小学校社会/6学年/歴史編/人物事典

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ここには、小学校の歴史の勉強で出てくる人物について書いてあります(発展(はってん)的な内容および人物もふくまれています)。もっとくわしく知りたいときは、色がついているタイトルの名前をクリックしてください。ウィキペディアにあるページにリンクしてあります。少し(むずか)しいかもしれませんので、事典や身近な大人をフル活用してください。


また、難しいかもしれませんが、中学受験社会/歴史/人物をみてもいい情報があるかもしれません。

弥生(やよい)時代

卑弥呼(ひみこ)

3世紀はじめごろ。邪馬台国(やまたいこく)の女王で、神のおつげやうらないで政治を行った。当時、中国にあった()という国に使いを送り、その時に親魏倭王の称号を与えられたとその国の歴史書(魏志倭人伝(ぎしわじんでん))に記されている。邪馬台国があったと考えられる場所は、奈良(なら)と九州北部の説が有力である。一番古い時代に作られた古墳(こふん)が、卑弥呼の墓で、奈良に邪馬台国があった場合、箸墓(はしはか)古墳が卑弥呼の墓ではないか、と考えられている。

飛鳥(あすか)時代

聖徳太子(しょうとくたいし)

572年~622年。厩戸王(うまやとおう)などとも()ばれる。推古(すいこ)天皇に代わって政治を行う摂政(せっしょう)として活躍(かつやく)仏教(ぶっきょう)や中国の儒教(じゅきょう)の教えをもとに、朝廷(ちょうてい)の役人の心得(こころえ)である十七条の憲法(じゅうしちじょうのけんぽう)を定めた。また、能力が高かったり手がらをたてた人が重要な仕事をできる冠位十二階(かんいじゅうにかい)の制度をつくった。仏教を深く信仰(しんこう)していた聖徳太子は、法隆寺(ほうりゅうじ)を建て、仏教の力で平和な世の中になるように願った。10人が同時に話しても、そのすべての内容を理解したなどの伝説がある。

  • 関連する人物

推古天皇(すいこてんのう)

小野妹子(おののいもこ)

6世紀後半〜7世紀前半。男性(だんせい)である。607年、聖徳太子(しょうとくたいし)の命令で第2回遣隋使(けんずいし)として中国の隋の国にわたる。608年には第3回遣隋使となっている。

中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)

のちの天智天皇(てんじてんのう)です。なくなった聖徳太子の意志を受けつぐため、中臣鎌足(なかとみのかまたり)とともに蘇我(そが)氏を(たお)した。これを、大化(たいか)の改新 という。そして天皇中心とした国づくりが行われた。

中臣鎌足(なかとみのかまたり)

中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)と協力して 大化(たいか)の改新 を進めた。 やがて、藤原姓(ふじわらせい)をもらう。 大化の改新の中心人物は、中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)中臣鎌足(なかとみのかまたり)である。

奈良(なら)時代

聖武天皇(しょうむてんのう)

聖武天皇の時代は災が多かったために、都を移動させたり、東大寺を中心に国分寺を国ごとに建てさせた。仏教を信仰(しんこう)し農民などの不安をしずめるため、大仏を作る(みことのり)(天皇の命令)を出した。

行基(ぎょうき)

一般の民衆への仏教の布教が禁止されていた時代に、布教を行った(そう)朝廷(ちょうてい)からは弾圧(だんあつ)されたが、民衆(みんしゅう)からは尊敬(そんけい)された。国民の平和を願う大仏を作った。 しかし、大仏が出来る前に死んでしまった。

鑑真(がんじん)

聖武天皇(しょうむてんのう)から(まね)かれ、(そう)として中国から日本に11年かけて(わた)ってきたが、5度の失敗ゆえに失明してしまった。唐招提寺(とうしょうだいじ)を建て日本に正しい仏教を伝えたとされている。 その他に医学や薬学、美術工芸なども伝えた。

平安(へいあん)時代

藤原道長(ふじわらのみちなが)

中臣鎌足(なかとみのかまたり)を祖先とする貴族(きぞく)。 道長は信じられないくらい運が良かったといわれています。道長は兄弟の中では末っ子でしたが、兄たちが病気や事件を起こして追放されてしまったため、貴族の中でトップの地位となりました。

自分の(むすめ)天皇(てんのう)のきさきにしたり、自分の権力(けんりょく)がゆるぎないものになったと確信し、下の「望月(もちづき)の歌」を作りました。

この世をば ()がぞと思う 望月の かけたることも なしと思えば

(この世は、望月(満月)のように欠けているところがなく、自分のもののようだ。)

道長は「源氏(げんじ)物語」の(ひかる)源氏のモデルだといわれています。道長が活躍(かつやく)していたころ、「源氏物語」を書いた紫式部(むらさきしきぶ)朝廷(ちょうてい)で道長の(むすめ)の教育係をしていました。紫式部は教育係をしながら朝廷の人々の様子を観察していたと言われています。このことから、主人公の光源氏は、道長がモデルではないかといわれています。

菅原道真(すがわらのみちざね)

遣唐使(けんとうし)廃止(はいし)を申し出ました。ライバルの藤原(ふじわら)氏らの陰謀(いんぼう)により、悪名を着せられ、太宰府(だざいふ)に追いやられました。太宰府は、今の福岡(ふくおか)県にありました。道真は、学問に(ひい)でていたと言われ、現在では、学問の神様としてもまつられています。

紫式部(むらさきしきぶ)

970年~?。一条天皇(いちじょうてんのう)のきさき(妻)の彰子(しょうこ)に仕えました。「紫式部日記」を書きました。

巡りあ((い))て みしやそれとも わかぬまに 雲がくれにし 夜半(よは)のつきかな - 紫式部

恋愛(れんあい)小説『源氏物語(げんじものがたり)』の作者。 主人公は、(ひかる)源氏という名の美少年。 源氏物語は、今も世界中で人気がある。

清少納言(せいしょうなごん)

966年〜1025年頃。一条天皇(いちじょうてんのう)の きさき(妻) の藤原定子(ふじわらのていし/さだこ)につかえた。

夜をこめて とりのそらねは はかるとも 世にあふ(おお)さかの せきはゆるさじ - 清少納言

(ずい)筆である『枕草子(まくらのそうし)』の作者です。

平清盛(たいらのきよもり)

平家(へいけ)の武士として、日本の歴史上、初めて、政治権力(けんりょく)中枢(ちゅうすう)をにぎった人物。源氏(げんじ)と戦い武士ではじめて太政(だいじょう)大臣となりました。1181年に()くなりました。

平家の権力の最盛期(さいせいき)には、「平家にあらずんば、人にあらず」(平家でなければ人でない)とも言われました。

1185年、平氏は、源氏によって壇ノ浦(だんのうら)、現在の山口(やまぐち)県で(ほろ)ぼされました。

鎌倉時代~戦国時代

鎌倉(かまくら)時代

源頼朝(みなもとのよりとも)

源氏(げんじ)平家(へいけ)が戦っていた時代の、源氏の棟梁(とうりょう)(リーダー)。関東地方(鎌倉(かまくら))から、弟の義経(よしつね)らに指示を送って平家を(たお)した。平家滅亡に向けた(いくさ)には頼朝は出向いていません。

全国を支配し、鎌倉幕府(ばくふ)をひらき、1192年に征夷大将軍(せいいたいしょうぐん)に任命されました。

  • 関連する人物
北条政子(ほうじょうまさこ)
頼朝の妻。
頼朝が()くなった後、しばらくは源氏から将軍(しょうぐん)が出たが、その後、頼朝の家系(かけい)()絶え、北条氏が、執権(しっけん)として権力(けんりょく)をにぎった。

源義経(みなもとのよしつね)

頼朝(よりとも)の弟。実際に平家と戦っていたのは義経など、頼朝の部下だったが、源氏と平家の戦いが終わったあと、義経は兄の頼朝に(うと)んじられ、義経は東北方面に()げるはめとなりましたが、頼朝の軍勢の追撃(ついげき)にあい、最終的に、頼朝の軍勢によって(ほろ)ぼされた。

北条時宗(ほうじょうときむね)

元寇(げんこう)でモンゴル軍が()()みんできたときの、鎌倉幕府(かまくらばくふ)執権(しっけん)

  • 関連する人物
フビライ・ハン
元寇のときの、モンゴル本国での皇帝(こうてい)(ハン)。日本の戦場には、フビライは出向いていない。そもそもフビライは、日本には全く関心がなかった。
(かれ)が支配しようとしていたのは、おそらくユーラシア大陸方面であり、すでに中国のほとんどを支配していた。支配を広げようと、このころの時代の前後に、ベトナムや朝鮮(ちょうせん)半島などの周辺の国々とも戦争をしていたので、そのついでに日本にも攻め込んできただけである。
竹崎季長(たけさきすえなが)
元寇のときの鎌倉幕府の御家人(ごけにん)。自身の戦いを「蒙古襲来絵詞(もうこしゅうらいえまき)」に(えが)かせた。

運慶(うんけい)

快慶(かいけい)

二人の彫刻家。金剛力士像(こんごうりきしぞう)の作者。

鎌倉時代の、武士の支配する世相(せそう)を反映してか、この時代には、このような力強い作品も、好まれるようになった。

室町時代

足利尊氏

「あしかがたかうじ」。尊氏は、有力だった御家人である「足利貞氏」の息子として生まれた。鎌倉幕府がまだ生まれた時にあり、元は源氏の一族だった。若い頃についての記録がほとんどなく、出身地も鎌倉・足利・丹波など様々な説がある。

「後醍醐天皇が天皇を中心とする政治を復活させよう!」と幕府に2回も争いを仕掛けたが、敗北し島根県に追放された。しかし、後醍醐天皇は島根県から脱出して3度目の争いに挑んだ。この時尊氏は天皇の味方にならないかと誘われ、鎌倉幕府にも恩はあったが不満を抱えた尊氏は最後は天皇軍に加わった。その後いろんな場所で戦いを繰り広げ、1333年に幕府を滅ぼした。

滅ぼした後醍醐天皇は、自分の名から1字を与え「尊氏」になったという。しかし天皇を中心とする政治を行ってたため武士の不満はどんどん高まった。尊氏も天皇の政治に不満を持っていた。

そこで尊氏は武士の政治を取り戻そうと1336年に光明天皇を即位させ、後醍醐天皇を奈良に追い払った。そうした末、光明天皇から征夷大将軍に任命され、室町幕府を開いた。

足利義満

「あしかがよしみつ」。義満は南北朝を統一させたことで有名。

室町幕府の基礎固めをする中で、京都の室町に貴族の屋敷に見立てた武家屋敷を作った。ここに幕府を移して政治を行うためであった。その屋敷は広い庭には四季折々の花が咲き乱れたことから、人々は「花の御所」と呼ぶようになった。

南北朝を統一させた義満は息子に将軍の職を譲って、京都の北山に別荘を建てては華やかな余生を過ごした。その別荘の中にある、外側に金を張り巡らせた建物だったことから【金閣寺】と言われている。

足利義政

「あしかがよしまさ」。応仁の乱のさなか、子に将軍職をゆずり文化に没頭した。 有名な銀閣は晩年に建てられた。

雪舟

「せっしゅう」水墨画(すいぼくが)を日本風にした人。

なお、水墨画は、中国大陸が起源(きげん)であり、日本が起源ではない。

戦国時代

有力な戦国大名

  • 武田信玄
甲斐(かい)(現在の山梨県)の戦国大名。後に信濃(しなの)(長野県)と駿河(するが)(静岡県の東部)などにも勢力を伸ばす。信濃への勢力拡大の最中に越後(えちご)(新潟県)の上杉謙信と5回戦った(w:川中島の戦い)。
「風林火山」とよばれる旗印で有名。「風林火山」は「()きこと(※ 早いこと、という意味 )風のごとく、静かなること林のごとし、侵略すること火のごとく、動かざること山のごとし。」という言葉に由来する。
分国法の一つである「甲州法度次第(こうしゅうはっとのしだい)」を定めた。
晩年に織田信長・徳川家康とも戦う(w:三方ヶ原の戦い)が、その後に死去。あとを継いだ武田勝頼の代で武田家は滅亡する。
  • 上杉謙信
越後(えちご)(新潟県)の戦国大名。元々は長尾景虎という名前であったが、後に関東の名門である上杉家を継いだため、上杉輝虎と名のる(謙信の名は晩年。以下では謙信で統一)。
謙信は義理にあつかった人物と言われている。武田家が塩不足に悩まされていたときに、相手の弱味につけこむのは卑怯(ひきょう)とかんがえたのだろうか、武田家に塩を送り、「敵に塩を送る」のことわざの語源とされる。
  • 今川義元
駿河(するが)(静岡県東部)と遠江(とおとうみ)(静岡県西部)の戦国大名。足利家の一門でもあった有力大名。武田信玄などとも同盟を組み、三河(みかわ)(愛知県東部)と尾張(おわり)(愛知県西部)にも勢力を伸ばすが、w:桶狭間の戦いで織田信長に敗れて戦死する。息子の氏真の代のときに武田信玄と徳川家康とに攻められて大名家としては滅亡する。
分国法の一つである今川仮名目録(いまがわかなもくろく)に追加を行った。
  • 毛利元就
安芸(あき)(広島県)の戦国大名。元々は小さな領主(りょうしゅ)にすぎなかったが、周辺の小領主を吸収して勢力を拡大する。そして、w:厳島の合戦などで周囲の有力大名を倒し、中国地方の大部分を統一する。
「三本の矢」の言い伝えで有名。元就が死ぬ直前、3人の息子達に矢を1本ずつわたして「折ってみよ」と命じた。息子はたちはなんなく矢を折った。つぎに、元就は息子に3本の矢をわたしてもう一度「この矢を折ってみよ」と言った。3本の矢はかたく、息子たちは、矢を折れなかった。そこで「おまえたちも、この矢のように3人が力をあわせよ」と言ったという。(ただし、史実ではないことが分かっている)
  • 島津貴久
薩摩(さつま)(鹿児島県西部)の戦国大名。元々は島津家の分家の出だったが、本家の養子となる。父の協力をえながら対立していた他の分家や豪族を押さえ、薩摩を統一する。その後、大隅(おおすみ)(鹿児島県東部)・日向(ひゅうが)(宮崎県)にも勢力を拡大する。
鹿児島に渡来したフランシスコ・ザビエルと面会し、日本で初めてキリスト教の布教を許可する。しかし、領地の神社・寺院の反発が激しく、布教を禁止する。
息子の義久の代で、島津家の悲願であった大隅・日向の統一に成功する。さらに、九州の有力大名も倒して九州の大半を統一するが、豊臣秀吉に敗れて薩摩・大隅・日向の一部の大名となる。
  • 長宗我部元親
  • 三好長慶
  • 顕如

フランシスコ・ ザビエル

戦国時代のころ、日本に、キリスト教を布教しにきた最初の人物。いわゆる宣教師(せんきょうし)のうちの一人。

  • 関連する人物
ルイス=フロイス

ルイス=フロイスは、宣教師の一人であり、信長に気に入られた。

安土桃山時代

織田信長

1534年~1582年。有名な合戦: 桶狭間の戦い、姉川の戦い、石山合戦、長篠の合戦、など。

元々は尾張(愛知県西部)の一部を治める大名であったが、対立する親類や勢力をたおして尾張を統一する。1560年に桶狭間(おけはざま)の戦いで今川義元を討ち取る。この戦いのあと、三河の松平元康(のちの徳川家康。以下、家康で統一)が独立し、家康と信長とが同盟を1562年にむすんだ。

その後、美濃(みの)(岐阜県南部)の戦国大名・斎藤竜興を倒し、信長は美濃も統一した。そして、信長は拠点を岐阜城に移した。

1568年、室町幕府13代将軍・足利義輝の弟・足利義昭(よしあき)の求めに応じ、上洛を開始する。信長は対立した大名を倒し、そうでない大名とは協力関係を築くことで上洛に成功する。

だが、信長の勢いが増すうちに、しだいに足利義昭と信長は対立するようになる。足利義昭は、信長以外の日本全国の大名に、信長をたおすように書状でよびかけた。そして、武田信玄や近江(滋賀県)の浅井長政、越前(えちぜん)(福井県の大半)の朝倉義景などの有力な大名や比叡山(ひえいざん)延暦寺(えんりゃくじ)と一向一揆のような一部の仏教勢力が、信長に敵対した。信長の周囲のほとんどが敵に回ったため、一時は大変な危機におちいった。しかし、浅井・朝倉などを各個に撃破することに成功した上に武田信玄が病死したため、危機を乗り切った。

そして、信長は1573年、足利義昭を京都から追い出し、室町幕府は信長によって滅ぼされた。

1575年、徳川家康は武田信玄のあとをついだ武田勝頼に攻め込まれ、信長が救援に向かう。両軍は長篠(三河国)で戦いとなり、織田・徳川軍は鉄砲を大量に使用し[1]、武田軍に勝った。これが長篠の合戦である。

1576年に信長は安土城を築いた。1582年、毛利家と戦っていた部下の羽柴秀吉を援助しようと、道中で本能寺に寝泊まりしていたところを、部下の明智光秀によって裏切られ、自害する(本能寺の変)。

信長は新しいもの好きだったようで、宣教師(せんきょうし)が地球儀を見せると、即座に地球が丸いことを理解したという。

後世の江戸時代以降の作家からは、信長の性格の例えとして「鳴かぬなら殺してしまえホトトギス」などと信長は評されている。

  • 家臣
柴田勝家(しばた かついえ)
羽柴秀吉(はしば ひでよし)
前田利家(まえだ としいえ)
明智光秀(あけち みつひで)

など、ほか多数。

豊臣秀吉

信長亡き後、明智光秀を倒し検地を始めた。大阪城を築き、関白となると翌年には太政大臣となった。刀狩令を出した2年後に天下統一を成し遂げた。その後、朝鮮に2度攻め込み、2回目の侵略中に病死した。

その他

  • 千利休
お茶を飲む習慣は鎌倉時代に始まっていたが、室町時代になると茶の湯として広く流行し、茶器の工芸品としての価値も高まった。そのため、高価な茶器を用いた豪華な茶会が開かれるようになった。
そのような風潮に対して、一見ありふれたような道具を用い、そまつな中の美しさを見出し、客と主人との心の交流を重んじるw:わび茶が生まれる。このわび茶をもとにして、現在の茶道を作り上げたのが千利休である。
堺の有力商人でもあった利休は、織田信長などとの取引をつうじて関係を築き上げていった。このため武将たちとも交流ができ、多くの弟子が生まれた。信長の死後、豊臣秀吉に仕えるが、秀吉の怒りをかってしまい、利休は切腹させられた。
  • 狩野永徳
戦国時代の有名な絵描きの一人。「狩野派」(かのうは)とは、彼、および、彼の弟子や孫弟子などの一門のことである。

江戸時代

徳川家康(とくがわいえやす)

江戸幕府初代将軍 信長が亡くなった8年後、関東に領地を移した、10年後関ケ原の戦いで勝ち征夷大将軍に任命され江戸幕府を開いた。豊臣氏を滅ぼした翌年に亡くなった。日光東照宮にまつられている。

徳川家光(とくがわいえみつ)

家光は江戸幕府第3代目将軍。征夷大将軍になると、武家諸法度の中に新しく参勤交代という制度を創り江戸幕府の支配を固めだした。老中、大老を置いた

近松門左衛門(ちかまつもんざえもん)

人形浄瑠璃・歌舞伎の作者。町人社会の義理や人情をテーマとした作品(w:世話物)や歴史的な事件や出来事を扱ったw:時代物で評判を得る。

代表作は「曽根崎心中」「冥途(めいど)の飛脚」「女殺油地獄(おんなごろしあぶらのじごく)」「国姓爺合戦(こくせんやかっせん)」など。

歌川(安藤)広重(うたがわ(あんどう)ひろしげ)

『東海道五十三次』で有名な浮世絵師。

本居宣長

「もとおりのりなが」国学を学ぶ。

 『古事記伝』を著す。

杉田玄白

解体新書。

前野良沢と共にオランダ書「ターヘル・アナトミア」を日本語に訳し、「解体新書」を完成させた。

伊能忠敬

日本中を駆け巡り、正確な日本地図を作る。

マシュー・ペリー

日本に開国を求め、1854年に日米和親条約を結ぶ。

勝海舟

幕臣

西郷隆盛と話し合い、江戸城を人が死ぬことなく開城させた。

坂本龍馬

西郷隆盛(薩摩藩)と木戸孝允(長州藩)を結び付け薩長同盟の成立に大きな役割を果たした。

また、土佐藩の仲間を中心に、日本初の貿易会社(海援隊)を長崎で作り、物産や武器の貿易をした。

33歳の時何者かに暗殺され、亡くなった。

明治(めいじ)時代

西郷隆盛(さいごうたかもり)

薩摩藩(さつまはん)出身。「討幕」を主導するなど明治維新(めいじいしん)の中心人物です(参議)。
討幕後、廃藩置県(はいはんちけん)を主導するなど、新しい社会を作るために、古い武家社会の消滅に貢献しました。
征韓論を唱えて、政府を離れました。
鹿児島に戻って、若者の指導をしていましたが、新政府に不満を持つ士族にかつぎあげられ、西南戦争を起こし敗死します。

大久保利通(おおくぼとしみち)

薩摩藩(さつまはん)出身。西郷隆盛等とともに討幕を主導します。
維新後は、内務省を作り、日本の官僚制度を作り上げます。
西南戦争時には、これを指導し政府を勝利に導きます。
西南戦争の翌年、不平士族に暗殺されます。

木戸孝允(きどたかよし)

長州藩(ちょうしゅうはん)出身。西郷隆盛(さいごうたかもり)と同じく、明治維新(めいじいしん)の中心人物です(参議)。

明治天皇(めいじてんのう)

明治時代の天皇。五箇条(ごかじょう)御誓文(ごせいもん)を発布しました。

伊藤博文(いとうひろぶみ)

長州藩(ちょうしゅうはん)出身。
大久保利通の跡を継いで、日本の官僚制度を整備します。
その完成として内閣(ないかく)制度を創設(そうせつ)し、初代内閣総理大臣(ないかくそうりだいじん)となります。
ヨーロッパを回り、大日本帝国憲法(けんぽう)の手本となる憲法を研究し、ドイツ(当時はプロシア)の憲法を手本とすることにしました。

渋沢栄一(しぶさわえいいち)

銀行、証券取引所、保険制度、商工会議所など、近代的な経済の仕組みを日本に導入した実業家です。
  • 関連する人物
岩崎弥太郎(いわさきやたろう)

福沢諭吉(ふくざわゆきち)

福澤諭吉像(東京都港区三田・慶應大学構内)
1835年 - 1901年
豊前国中津藩(現在の大分県中津市)の下級武士の子として生まれます。大阪の「適塾」で蘭学を学び、1859年勝海舟らが率いる咸臨丸に同乗し渡米の経験をえ、その後ヨーロッパを訪問、再び米国を訪れるなどして、蘭学のみならず英語による欧米の文物の知識を得るようになります。
1868年(慶応4年)に、蘭学塾である慶應義塾を開きます。それまで、医学や化学など科学技術が中心であった蘭学塾と異なり、欧米の思想や会計などの制度も教えました。また、蘭学塾といいながら英語によるものが教えられていました。これが、日本で最初の近代的大学と言われる慶應義塾大学(慶應大学)の創始です。
明治時代になって、「自由」や「平等」など「権利」「人権」といった欧米の近代思想を数々の著書を通じて紹介しました。『学問のすすめ』の中では「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず」と、生まれながらの平等を説いて、努力次第で社会の重要な地位に就くことができること(立身出世)を主張しました。
官主導の明治政府に対して、民間の立場から、新聞や出版物で社会を啓蒙し、教え子を民間の各所で活躍させるなどして、日本社会の近代化を主導しました。
現在(2022年)の1万円札の肖像に用いられています。
  • 関連する人物
中江兆民(なかえちょうみん)
金玉均(きんぎょくきん) 

大隈重信(おおくましげのぶ)

地租改正(ちそかいせい)などの改革(かいかく)にあたるとともに、殖産興業(しょくさんこうぎょう)推進(すいしん)しました。
自由民権運動を主導しました。

板垣退助(いたがきたいすけ)

自由民権(みんけん)運動の主導者です。

陸奥宗光(むつむねみつ)

日米修好通商条約の領事裁判権(りょうじさいばんけん)(治外法権(ちがいほうけん))の撤廃(てっぱい)に成功しました。

山県有朋(やまがたありとも)

長州藩(ちょうしゅうはん)出身。
日本陸軍の仕組みを作り上げ、政府に対する強い地位を確立した。
  • 関連する人物
川上操六(かわかみそうろく)
山本権兵衛(やまもとごんのひょうえ(ごんべい)) - 海軍において山縣有朋と同様の役割を果たした。

東郷平八郎(とうごうへいはちろう)

日露(にちろ)戦争で活躍(かつやく)した海軍軍人です。

関連する人物

大山巌(おおやまいわお)
児玉源太郎(こだまげんたろう)
乃木希典(のぎまれすけ)
メッケル

小村寿太郎(こむらじゅたろう)

日露戦争の講和会議に全件として出席し、ポーツマス条約を締結して日露戦争を終わらせた。
1911(明治44)年にアメリカとの交渉(こうしょう)で関税自主(けん)を回復させた。

野口英世(のぐちひでよ)

黄熱病(おうねつびょう)を研究した人物。
黄熱病の研究中にアクラ(現在のガーナの首都)で自身も黄熱病にかかってしまい病死した。
1000円札にのっている人物として有名。

北里柴三郎(きたさとしばさぶろう)

ドイツに留学し、伝染病を研究。帰国後、伝染病の研究所作ろうとしたが、政府の援助は得られなかったところ、福沢諭吉(ふくざわゆきち)が支援し研究所が完成、志賀潔(しがきよし)、野口英世などの研究者が生まれ育っていった。

昭和(しょうわ)時代

昭和天皇(しょうわてんのう)

昭和(しょうわ)時代の天皇(てんのう)

吉田茂(よしだしげる)

アメリカ合衆国占領下の日本で、新憲法の成立と日本の新しい民主主義体制を確立させ、サンフランシスコ講和条約を締結し日本の主権を回復しました。。

佐藤栄作(さとうえいさく)

1964年(ごろ)首相(しゅしょう)です。
日本の高度成長をおしすすめ、沖縄の日本への復帰を成功させました。
日本人で初めて、ノーベル平和賞を受賞しています。

田中角栄(たなかかくえい)

1972年(ごろ)首相(しゅしょう)です。

脚注

  1. ^ 千丁(一説に三千丁)とも言われる