が強まりました。
1600年、関ヶ原(今の岐阜県)で、徳川家康が率いる軍と,豊臣秀吉が率いる軍が戦いました。これを 関ヶ原の戦い といいます。結果は,徳川家康が率いる軍の勝利でした。
- 1603年,朝廷から徳川家康は 征夷大将軍 に任命されました。
- 家康は江戸(現在の東京)に幕府を開きました。これが江戸幕府であり,この時から江戸時代が始まりました。江戸時代は260年ほど続きます。
- 1614年 家康により,豊臣氏をほろぼすための戦争を始めました。
そして,この戦いに敗れた豊臣氏は,ほろぼされました。
江戸のまちは,江戸幕府より前は,政治の中心地になったことがなかったので,やや不便でした。
そのため家康は,日本全国の大名に資金や人手を提供させて,江戸の町を広げる工事をさせました。江戸城を広げる工事も行われました。
- まとめ
- 信長・秀吉・家康
信長・秀吉・家康の時代
織田信長
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豊臣秀吉
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徳川家康
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1534 尾張(現在の愛知県の西部)の大名の子として生まれる |
1537 尾張に農民の子として生まれる |
1542 三河(現在の愛知県の東部)の大名の子として生まれる
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1560 今川氏を破る |
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1562 家康と連合する |
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1562 信長と連合する
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1573年 足利氏を京都から追い出す (室町幕府をほろぼす) |
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1575 長篠の戦いで,信長と家康の連合軍が,武田の軍をたおす
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1576 安土城を築く |
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1582 明智光秀におそわれ, 信長は自害する(本能寺の変) |
1582 秀吉が光秀をたおす |
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1583 大阪城を築く |
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1588 刀狩を命じる |
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1590 日本を統一する |
1590 秀吉の命令で,関東に領地をうつす
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1592 朝鮮をせめる |
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1597 ふたたび朝鮮をせめる |
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1598 病死する |
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1600 関ヶ原の戦いで勝つ
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1603 征夷大将軍になり,江戸幕府をひらく
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1615 豊臣氏をほろぼす
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1618 病死する
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つぎのような句があります。
織田がつき 羽柴がこねし 天下もち
すわりしままに 食うは徳川
「羽柴」とは,豊臣秀吉のことです。秀吉は,「豊臣秀吉」と名乗る前には,「羽柴秀吉」と長く名乗っていました。
「織田」とは,織田信長のことです。
「徳川」とは,徳川家康のことです。
なぜ,このような歌で説明されるようになったのか,「ヒント」をもとに自分の言葉で説明してみましょう。
ヒント:織田は「もちをついて」、つまりもちをやわらかくしています。羽柴は「もちをこね」、つまり織田がついたもちをさらにやわらかくしています。そして徳川は「すわりしままに食う」、つまりもち作りに協力していないのに、優雅にもちを食べています。
また、かれらの性格をあらわした,つぎのような句があります。
織田信長
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豊臣秀吉
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徳川家康
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鳴かぬなら 殺してしまえ ホトトギス |
鳴かぬなら 鳴かせてみせよう ホトトギス |
鳴かぬなら 鳴くまで待とう ホトトギス
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織田信長は「逆らうものは排除する」という姿勢をとり、豊臣秀吉は「逆らうものは従わせる」という姿勢をとり、徳川家康は「逆らうものは従うまで待つ」、つまりチャンスを探るという姿勢をとっています。
当時の日本人がヨーロッパ人を「南蛮人」と呼んだので,日本によるヨーロッパとの貿易を南蛮貿易といいます。