日本史/近世/安土桃山時代

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このページ (日本史/近世/安土桃山時代) では、豪華絢爛な文化の花開いた安土桃山時代について解説します。

安土桃山時代とは[編集]

安土桃山時代とは、織田信長豊臣秀吉が政権を握っていた時代。1573年から1598年の間の時代である。戦国時代の末期と見なしたり、戦国時代から江戸時代への過渡期と見なす場合もある。始まりを1568年とする場合や、終わりを1603年とする場合もある。

この時代の政治的特色としては、政教分離、兵農分離が行われ身分制度が確立した事、文化的な特色としては、南蛮文化が伝わり、本格的なヨーロッパの文化が流入したことがあげられる。また、南蛮文化に影響されて桃山文化ができたとされる。

時代名の由来[編集]

「安土桃山時代」というのは、織田信長の末期の居城である安土城と、豊臣秀吉の代表的な城として知られる伏見城の跡地に後世に名付けられた「桃山」という地名に由来するが、この「桃山」というこの地名は伏見城の跡地に植えられた桃の木に由来するという説がある。いずれにせよ、どちらの城も築城者が居留していた期間は短く、さらにすぐに廃城の憂き目に遭っているため、時代名にこれらの城を使用するべきではないという意見もある。

当時の贅沢の限りを尽くしたとされる安土城を描いた当時の絵(明智光秀により破壊されたため現存せず)
徳川家康に破却された伏見城。写っている天守は復元模擬。

政治[編集]

この節では、当時の政治について述べる。

織田信長[編集]

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羽柴秀吉[編集]

羽柴 (豊臣) 秀吉が農民から成り上がった話や、そのアイデアについてはよく知られているため、ここでは詳説しない。

全国統一[編集]

山崎の合戦[編集]

秀吉は、本能寺の変の際に中国地方は毛利家の征討を信長に命じられ、備中高松城を水攻めにし、落城をのんびりと待っていた。しかし、本能寺の変の一報が入るや否や、毛利輝元(もうりてるもと)と和睦。すぐに引き返し、「天下分け目」と後世呼ばれる山崎の合戦に挑む。

一方、本能寺の変で信長を討った明智光秀は、親類をはじめ様々な武将に味方に就くよう要請するも、焼け跡から信長の遺体が見つからず、「どこかで信長が生きているかも」と思い、[要出典]光秀に付かなかった(それどころか、一部は秀吉方についている)。

戦いは、天王山を奪取した秀吉軍が勝利する[1]。信長を討った光秀に勝利した秀吉は、天下人の争いで大きく頭角を現すようになる。なお、光秀は敗走中に落武者狩りに襲われ、この世を去る。本能寺の変から7日しか天下人 (実際には完全に信長が天下を取っていたわけではない) になれなかった[2]

清須会議・賤ヶ岳の戦い[編集]
各地平定[編集]
朝鮮出兵[編集]

政策[編集]

財政基盤[編集]

社会[編集]

文化[編集]

脚注[編集]

  1. ^ これが「天下分け目の天王山」の起源である。
  2. ^ これが「七日天下」の起源である。

関連項目[編集]

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